「手袋はひとつだけ」紀美乃瞳

      手袋はひとつだけ
 
 昭和48年の冬だった。
 あと数日で新しい年を迎えようとしている時だった。
 私は毎日希望ケ丘から都心の予備校へ通っていた。
 相鉄線の横浜駅はいつも混雑していたが、まだホームドアなんて無い時代だった。
 その日も予備校の帰途、いつもの様に21時30分頃、横浜から急行海老行きに乗車しドアの脇に立ち、発車を告げるブザーが鳴り終えるのを待っていた。ほどなく音が消えると同時にドアは閉まった。
 数秒後、静かに電車は動き出し、3番線から発車する急行電車は車体を蛇のように大きくくねらせて下り線を平沼橋へ向かって駆け下りていくはずだった。
 しかし、その日はすぐに動き出す気配がなかった。そしてホームのアナウンスが
 「電車のドアは閉まっています、危険ですので電車から離れて下さい、危険ですので電車から離れて下さい」          と大きな声で告げていた。
 同時に私の立っているドアのひとつ前のドアガラスを、ホームに立っている女性が両手の掌で何度も叩いていた。そして大きな声で
 「また会えるよね、絶対会えるよね」  と繰り返していた。
 しかしすぐに電車と女性の間に入った駅員に制止されてホームの中程に押し戻されていた。
 女性はぼろぼろと泣いていた。肩を大きくふるわせていた。それでも顔を上げ車内の誰かを必死で追っていた。
 その時、どこかで似たような光景を一度目にしていることに気づいた。
 何処だったかな、いつだったっけ、思い出せない、でも確かに似たようなシーンを一度見ている、そうだ思い出した、映画「卒業」の中の、結婚式をあげているその時に、教会の後ろ側のガラスを掌で何度も何度も叩いて振り向いた花嫁を連れて逃げるシーンみたいだなと。
 
 その頃には安全確認がなされいつの間にか電車は発車していた。
 窓の外には、降り始めた雪がいつもと違う車窓の風景を映し出していた。
 当時、冬になると横浜も雪が降ることは珍しくはなかった。特に下り電車に乗ると西谷を過ぎ、鶴ケ峰の駅の手前にあるカーブに差し掛かる頃から沿線の雪化粧が始まることが一冬に何回かあった。
 その日私が乗った下り急行電車も、鶴ケ峰を通過し、左手に牛乳工場を見る頃には一面の雪景色の中を走行していた。
 
 そして5年が経過した。24才になっていた。
 私は都内の大学を卒業したが、所謂就職浪人で、自宅近くの中学生に数学を教えたり、東神奈川の学習塾で講師をしたりしていた。
 昼過ぎか夕方から始める仕事にもかかわらず、新卒の社会人と同じ位の収入があった。  
 専ら午前中は新装開店のパチンコ屋のはしごや、インベーダーゲームを置いている喫茶店で無為の時間を過ごしていた。              
 明日のことは解るけれども、もっと先の将来がおぼつかない日々を過ごしていた。
 けれども絶望も焦燥も無かった。まだ若いから何度でもチャレンジできる、こんな日がこの先何年も何十年も続くわけがないのだからと漠然と思いこんでいた。
 
 相鉄電車の冷房車の比率が高まったのもこの頃だった。日本初の自動窓の昇降ボタンが付いた電車や、冷房の効いた電車に乗れた日はそれだけで少し嬉しかった。
 
 学習塾の近くの大きな公園の樹木が紅葉を始める頃、事務を行っていた同年齢の女性と付き合うようになった。
 きっかけは学習塾の終了時刻は遅い日が多く、帰り道が2人とも同じ相鉄線方面なので自然と東神奈川駅や横浜駅で一緒になることが多かったというだけだった。
 彼女の家は鶴ケ峰だった。
 私はそれまで横浜から帰宅する際に各駅停車を利用することはほとんど無かった。
 しかし彼女と付き合いだしてからは相鉄横浜駅の3番線急行発車ホームから乗車することはなくなった。
 それだけではなくてもっと電車がゆっくり走ればいいのにとか、星川の急行通過待ちの
時間がもっと長ければいいのにと思うようになっていた。
 彼女は毎日、横浜から鶴ケ峰までの間にいろいろなことを話してくれた。私にとってその17、8分の時間は何よりも大切な時間だった。
 いつしか秋が終わり冬になっていた。
 コートやマフラーが必要な季節になる頃にも片方の手袋だけはいらなかった。
 気温が下がるにつれ、2人のお互いを思う気持ちは高まっていた。
 
