「快速電車の道化師」黒川拓海

 いくら早く終わったとはいえ、クリスマスに部活とは我ながら寂しい話だ。カップルは幸せそうでいいな、と心の中で愚痴りながら、俺はようやく横浜駅に着いた。
 これから山下公園にでも行くであろう笑顔の群れに逆らって、相鉄線の改札を通る。自宅に帰るための快速は、ちょうど二番線に止まっていた。
 今日は古い車両だ、と認識すると、俺は五号車を目指して駆け足になった。
 相鉄の古い車両は、五号車と八号車にボックスシートがある。忙しい通学でもなんだか小旅行みたいな気分になれて、俺はこの座席が好きだ。そのせいで、新しい車両がホームにいるとむしろ残念に思ったりする。
 二号車、三号車を横目に走り抜ける。四号車も越えて、ボックスシートが空いていることを祈りながら五号車に乗り込んだところで。
 俺は思わず動きが止まった。
 確かに、願いどおり五号車は空いていた。……というか、空きすぎていた。
 四号車までは、どこも座席が埋まる程度には人が乗っていた。奥の六号車もそこそこ人が乗っている。
 にも関わらず、五号車にはたった一人しか乗っていない。まるで、乗客が全員、五号車を避けているかのようだ。
(まあ…… 避けたくなるよなあ……)
 五号車の唯一の乗客をチラリと見て、俺は納得した。
 進行方向左側のボックスシートに座っているそいつは、赤いアフロヘアーと白塗りの顔に、色図鑑かというくらいカラフルな服を着ていて――つまり、ピエロの格好をしているのだ。
 なんで電車にピエロが乗っているんだろう。クリスマスなのにサンタクロースじゃないんだろう。って、問題はそこじゃない。
 相鉄のキャンペーンだろうか。いや、だったらもっと大々的にやるはずだ。ここまで浮くことは無いだろう。
(ビナウォークの関係か?)
 海老名にある商業施設の客寄せか、という考えが俺の頭をよぎった。だが。
(いや、海老名はありえない。だってこの電車は……)
『二番線から、快速湘南台行きが発車いたします』
 この電車は海老名には行かないのだから、ピエロの目的地は海老名ではないはずだ。
 プシュ、とドアが閉まる音で、俺は我に返った。しまった、別の車両に移ればよかった。
 そうして俺がドア横に突っ立っていると、爽やかな声がした。
「少年、座らないのかい?」
「あ、そうですね……、失礼します」
 まさかピエロに絡まれるとは。不思議な感覚のせいで、俺の動きはぎこちなかった。ピエロに頭を下げながら、進行方向右側、ピエロとは別のボックスシートに腰を下ろす。
 改めて、今の状況の異様さを考えてみる。クリスマスの昼間、見知らぬピエロと二人きりの電車内。なんだこれ!
 隣の車両に移動したいけど、ピエロが何をするか分からないから、下手に動くのは怖い。
(星川で降りようかなあ……)
 横浜を出て、快速の最初の停車駅は星川だ。つまり、この異常な状況から逃げる最初のチャンスがそこということだ。最初からここで降りるつもりだったんです、って顔をすれば、多分無事に降りられるだろう。
 そこまで考えて、俺は気づかれないようにチラリとピエロの方を見た。
(意外と男前だな)
 窓枠に肘をついて物思いに耽っている姿は、姿さえピエロでなければ様になっただろう。腕の黒い時計のセンスも悪くない。
 まるで写真家のようなことを俺が思っていると、ピエロはゆっくりとこっちを向いた。
(やべえ、何も見てませんって顔しないと!)
 慌てて真正面を見て、スマホを取り出そうとした時。
「少年」
「は、はい!」
 ダセえ!声裏返った!
