「旭区の原風景」城内主税

 相鉄線に初めて乗ったのは5歳の時。全体が山吹色に塗られた車両の記憶が残っている。横浜から二俣川まで途中駅を通過してきた文字通りの「急行」が、ここからは「各駅停車」になってしまうのが子供の自分には不思議でならなかった。二俣川駅から相鉄のバスに乗ること20分くらい、新しく建った団地に越してきたのだった。
 転居して間もなく、住所が「横浜市保土ヶ谷区」から「旭区」に変わった。新築の団地に真新しい住所が付いて大いに気分が良かった。おまけに1年半ほどして小学校入学を迎えると、それまでプレハブがひしめく分校だった場所に鉄筋の校舎が完成して新設校として開校。自分たちが最初の1年生として迎えられた。

 団地が群れのように並んで急に人が住み始めた土地だが、幼い自分にとっては自分たちの手で歴史を刻み始めた故郷(ふるさと)。「旭区」という響きにも何とも言えない愛着を覚えながら日々を過ごした。学年が進むと社会科の教材として『私たちの横浜と神奈川』や『目で見る郷土』という本が配られ、身近な地域に学ぼうというカリキュラムも組まれた。
 3年生の秋、旭区役所に担任の先生の引率で出掛けた。バスと電車を乗り継いで鶴ヶ峰駅から歩いて行ったのであろう。郷土への興味からさぞかし熱心に勉強したかというと…、実際はクラスメートからはぐれて区役所のテレビに映るプロ野球中継に熱中。パ・リーグの優勝を決めるプレーオフの最終戦で、南海ホークスの選手兼任監督だった野村克也さんが胴上げされていた姿が鮮明だ。何を学習しに行ったのかは全く定かではない。覚えて帰って来たのは、この試合でホームランを打った選手の名前と敗戦投手が阪急ブレーブスの山田久志選手だったこと。不思議と先生に叱られることなく済んで、幸いだった。
 次の年、高尾山へ遠足に行った思い出を図工の授業で水彩画にしたらびっくりするほど褒められた。我が傑作は旭区役所のロビーに飾られるということで記念にボールペンをもらったが、絵は返却されないままになってしまった。こんなことなら区役所に出掛けて展示されているところを確認しておくんだったと、悔やまれてならなかった。

 学校で旭プールが完成したことを教えてもらったのも強く印象に残っている。ゴミを燃やした熱を温水プールに活用するという仕組みを説明してもらい、えらく感激した。西谷駅まで相鉄に乗って、ある時は父とある時は友人と泳ぎに行った。駅から旭プールまでは急な上り坂のある決して近いとは言えない距離を歩かなければならなかったが、いつも足取りは軽かった。
 一度大失敗があった。友人と泳いだ帰り、2人とも財布の中には電車賃とバス代の他はジュース1本分の小銭しかなかった。なのに、二俣川駅から1時間程度歩けばいいさとバス代の分まで使い果たしてジュースをもう1本飲んでしまった。体力はあり余っていたが団地の我が家の近くまで来ると既に太陽が沈んで暗く、親が心配して大騒ぎになっていたのだった。携帯など夢のまた夢という頃ではあったが、公衆電話から家にかける10円も残っていなかったのかその知恵すら浮かばなかったのか…。ジュースを欲張ったのが原因と知られて、また一層怒りを買ってしまった。

 旭区との別れはあっけなく訪れた。あと3か月で中学生という二学期の終わり、父の転勤で年明けに県外へ引っ越すことを告げた。旭区の住所が書かれた最後の手紙となったのは、クラスメートからの年賀状。どの便りにも別れを惜しむ言葉が書き込まれ、例年はほとんどない女子からの賀状も何通か届いて、初めての転校を受け入れなければならないことを実感した。
 転居や転校が続いて、3年後に横浜市内の県立高校に入学した。卒業した中学校は横浜市港南区、京急の上大岡駅のあたりだった。その年の6月に親が海老名市内に住宅を購入してまたも引っ越し、相鉄線で海老名と横浜を往復して通学する日々が始まった。長時間通学で眠気に襲われたり、受験参考書に視線を落としたりという車中ではあったが、思い出の詰まった二俣川を毎日通ることになって気分が悪かろうはずはない。思いがけず、相鉄沿線で綴る「第二章」が訪れた。

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城内主税