「拝啓 丘の上より」里山かすみ

1  山桜の春 

 「ソ」の音でサチが鳴いた。
 ナーン。少し甘えた声を一拍だけ出して、あとは待っている。
 ベランダのガラス戸の前に、ちょこんと座って。
 開けると、春の夜気といっしょに入ってきた。
 白い花びらをひとひら、茶トラの背にくっつけて。
 サチが外階段として使っている、樹齢60年を経た玄関脇の山桜は今夜が満開。まっ白い花は幾重にも頭上を覆い、花にうずもれて空が見えない。
 花が空をうずめたのか、家が花にうずまったのか。
 猫ドアは階下のキッチンにあるけれど、チビの頃からおてんばだったサチは、木登り経由のご帰宅が楽しいらしい。引っ越してすぐは、ニャーンニャーンと樹の下でこちらを呼び、ンニャニャッと自慢げに太い幹を駆け上がっていた。
 
 この家で日を重ね、六度目の春である。
 山桜に見送られ、路地から通りに出て、右手の坂を下りれば相鉄線天王町駅。路地を抜けて左手の細い階段を下りれば星川駅。ふたつの駅まで似たような距離の、丘の上の古い住宅街に建つ一軒家に、五年前の冬に越してきた。
 細道、階段、曲り道。引っ越した当初は迷路のように思えたいくつもの坂道が、丘と線路の通る谷を結んでいる。斜面に沿って家々が建っているから、駅へ向かう坂道は、屋根を見ながらの空中散歩。車の通らない散歩道は、ジグザグと駅へ下っていく。
 路地の主は、おっとりとした猫たち。屋根の上で寝そべったり、塀を歩いたり、軒下で毛づくろいしたり。猫と自然に共存している空気が、サチと一緒にこの地に移り住む決め手となった。
 引っ越し早々に気がついたのは、洗濯物を夜遅くまで平気で干しているお宅が多いこと。
ずいぶんと長閑だな~と、夫と笑った。ひとつ前に住んでいたエリアでは、見かけない風景だったから。
 ねぇ、これってこの近所の名物?
 「保土ヶ谷干し」って呼んじゃおうか?
 ふたりで区名を冠した「保土ヶ谷干し」と呼ぶことにした。いまではうちもときどき「保土ヶ谷干し」をする。
 あ、洗濯物干しっぱなしで来ちゃった。
 いいんじゃない?今夜は保土ヶ谷干しで。
ってな具合。遊びに出て遅くなっても、慌てなくていい大らかさ。相鉄線に乗れば十分足らずで都会の喧騒渦巻く横浜駅なのに、うちのご近所にはのんびりとした空気が流れている。
 ねぇ、なんだかリスボンみたい。
 細くて急な坂道も、海が近いのも似ているね。
 うん、洗濯物の自由な感じも。人が優しいのも。
 結婚十周年旅行でポルトガルに行った夫と私は、坂道を歩きながらそんなおしゃべりを交わす。天王町駅方面へ降りるのは、遠くにみなとみらいのビル群と観覧車を一望するルートだ。きらびやかな夜景と軒先で夜風に揺れる洗濯物。天王町駅前のスポーツクラブの行き帰りに眺める風景に和みながら、私たちはここの暮らしに馴染んでいった。
 
 カタンカタン、カタタターン。春風が谷から列車の音を運んできた。星と月を宿す冬枝を見上げて聞いた響きは、ゴトンゴトン、ゴトンカタンともっと硬質だった気がする。凍える天空を行く銀河鉄道のように。
 今宵、頭上の枝は幾千の花の母。白い花をあやしてまどろむ。カタンカタン、カタタターン。花旅列車が軽やかに新緑の谷を駆けていく。
 
