「新しい思い出」匿名希望

 娘にキスをして、妻にもキスをする。毎朝の決まりごと。
 いつものように歩いて駅に向かい、電車を乗り継いで会社に向かう。今日もそのつもりだった。
 後ろ姿の女性に気をとられることはよくある。綺麗だなって感じていると、自然と後をついて行ってしまう。
 同じ方向に向かっていると、意味もなく嬉しく感じる。
 けれどそれだけだ。僕は真っ直ぐに会社へ向かい、僅かな出会いは消えていく。それが普通の毎日だった。
 その日の僕は、前日に家族と電車で出かけていたこともあり、いつもとは違う方向に進む電車がやってくるホームに降りてしまったんだ。綺麗な女性に見惚れていたからなんかじゃないと思う。その女性は、改札へと上がるエスカレーターを登る前に見失っていた。会社は横浜方面だけど、前日は海老名行きの電車に乗っていた。ついつい間違えるってこともあるんだよ。
 ホームに降りるとすぐ、電車がやってくる。どこどこ行きなんていうアナウンスは耳に入らない。やって来た電車に乗り込めば、後は終点まで行けばいい。
 間もなく西谷、西谷です。
 その言葉にハッとした。しまった・・・・ やってしまったと思ったんだ。帰りの電車を乗り間違えたことは何度かある。快速のつもりが急行だったなんてことはよくある話だ。けれど、行き先を間違えたことは、相鉄線では初めてだった。
 西谷駅で降りるとすぐ、階段を上がっては下り、隣のホームに移動した。
 三番線にやってくる電車を待っていると、背後に気配を感じた。振り返ると、あるはずのない電車が、四番線に停車していた。しかも、僕以外はそこに電車が停まっていることに気がついていない。
 最近はまるで見なくなった薄緑の車両に、懐かしさを感じた。僕は自然と誰もいない車両に脚を運んだ。
 自然と僕は座席に腰をおろしていた。いつの間にか閉じられていた扉。外の景色が、ゆっくりと動き出す。
 久し振りだね。向かいの席に座る見知らぬ女性から声をかけられた。あれ? さっきまで誰もいなかった車内に姿を現した女性。おかしいと思ったけれど、僕はその女性を知っていた。
 さっきの・・・・ 僕が言ったその言葉に、彼女は無反応だった。ただじっと、僕を見つめている。
 駅へと向かう途中で見かけた後ろ姿の綺麗な女性。それが彼女だって僕は確信していた。服装が同じだったからじゃなく、雰囲気が同じだったからだ。
 私のこと、忘れちゃったの? 彼女はそう言いなが立ち上がった。そのまま僕へと近づいてくるものだと思ったら、いつの間にか開いていた扉から外に出ていく。流れる景色も、停まっていた。
 電車が動いていた感覚はなかった。乗り込んだときと全く同じ場所で停まっている。僕は無意識に立ち上がり、彼女を追いかけていった。なんだか少し、街並みが違う。いいや、そうじゃないと気がついた。街並みが同じなんだ。記憶の中にある僕の西谷駅がそこにはあった。
 こっちにおいでよ。目の前を歩く彼女が振り返り、そう言った。あれ? 彼女の後ろ姿が小さく見える。その顔も、さっきとは違う。
 早くしないとザリガニいなくなっちゃうよ。
 あっ・・・・ どうしてここに・・・・
 彼女が差し出した手を、僕は握った。僕の手が、小さく映る。