「窓、開けてもいいかな」
 ピエロは窓の横にあるボタンを指差している。
「ど、どうぞ!」
 ありがとうと言いながら、ピエロがボタンを押した。ウィーンと音を立てて窓が開く。
 なんだかスマホを取り出す気力は失われた。とはいえ参った。通学のときは毎日スマホを見てたのに、無いとなると電車内は暇だ。
 仕方なく俺は車窓を眺める。家や車、すれ違う電車が後ろに流れるのをじっと見てると、まるで保育園の頃に戻った気分だ。――そういえば、車窓をこうして眺めるのって、いつ以来だろう。
 そう考えていると、電車は坂を登り始めた。反対側の線路は下に残したままだ。
『まもなく星川、星川。お出口は左側です』
 さあ降りよう、俺はここで降りるんです、と立ち上がろうとしたとき、俺の目はそれを捉えた。
(なんだ、ありゃ……)
 窓の向こうには、謎のホームがあった。
 勿論この電車のホームがあるなら分かる。でもそれは左側、俺の後ろにあるはずだ。もう一つの線路は下にあるし、そもそもあのホームには線路が無い。もしかして……、
「……廃墟駅?」
「高架化工事だね。やがては上り線があのホームを使うんだよ」
「うわっ!」
 ホームに気を取られている内に、ピエロが俺の真後ろにきていた。
「ああ、びっくりさせちゃった?」
「いえ……。大丈夫です……」
 びっくりさせてる自覚があるなら近寄らないでくれ!と言えればどれほど楽だろうか。
「高架化工事、って……?」
「そのままの意味。線路を高架にすること。ほら、踏切って事故が多いだろ?」
 一瞬、ピエロの顔が歪んで見えたのは気のせいだろうか。
「だから、高架化して踏切を無くそうって工事をしてるの」
「な、なるほど」
「未来があるよね……」
 まるで子供をいとおしむような目をするピエロ。優しい瞳の中に、なんだか深い悲しみが見えた、気がする。
『次は鶴ヶ峰、鶴ヶ峰です』
 星川で降り損ねたことを、その放送で知った。しまった、作戦が……。
「じゃあ、俺は戻るから」
 愕然とする俺をよそに、ピエロはそう言って元いた座席に戻った。一体なんだったんだろう。
 ふと隣の車両を見てみると、横浜を出たときより混んでいた。にも関わらず、星川からの乗客も全員五号車を避けている。
 一体、なんで俺はピエロと二人きりになってるんだろう。線路が地平に戻るなかで、自分の境遇を嘆く。
 上り線と合流するとすぐに、列車は次の駅を通過した。そのままもう一つ駅を通過したところで、俺は隣の車両からの視線に気が付いた。チラリと六号車を見て、
(まあ、そういう視線になるよなあ……)
 六号車には、俺を心配するような目つきがいくつも見えた。俺だってできればそっち側にいたかったよ!と言っても、最早後の祭り。
「はぁ……」
 視線に耐え切れずに、窓の外を向いた。こっちを見ていれば。ピエロも隣の車両も見ずに済む。
 ゴッと音を立てて、横浜行きの黒い電車がすれ違う。当たり前だけど、向こうはどの車両にも人がいる。それがますます、この電車の異様さを際立てて見せた。
 そしてすぐ、また通過駅に差し掛かった。
「ここも工事か」
 ホームの片側が覆われているのを見て、つい疑問が口に出てしまった。星川とは違って地平で工事をしているから、今度は高架化工事では無いだろう。じゃあなんだ?
