「愛おしい 君に会いたい 弥生台  ~スワンとの出会い~」播磨鷺城

一 スワンとの出会い
 今年五十路となった僕が十五歳高校1年(昭和五十八年)の頃の話です。僕の名前は熊本健一で三ツ境にある某県立高校に四月から通っています。家は当時戸塚区だった泉区のはずれでその頃はドリームランドという遊園地のそばでした。まだ、いずみ野線がいずみ野までしか開通しませんでした。いずみ野まで6キロもあるのでバス通学したかったのですが、バスが1時間に1本と不便だったので、いずみ野まで自転車で通学しています。鉄道マニア(鉄ちゃん)の僕は相鉄で通学できるだけで満足しています。
 我が家は、父母と姉で父は典型的な飲んだくれ親父で少ない給料のほとんどを飲んでしまい家にあまり入れてくれません。毎日、仕事を止めてくると言って出かけるくらいで経済的に不安定な家庭でした。母は洋服の仕立ての内職をしており、それで子供の学費を稼いでくれています。家庭環境はよくなく、家は暗くあまり楽しいとは思えない状況です。
 あまり勉強のできなかった僕は希望の高校には入れませんでした。どうにか入学できた高校は、クラスの同級生のほとんどが授業中先生の話を聞かないでおしゃべりしたり、内職をして授業が成り立たない、今でいう学級崩壊のような感じでした。とんでもない学校に入学してしまったと思いました。真面目に授業を聴いていた僕はクラスの中で浮いてしまいました。友達も少なかったのですが、同じように考えている久君、幸一君、薫君とは仲良くなれました。このように僕の高校生活の初めは家、学校も暗く楽しくない最悪の状況でした。
 そんなつらい中、5月4日がまだ休みではなかった時、クラスの話し合いでいつもより少しはやく家を出ました。いずみ野からいつもとは違う電車に乗りました。隣の弥生台でドアが開くと多くのお客さんが乗り込みました。その中に背が高く可憐な女の子がいました。まるで白鳥が舞いおりてきたような美しさです。今まで僕が見たこともない美しい女性で初恋かつ一目ぼれです。人生で初めて彼女のことを考えると胸が高鳴り、他のことが考えられなくなりました。その日、学校で何を習ったか覚えていないぐらいその日はずっと彼女のことを考えていました。明日も彼女に会いたいからはやく家を出ようと決意しました。
二 スワンは誰だろう?
 弥生台で会える彼女の名前はおろか、学校もわかりません。そこで白鳥のように華麗なので勝手にスワン様と名付けました。その後も、スワン様のことが気になって家でも学校でもボーとして心ここにあらずと言った感じです。周りもおかしいと思ったらしく、母親が学校でいじめられているのではないかと思ったそうです。母に事情を話したところ
「それはまさに恋の病」と教えてくれました。母からは「断られてもいいから、そのこと話してみたら」とアドバイスされました。
しかし、チキンハートで三歩歩くと忘れてしまう鶏頭(とりあたま)の僕にはできません。母に彼女の制服の特徴を話したら、どこの学校か知っていました。制服はセーラーでもブレザーでもない、上下がつながっている制服をジャンバースカートというらしい。ジャンバースカートの学校は母が通った平沼高校(旧制横浜第一高等女学校)、伯母の通った桜が丘高校(旧制横浜市立高等女学校)、横浜立野高校、横浜雙葉があるそうだ。
「校章はどんなの?」との質問に
「『盾』が書いてあった」と言ったら、
「それは山手にある横浜雙葉学園」ね。「平沼と桜が丘は桜だから」とのこと。「私の頃は紅蘭と言ったけどミッション系でお嬢さんたちが通う学校よ」。
僕は、「じゃあ、いとこのミナちゃんも山手の女子高に通っていたけど、そこの学校?」と聞きました。
母は、「同じキリスト教でも雙葉はカトリック、ミナちゃんの横浜共立はプロテスタントだよと」教えてくれました。
当時の私はカトリックとプロテスタントの区別もつきませんでした。
 スワン様の学校はわかったものの名前も学年もわかりません。どうしても知りたくなって弥生台に住んでいる同級生の巽くん(たっくん)に事情を話してみました。