 僕の初恋は、突然やって来て、突然終わった。小学五年生の夏だった。幼稚園から知っていた彼女とは、それほど仲がいいわけでもなく、隣の席にいても会話はほとんどしなかった。親同士の仲がよかったから、休みの日にも顔を合わせることはあった。それでも会話なんてしない。なんとも不思議な関係だったんだ。
 あの日は僕の家でザリガニパーティーをしていた。お母さんの妹がスウェーデン人と結婚をしていて、ザリガニを食べる習慣を教えてくれた。夏になると今でも毎年送ってくる。おばさんは日本で暮らしているんだけど、ザリガニは国産じゃない。流石に今では、田んぼのザリガニを食べたいとは思わないよ。
 彼女はザリガニに夢中になった。こんなに美味しいのは初めて! 小さなザリガニを噛んではしゃぶり、殻を剥いて食べていた。
 ザリガニなんて近くの田んぼにもたくさんいるよ。僕がそう言うと、行きたい! 彼女が叫んだ。
 お腹が一杯だったこともあり、別の日にしようと僕は言ったけれど、どうしても今日がいいと彼女が言い、僕の両親も行って来なさいと送り出す。電車で行くからと、お小遣いを受け取った。
 僕は当時から上星川に住んでいる。彼女もそうだった。上星川にだって田んぼはあったよ。けれど僕のお気に入りは西谷だった。おじいちゃんが暮らしていて、従兄弟もいる。毎週のように遊びに行っていたよ。その田んぼも、従兄弟から教わったんだ。すぐ側の沢では蛍を見ることもできる。頑張れば歩いてでも行けるけれど、その日は電車に乗りたい気分だった。西谷駅は、今も昔もそれほど変化をしていない。僅かな変化を繰り返しても、懐かしさの変わらない雰囲気を残している。けれどそれも、後数年で終わってしまうと言う。西谷駅の大掛かりな工事が始まり、終わりに向かってひた走っている。
 その田んぼは、駅から二分も走れば辿り着ける。僕と彼女は泥まみれになり、ザリガニを捕まえた。用意していたバケツに一杯のザリガニを持って、歩いて家に向かったんだ。田んぼの向かいにある川沿いを歩いていけば、三十分もかからずに僕の家につく。流石に泥だらけで電車に乗ろうとは考えなかったんだ。
 家までの間、僕と彼女はこれまでの関係が嘘のように喋りまくった。くだらないことばかりだったはずだけど、とても楽しかったよ。もっと早くから仲良くしていればよかったと感じていた。
 家の目の前で、彼女は突然足を止めた。どうしたのって僕が聞く暇もなく、彼女は行動を起こした。
 僕に顔を向け、ちょこんとジャンプをし、キスをした。そして走って僕の家の中に消えて行った。
 その後彼女はすぐに帰ってしまった。もっと話しがしたかったけれど、彼女を見るのが恥ずかしく、さよならさえ言えなかった。
 僕は彼女に恋をした。その日の夜は彼女のことばかりを考え、ほとんど眠れなかった。次の日の学校は、楽しみと不安が入り混じっていた。
 けれど僕は、その日を最後に彼女とは会っていない。彼女は突然、引っ越してしまった。彼女の希望で、学校側は生徒の前で事前に発表をしなかった。僕の両親は知ってはいたが僕には言わなかった。今でも親同士の交流は続いている。僕も話の中では何度も彼女のことを聞いていた。
 幼い恋心は単純で、会えなくなった瞬間、一瞬だけ燃え上がり、会えない時間が続くとあっという間に冷めていった。
 話の中で聞く彼女は、すごく可愛くて、勉強もスポーツも上手だった。恋心が消えてからも、彼女は僕の自慢の幼馴染でいたよ。
 そんな彼女が最近結婚をしてこの町に戻って来たと聞いたことを思い出した。

 僕は目の前の幼い彼女の手を握ったまま、改札を抜けようとした。
 バタンッと音がして行く手を塞がれた。駅員が鋏を持っている改札が、いつの間にか現代の自動改札になっている。僕は慌ててパスモを探し、取り出した。ピーッ!
 残金が九十三円しかなかった。あれ? どうしよう? 困っていた僕の背後に、声がかかる。
 久し振りだね。
 振り返るとそこには、彼女が立っていた。あれ? どうしてここに? 大人になった彼女は、可愛いというよりも、綺麗だった。
 同じ町に住んでいるんだからいつか会えると思ってたけど、なかなか会えないものだね。
 今日って、何日だっけ?
 それ、定期切れてるよ。
 そうだよね。って、ここ上星川駅?
 そうだけど、どうかしたの?
 彼女の笑顔を見ていると、なぜか幸せな気持ちになった。僕はふと、視線を下ろす。彼女のお腹が膨らんでいた。持っていたカバンにはマタニティマークのバッヂが付いていた。僕はさらに幸せな気分になった。
 今度また会おうね。
 彼女の言葉に僕は笑顔を見せ、手を振った。そして自動券売機で定期券を継続購入しようとしたけれど、財布には小銭しか入っていない。切符を買うお金もなかったので、妻に電話をかけた。

著者

匿名希望