「西谷駅は、神奈川東部方面線の工事だね」
「か、神奈川東部……?」
 そうだ、疑問を口に出すと、このピエロは答えるんだ……。さっき経験したのに……。
「この駅から、東海道線や東急線に直通するって計画。そのための工事だよ、あれは」
「へ、へえ……」素直に横浜駅まで行けばいいじゃん、と小さく呟く。
「海老名とかあっちの人は、横浜まで出るよりも時間が短くなるからね。それに、地域の交流が活発になる」
「はあ……あちこち工事してて、なんか怪我人みたいですね、相鉄って」
「怪我人?」
 ピエロは、俺の素直な感想にきょとんとした。少しして、意味が分かったとばかりに笑い出す。
「その発想は無かったな、少年。そうか怪我人か……」
「なんすか、その言い方」
 カチンときて、俺の声は尖った。怪しいピエロに突っかかる、冷静になってみると命知らずな行為だ。ああごめん、とピエロが謝る。
「僕は、どっちかっていうと子供みたいに見てたからね」
「子供?!」
 ピエロの解釈に驚き、思わず大きな声が出る。いけねえ、電車内なのに(相変わらずこの車両には誰もいないけど)。
「そう。高架化や神奈川東部方面線。今度新車も出るし、どんどん成長していく様がさ。なんだかちっちゃい子供みたいじゃない?」
 ピエロのその口調は、まるで聖母のようだった。俺がもし女だったら、惚れていたかもしれない。
 ……いや、ピエロの格好してる時点でそれは無いか。前言撤回。
『まもなく二俣川です。海老名方面ご利用の方はお乗り換えください。この電車は快速湘南台行きです。終点湘南台まで各駅に……』
 相鉄線を語ってる内に、いつのまにか鶴ヶ峰を過ぎていたらしい。二俣川駅は、海老名行きの本線と、湘南台行きのいずみ野線の分岐点だ。ここを逃したら乗り換えられない。
 ここを超えたら。勇気が出たのは、そう思ったからだろうか。それとも、見た目ほど危ない人じゃないと判断したからだろうか。
 列車の速度が落ちてきた。
「あの……」
「ん、なんだい、少年?」
 ピエロがこちらをまっすぐ見つめてくる。
 列車が、駅に完全に止まった。
 俺は、ゴクリと唾をのみ込む。
「あなたは…… なんで、ピエロの格好をしているんですか?」

 プシュ、とドアが閉まるまで、言葉は交わされなかった。
 モーターの音とともに、列車の速度が上がる。
「そうだね……。話してもいいか」
 列車は、坂をのぼって本線を跨いだ。ここからはいすみの線だ。
「あまり大きな声で話すようなことでもないからさ、ちょっと、こっち来てくれるかな」
「ええ……」
 言われるまま、荷物を持ってピエロの横に座る。
「ありがとう。ちょっと重い話になるけど、いいかな?」
「……構いません」
 乗りかけた船ならぬ、乗った列車だ。腹をくくる。
「そもそも、まず僕の素性から話さないといけないな。僕の仕事は……」
 列車がトンネルに入った。
「保育士だったんだ」
「保育士……だった?」ピエロの言い方に違和感を感じた。
「ああ。お察しの通り、過去形だ。もう、半年……、もっと前まで、かな」
 ピエロの顔が悲しく歪む。それを見て、先ほどのやり取りを思い出した。
「もしかして、さっきの子供の話とかも……」
「多分、保育士って経歴の影響もあるだろうね。元々子供好きだったから、ああいう工事とか見てると、子供に重ねる癖があってね。職場でもよくからかわれてたよ」
 ピエロの苦笑につられて、俺も笑う。
「とにかく、大学を出て二年くらい、湘南台にある保育園で働いてたんだ。給料も悪くなかったし、天職とすら言えたな……」
 丁度、列車がトンネルを抜けた。ピエロが遠い目をするのは、かつての日々を思い出しているんだろうか。
「天職だったのに、なんで……」
「保育園って、よく遠足とか散歩とかあるだろ」
 俺は、十年以上前の自分を思い出す。
「近くの公園とかよく行きましたよ、俺」
「だろ。……それである時、子供が一人、道路に飛び出したんだよ」
「えっ……」
