「憧れの街」麻 並李

 山口先輩、希望が丘高校だって!
たちまち横浜のはずれにある中学校中に噂が広がって
まだ家と学校と部活とヘンサチがすべてだった可愛い14歳の少年は(俺のことね)
山口先輩に尊敬とあこがれの念を抱いたものだった。

山口先輩というのは秀才で生徒会長で野球部のキャプテンで4番でキャッチャーっていう
理想の中学生を絵にかいたような人だった。
この場合、後に続く正しい文言としては「女子たちのあこがれの的だった」だろうが
残念ながらそれはなかったので皆さん安心してほしい。

初めて希望が丘という単語と触れたのはこの時だった。
当時はどこにあるかもどの沿線にあるかさえ知らなかった。
当然どんな街かすら知らなかった。

ただ山口先輩が進学する高校だから
清く正しい秀才の男女が清く正しく通学するシーンを思い浮かべていた気がする。
おそらくはその後有名大学に進学して官僚になって今日の日本を陰で
動かしているのだろうか。
ちなみに山口先輩のその後は全く知らない。

俺はその後順調に少年から兄さん化して成績表まで2,3化して
まあまあの成績で、まあまあの高校に進学して、まあまあの彼女ができ、
まあまあの仲間に囲まれて、まあまあの高校生活を送っていた。

その後もまあまあの成績で高校を卒業して、まあまあの大学を受験して
まあまあ合格して、またまた、まあまあの大学生活を送っていた。

希望が丘という言葉と再会を果たしたのは
そんな大学時代の友人を介してだった。

正確にはその友人がバンドでコピーしていた浜田省吾の楽曲からだった。

マイホームタウン。
それがその曲のタイトルで歌詞の中で希望が丘ニュータウンと歌われていた。
その詞の内容から希望が丘ニュータウンという街は
丘の高台にある高級住宅地というイメージが俺の中にすっかり定着したのだった。

さらに中学生時代の影響も加わり
清く正しい秀才の学生が大人になって住む高級住宅地というイメージを勝手に作り上げ
憧れの街となったのだった。

大学生になってはいたが相変わらず横浜市にあるという以外
どこにあるのかは知らなかったしそれは大して重要なことではなかった。
俺の言うまあまあの大学生というのはその程度の知識しかないというのを
ご理解いただきたい。

それから大学を卒業してまあまあの会社に就職してまあまあのサラリーマンになった。

仕事で相鉄線に乗るようになってから
希望が丘と再会を果たした。
実際の希望が丘とは初対面だったがその単語に長く慣れ親しんだ身としては
その駅名は憧れの女性と久しぶりに再会したような感覚だった。

キミはここにいたのねと再会を喜んだ。

通り過ぎるたびに憧れと懐かしさを感じている。

相鉄線に乗り慣れてから数えきれないほど希望が丘を通り過ぎたが
まだ一度も降りたことはない。

あえてこのまま一生降りないだろう。
憧れと懐かしさはこのまま胸にしまっておきたい。

もちろん素敵な女性に冷たいビールでも飲みましょうよなんて
誘っていただければ憧れも懐かしさも即忘れる覚悟はある。

著者

麻 並李