「幸せのお守り切符」矢野貴也

 佐藤蒼太は、ゆめが丘駅に行くべきか、希望ヶ丘駅に行くべきかで迷っていた。
 相鉄線横浜駅一階改札口は、ブルーライトでピカピカに輝く改札機が横一列にびっしりと並び、見る者すべてを圧倒させていた。二十機を優に超す改札機に驚きながら、蒼太はICカードをタッチさせそのうちひとつを通過した。路線図で乗換駅を確認する。ふたつの駅は二俣川駅で分岐していた。目的地を決めなければならない。到着するまで数十分、それが蒼太に残された時間だった。
 冷房のきいた車内は始発駅のせいかすいていた。四人がけで向かい合って座ることができるセミクロスシートに腰を下ろすと、まもなく電車が動きはじめた。
 日曜日の午後、綿あめをちぎったような雲が、藍色に染まった空のなかで形を変えながら流れていく。ぼんやり眺めていた車窓に夏の力強い日差しがはじけていた。
 
 SNS上で『ゆめきぼ切符』の存在を知った。いずみ野線ゆめが丘駅と本線希望ヶ丘駅を結ぶ乗車券は、夢や希望を叶えてくれると評判で、受験生がお守りがわりに手にする。近ごろは受験生のみならず、就活や恋愛に悩める人たちに力を貸している。どちらの駅でも購入可能で、蒼太は母親のため切符を買うつもりだった。
 母は病気で亡くなった父に代わり女手一つで蒼太を育ててくれた。昼間は福祉施設で朝からデイサービス、夜は内職の箱詰め作業を黙々とこなした。辛いなんて愚痴を母はこぼさない。薄い壁一枚隔てて隣の声が漏れてくる古いアパートにふたりで住んでいた。
 どんなに忙しくても料理に関して母は手を抜かなかった。インスタント食品や惣菜の見切り商品でも構わないのに「しっかり食べなくちゃ大きくならないから」と腕を振う。中学まで欠かさずお弁当を作ってくれた。自然と料理が好きになり、高校では蒼太自身がお弁当を詰めるようになった。
 カレーにはそれぞれの家庭の味がある。佐藤家では、カレーにグリンピースが入っていた。祖母の直伝らしく自慢の一品で、よく煮込んだカレールーに豆たちが彩を添えてくれた。ひとさじ口に運ぶと舌で転がるコロコロした食感がとても心地よかった。
 思い出がぎゅっと詰まった味。微かに残る父の面影がグリンピースを噛みしめるたび、なんともいえない好い匂いとともに蘇った。
 