「その子なら、小学校が一緒だった山本亜希子ちゃんだと思う」と教えてくれました。
兎に角、きれいな子でファンが小学校でも多かったそうです。中学受験をして横浜雙葉に行ったのでたっくんとは別の学校です。こうして同学年で学校名も山本亜希子さんという名前もわかりました。母とたっくんに感謝です。でも僕はスワン様と今後も呼ぶことに決めました。今のように携帯で簡単に写真が撮れる時代と違い彼女の写真はなく、瞼を閉じると彼女の顔が脳裏に出てくることしか、普段は会えません。でも今となってはその方が強く想うことができたのではないでしょうか。名前がわかったこともあり何も手がつかない腑抜けのような生活は解消していきました。
三 僕の高校生活
 スワン様と朝は会えるのですが、夕方は会えませんでした。どうしても会いたくて少しずつ時間を変えてみて、いつも帰りに乗る電車もわかりました。朝も45分速く家を出ます。朝も夕も待ち時間は図書室で勉強をするようになりました。スワン様に見てもらえませんが、少しでも恰好つけたくて電車の中で『試験に出る英単語』などで勉強もしました。元々、偏差値が高くないのでちょっと勉強すると成績が中学では見たこともないような成績となりました。先生や旧友にも認められて自己肯定感が高まりました。これも彼女に恋したおかげです。恋はすごいパワーを与えてくれますね。
 さて、学校で進路希望調査があります。僕は私立の法学部に行きたいなと当時漠然と思っていました。決めるにあたってスワン様と一緒の学校に行きたいと思いました。僕の唯一の情報ソースたっくんのお母さんにお願いしたく、たっくんに相談してみました。
「お母さんに聞いて見るね」と言ってくれました。
一週間後、スワン様の希望している学校がわかりました。私の通っている学校より偏差値で10以上高いので、早慶あたりと思っていました。何と第一希望は宝塚音楽学校でした。彼女の美貌であれば、入れそうな気はしますが、僕は男では入学できません。でも宝塚に入れなければ、薬学部に行きたいということが、わかりました。安易な僕は薬学部に進路を変更をしようと考えました。僕の所属する自然科学部の顧問藤田貴子先生に相談してみました。先生は理科の先生で金沢大学薬学部出身で薬剤師の免許も持っています。今の僕に薬学部への進学が可能か聞いてみました。国立の薬学部はかなり厳しいが、私立の薬学部であれば、十分可能とのことでした。
「でもね、私立は4年で500万円くらい学費がかかるのでご両親と学資が出せるか相談しなさい。」と教えてくれました。
これはショックでした。我が家は、父の収入が低くかつ飲んだくれで家族が使えるお金は限られています。無理だろうなと思いながら、恐る恐る母に相談してみました。母は一分くらい考えて何とかすると言ってくれました。母自身も本当は薬学部に進みたかったそうです。満州からの引き揚げで8人兄弟(上6人女、下2人男)の3番目で高校を卒業して働いて家にお金を入れなくてはならず、泣く泣く進学を断念したそうです。今以上に内職の洋服の仕立てを増やして頑張ると言ってくれました。万が一、頑張れなくなったら時は、姉ちゃんおばちゃん(母の長姉で小学校教諭で独身、困った時は助けてあげると前々から言ってくれていた。母の精神的かつ経済的支柱です)に頼んで困ったら学費を卒業まで出してもらえると約束してくれました。おかげで進路希望調査には薬学部を第一希望にしました。僕の目標に向かっての勉強が始まりました。
四 Nコン予選への参加
 いつものようにスワン様と同じ電車に乗って帰る途中、彼女が友達と話していたので耳をダンボにして聞き入りました。彼女の部活は、『聖歌隊』といって普通の学校で言えば合唱部ということがわかりました。カトリックの学校なので学校行事で讃美歌などを歌っているようです。NHKが主催している全国学校音楽コンクール(Nコン)の予選の練習をしているようでした。翌日、同級生の合唱部員愛ちゃんにコンクールについて聞いてみました。「合唱部20人すべてが女の子で女性2部合唱しかできないのでもっと男の子が入ってくれれば、混声4部合唱でよい合唱ができるのに」と言われました。
