「接ぎ木の金木犀」小林美央佳/大谷晃悦

 少し前を歩く、叶子の長い髪が揺れるのを眺めていた。坂をゆっくりと下る彼女の歩調に合わせて、丁寧に巻かれた黒髪がリズム良く左右に振れる。それは時折、傾きかけた午後の日に透けて輝いた。すぐ近所の公園へ、気晴らしにキャッチボールをしに行くだけだから適当でいいじゃないかと言うと、ぼさぼさ頭のずぼらな女を連れて歩いていると思われたくないでしょう、と真剣な顔をして鏡の前に座り込む彼女を思い出して、僕は少しだけ笑った。
 「ねえ、どうしてこの街に暮らすことにしたの。」
 叶子が唐突に振り向いた。大きくはっきりとした瞳が僕を見つめているのが分かったが、太陽を背負った彼女の顔はすぐに、逆光で見えなくなる。眩しくて思わず細めた目を開く前に、叶子はまた前を向き直って坂を下り始めていた。
 また言い尽くすには難しい、厄介な質問がきた。まっすぐすぎるまなざしも突拍子の無い質問も、度々頭を悩ませてくる。
 「どうしてって、大学にも松原商店街にも程よく近いし、横浜にも快速で一駅だからだよ。」
 目の前の背中に答えると、彼女はこちらを見ないまま、そう、と肩をすくめてみせた。考えあぐねてようやく口をついて出てくる、当たり障りのない言葉はいつだって面白みがない。叶子が訊いているのはそんなことではないとどこかで理解していながら、質問の回答に見合う感情を持ち合わせていないせいで、僕らの会話はちぐはぐのまま宙ぶらりんになってしまった。なんとなくやりきれない思いで、グラブとボールの入った布袋を左手首でぐるりと一回転させる。そこからは何も言葉を交わさずに、僕たちは坂を下りきり公園の敷地をまたいだ。
 日曜の公園は子どもたちと、それを見守る親で賑わっている。砂埃を巻き上げて走り回る少年たちを縫うようにして、迷いのない足取りで園内を歩んで行く叶子の背中を追いかけた。
 
 「星川って素敵な名前よね。どうしてこの地名になったのかしら。」
 笑いあう子どもたちから僕へと視線を移しながら、ベンチに腰かけた叶子が呟く。マスカラの乗ったまつ毛を重たそうに二、三度上下させた。また、僕には答えられない疑問を投げてくる。
 「そんなこと、わからんよ。」
 そう返すが早いか、けれど、と予想を付けようとするよりも先に、彼女はショートパンツのポケットから携帯を取り出していた。木漏れ日が差し込んでつるりと光る瞳は、もう僕を見てはいなかった。
 叶子はいつも、僕には見えないものを見つめていた。些末だと見限って取りこぼしてきてしまったことを、両腕いっぱいに抱えている。物の見方が違うことなど当然だと言ってしまえばそれまでだが、僕を知らぬ間に物知りにする彼女の好奇心がありがたいと同時に、どこかで悔しさがにじみ、張り合っている自分がいるのが情けなかった
 「『立木で昼も暗く、川の流れに星影を映した』んだって。平安時代の書物に書かれて
いたみたい。」
 素敵ね、と叶子がボールの入ったグラブを投げてよこす。本当にそうだろうか。今いるこの場所ですら、どこにでもありそうな光景だ。水を含んで固まっている砂場、ペンキの剥げかけた滑り台に、錆びたブランコ。年季の入った遊具に群がる子どもたち。公園の向かいの小学校からは、少年野球の練習をしている声が聞こえてくる。何ら珍しいものではない。彼女がどこを見つめて素敵だと感じるのかはわからなくて、僕は何も言えないかわりにボールを投げた。
 「あーあ。」
 背後から不意に声が上がった。振り返ると、少年たちが何やら空を見上げている。彼らの目線を追ってゆくとその先には、空ではなく木の又に挟まったバレーボールがあった。大人が背伸びをしても手が届きそうにないそれを、まだ小学生ほどであろう彼らに取れるはずもなく、少年たちは半ば諦めたようにがっくりと肩を落としている。
 「叶子、ボールかして。」
 何をしようとしているのか察したらしい彼女は片眉をわずかに持ち上げ、それから小さくほほ笑んだ。全てを見透かされているようで、なんだか照れくさくなった僕は彼女から視線をはがす。叶子が振りかぶったボールがグラブに吸い込まれた瞬間、ふと手の中で金木犀の香りがはじけた。園内の金木犀は、まだ花をつけていない。彼女の手首に付けられた香水だと、すぐにわかった。投げ合ううちに、いつの間にか香りが移ったようだ。もうずいぶん前から知っている匂いだというのに、耳の後ろ側がじわじわと熱を持つのを感じる。何か言える気がして、声を掛けようと彼女を見やると、既にグラブを手から外してンチに座るところだった。屈んだ拍子にこぼれた髪の束を、ゆっくりとかきあげてゆく。ボールを受け取ったままの姿勢で棒立ちしている僕に気が付いた叶子が、早く行ってあげなさいよ、とでもいうように右手をひらりと振った。結局何を伝えようとしたのか、のどの奥までせりあがっていたはずの言葉は、音を選びきれずうやむやになってしまった。
 ボールを眺め続ける少年たちに歩み寄ると、上を向いていた視線が一斉に僕へ向いた。
 「取ってくれるの。」
 中でもひときわ背丈の小さな少年が、屈託のない笑みを浮かべて声を掛けてくる。まぶしいくらいに光を集めた瞳で、まっすぐに僕の目を見つめている。それはどこか、見覚えのあるまなざしだった。
 「ああ。」
 目のふちを下げ、口角を上げる。叶子のほほ笑みを真似たつもりだった。良いお兄さんらしく笑えていただろうか。左頬が引きつっていたかもしれない。どうして自然と笑えないのだろうと頭の中で何度も問い直しては、自責の念に駆られた。
 「お前ら、後ろに下がれ。」
 一番体の大きな少年がたくましい腕を振り上げる。どうやらこのグループのリーダーらしく、彼の一声で周りの少年たちは指示通りに後ろへと散ってゆく。どこも同じの、似たような光景だ。
 「五球で落としたら拍手な。」
 「できんの、おじさん。」
 リーダーの少年が不敵な笑みを浮かべて見上げてくる。振り向いた先では、取り巻きの少年たちが怪訝そうに僕をうかがっていた。
「できるさ。おじさんじゃないからな。」
 不安げなまなざしと無垢な期待を背中じゅうに感じながら、僕はボールを投げた。小さな白球は、木の幹にぶつかったり枝の隙間をすり抜けたりなかなかバレーボールを捉えてはくれない。一球を投げるたびに、時折笑いながら彼らは数をかぞえ、繰り返される歓声や嘆息とともにのびやかな声が公園に響いた。
 