 ナーン。キッチンの方で、サチが今度は「ミ」の高さで鳴いた。
 愛猫の夜食のおねだりに、私は階段を下りていく。そばでハーブティーでも飲むとしよう。

2 夏の音、夏の色

 そろそろ梅雨明けでしょう。
 ええ。明日あたり、蝉が鳴きだしそうですな。
 山桜の下、隣家への通路での立ち話がガラス越しに聞こえて目が覚めた。古くからの住宅街のせいか、ご近所づきあいは幼いころ住んでいた下町のように気さくだ。庭先で菜園をいじっていると、隣家の自治会長さんを訪ねる人は機嫌よく話しかけて去っていく。
 ナスの苗、立派ねぇ。うちは去年、カメムシが出ちゃってね。
 うちもですよ。ガムテープで退治してます。
 あらぁ、いいこと聞いた。うちもやってみましょ。

 午後になると、気持ちよく風が吹き出した。風が抜けていく地形なのがありがたい。シャラシャラシャラと庭の青葉が鳴り、木漏れ日がゆらゆら揺れている。イヌブナ、モミジ、マテバシイ。さほど広くない庭ながら種類豊富な木々が、それぞれの葉擦れの音を奏でる。
 青葉を透かした光は、淡いブルー。部屋の空気はうっすらサイダー水の色になる。いまは金色のサチの目は、子猫の頃、そういえばこんなブルーだったっけ。
 サイダーの中で、私とサチは青嵐にゴロンとくつろぐ。
 谷を越えて吹き渡る風にのり、保土ヶ谷球場の応援歌も流れてくる。青春のブラスバンドが近づいたり、遠のいたり。
 昼寝に飽きたら、緑地の横を通って下へ降りよう。ジグザグ階段の方が駅に近いけれど、夏は木陰のあるあの道がいい。そんなことを考えながら、サチをやわらかな耳を撫でる。駅から右へは帷子川沿いの道を辿って、商店街で買い物をしよう。コーヒー豆も買わなくちゃ。生の豆をその場で焙煎してくれる上に、待っている間に一杯サービスしてくれる太っ腹なあの店で。今日は暑くなりそうだから、アイスコーヒーにしようかな。

 次の朝、鳴きだしたミンミンゼミ。
 秋の虫の出番まで、しばらく庭の主役となる。

3 秋の訪れ 

 ユキから久しぶりのメール。
 いまから海老名駅まで出て来れない?
 小田急沿線在住の彼女と相鉄沿線在住の私は、お互いの中間地点である海老名は、会いやすく、便利な場所だ。急な呼び出しに、深呼吸して気持ちを整える。彼女から家族写真付の年賀状が来なくなって二年。高校以来の親友だから、なんとなく変化に気づいていた。
 ユキが、私の大学の山岳部の同期と結婚したのは十五年前。大学祭に来てくれた彼女に、同期のタカシが一目惚れしたのが二人の出会いだ。何も取り持ってはいないけれど、出会いのきっかけになったこともあり、一昨年までは仲良し家族の旅行や行事の話をときどき知らせてくれていた。そんな連絡が途絶えがちになったのは、忙しいせいと思おうとしていたけれど、高校の同窓会で慌ただしく顔を合わせた今年の夏、痩せて元気がなかったのが気になっていた。

 海老名へ向かう車窓は、次第に緑地や畑が多くなる。色づき始めた柿の実、穂の出たススキの中を列車は進んでいく。
 改札で白いカーディガンのユキが待っていた。
 いきなり、どうしたの?
 エヘッ、びっくりした?ちょっと丹沢が見たくなって。
 じゃ、歩こうか。
 相鉄線と相模線の乗り換え通路からは、大山や丹沢山塊の稜線が見晴らせる。ちょうど、夕暮れの残照が山々の影を浮かび上がらせる時刻だった。
 別居してね、一年半たったの。
 俯く彼女の顔が、夕日に染まっている。
 今日ね、役所に届けを出してきたんだ。ありがとうも、さよならも、ちゃんと言えなくてさ。
 何と言っていいかわからず、ただ彼女の肩をさする。しばらく泣いてから、彼女は顔を上げて、稜線の方を見つめた。そろそろ秋の闇が山を呑み込もうとしている。
 タカシさん、丹沢が好きだったんだよね。
 いい山だよね、近いし。そういえば学生の頃、アイツ、よく登ってたかも。
 うん。なんかデートで丹沢が見える場所があると、俺は丹沢の山猿と呼ばれたんだ、とか自慢してた。
 それが自慢?
 私が呆れた声を出すと、彼女も笑った。
 いつしか稜線は消えて、一番星が光っている。
 お茶してく?
 できたら、横浜に出たいな。山から海まで、揺られていきたい。
 いいね、行こう。天の川を行く、銀河鉄道でね。
 ん?相鉄線で、だよ?銀河鉄道なんて愛称、あったっけ?
 ううん、ないけど。星川駅を通るから、勝手にそう呼んでるの。
 アハハ。相変わらず、赤毛のアンばりの空想力だね。
 もう、ほっといてよぉ。
  