 華やかだったショピング施設をいつのまにか離れ、落ち着いた雰囲気のする住宅街が広がっていた。徐々に電車の座席が埋っていったが、蒼太の座ったセミクロスシートにはまだ三人分の空きがあった。
 ふと誰かに名前を呼ばれた気がした。
 ちらりと視線を向ける。見覚えのある女性が、いつのまにか蒼太の正面に腰掛けじっとこちらを見ていた。
「もしかして、はぎの?」
 学校以外で彼女に会うのは初めてだった。
「違う。お・ぎ・の」
 溜息をひとつついた彼女は、『おぎの』と語尾を誇張した。
 クラスメイトのひざが、蒼太のひざとぶつかっていた。ほんのりと甘い香りがする。ひざに置かれた両手の爪に可愛い花柄のネイルアート、ほっそりした細い足がスカートから伸びていた。
「もしかして佐藤くんは、漢字の『萩と荻』の区別がつかないタイプ? それとも私ってそんなに影が薄いのかな」
 彼女のほっぺたが膨らみ、サラサラした黒髪がメガネに軽くふれていた。ナイロールフレームとの境界線が区別できないほど頬が透き通っていた。
「名前を間違えてごめん」
 素直に蒼太が謝る。
「いいの、気にしないで、ちなみに荻の漢字は、草冠の下が秋という漢字じゃなくて獣へんがつくほうだから」
 獣というより彼女は、秋の装いがしっくりくる。グラウンドを激しく動き回って汗をかく運動部ではなく、図書館でひとり和歌を詠む文化部のイメージがした。
「どこへ行くの?」
 話題が移り、苗字の間違いはもういいようだ。髪をかきあげると耳にハート型のピアスがチラリと光る。
 彼女が言ったのはこのときだった。
「鉄子なの私」
「鉄子?」
 蒼太は思わず聞き返していた。
「ああ、間違えないで、名前はのぞみ。荻野のぞみ、知っているよね。席がとなりで毎日顔を突き合わせているのだから。
 ええ、その顔はもしかして知らなかった。漢字じゃなくてひらがなで『のぞみ』だからこれ暗記して、テストに絶対、絶対、でるから。アンダーラインを引くのを忘れないで」
 最後のテストのくだりはおそらくクラス担任の黒田先生のマネだろう。試験直前になると『絶対』ワードが連発する。アクセントがそっくりで、高いクオリティーに思わず蒼太の口元が緩む。
「電車に乗るとなぜかテンションあがっちゃうんだ。もしかして佐藤くんひいている?」
「ちょっとだけ。教室にいるときとずいぶんイメージが違うから」
「教室にいる私は世を忍ぶ仮の姿、今が本当の荻野のぞみだから」
 胸のあたりで手をこすり合わせ、彼女は神様に祈るようにオーバーに懇願する。
 たぶんどちらも本当の彼女なのだろう。
 見てはいけないものを見てしまった。そんな気がして、蒼太はちょっぴり罪悪感にかられた。
「鉄子ってどういう意味?」
 何げに蒼太はたずねていた。
「鉄道好きな女子のことを鉄子っていうの。オタクじゃないよ。もちろん趣味の範囲ね。写真、撮り、旅行、車両やパーツ、音響、録音、駅弁、模型に時刻表、あとそれらにまつわる研究なんかすべて、好きな分野はみなそれぞれだけど、私はもっぱら『乗り鉄』とにかく電車に乗るのが大好きなの」
 矢継ぎ早に彼女がしゃべる。周りの空気と温度が上昇してしまいそうな熱量と勢いだった。好きな気持ちがダイレクトに伝わってきた。特別な趣味を持たない蒼太は、だんだん羨ましくなってきた。
「なんだか楽しそう」
「ああ、今、馬鹿にしたでしょう」
「そんなことないよ」
 さり気なく蒼太が首を振る。
「いいの、いいの、理解されなくもいいの、私にはSNSで繋がっている友がたくさんいるから。
 あ、あれ見て」
 切り替えの早さに一瞬、呆気にとられた。
ややあって、蒼太がつられて外を見た。電車が徐々に減速していく。クリーム色の丘が車窓に迫ってきていた。それがエキゾチックなデザイン群の建物だと気がつくまでなぜか目がはなせない。
 無意識に座席に浅く腰掛けたまま前のめりになっていた。ひとりだけ異世界に迷い込んでしまった錯覚に襲われる。どんな人がここで、いったいどんな暮らしをしているのだろう。不思議な形をした建物に想像を掻き立てられた。
 まもなくして、上星川駅のホームに入り車両の扉が突然左右に開いた。通路に列をつくり乗客たちが緩やかに降りていく。窓枠から伸びた蒼太の影が彼女と重なっていた。生暖かい空気を鼻先に感じるまで、彼女のひざに触れていたことを忘れ、咄嗟に声が出た。
「ごめん」
「大丈夫」
 互いに口ごもってしまい、喋るタイミングをうかがっていた。
「ゆめきぼ切符って知っている?」
 訊いたのは乗換駅まであと三駅と迫っていたからなのか、それとも単に沈黙に耐え切れなかっただけなのか、蒼太自身にもわからなかった。
「前々から切符を買おうと思っていたから、知ってるよ。」
 蒼太の心で、思いがけない反応としめたという高揚が混じり合う。
 揺れる電車が再びゆっくりと走りだした。見慣れたホームがどんどん遠ざかり、少し暖かくなった車内に勢いよく冷風が吹つける。走行音がこだましていた。
「切符を、ゆめが丘駅と希望ヶ丘駅のどちらで購入すべきか、実は迷っているんだ」
 些細な表示上の問題で、たいした違いはないのかもしれない。けれど、どちらで買うべきか蒼太は真剣に悩んでいた。
 蒼太が米印以下からペンで線を引っぱる。一枚のメモを彼女に手渡した。

 ①ゆめが丘駅で発券される切符
  ゆめが丘駅 → 希望ヶ丘駅
  夢と希望を結ぶ乗車券?

 ②希望ヶ丘駅で発券される切符
  希望ヶ丘駅 → ゆめが丘駅
  希望と夢を結ぶ乗車券?

