「星の川」高橋 良

 広い野原、眼前には大きな海も見える。走り寄ってくる親友の恵美。変わらないいつもの景色。生まれ育った街での楽しい暮らし。そんな感覚、ちょっとババくさいかしら。あたしまだ小4なのに。

 「よし、次の駅で降りるぞー」
父親の隆の声で沙紀は我に返った。どうやら寝てしまっていたようだ。ほんの10分くらいなのにたっぷり夢を見てた気がする。隣では弟の慎太も母親の由実に寄っかかって寝ていて、どうにも起きそうにない。
 「慎太は長旅で疲れたか。しょうがない、抱っこで行くか」
慎太は抱っこしてもらえるのかぁ。いいなぁ。でも慎太はまだ4歳だし、あたしはお姉ちゃんだし、荷物も多いからしょうがないよね。ため息をつくようにして沙紀は体を起こした。
「どうしたの、沙紀ちゃんも疲れちゃった?」
「ううん、大丈夫だよお母さん。あっ、もう着いたんじゃない?」
電車から一歩ホームに降り立つと、3月の終わりだというのに冷たい風が吹き抜けている。顔を上げるとちょうど駅の表示板が目に入った。上星川。星の川の上だなんてなんだかロマンチックな名前だ。そういえば途中には星川っていう駅もあるのを路線図で見た。でもさっき窓から外を見た感じだとそんなにロマンチックな街並みではなかったし、そもそも星なんて都会でそんなに見れるのだろうか。あの街では毎晩飽きるほど眺めてきた。ここが星川ならあっちは星海だ。
「ほら、沙紀ちゃん見てあれ。かわいいー」
由実に促されて目を向けると、反対側のホームになにやらキャラクターが描かれた電車が入ってきている。確かにかわいい。もっとじっくり見たかったが、電車は通過であっという間に見えなくなってしまった。少し残念な気持ちを抱えて、エレベーターで改札のある2階へ上がると、先程の電車と同じキャラクターが大きく描かれた看板があった。他にも駅の数か所にこのキャラクターのポスターが貼られている。そこには『相鉄公式キャラクター そうにゃん』と書いてある。
「お母さん、これそうにゃんっていうんだってー」
「そうにゃんかー。かわいいねー」
沈んだ気持ちがそうにゃんを見つけたことで少しだけ元気になった。沙紀も女の子なのでかわいいものを見るとやはり盛り上がるのだ。帰ったらお母さんのスマホで調べてみよう。そうにゃんの事を考えながら駅の階段を下って外に出ると、そんな浮かれた気持ちはすぐに消し飛んでしまった。目の前の道路に途切れることなく車が走っていく。知らない景色。ここには野原もなければ海も見えない。急に現実に引き戻されてしまったようで沙紀はまたうつむいてしまった。
「ほら、これが新しい家だぞ」
道路を渡って3分ほど歩いたところで到着したのは、これから沙紀たち一家が生活するマンションだ。
「おっきい階段だぁ」
いつの間に起きたのか、慎太が嬉しそうに隆に話しかけている。確かにこのマンションは階段みたいだ。ずっと上まで段々にそびえたっている。
「駅からも近いしいいだろう。ここはエレベーターも面白いぞー」
そう言うと、隆は慎太を抱っこしたままエントランスに入っていく。
「起きたんなら降りて歩けばいいのに・・・」
つい愚痴がこぼれる。
「ん、沙紀ちゃん何か言った?」
「え、うん、おっきいマンションだなーって」
「そうだね、ちょっと変わってて面白いよね」
なんとかごまかして沙紀もエレベーターに向かった。すると確かに変わったエレベーターだった。垂直ではなく斜めに登っていく形で、窓から外も見える。
「わー、ロープウェイだー」
相変わらず抱っこされたままの慎太が感嘆の声を上げる。どうやら最後まで抱っこでいくようだ。
「そうだぞー。これから毎日乗れるんだぞー」
エレベーターを8階で降りて、目的地に到着した。隆が鍵を開けて扉を開く。玄関に入ると一面が大きな鏡になっていて、入ってくる家族を映しだす形になった。沙紀はうつむいているのがバレないようにとっさに顔を上げた。

