「後ろ髪の向こう側」光田れい

 十年で伸びる髪の長さと重さはどのくらいなのだろうか。
 個人差はあるが、ヒトの毛髪は一ヶ月に大体一~二センチ程度伸びるものらしい。母親譲りの硬くて太い丈夫な亜沙(あさ)の毛髪は間違いなく、平均かそれ以上のスピードで成長するはずだ。それが代謝の良い二十代であったのなら尚更のこと。したがって、彼女の髪の毛は多目に見積もって一年間で二十五センチ、十年間で二.五メートル伸びたことになる。
 一方で、髪の重さがヒトの体重に占める割合というのはかなり少ない。三十センチ程度の長さで髪の全重量はおよそ百グラムだと言う。十年間で伸びる髪の長さに換算してみたところで、その重さはせいぜい八百グラム程度のもので、スーパーに並んでいる一リットルの牛乳パック一本分にも満たない。
 この二.五メートルと八百グラムの物質を、亜沙は長らく一人の美容師に委ねてきたのである。

「亜沙ちゃん、いつ結婚するの?」
 亜沙の右隣りに立つ美容師のリカが聞いてくる。
「来年の二月」
 と、亜沙は答える。その耳元では一定のリズムでリカの持つ鋏が小気味の良い音を立てている。亜沙はその音を言葉に出来ないか考える。シャカシャカともパチンパチンとも違う。だけど、とても澄んだ音だ。
 二ヶ月に一度、亜沙はこの美容院に通っている。美容院に足を運ぶペースは、彼女の気分ではなく彼女の毛質と毛量がそうさせている。少しでも散髪をサボろうものなら、彼女の髪はおよそ彼女自身の手に負えないものへと変貌する。
「いいなぁ、今がすごく楽しい時期でしょう」
 リカは手を休めることなく、話を続ける。リカは亜沙より三つ年上の三十二歳で、役職は主任。十年前は確かアシスタントと言うポジションだったはずだ。亜沙は美容師の世界には詳しくないが、話を聞くにはどうやら鋏を持つことも許されない立場らしかった。

 亜沙が通う美容院は、亜沙の最寄り駅の数駅先にあり、高度経済成長期にニュータウンとして開発された街だ。そのせいか駅名も何だか少し洒落ている。同じ相鉄線なのに、自分が生まれ育った街とは雰囲気が違うなと亜沙は思う。駅の近くには女子大があり、亜沙とは明らかに毛色の違う学生たちが歩いている。華やかな雰囲気を持つ彼女たちの何人かはこの美容院の常連に違いない。リカの勤める美容院はあらゆるタイプの毛を持つ人間を受け容れる。
「亜沙ちゃん、実家から出たことないんだ」
「うん」
「じゃあずっと相鉄線ユーザーなんだね」
「もう三十年近くね」
「それもすごいね」
「そうかな?」
 そう返した後で、亜沙は少し恥ずかしい気持ちになった。リカは東北出身で高校を卒業後、上京して都内の専門学校を卒業した。そして神奈川県にあるこの美容院に就職し、現在までこの街で暮らしている。十八歳で故郷を後にしたリカと、三十歳まで実家暮らしの自分とは見てきた景色も違うだろう。
「大学生の時は一人暮らししなかったの?」
「家から十分通えたから」
 十分と言うのは小さな嘘だった。亜沙の進学した大学は都内の西端の辺鄙なところに位置しており、通学には片道二時間弱かかった。ただそうした大学は亜沙以外の学生にとっても同じように辺鄙だったため、千葉県のベッドタウンから二時間以上かけて通う学生や、同じ神奈川県内でも更に遠い小田原から通う学生もいて、亜沙は別段自分だけが通学に苦労しているとは感じなかった。若いから「十分に」乗り切れたのだ、と今になって思う。
「職場も横浜だもんねぇ」
「一人暮らしをする理由が無くて。お金もかかるし」
 本当にそれだけが理由だろうか。しかし、そこから先は考えるのを止めた。生まれてから今日までずっと実家住まいで、リカの言う通り、この道三十年の相鉄線ユーザーだ。この事実は変えようがない。

「はい、できたよ。今鏡を持ってくるね」
 リカは腰からさげたシザーケースに鋏をしまいながら、亜沙に背を向ける。すぐ近くにはキャスターつきのワゴンが置いてあり、そこには鏡の他にドライヤーやタオル、ワックスがたっぷりと積まれていた。
「後ろはこんな感じ」
「ありがとう」
 リカのカットの技術に不満を抱いたことは一度も無い。リカはかれこれ十年もの間、亜沙の毛量が多く、太い髪をメンテナンスしてきた。最後に鏡で後ろ姿を確認することも本当は省略して構わないと思っているくらいなのだが、そこはリカのプロ意識に任せるままにしている。特に今日は全体的に毛量を間引いてもらっただけだから、髪に手ぐしを入れて「厚み」が減っていることだけを確認出来ればそれで良いのだ。