僕は「自然科学部と兼部してもいいの?」と聞いてしまいました。
愛ちゃんは顧問の須田瑞穂先生に確認してくれました。答えはもちろんOKです。男が私一人ではコンクールに出場するのは厳しいのでもう少し増やしたいとのこと。先生は音楽の授業で歌の上手な男子で兼部できそうな生徒に声をかけ、私を含めて6人集めました。なかなか須田先生は行動的です。Nコンの予選まで1か月のにわか部員6名を含む26名で混声4部合唱の練習が始まりました。初心者の6人は発声練習からはじめるような状況です。元々、歌が好きな連中だったので先生の猛特訓でみるみる上達したのがわかります。この時ばかりは、スワン様と同じ電車に乗れないほど遅くまで練習しました。練習の甲斐あって26名全員でNコン神奈川県コンクールに参加できることになりました。課題曲は岩手の高校生が作詞した『みぞれ』です。今でも忘れられない青春の思い出の曲です。
 さて、夏休みが始まった直後、県立音楽堂でコンクールが行われました。神奈川県は高校の部だけでも200校以上出場します。2日にかけて行われますが、うれしいことにスワン様と同じ日に私たちも歌います。私たちの席は真ん中あたり、スワン様の席は前の方です。トイレに立つ振りをして何度も彼女が見られる場所に移動していたので、須田先生から
「緊張してお腹痛いの?」と言われるほどでした。
まずは私たちが歌う番です。多くの人の前で歌うのは初めてなので緊張しましたが、彼女がこっちを見ているとわかるとうれしくなってしまいました。指揮者の合図で合唱ははじまりました。にわか部員の参加でしたが、「今までに一番良いできだった」と元の部員20人(女子)から言われてうれしかったです。2時間ほどして彼女の学校の番です。カトリックとってもフランス出身のシスターがつくった学校のようで衣装はフランス国旗を模した衣装でひときわ注目を集めました。彼女の学校は県内では合唱の強豪校で何度も本選に出場しています。合唱はさすが上手く聞き入ってしまいました。彼女と電車ではない、県立音楽堂で同じ曲を歌えたというだけで幸せになりました。結果は私の高校は32位でした。元々、100位くらいなので創部以来一番上位だそうです。彼女の学校は優勝こそ逃したものの堂々の2位でした。高校に入って初めての夏休みはとても有意義なものでした。その後、6人は週1回合唱部の練習に参加して2年、3年もNコン予選に出場しました。
五 宝塚音楽学校ってなあに?
 スワン様の希望している宝塚音楽学校のことを調べるためによく利用する瀬谷図書館に行きました。あまり資料がなく、野毛の市立中央図書館に行って調べました。勉強でもこんなに調べればきっと大成したと思います。阪急の創設者小林一三がつくった少女歌劇団の宝塚歌劇団の団員養成のための学校でした。『清く 正しく 美しく』がモットーで倍率は50倍くらいで東大よりも難しいと言われています。バレエや日本舞踊、声楽などの稽古を子供の頃からしなくてはいけなくて、レッスンに多額のお金がかかるので親にお金がないと行かせられない。宝ジェンヌになると退団後も女優やよいところにお嫁に行けるとわかりました。当時は花月雪星組があり、男役と娘役がある。私が勝手に恋い焦がれているスワン様はとてつもないお嬢さんだったとあらためて思いました(実際、資産家のお嬢さんです)。受験も3回に限られるようで彼女も高1、高2の3月に受験して残念ながら、不合格のようでした(相鉄線に乗っているので。受かっていたら阪急電車に乗っていると思います)。私にとっても彼女が宝塚に合格するのが夢なのですが、宝塚に行って毎日会えないのも悲しいです。
六 ああ高校3年生
 スワン様にあこがれる2年があっという間に過ぎとうとう、最終学年になりました。旺文社の模擬試験では志望する薬学部の合格判定は芳しくありません。
 「浪人も視野にしなくてはいけないと担任の先生からクギを刺されました。」