 あれは冬休みが終わる2日前のことだった。夕食を食べた後、残りの宿題を片付けていると、隆が興奮気味に帰ってきた。
「お父さんお帰りー。今ね、宿題やってるんだよ」
「ただいま。えらいなー。そうだ沙紀、4月から横浜だぞ。都会に行くぞ」
「えっ、横浜?どういうこと?遊びに行くの?」
「違うよ。横浜に住むんだ。お父さん出世したんだぞ」
シュッセ?なんとなく意味は分かるけど話の意味が全く分からなかった。すると台所にいる由実が話が聞こえたらしく顔を出した。
「転勤になったの?4月だなんて急な話ねぇ」
「おう、栄転だぞ。今日部長に呼びだされて、急な辞令が出て4月から横浜の本社で課長になることになったって。俺もついに課長様だ」
「それじゃあお祝いしなくちゃね。沙紀ちゃん、慎ちゃん、お父さんにおめでとうって言ってあげな。」
「お父さん、おめでとう」
まだいまいち状況を理解していないが、促されるまま沙紀は言った。慎太はさらにわかってはいないだろうが、嬉しそうにおめでとー、おめでとーと繰り返し言っていた。その日は結局よくわからないまま眠った。そして次の日、朝食を食べ終え、学校に行く準備をしている時に、沙紀もようやく状況を理解することになる。
「あっ、沙紀ちゃんちょっと待ってて。今日はお母さんも一緒に小学校行くから」
「待つのはいいけど、お母さん何しに学校行くの?」
「4月から横浜でしょう。転校の手続きの書類とかもらわないといけないのよ」
「転校?転校するの?」
そのあとも由実と会話をしていたし、学校に行くまでの間も転校や引越しについてなど説明を受けてはいたが、ほぼ沙紀の頭には入っていなかった。ただ転校する、友達とも別れることになるという衝撃で他には何も考えられなかった。授業中なども上の空で、友達に話しかけられても生返事をするばかりだった。帰りの会が終わると担任の棚橋先生に呼ばれた。なんだろう、転校の話かなぁ、授業中ちゃんと聞いてなかったことを怒られるのかなぁ、それだったらいいのに。そんなことを考えながら先生の所に行くと、残念ながらやはり転校についての話だった。
 その日は家に帰ってからすぐに由実に、隆が帰ってきてからは二人に、転校は嫌だと抗議し続けた。二人は沙紀の話をよく聞き、慰め、励まし、新しい土地での暮らしの楽しさを伝えた。由実は沙紀を抱きしめて泣きながら謝ってもいた。沙紀はそれでも転校が嫌で嫌で仕方がなく、抗議を続けたが、この事実はもう覆らないんだという事だけは理解せざるを得なかった。
 それからの約3か月はあっという間に過ぎていった。翌日にはクラスで転校することが皆の前で発表され、仲の良かった恵美は泣き出していた。毎日時間を惜しむように遊び、その分毎晩寂しくなった。修了式のあとはクラスで、次の日には仲良しの友達が、それぞれお別れ会を開いてくれた。引越しの日には最後まで恵美がそばにいてくれて、別れの際には泣きながら大事にしていたぬいぐるみをくれた。沙紀は道中ずっとそのぬいぐるみを大事に抱えて過ごした。