 亜沙は十九歳の時にリカと出会った。大学からの帰り道、最寄り駅のホームから改札に向かうため、階段を上りきったところだった。普段だったら知らない人に声をかけられても、「急いでるので」とか「結構です」と言ってその場を逃れることが多かったのだが、この時はなぜか足を止めてリカと向かい合っていた。リカは最初に自分の名前を名乗り、ここから数駅先にある美容院でアシスタントとして働いていること、まだ一人前ではないので閉店後にカットやメイクの練習をしていること、そのためのモデルを探していることを説明し、亜沙に協力してもらいたいと頼んだ。
 今でも亜沙はリカと初めて出会った日のことを思い出す。あの時どうして足を止めたのか。理由は結局のところ、
「この人は悪い人じゃなさそうだ」
 そんな雰囲気をリカから感じ取ったからに違いなかった。リカの話を最後まで聞いた亜沙は申し出を受けることにして、その場で連絡先を交換して別れた。それからと言うもの、大学やバイトの帰りに定期的にリカの美容院に通うようになり、リカがアシスタントからスタイリスト、やがて主任へと着実にキャリアを積んでいってからも付き合いは続いた。
 カット以外にも、成人式や友人の結婚式に出席する時にもリカの美容院にはお世話になっていた。特に成人式の時には振袖の着付けからメイク、ヘアセットまで、リカを始めとするこれまで知り合った美容師メンバー総出で仕上げてもらった。「昨夜寝ないで考えた」と言われてセットしてもらった髪の出来栄えには、亜沙以上に亜沙の家族が喜んでくれた。亜沙はその時の光景を今でもよく覚えている。自分が成人を迎えられることが当たり前では無いのだということを印象付けられる出来事だった。

 そう言えば、とリカが亜沙のケープを外しながら、口を開いた。
「十年前にモデルさんを探していた時にね、決めていたことがあるんだ」
「なに?」
 私が選ばれた理由はなんだろう、と亜沙は気になった。
「“最後まで話を聞いてくれそうな人にしよう“って思っていたんだよ」
「髪とかじゃなく?」
 顔じゃないのか、とは言わなかった。
「うん、そう」
 とリカは平然と言ってのける。
「そこに現れたのが亜沙ちゃんだよ」
 リカが屈託無く笑うので、亜沙は何だか照れくさい気持ちになる。そして人の出会いとは案外そんなものかもしれないなと思った。出会った当時は分からなくても、時間をかけてその出会いを育てて行くうちにだんだんとその価値に気付いていく。亜沙とリカの出会いという原石が十年の月日を経てどのように磨かれたのかはリカの笑顔と見れば自然と分かるような気がした。

 美容院を出て、洒落た名前の駅に入りホームで電車を待っていると、壁に貼られたポスターが亜沙の目に入った。ポスターには相鉄線のゆるキャラ、そうにゃんが描かれている。
そうにゃんが誕生した当初は、「相鉄が流行りに乗った…」と少しばかり冷ややかな気持ちで見ていたこともあったが、よくよく見てみるとネコともタヌキともキツネともつかないその中途半端な姿がだんだんと「相鉄らしさ」を体現しているように思えてきた。そうして見ると「案外的を射ているキャラクターかもしれないな」と思い直し、そこからはそうにゃんに対して親しみの情を抱くようになった。よく見れば愛嬌のある顔をしているではないか。今では亜沙は彼の存在を「絶妙」と評価する。
「二番線に快速横浜行きがまいります」
 そうにゃんについて考えている間に、ホームにアナウンスが流れる。それに続いてホームに入ってきたのは新型車両二〇〇〇〇系だ。品のある一面濃紺色のボディが特徴で、数年後に東急線とJRの乗り入れを見越して導入されたものだと聞く。
この新型車両に見る度、亜沙は素直に「かっこいいな」と思う。二〇〇〇〇系に乗車する度、気分が上がって嬉しいのは確かなのだが、同時に相鉄線が少し背伸びをしているような不思議な感覚にとらわれる。この感覚をどう言葉にすれば良いものか。「推し」がいるローカルアイドルグループが地元公演からついに武道館デビューを果たしてしまったような感覚。いや、それは違う、と亜沙は考え直す。
 次の駅で二人組のサラリーマンが入ってきて、亜沙の隣りに腰掛けた。「この電車、朝と夜で室内灯の明るさが違うんだよ。蛍光灯の中身は一体どうなっているんだろうなぁ」と話している。それに気付くには行きと帰りの両方ともこの新型車両に乗るという恩恵に預からなければならない。それには幸運が必要だ。どうやら、自分はこの二〇〇〇〇系を相当気に入っているようだと自覚する。

 次の駅が亜沙の家がある最寄り駅だ。たった四分の短い乗車時間だが、亜沙はその時間を楽しむ。美容院からの帰り道はいつも楽しい。美容院を出る時には、髪だけでなく気持ちもさっぱりとしているような感じがする。「何もやる気が出ない時には美容院に行くと良い」とは亜沙の好きなコピーライターの言葉だ。

 十年後、この街はどうなっているだろう。二俣川駅の改札へ続く階段を上りながら亜沙は考える。その頃には東急線やJRとの乗り入れが始まって、亜沙の住む街はもちろん、相鉄線はその姿を変えて行くのだろう。亜沙の髪がこの十年で二.五メートル伸びたように、線路もまた今尚伸び続けている。この先、相鉄線上に暮らす人びとの生活や街並み、風景の変容は枝葉のごとく広がりを見せることだろう。近い未来、この街を去ることになる亜沙にとっては、喜びとも一抹の寂しさともつかない気持ちが募る。
 ちょっぴり残念なところもあるけれど、そんなところも愛らしい相鉄線。
「また来るからね」
 工事中の通路を通りながら、亜沙はつぶやいた。

著者

光田れい