※夢が先か希望が先なのか、それが問題だ
 
 願いを叶えるならどちらがよりご利益のあるお守りになるのか知りたくなった。正しい答えを見つけ出す使命感みたいなもが生まれSNSでメッセージを交換した。
 どちらの駅で購入する人が多いのか、それぞれで効果が違うのか、具体的に叶った夢や希望を教えてもらう。たくさんのコメントが寄せられた。
『それいいね。一緒に考えて買いに行こう』
『窓口で好きな日付を切符にいれてもらい、ジンクスを高めました』
『どちらも同じ』
『しょせん記念切符』
『悩むなよ、二百七十円ぽっちの縁起物で』
 辛辣な回答もいつくかあった。
 結局、どれも呑み込めず蒼太が満足できる回答を導きだすことはできなかった。
 相談相手がほしかっただけかもしれない。ただ、頻繁にやりとりするなかで友達ができた。そのひとりにあと押しされ大安の今日、この電車に乗っている。
 しばらくメモを見ていた彼女が口を開く。
「私なら二枚とも買うけどな。どちらかで迷うくらいならふたつ持てばいい。効果二倍でご利益倍増でしょう。悩むことないよ。買っちゃいなよ、両方。
 それによく神社のお守りなんか、別々のところの物を持つと、神様同士が喧嘩してご利益が半減するってきくけど、切符ならどちらも同じ鉄道会社だから問題ないと思うわけ、それに夢だって、希望だって、叶えるのは自分の頑張りでしょう。神様は背中をただ押してくれるだけだよ」
「そんなものかな」
 足元に視線をおとした蒼太がつぶやく。
「絶対そうだよ。もしお金がもったいないなら子ども運賃の切符にすればいい。それなら二枚買っても一枚分の値段でお守りが持てるからお得感でるし、もちろん乗車するわけではないからキセルも関係ない」
 赤く顔を火照らせ彼女が熱弁をふるってみせた。
 その場合、購入するためにそれぞれの駅に行く余分な運賃がかかってしまう。この点に彼女は触れていない。大事なことを見落としている気がした。
「荻野、子ども運賃が大人運賃の半分の値段なら、ご利益も半分になるよね」
 蒼太は冷静だった。
「どういうこと」
 彼女が目を丸くさせ、蒼太がメモにペンを走らせる。
「前提条件として、
 大人運賃=大人ご利益
 仮に、
 子ども運賃×2=大人運賃
 今これをご利益Aとする、
 子どもご利益×2=大人ご利益
 こっちをご利益Bとする、
 ∴A=B
 つまりご利益Aとご利益Bは等しい
 だから、ご利益の総量は同じとなる」
 ほとんど話したことがないはずなのに、サクサク蒼太の指と口が動く。まるでSNSでメッセージを送り合う感覚で、リアルなのにスムーズに会話が繋がる気がした。
「わけわかんないよ。いきなりそんな難しいこと言われても。理系男子なの佐藤くんは、いつも美味しそうなお弁当を食べているからてっきり料理男子と思っていたのに」
「数学も料理も別に得意じゃないけど、些細なことが気になって」
 ふたりの目が合い、彼女の息を呑む音が聞こえてきそうなほど近い距離にいたことが、蒼太は信じられなかった。
 口を尖らせたままの彼女にわざとひざをぶつけてみる。
「切符がほしい理由をよかったらきかせて、高一だから受験にはまだ早いと思うし、でもそれだけ必死ってことはもしかして恋愛のお守りか何かなの?」 
 ずばりと訊かれ、彼女になら話してもいいかな。不思議とそんな気がした。
「母が受験生なんだ。受験生といっても国家試験、介護福祉士って知っている?」
「知ってる。私のおばあちゃんがデイサービスに通っているから」
「資格を取ると給料があがるからと言って、頑張っていたんだけど、ダメだったんだ。内職をやめて猛勉強していたのに、去年はちょうど高校受験と重なってしまって、迷惑かけたから今年は絶対合格してほしいんだ。たいした力になれないけれど、なんとか力になりたいんだ」
 母親に面と向かって言えなかった言葉が、自然と湧き上がってくる。気持ちのたけを吐き出していた。
 蒼太が荒い息を整える。そばで彼女は黙って話を聞いてくれた。
 
 進路を決める際、高校進学を諦めていた蒼太を母が鼓舞してくれた。「やればできる子だから蒼ちゃんは」「お金のことは心配しないで」「努力は決して裏切らない」「神様はきっと見てて力を貸してくれる。だから諦めないで」母はいつだって優しくて強かった。
 目一杯勉強してなんとか高校に合格した。大変だったけど頑張ってよかったとしみじみ思う。当時は全く考えもつかなかったが、アルバイトを始めたら働きながら勉強する大変さを知った。母の凄さをあらためて感じた。お金を稼ぐ苦労が骨身にしみた。
 高校受験を応援してくれた母の力に今度はなりたい。心配なんかもうかけたくない。ありがとう、と心の底から伝えたかった。
 