 ゴッ、と音を立てて、列車はまたトンネルに飛び込んだ。なんだか、とても不吉だ。
「あわてて、俺も追いかけたね。で、何とか子供は抱きかかえたんだけど……」
「だけど……?」
 ピエロが言葉に詰まる。まるで、口にすることが躊躇われるように。
「目の前に、トラックが来てたんだよ」
「っ!」
 思わず息を飲んだ。
「……慌てて子供は歩道に放り投げて、彼は打撲と骨折。……でもまあ、入院治療で、今は元通りらしい」
 ピエロは、そこまで話してホッとした顔をした。でも、『彼は』ってことは……。俺は食い気味にピエロにかかる。
「じゃあ、あなたは?」
「……トラックが、思い切りドシン。そこからは覚えてないんだけど、聞いた話だと、飛ばされた先で、そのトラックが俺の真上を走ったらしい」
「嘘……」
「幸い、タイヤは俺の左右にあったらしくて、ペシャンコだけは避けれたけどね」
 良かった、と俺は胸を撫で下ろす。いや、良くないんだけど、不幸中の幸いというやつか。
「でもね……。トラックの下って、いろんな機械とか部品とかが出っ張ってるんだよね」
「……まさか」
 とても、嫌な予感がした。まるで、怪談話みたいな……。
「ホラー映画みたいな話だけど、そのパーツとかで、僕の顔はグシャグシャになっちゃったの。命だけは助かったけどね。整形しても、元通りにするのは難しいみたい」
「そんな……」
「おぞましい顔を元には戻せなかったけど、怪我の治療としては最善を尽くしてもらえたよ。退院もできたんだけどね。流石にこの顔じゃ、子供達のトラウマにさせるわけにはいかないから……、退院してすぐ、仕事を辞めたよ」
 俺は、どんな反応をすればいいのかわからなかった。確かに高校生ごときが背負うには重い話だったかもしれない。
 いや、でも待てよ。ピエロのフェイスメイクがあるとはいえ、
「でも、そこまでひどい顔には見えないですけど……」
「ああ、これ?」
 ピエロが、自分の頬を引っ張る。すると、メイクと一緒に皮膚が薄く伸びた。
「ゴムの仮面の上にメイクしてるんだ。素顔はとても人に見せられるものじゃないから……」
「ああ、なるほど」
 仮面の上からメイクなんて、なんだか古風なミステリ小説みたいだ。いや、そんな娯楽と一緒にすることは不謹慎か。
「普段の買い物とかは通販で済ませてるから、あまり仮面を使って外に出ることはないだけどね」
「それなら、今日はなんで……」
 ピエロがふうと一息つく。
「今日、クリスマスだろ?」
「ええ」
「ずっと、あの時の子供たちの事が気がかりだったんだ。今はどうしてるんだろう、って」
 ピエロの気持ちが、わかる気がした。会話の節々からにじみ出るほど子供好きで、子供を庇って怪我をして、子供たちが怖がらないように心配して仕事を辞める程の子供好きのこの人が、子供たちを心配しないわけがない。
「何度も、見に行こうかと思ったんだ。園に入れなくても、門の前からちょっとでも、ってね。でも、やっぱり顔が顔だからね……」
 この人の素顔を知らない俺には、「怖がりませんよ」なんて無責任なことは言えなかった。
「でも、クリスマスなら、サンタとかの仮装をしていてもおかしくないだろ?」
「いやいや、ピエロとサンタはかなり違うと思いますけど……」
 無責任だろうとなんだろうと、ここだけは突っ込ませて欲しい。
「サンタは顔が素顔だけど、ピエロなら仮面メイクで何とか隠せるからね」
 我ながら頭良いだろ、と胸を張るピエロ。
(この人、間違いなく悪い人ではないけど、間違いなく変人だ!)
 俺は頭を抱えたくなるのを必死で抑える。
「と、とにかく、湘南台着いたら保育園に行くんですね?」
「ああ。そのつもりなんだけどね……。段々怖くなってきた」
「怖く……」
 ピエロが俯く。また沈黙が車内を包み、列車の音だけが車内に響いた。
「……じゃあ、俺一緒に行きましょうか?」
 俺はそう呟く。ピエロが、勢いよく顔をあげた。
「いいのかい?」
「ええ」
 普通の恰好の人がいる方が、ピエロ単独よりよほどマシだろう。そう思っての提案だが、受け入れられたらしい。