 僕が身じろぐより早く、少年たちがひときわ大きな声を上げて走り出し、木の葉を揺らしながら落下していくボールに一斉に群がった。まだ細く頼りない腕でバレーボールを抱きしめた一人が、輪の中で雄叫びを上げた。
 本来の予定より二球も損じてしまった僕に拍手はない。その代わりに少年たちの誰もが、季節を外れた向日葵のような笑顔をこぼしていた。目の前の感情に正直な子どもらに、目を細める。まだ彼らくらいの頃は僕も、こんな風に笑っていただろうか。ずいぶんと昔の話で、もう思い出すことはできなかった。
 少年が二人、声高に笑いながら肩を寄せ合って近づいてくる。僕のシャツの裾を引っ張って、頭上を指さした。
 「今度はおじさんのだ。あれは無理だね。」
 彼らのバレーボールが挟まっていた場所のすぐ奥、まだ細い幹が二手に分かれたその隙間に、僕の投げた野球ボールがすっかり捕まってしまっている。
 「ざんねん。」
 「ああ、残念だ。」
 四方八方へと伸びゆく枝にがんじがらめになった場違いの球体は、まるで僕だった。周囲に組み込まれているようで、なじみきれずに浮いてしまっている。今でこそ白いボールも、風に突き刺され雨にさらされるうちにくすんでゆくのだろう。叶子から移った金木犀の香りも、やがて消える。本当に、残念だ。
 「ねえ、おじさんのボール、しろいお花みたい。」
 一番始めに声をかけてきた、線の細い少年が僕のすぐわきで控えめに頭上を指さした。この幼い目には、あの惨めな白球が花に見えているという。こうやって見えにくいものを拾い集めてくるのが得意な人間を、僕は知っている。生い茂った深い緑に飲み込まれた頼りない白が風で木の葉のゆすられるのに合わせて見え隠れするたびに、橙の太陽を背負って鋭く光った。
 「あら、素敵じゃない。」
 アイスコーヒーのカップを両手に持った叶子が、どこかから戻ってきた。隣に立っていた少年は彼女の顔と僕の顔を交互に見つめると、冷やかしの口笛を短く吹いて仲間たちの方へ駆けていった。目を丸くして肩をすくめる叶子からコーヒーを一つ受け取って、僕たちは並んでベンチに腰かける。
 「すぐそこにね、カフェがあったから、誰かさんが手間取っている間に買ってきたの。」
 ストローを咬みながら、意地悪そうな笑みを浮かべる。丁寧に爪の塗られた人差し指で指された先には、いかにも手作りといった暖かい薄緑色の窓格子があった。
 「いつの間にあんなところにカフェが。」
 「さあね。でも、最近じゃない。」
 中、新しかったから、と言う彼女を横目にコーヒーを吸い上げる。最近まであんなカフェはなかったはずだ。毎日のように通る道の変化にすら気が付くことができなかったのは、僕がもっと知ろうと、見ようとしていなかったからだろうか。汗をかき始めたカップをゆるく握ると、コーヒーの中にひしめく氷がじゃくりと音を立てた。
 「知らない間に、変わっていくものよ。」
 僕の中のざわめきを読み取ったみたいに、叶子は呟いた。頬杖をついてこちらを見つめている。彼女のまなざしは、僕を裸にした。人の目に見えている表面よりももっと奥の、柔らかな場所を暴いてくる。移りゆくさまざまの速度に追いつけない僕を見つけても、どうか憐れまないでほしいと強く祈った。
 「どこからが星川で、どこからが星川じゃないんだろう。」
 ふと口をついて出た言葉に、叶子が目を見開く。
 「どうしたの、急に。」
 思うより先に唇を飛び出した音に、自分でも驚いた。困惑する僕の膝を彼女は優しく撫でる。
 「そんなの、分けなくたっていいじゃない。街は繋がっているのよ。」
