「彼の名は」緋子

 ーーえっ?
 御手洗達夫が昇降口にかけかけた右足を、一瞬引っ込めようとしたのは、無理もなかった。
 朝夕の通勤で鶴ヶ峰ー横浜間を利用している相鉄線各駅停車の車内は、座席でじっと目を閉じたり、親しい間柄なのか朝から話に花を咲かせたりと、通勤サラリーマンさながらの武者たちで占められていた。
 会社に遅刻してしまう、というサラリーマンとして長年打ち込まれた危機意識からとりあえず乗り込んだ達夫であったが、閉じた扉のガラス窓からホームを覗いても、小走りで隣の車両をキョロキョロと探しても、さっきまで一緒にジリジリと夏の日差しを受けてホームに行列していた、いつもの人たちの姿はどこにもない。
 新入社員時代から20年愛用しているので、達夫同様にところどころ傷みの出てきた黒い通勤カバンのハンドルを、達夫は両手でぎゅっと握って電車に揺れに耐えつつ、混乱した頭で
 ーー皆、大きな兜をかぶっているから、7人掛けが5人掛けになっちゃってるじゃないか。
 自分の置かれた状況に、とても適しているとは思えないコメントを達夫はつぶやいていた。車窓にすぎていく景色はいつもと同じなのに、電車の中だけが違う。何なんだ?
 真っ黒に日焼けした鎧兜姿の武者が横浜方面前方車両から、こちらを見据えながら近づいてきた。思わず後ずさる。目がギョロギョロして、血走り気味で、ちょっと怖い。ガチャガチャ、鎧が鳴っている。重そうだ。
「お主、何ぞ申したか。見ぬ奴だな。このあたりに住まいしている者か」
 達夫がブンブンと頭を縦に振ると、
「そうか。朝からご苦労だな。さ、誰か、茶を。名は?」
 今度は海老名方の後方車両から、白い湯気を立てた茶が、これまた顔にシワが深く刻まれた鎧武者から、達夫に差し出された。
「畏れ入ります。いただきます」
 細かく震える手で茶碗をつかんですする。うまい。いい茶葉、いい水でゆっくりと出された茶だった。
 ーーこんな清らかで美味しいお茶が会社で飲めるのなら、まだ、部長の嫌味も受け流せるかもしれないなあ。会社行きたくないなあ。また係長に何か言われ流の、辛いなあ。
 車窓の様子から、ちょうど上星川駅を過ぎ、和田町に差し掛かったところだとわかった。武者たちは相変わらず足をボリボリかいたり、眠そうにあくびをしたり、腰に吊るした小袋からつまみ出した乾燥した米の塊のようなものを、ガリっと齧って竹筒の水筒の水で流し込んでいる。
 達夫の勤めている会社は品川駅が最寄りなので、横浜で東海道本線へ乗り換えなければいけない。昨年、外資系の企業に買収されたため、英語でのビジネスが必須になったのだけれど、達夫はそれについていけない。もともと得意とは言えない英語がモンスター化して、夢の中でも達夫にのしかかって苦しめてくるほどになっていた。
「次は、和田町、和田町です。お降りの方はお忘れ物のないよう、ご注意ください」
 車掌の放送が入ると、武者たちは一斉に立ち上がり、呆気にとられる達夫を尻目に、一人ひとり、達夫に会釈をして降りて行った、と思ったら、ふっと消えた。全車両で乗客は達夫ただ独りになった。
「車掌さんとか運転士さんは、気づいているのだろうか? あの人たち、定期とか切符とか、ちゃんと持っているのかなあ。そうじゃなかったら、相鉄も大変だよなあ。……っていうか、疲れているんだから、勘弁してくれよ。俺、マジで疲れてるなあ」
 首をひねってブツブツ言いながら、いつもどおり横浜で乗り換えをして会社へ向かう。一定の規則性と無言のルールに則って行き交う通勤人たちも、いつもどおりである。
「今夜はできるだけしっかり眠れるようにしよう」
 それからしばらくは、達夫が武者たちと遭遇することはなかった。
 再び、あの時空間にはまったのは、部長とやりあってしまった日の帰りの、相鉄線の車内であった。
 さっき一緒に乗り込んだはずのたくさんのサラリーマンやOL、買い物帰りの老夫婦の姿は跡形もなく消え失せ、またしても、ずらっと、ずっしりぎっしりと、むさ苦しい武者たちが、ある者は吊革につかまり、ある者は難しい顔をし、ある者は豪快にくしゃみをして周囲に嫌がられたりして、そこにいた。
 「おお、先だってのお人ではないか」
 ポンと肩を叩いてきたのは、前回、話しかけてきたギョロ目武者だった。相変わらず健康的に灼けた顔をしている。筋肉隆々なのは、何かスポーツでもやっているのだろうか。
 昇降口脇のポールにつかまり、屈伸や筋のばしをしてガチャガチャ音を立てていた別の爽やかな若武者が、人の良さそうな八重歯をのぞかせた笑顔を達夫に向け、