 たくさんの話をしたり聞いたりしていた中で一番驚いたことは、彼女が当時でも珍しかった6人兄弟の末娘で、上の5人は全員男性だったいうことだった。
 「へぇ、羨ましいなぁ、俺の家なんて姉貴と2人だけ、その、姉貴も今年の夏前に結婚してしまったし」
 と言うと、
 「私の家も5人の兄は全員結婚しているの、結婚していないのは私だけ」
 「私ね、小さい頃からいつも母に言われていたの、なんだと思う?」
 「それはね、母が言うには、初めて好きになった人と結婚するとたくさんの幸せが一生身の回りから離れることがないのですって」
 そんな話を聞きながら、私は漠然と自分の将来の展望が今もはっきりしないことを感じとっていた。
 
 年が明け、新年の喧騒が収まる頃だった。約束の日は朝から横浜も小雪が降っていた。
 天気予報は、一日中降雪のため外出には足下に気をつけるよう繰り返していた。
 横浜駅で彼女と待ち合わせて、日比谷まで映画を見に行った。
 都心も所々雪化粧をしていたが交通機関に大きな影響はでていなかった。
 映画を見て横浜へ戻り、西口五番街のレストランで食事をした。
 その日一日は、将来が見えない焦燥や、つかみ所のない不安感に襲われることもなく、ただ彼女と2人で手をつなぎ映画を見て、食事をすることだけで満ち足りていた。
 食事が終わりレストランを出るといつの間にかあたりは一面銀世界に変わっていた。
 雪が吸音材になっていた。日頃は深夜まで喧噪としている五番街の周りも時々チェーンをつけたタクシーが金属音を響かせて通るくらいで別世界の様に静まりかえっていた。
 私は彼女の手を引き、電車が止まるといけないからもう帰ろうと言った。
 するとその時まで私の手袋をしていない手にぶら下がるようにして歩いていた彼女が、足を止め言った。
 「私・・・電車が止まった方がいい、ずっと電車が動かない方がいい」
 「今夜だけじゃあなく、明日も明後日も電車なんて動かないほうがいい」
 私はすぐに意味が飲み込めずにいた。
 「とにかく今夜は帰ろう、送っていくよ」
と言って彼女の手を引き2階の相鉄線ホームへ上がった。
 降雪にもかかわらず相鉄線は平常通りに運行していた。
 私も各停に乗り鶴ケ峰の駅からそれほど遠くない彼女の家まで送るつもりでいた。
 
 電車はいつものように順調に動いていた。
 しかし、西谷を発車すると鶴ケ峰へ向かって加速するのではなく徐行運転で走行していた。
 鶴ケ峰駅手前の左カーブに差し掛かる頃から車窓の雪は真横から降り注いでいた。
 
 横浜を発車してからほとんど口を開かなかった彼女が
 「送ってもらわなくても大丈夫、駅から家まで歩いて行ける距離だし、家に電話すれば途中まで兄が迎えに来てくれるし・・・」
 「私、以前あなたに話した母の話、そう初めて好きになった人と結婚するとたくさんの幸せがやって来るという話、世界中であなただけにしか話していないの」
 「それなのになぜ言ってくれないの、好きだって、私のこと大好きだって、結婚しようって」
 
 電車が駅に着きドアが開いた、
 彼女の言葉に凍り付いたように、私は降車する後ろ姿をただじっと見ていた。
 ホームに立った彼女は足下を確かめて後ろを振り返った。
 彼女が降りたところは、ホームの屋根が切れていて横殴りの雪が彼女の小さな肩をより小さく見せていた。
 彼女はじっと私を見ていた。
 私の目ではなく唇を見ていた。
 私が何かを話すのを待っていた。
 最後尾の車掌が吹く笛の合図がかすかに聞こえすぐにドアが閉まった。
 彼女は以前横浜駅で私が見た光景のように電車のドアを叩こうとはしなかった。
 口を開こうともしなかった。
 両手を胸の前にしっかり抱きしめて私を凝視していた。
 電車は動きだし、雪の中を何事もなかったように二俣川へ向かった。
 
 その日以降初めて今日、鶴ケ峰駅のホームへ立った。
 彼女が降りたドアの位置で足を止め見上げるとホーム最後尾まで屋根が延びていた。
 線路を背にして彼女の家へ向かう方向を見るとタワーマンションと小さな珈琲屋が見えた。

著者

紀美乃瞳