 新居に入ると早速慎太はきゃっきゃと駆け出し始めた。新しい家の中を探検しているらしい。
「沙紀ちゃん、慎ちゃん、ここが二人のお部屋よ」
由実が示した部屋をのぞくと、6畳ほどのスペースにすでに運び込まれた沙紀の学習机やタンス等が置かれており、ここが子供部屋ということらしい。家には他に8畳ほどの部屋が一つになかなかの広さのリビングダイニング、それに並ぶ形で8畳の和室があるという間取りだった。ベランダはルーフバルコニーでかなり広い。
「よし、とりあえず今日はのんびりして、明日いろいろ片付けたり近くを散歩したりするか」
「そうね。晩御飯は今日は外で食べましょうか」
「おっ、テレビのチャンネルも違うな。覚えないとな」
両親の会話を耳の端で聞きながら沙紀は自分の荷物から教科書を取り出して机にしまった。教科書を見ると学校を思いだしてまた急に寂しさが込み上げてきた。この3か月間、引越しは嫌だと抗議した晩以降は、なるべく親の前ではそういう感情を見せないようにしてきた。両親が転校を申し訳なく思っていることは伝わってきたし、由実をあまり心配させたくなかった。そしてなにより可哀そうだと思われるのが嫌だった。それは沙紀の意地なのかもしれない。
 少し家で休んだ後、マンションの向かいにあるファミレスに行くことになった。そこは向かいとはいっても横断歩道がなく、入るには駅の方まで戻って道路を渡らなければいけなかったので、目の前にあるわりには時間がかかった。大きい道路なので日が暮れても辺りは明るく、それは前の街では考えられない事だった。あそこは夜になると明かりが少なく,
車の交通量も多くないのでかなり暗かった。なので、子供たちは時刻を気にするのではなく、日が暮れ始めたら家に帰るというのが当たり前だった。
店に入り、注文を済ませた後、沙紀はふっと思い出した。
「そうだ。お母さん,スマホ貸して。さっきのそうにゃん調べてみたい」
「そうにゃんってさっきの電車のやつね。お母さんも見たいから一緒に見よっか」
沙紀がスマホを手に取り、検索ページでそうにゃんを調べた。
「相模鉄道キャラクターそうにゃん。プロフィールも載ってるよ」
「へー、なんて書いてあるの?」

そうにゃんは相鉄沿線に住む新種のネコです。
相鉄の広報担当として2014年に入社し、相鉄をもっと知っていただき、好きになってもらえるよう、様々な活動を行っています!
どこかでそうにゃんを見かけたら、ぜひお友達になってあげてください♪

「やっぱりかわいいー。この子のぬいぐるみもあるんだ。欲しいなー」
「いいよ。今度買いに行こうか」
あっさり買ってくれることになった。転校が決まって以来、由実は明らかに沙紀に甘くなっている。やはり転校になったことを不憫に思っているからだろう。そう気づいて沙紀はまた少し気が重くなった。

 「やっと寝てくれたわ」
慎太を寝かしつけて由実が言った。慎太は家に帰ってからもご機嫌で、いつもはすぐ寝るくせに今日はなかなか寝ようとしなかった。
「新しい家で興奮してるんだろ。まあ仕方ないよ」
「沙紀ちゃんもそろそろ寝なさいよ。お布団は敷いてあるからね」
「うん、そろそろ寝るよ。じゃあおやすみなさい」
「おやすみ」
両親が揃って言う。沙紀は寝室に使うことにした和室に入った。寝室は左から慎太、由実、沙紀、隆の順で並んで布団が敷かれている。自分の布団にもぐりこみ、今朝の事を思い返す。ほんの十数時間前には恵美と話してたのに。帰りたい。あの大好きだった街に帰りたい。沙紀はため息を一つついて目を閉じた。