たっくんのお母さんからの情報によると彼女は高3最後の宝塚受験のために真剣に頑張っているそうです。不合格の場合に備えて戸越銀座、三軒茶屋、八王子にある薬科大学を受験するそうです。私はその3つの学校とも現役では難しそうです。そのため、春から横浜の代々木ゼミナールに通いはじめました。夏期講習が過ぎても彼女の希望する学校は届きそうにありません。予備校の先生と母親での3者面談では
「浪人しないのなら、偏差値の低い学校も受けるように言われました。」
家計的にも浪人は許されず、偏差値の低い学校も受けることになりました。
年が明けて大学受験です。私は予想通り希望した3つの大学は不合格でもう少し偏差値の低い千葉にある大学の薬学部に合格しました。スワン様は三軒茶屋にある薬科大学に合格したそうです。彼女と同じキャンパスで学ぶ夢はなくなってしまいました。
八 宝塚への道
 スワン様にとって大学受験はいわば、滑り止めです。本命は宝塚音楽学校なのです。毎年3月に行われる受験のは50倍くらいの倍率があるそうです。僕も彼女も学校は卒業式が終り、相鉄線で会えません。自分の受験は終わりましたが、学問の神様菅原道真公を祀っている湯島天神に彼女のために祈願に行き、絵馬も奉納しました。毎日、渡せない学業成就のお守りで彼女の合格を祈りました。その気持ちが届いて効いたのかどうか、わかりませんが、彼女の努力が叶い、彼女が宝塚音楽学校に合格したことと浪人を決めたたっくんから電話で聞きました。僕は自分の合格の何百倍もうれしくて万歳をしました。これから彼女を応援し続けることを誓いました。
九 宝ジェンヌとして
 スワン様は2年間の宝塚音楽学校の終了後、宝塚歌劇団の雪組の娘役『畝傍(うねび)やまと』としてデビューしました。デビュー以来、私は宝塚大劇場、東京宝塚劇場などによく彼女の公演を見に行きました。就職して職場に宝塚ファンのお姉様たち(先輩)が多いので一緒に見に行きました(雪組限定)。お姉さまの一人南さんはお嬢さんを宝塚に入れたいとがんばっていました。桜陰に通っているお嬢さんは宝塚に合格できず、泣く泣く医学部に行きました(本当に医学部より宝塚の方が難しいんだ)。スワン様は26歳で宝塚歌劇団を退団してしばらくして結婚したそうです。ずっと幸せでいてくれることを遠くから祈っています。
十 僕のその後
 薬学部に合格した後、薬剤師として病院に五十路も過ぎた現在も勤務しています。高校3年間の淡い片思いでしたが、そのおかげで有意義な高校生生活を送れたことに対してスワン様に本当に感謝しています。今であればストーカーに間違え荒れていたかもしれません。
 さて、大学2年の時に合コンで三ツ境に住む同い年の上田遥ちゃんと仲良くなり、お付き合いするようになりました。もちろんスワン様へのあこがれは永遠に続いています。遥は三ツ境のクリーニング屋さんの娘さんです。鶴見にある仏教系の大学の国文科に通っています。実は高校時代、平沼橋にある学校(母の母校)に通うため、僕と同じ時間7時25分に三ツ境を通過していることがわかりびっくりしました。きっと顔を何度も何度もあわせたはずなのにお互い全然気づきませんでした。話していても一緒にいてもリラックスできます。遥と初めて東京宝塚劇場にデートに行きました。もちろん雪組公演で畝傍やまとさんが出演している公演です。彼女もそれ以来、宝塚にはまってくれて何度も見に行きました。初めてお泊りデートも宝塚大劇場観劇&神戸観光でした。今も遥とゆめが丘に近くに一緒に幸せに暮らしています。
一一 エビローグ
 僕の高校3年間はスワン様への淡い憧れでした。そのおかげで、家庭的にはつらいなかでも有意義に過ごすことができました。僕が応援したひとが宝塚で活躍したことも私の自慢のひとつです。これも相鉄線で会えた偶然です。相鉄線が結ぶ縁を感じます。皆さん、日々、利用している相鉄線で運命の出会いがあるかもしれません。今、横に乗っている人やすれちがった人があなたの運命を変えるかもしれませんよ。今でも毎日通勤で弥生台を通ると思い出す心地よさ。ありがとう相鉄、スワン様。

 追伸
 相鉄沿線の作品なのに、阪急の関連する宝塚を取り上げてすみません。でも事実なので悪しからず。

著者

播磨鷺城(はりまろじょう)