「ありがとう……」
 そうして、ピエロが俺に頭を下げたところで、まもなくいずみ野とアナウンスが流れた。
 トンネルが多い区間はこれでおしまいだ。

「このいずみ中央駅はかつての終着駅でね、あちこちにその当時の名残が残っているんだ。降りてみると中々楽しくて……」
 さっきまでの物憂げな様子はどこへやら、ピエロはどこまでも明るく、楽しそうに俺に説明を続けてくる。保育士と言うよりも、まるで観光ガイドだ。つい気になって質問をしてみた。
「保育士って、そういう知識もいるんですか?」
「必要ってわけじゃないけど、知ってて損は無いくらいかな。子供って電車とか好きだしさ」
 納得がいった。
「だから、なるべくいろんなことを知っていようと思ってね。電車に限らず、パトカーとか特撮とか野球とか……」ピエロは指折り数える。
「大変ですね」
「いやいや、好きなことのためだもの。まあ、周りからも浅川は調べすぎだって言われたけどね」
 ピエロの顔は楽しそうだ。いや、ちょっと待て。
「浅川?」
「ああ、僕の名前。言ってなかったっけ?」
「え、ええ」
 そういえばまだ言われていなかった。ずっと「ピエロ」の認識だったことに気づく。
「じゃあ改めて……。僕は浅川涼。よろしく」
 ピエロ、いや、浅川さんが手を伸ばす。俺は、その手を握り返した。

(ピエロの格好で電車に乗る癖に、意外と勇気が無いんだな……)
 湘南台駅で電車を降りてまもなく、俺はそう思った。
「大丈夫かな、変な目で見られてるよね僕……」
 駅前広場に出るやいなや、浅川さんは俺の後ろに隠れて声を震わせている。電車内と同じ人とはとても思えない。
「横浜から三十分間も電車に揺られて、今更何を言ってるんですか?」
「電車内では知り合いに会う心配は少なかったけどさ……」
 そりゃあ、元職場のある街だしな、と俺は頷きかけて、
「そもそも子供達に会いに来たんじゃないんですか浅川さん!」
「うん、そうなんだけどね……。やっぱりいざ来ると……」
 そこまで怯えるなら、ピエロより地味な格好をすればいいのに。そう思う俺は間違っているんだろうか。
 幸いなことに(当たり前だが)、浅川さんは怯えながらも、保育園への道案内はしっかりしてくれる。お陰で、俺たちは刻一刻と保育園へと近づき、浅川さんは刻一刻と緊張が高まっていく。
「あの赤信号、渡って右に曲がればすぐ……」
「あそこっすね」
 浅川さんが指をさす信号に近づいた時、丁度それは緑に変わった。カッコーカッコーと信号機が鳴く。
「ああ、緊張してきた……」
 信号を渡って、右を向いて。
「アレ、か」
 低めの柵に一文字ずつとりつけられた「わかばほいくえん」の看板が見えた。
「懐かしい……」
 元職場に着いたら落ち着いたのか、浅川さんの声から震えが無くなっていた。
「看板の向こうに、入り口の門がある。警備員も当時と同じ人だろうから、顔パスのはず」
 さすがは元職場だけあって、熟知してる。その警備員とも仲が良かったのかな、と思いながら歩を進めて、
(ん?待てよ?)
 ふと、引っ掛かりを感じた俺は、立ち止まって後ろを振り向いた。
 そこに見えるのは、横浜駅で乗り合わせて以来すっかり見慣れ(てしまっ)た浅川さんの、ピエロメイク。
「顔パス?」
「……あ」
 浅川さんの動きが固まった。
 そうだ、顔パスどころか、今の浅川さんは不審者として通報されるような格好だ。これで保育園なんて行こうものなら……。
「あんたら、何者だい?」
 保育園からしわくちゃ顔の警備員が飛び出してきた。
「え、えーっと……、俺は、ですね……」
「ピエロの格好なんぞして。パフォーマーを呼んだ覚えは無いぞ!」
 年老いた見た目のわりに血の気が多いらしく、真っ赤な顔の警備員は既に警棒を取り出している。
(もしかして、俺らホラー映画の殺人ピエロみたいに思われてるんじゃねえか……?)
 だとすれば、警備員は真っ先に殺されるタイプだろう。って、そうじゃなくて!