 「我ら、明日、大事な用事があってなわし、今回はそうしても絶対功績を挙げたいんでね」
 「そうだな、お主もそろそろ、頭角を現してもいい頃だな」
 先だっての武者が合いの手を入れる。
 二人の諸々の話から推測すると、武者たちはミナモトという会社の社員で、明日、二俣川駅の近くで、全員参加の大会があるらしい。最初に声をかけてきた武者は、ワダさんという部長だということがわかった。どおりで、甲冑にも顔にも貫禄がある。
 再会を得たことで、達夫とワダ部長を中心とする武者たちは、急激に親しくなった。その後も何度か遭遇するうちに、係長といざこざをした日の当日か翌日、彼らと遭遇する、という法則も見えてきた。達夫も、部長や英語への怒りや嘆きを語るようになり、武者たちも、
 「今のところ、意味がようわからぬな。そもそも、いんばうんど、とは何か」
 「お主のその、文字の書かれた、時々ピリピリと音を出す小さな平たい板は何をするものか」
 など質問をし、説明に興味深くうなずいた。達夫は友情の証にと、彼らの言う【文字の書かれた、時々ピリピリと音を出す小さな平たい板】ことスマートフォンを1台、ワダさんに進呈したところ、ワダさんは嬉しそうに甲冑の下に紐で結わえた。
 謎の武者たちとの親交はいよいよ深まり、達夫が係長の仕打ちを話した時に、
 「よし! わしが討ち入って、そやつの首級を上げてやろう!」
 達夫に同情して憤然と立ち上がった熱血漢が、
 「いかぬ! 御手洗殿には御手洗殿の立場がある! それに我らには大事があることを忘るな!」
 と仲間に抑え込まれることもあった。
 武者たちとのあたたかな交流が始まって2年ほど経った頃、社内の異動で反りの合わない係長は栃木支店へ転勤になり、達夫は心の中で喝采を叫んだ。それを武者たちに報告すると彼らはとても喜んで、底抜けに明るい、心からの笑顔を見せてくれた。しかしそれ以降、彼らと出会うことは、ぱったりと無くなった。
 達夫はどこか寂しく思ったが、友人の紹介を得て、1つ年下の女性と所帯を持った。達夫も四捨五入すると50歳、さすがに髪に白いものがまじっている。
 一人息子の公太が小学校5年生に上がったある日、
 「ねえ、お父さん、今度の土曜、お休みだったら、連れて行って欲しいところがあるんだけど」
 「ああ、休みだよ。どこ?」
 「図書館。来月、郷土の歴史の授業があるから、僕、予習をしたいんだ」
 その週の土曜、約束通り達夫は公太を伴い、線路の反対側に建つ市立旭図書館に向かった。
 「郷土の歴史関係は、どこかな?」
 「あ、あそこ。郷土資料ってとこじゃない?」
 あれやこれやと、開架式の書棚から本を集めている公太を視界の隅に入れながら、どれどれ。何の気なしにめくった郷土史の本に、達夫の目は釘付けになった。
 フタマタガワ ノ カッセン……カマクラ ブシダン……カミホシカワ ノ カマダイ デ、ヨリトモコウ ガ キュウケイ チャノユ……ジンガシタ デ フジン……ワダマチ……ワダ イナリ……ワダ ヨシモリ……。
 ワダさん! その人は、懐かしく、不思議な記憶が達夫に蘇った。鎌倉幕府の有力御家人、和田義盛であったことを、達夫は直感した。地図で見るとわかるが、相鉄線のエリアは関東を駈けまわった鎌倉武士団の活動範囲に、優に含まれている。人物像は、誠実にして武勇に長けた、生粋の武人、とあった。あれだけ不可解な体験をしたにもかかわらず、達夫の胸はあたたかいものに満たされた。
 「公太、この後、陣ヶ下というところに、行ってみようか。和田義盛って知ってる? 鎌倉の有名な武将なんだよ。その人が、そこで陣を敷いたことがあったんだって。もう、1300年くらい前にね。ええと、上星川で降りればいいんだな」
 借り出した本を達夫のバッグに入れて、手帳にメモした大体の地図を頼りに、二人は上りの相鉄線に乗り、上星川駅で降りた。南口から20分ほど歩き、保土ヶ谷区にある市内唯一の渓谷、陣ヶ下渓谷へ到着した。手前からもう、鬱蒼とした樹々の群れの下で相当な量の水が湧いて流れ、尾瀬のような雰囲気を醸している。
 ーーミナト・ヨコハマのイメージを持っている人だったら、ここもヨコハマの内だとは、とても信じられないだろう。どこまで続くのか、旅人がここで夕方を迎えてしまったら途方に暮れただろうな。
 深い深い森と、せせらぎを立てる勢いの良い沢が、そこにあった。達夫は、ワダさんにプレゼントしたスマートフォンの事をふと思い出し、登録してある番号をいたずらのつもりでタッチした。
 「あれ? お父さん、向こうで携帯が鳴ってる」
 何も知らない公太が、無邪気な笑顔でその方を指差した。

著者

緋子