「きっとお母さんに届いていると思う。だって私、感動してうるってきたもん」
 メガネの奥の彼女の瞳が潤んでいる。
「私、思うんだ。きっと正解なんてないんだよ。佐藤くんがお母さんを大切に思う優しい気持ちが大事で、その思いがあるからこそこんなに悩むわけでしょう。
 思いは十分伝わっているって、だからお母さんは絶対、絶対、あ、ダメだ。黒田先生みたいなこと言ってる。ああ、うまく言葉にできない」
 くちびるをぎゅっと結んで、悔しそうに彼女が眉をしかめた。
 必死に何かを伝えようとしていた。
「佐藤くんが選んだ答えを私は受け入れる」
 最後にこう言った彼女が、目だけでそっと微笑みかける。そばにいてくれて、訊いてもらえて、本当によかった。
 蒼太は素直にそう思えた。
 どちらの駅で切符を購入するか、蒼太は決めた。二俣川駅を告げる車掌のアナウンスが車内に静かに響いていた。
  
 蒼太の選んだ駅は、ドーム型のアーチがいくつも連なりホームの端から端までを覆っていた。みずみずしい新緑の若葉から風が薫ってくる。鉄塔のはるか向こうにはうっすらと富士山が見えた。頂きにまだ雪はない。人影もなくまるで静謐な空間にいるようだった。きっと何年も前からここにあって、これから先何年も続いていく風景なのだろう。
 逆方向行きの電車をホームで待っている。電車を降りてから彼女は全く喋らなくなってしまった。どこかもじもじして、まるで教室にいるようだった。
 受験シーズには早く切符は並ばず手に入れた。「私も切符を買うから」とついてきた彼女は、なぜか切符を買わなかった。
 乗り鉄の彼女が探索を拒んだので、はじめての街を歩くどきどきする気持ちはおあずけになった。仕方なくふたりして、一度改札を出てから駅周辺には目もくれずすぐさま改札に引き返した。蒼太はわざと別々の改札機を通過した。
 横浜行きの電車が来るまで時間があった。
「どうして、ゆめが丘駅を選んだの」
 言葉を忘れてたカナリアがやっと鳴く。意識しなければ消えそうなくらい弱々しい声。
「希望が夢で終ってしまうより、夢が叶い、希望に続いていく。なんか、こっちのほうがかっこいいと思って」
 そう答えてみたものの、すべては蒼太の直感だった。黄色いラインの前に彼女は立っていた。
「荻野と実際喋って思ったんだ」
 今度は蒼太がかまわず続ける。
「希望という漢字は『のぞみ』とも読めるだろう。だから選んだんだ」
 わざとからかい反応をうかがう。どう感じたか謎だったが、彼女は破顔していた。
「ええ、それなら選ぶのは希望ヶ丘駅でしょう!」
 一拍置いて発せられた彼女なりの精一杯のツッコミだった。
「声が大きいよ」
 蒼太が人差し指を唇に当てる。ホームに誰かいたらびっくりして、全員が振り返っていたかもしれない。
「だってしょうがないでしょう。緊張するの電車に乗ってないと」
 乗り鉄とは厄介な生き物らしい。
「ところで、なんで切符、買わなかった?」
「それは……もう……叶ったというか、必要なくなったというか……」
 あからさまに彼女が口ごもる。表情をわずかに緩ませたが、あいまいすぎる表現でどうも要領を得ない。
 ただ、蒼太には心当たりがあった。
 
 母に渡すお守りは、大切に財布のなかにしまってある。おそらく受験シーズンに突入したら、ふたりして切符を買いにくるだろう。彼女は、どちらの切符を選ぶだろうか。やっぱり両方ほしいと言い出すかもしれない。そのときは、それぞれ一枚ずつ切符を持ち合うのも悪くない。蒼太はそう思った。
 雲が抜け、忘れていた暑さがぶり返してきた。ポケットにあったスマホを取り出して、時刻表を一瞥した。そのあとで蒼太は、背中をそっと押してくれた、アカウント名『乗り鉄』さんに今日の出来事を報告した。
 頭をあげて、ひとつ背伸びをしてから蒼太が手をかざし陽光を遮る。ホームにはアーチの下ぐらいしか日陰は見つかりそうにない。振り向けば、蒼太の影にちゃっかり『荻野のぞみ』が隠れていた。スマホをみていた彼女がうふふ、と笑った。

著者

矢野貴也