 浅川さんが、後ずさりしながら震えた声で言い訳をする。
「僕らはあの、決して怪しい者じゃないんです」
「どこがだ!」
 正論だ。
 俺らは、じわりじわりと車道に押し出される。
 ああ、110番通報されたらどうしよう。内申点に影響でないかな、と諦めかけた時。
「どうしました?」
 俺らの後ろから、柔らかい女性の声がかかった。救いを求めてそちらを振り向いて、
(あっ、この状況、ヤバイかも)
 カートに子供を乗せた女性保育士が、歩道に立っていた。子供達は場違いなピエロに怯えている。
 目の前には警備員、俺の傍らにはどう見ても怪しいピエロ。そして保育園の子供。……どう考えても110番通報される構図だ。
「……もしかして、浅川さん?」
 女性がポツリと呟いた。その声に、浅川さんが振り向いて頷く。
 それを見て、理解したとばかりに女性は頷いた。
「警備員さん、伝えるのが遅くなってすいません。こちら、今日のために呼んだ、パフォーマーの方です」
「あ……?聞いてないぞ?」警棒を向けたまま、警備員が不思議そうに聞く。
「忙しい方なので、予定が確定するまで言わない方が良いだろうと思っていたんですが、つい伝え忘れて……。すいません」
「……そうなのか?」険しい目つきのまま、俺に向き直る。
「ええ、そうです。で、俺は道案内を」
 コクコクと、浅川さんも無言で頷く。
「……これは失礼なことを、申し訳ない」
 警備員は、警棒をしまうと頭を下げた。いえいえ、と浅川さんが手を振る。
「今日はお忙しいところをありがとうございます。どうぞ、中でお待ちください……」
 そう言いながら、女性が門の鍵を開けた。そして、浅川さんに近づくと、周りに聞こえない程の小声を出した。
「どうしてこんな格好してるんですか!後でじっくり聞かせてもらいますよ!」
 在りし日の二人はこんな感じだったんだろうか。慣れたようなそのやりとりを見て、俺は思った。
 そうして、浅川さんは俺に頭を下げると、子供達と共に保育園の中に消えていった。
 大勢の子供に囲まれて嬉しそうな、僅かな距離なのに一人一人を気に掛けるその姿は、確かに保育士のものだった。

 それから七日後、世間は無事に新年を迎えた。
 テレビは無礼講とばかりに特別番組を放送しつづけ、街中には晴れ着や和服が目立った。
 そして、更にそこから七日も経つと、正月の馬鹿騒ぎなど無かったかのように地獄の三学期が始まった。朝ラッシュの横浜行きに揺られて、部活帰りの疲れた身体で湘南台行きに揺られる、いつもの生活の繰り返しだ。なんだか自分が歯車になったような錯覚に囚われる。
 子供は幸せそうでいいな、と心の中で愚痴りながら、俺はようやく横浜駅に着いた。
 遠足帰りだろうか、黄色い帽子に笑顔の群れを追い抜いて、相鉄線の改札を通る。自宅に帰るための快速は、ちょうど二番線に止まっていた。
 今日は古い車両だ。もしかしてこの電車、あの日と同じ車両か、と認識したところで。
「おーい、少年」
 突然呼び止められて、足を止める。はて、俺を『少年』なんて呼ぶ人といえば……
 振り向くと、案の定な人が子供達の先頭にいた。深く被った帽子と、薄いゴムの仮面を除いて考えれば、まるで保育士のように。
「浅川さん!」
「よ」
 浅川さんは左手を軽く上げて応える。
 隣では、あの時の保育士の女性が子供達に電車のマナーを説明していた。
(あれ?)
 浅川さんの左腕に、見慣れない時計がついていた。銀色のバンドがオシャレな、小さな時計だ。
 ピエロの時は、あんな時計だっただろうか。いや、あの時は黒い腕時計だったはずだ。
「あ、あの時の……」
 女性も気付いたらしく、俺にペコリと頭を下げた。俺も軽く頭を下げて、それに気がついた。
 よく見ると、この人も同じ時計だ。ペア時計だろうか。
(もしかしてこの二人……)
 そう考えていると、浅川さんは俺の元に駆け寄ってきた。
「少年は、この快速に乗るの?」
 浅川さんは、実に嬉しそうだ。
「いや、今日は途中に用事があって、その後の各駅で」
 俺は笑ってそう言った。二人の邪魔をするのは野暮というものだろう。
「そうか。それじゃあまた。今度、職場に遊びにきなよ」
「ええ」
 浅川さんは、嬉しそうに手を振ると、子供達と共に快速列車に乗り込んだ。

著者

黒川拓海