 木の幹に挟まった、僕の野球ボールを思い出す。雨風に汚れることも時の流れに擦り切れることも、やがてはかつての匂いを無くしてしまうことも、決して悲しいだけのことではないのかもしれない。がんじがらめに囚われているように見えた姿が、繋がりを生むための触れ合いだとしたら、汚れも擦り切れも新たな色になるのだろう。そしてそれは―。
 「魅力だって一緒よ。それだけなら何でもないものだって、何かとつながっていることで急に魅力的になったりするでしょう。」
 また先を越されてしまった。それでももう、悔しくはない。彼女の見ている世界を少し、覗くことができた気がするのがうれしくて、目の奥がしびれた。はっきりと、その通りだと思う。ありがとうの一言もなく、さっきのことを忘れたかのようにバレーボールで遊ぶ少年たちも、知らないカフェも、繋がりが生まれたと思うだけでがらりと色を変えた。
 「キャッチボール、楽しかったわ。公園のヒーローさん。」
 叶子が僕の腕を小突く。揺れる空気の中に漂った金木犀の香りに、思わず顔が緩んだ。
 「よせよ。」
 「そうやって笑っているんだから、あなたも楽しかったんでしょ。」
 素直に楽しかったと言えない僕のことも、彼女はきっとお見通しなのだろう。何も言わない代わりに西日を吸い込んで潤んだように光る瞳で僕を見つめて、それからゆっくりと目を細めた。長いまつげがまるい頬に影を落としている。
 「あき、夕日を背負ってるみたいよ。」
 急に照れくさくなって視線から逃れるように顔をそむけると、叶子は子どもみたいに声を上げて笑った。やけに大人びていたり、急にあどけなさを見せたり、彼女のそういうめまぐるしさにかなわないなと思う。
 空が紫をおびて、気が付けば賑わっていた園内は人がまばらになっていた。日が落ちるのもずいぶん早くなったし、空気も冷たくなった。秋の入り口もすぐ、冬へと変わりゆくのだろう。
 「横浜まで送っていくよ。」
 僕が言うと、叶子は首を横に振る。
 「いいよ。また来るから。」
 「じゃあせめて、電車に乗るまで。」
 変なの、と呟く彼女の手を握りしめて、ベンチから立ち上がる。優しいぬくもりの中に、薬指にはめられた指輪がひやりと刺さった。恥じらいに任せてそそくさと公園を出る。僕引っ張られるようにして立ち上がった叶子が、おぼつかない足取りでついてくる。
 「いつも早歩きなんだから。少しは考えてよね。」
 握り返された手の中で、指輪の冷たさはすぐ体温に溶けていった。
 
 帰り道、電車の音がかすかに聞こえる。工事のために鉄骨が組まれたプレハブのホームを見て、この姿もいずれ見られなくなるのね、とこぼした叶子の顔がよみがえった。ヨコハマネイビーブルーと名のついた、新しい車両とともに遠ざかっていくその表情はどこか寂しげで、それでいて何かを期待しているようにも見えた。少しずつ、色落ちたり塗り替わったりしながら、街は流れる。あまりにもありきたりで、その中にある特別のほとんどには気が付けないままかもしれない。それでも僕らは、変わらないものを抱きしめて、変わってゆくものを受け入れて、この街に生きるのだ。やがて去ってゆくその日まで、あるいはまた、帰ってくるその日から。
 いつの間にかあたりはすとんと暗くなっている。この坂から見下ろす街並みが美しいと教えてくれたのは、ほかでもない叶子だ。急な坂の真ん中で幾度も振り返って、生活のきらめきに目を輝かせていた彼女の横顔を今でも覚えている。街に名前を付けた人間に見せたら、この夜景を星川と言うだろうか。僕はにやりとして、また坂を上り始めた。

著者

小林美央佳/大谷晃悦