  笑い合いながら、相鉄線に乗り込んだ。
  あ、そうにゃん吊り手だ。
  え、どれ?
  ほら、吊り手が猫の顔。
  そうにゃんは、猫をモチーフにした相鉄線キャラクター。その顔の形である横に広い楕円形に、三角の猫耳が付いたオレンジ色の吊り手に気がつき、私は声を上げた。見かけたのは、初めてだった。ざっと見渡しても、この形はひとつだけ。ふうん、なるほど。普通の吊り手の中にほんの少しだけ遊び心でいれてあるに違いない。
 ねえ、ラッキーだよ。願い事して。
 え~、吊り手に願い事って。
 いいから。だって流れ星みたいな気がしない?たまに見つかるラッキーっていうか。
 そうなの?じゃ、とにかくいいことありますように!また春が来ますように。
 うん、それでよし!

 なんだか我ながら強引な慰め方だったけど、ま、いっか。 
 あとひと月もすれば、木枯らし吹いて冬が来れば、渡り鳥も川や池にやってくる。
 冬にも楽しみがあり、春も必ずやってくるよ。
 そう心の中で話しかけながら、少し黙って電車の揺れに身を任せる。
 
 今日、相鉄に乗って良かった。
 通り過ぎる駅の看板を眺めながら、物思いに耽っていたようなユキが口を開いた。
 そうにゃん吊り手が見れたから?
 もう、ケイコは猫好きだからなぁ。それはおいといてさ。
 うん。
 さっきから駅名を見てたのよ。瀬谷でしょ、希望ヶ丘でしょ、二俣川に、鶴ヶ峰。なんかさ、谷や希望や川があって、人生進んでいくって感じで。再出発が応援されてるって気持ちになったんだ。
 そっか。
 それにさ、なんかやっぱり、相鉄って和むよ。
 からかうようにユキが目を細める。
 あ~、田舎っぽいって言いたいんでしょ。もう、住んだら快適だよぉ。沿線農家さんの新鮮野菜だって、自治会館で毎週買えるし。
 へぇ、それって羨ましいかも。横浜すぐだし、田舎って思わないけど。気取ってないって感じ?それがケイコに似てるなぁって。ほんわか、楽しげっていうか。
 ほんわかねぇ。ほめ言葉って思っとくわ。
 そそ、ホメてる、ホメてる。一杯おごってよ。
 あ~、調子いいんだから。
 だいぶ元気になってきたユキにホッとする。
 一杯奢るなら、横浜より天王町かな。
 あ、出た。ケイコの最寄駅。いい店知ってるの?
 うん、美味しい炭火焼き鳥。そこなら一杯おごったげる。
 しゃあないなー、付き合うよ。
 どっちのセリフよー。じゃ、決まり。
 
 二人で天王町駅の改札を出た。
 帷子川の橋を渡り、神社の前を過ぎて、馴染の焼き鳥屋さん。
 この町に私が居場所を見つけたように、親友にも居場所が見つかりますように。
 神社の前を目礼して通る。
 友の未来を祈り、今夜は杯を重ねよう。
 ここは生絞りのチューハイがおいしいんだ。

著者

里山かすみ