 沙紀ちゃん、沙紀ちゃん。
 誰かに呼ばれているような声が聞こえた気がして、目が覚めた。時計を見ると夜中の1時だ。家族は全員ぐっすりと眠っている。変な時間に目が覚めちゃった。なんだか呼ばれてた気がするけど夢かな。とりあえずトイレに行って、それから牛乳でも飲んで寝よう。そう思って起き上がり、和室を出たところでまた声が聞こえた。
 沙紀ちゃん、沙紀ちゃん。
 驚いて和室を振り返る。しかし家族が起きた様子はない。沙紀は途端に怖くなった。尚も呼び続ける声の聞こえる先へ視線を向けると、それはどうやら窓の外からのようだ。もう一度眠っている親の方をちらりと見てから、恐る恐る窓に近づき、そーっとカーテンの隙間から外を覗いてみる。すると、沙紀の目に信じられないものが映った。
「そ、そ、そ、そうにゃん?」
そこにいたのは、間違いなく(少なくとも見た目は)あのそうにゃんだった。沙紀は驚きでその後の言葉が出なかった。沙紀の腰より少し高いくらいの大きさなので、着ぐるみを着た怪しい人ではないだろうが、あまりの事に沙紀は恐怖より驚きで窓を開けて外に飛び出した。
「僕は相鉄のそうにゃんっていうにゃん。沙紀ちゃんとお話をしたくて来たにゃん」
「え、え、ど、どういうこと?」
「沙紀ちゃんがここに引越してきて不安な気持ちを僕がビビビッと感じたんだにゃん。だからこの街を好きになってもらうために案内しに来たんだにゃん」
「えーーーーっ」
大声を出して気が付いたが、寝室では家族が寝ている。今ので起きてしまったかもしれない。
「ああ、ご家族の事なら大丈夫だにゃん。今この世界では僕と沙紀ちゃん以外の時間は止まってるんだにゃん」
なんともファンタジックな話だ。しかし目の前にそうにゃんがいて、自分と話をしているということが沙紀に魔法をかけたのか、この来訪者と出来事を徐々に受け入れ始めていた。
「それじゃあ今からこの街を案内するにゃん」
そう言ってしっぽを一振りすると、電車が現れた。電車といっても中に入れるような大きさではなく、上にまたがって乗るようなサイズのものだ。ようするにデパートの屋上とかゲームセンターにある子供用の電車みたいなやつだ。沙紀も幼稚園の頃、横浜の高島屋の屋上で乗った記憶がある。
「さあ、乗るにゃん」
あまりに子供っぽくて少し恥ずかしかったが、沙紀がまたがると、電車の前方に線路が伸びていった。それは地面ではなく空中に続いていて、まるで夜空に絵を描いたようだった。
「きれい」
思わず沙紀は感嘆の声を上げた。するとそうにゃんが後ろに座ってきた。いよいよ出発するみたいだ。しかし、そこでそうにゃんが言った。
「そういえば沙紀ちゃん、そのままだと寒いから上着を取ってくるといいにゃん」
こんなにファンタジックな状況なのに、寒さとは現実的な話だ。言われるまま部屋に上着を取りに行く。それで沙紀は少し平静を取り戻し、そうにゃんに不満をぶつけてみる。
「ねえそうにゃん、この電車ってちょっと子供っぽすぎない?」
「普通に乗れる電車の方がいいにゃ?沙紀ちゃんはこっちの方が好きかと思ったんにゃ」
「私そんなにちびっこじゃないもん」
子供扱いされて少しむっとしたので、きつい口調になった。
「ごめんごめんにゃ。それじゃあこっちに替えるにゃん」
またそうにゃんがしっぽを振ると、先程の子供用電車は消え、新たに鮮やかな濃い青色の一両の電車が現れた。一両といっても通常のものほど大きくはなく、シート一列分のサイズだ。
「これでいいにゃん。さあ乗って乗ってにゃん」
近づくとドアが音を立てて開き、沙紀は電車に乗り込んだ。車内も統一感があってきれいだ。
「素敵な電車ね」
思わず口からこぼれた。
「この電車は横浜ネイビーブルーっていうにゃん。気に入ってもらえてうれしいにゃん」
いつの間にか運転席にいるそうにゃんが言った。運転席への扉は開いており、そこに入ると夜空がよく見えた。
「それじゃあ出発進行にゃん」
プルルルルと音が鳴ってドアが閉まり、電車は前方に進み始めた。夜空に描かれた線路の上を滑るように進んでいく。マンションから離れると、今度はすぐ向かいに見える相鉄線の線路へとゆっくり円を描くように降っていき、ほどなくして線路に乗った。空中の線路を走り続けるのかと思っていた沙紀は地面を走ることに少しがっかりしてシートに座り込んでしまったが、その直後に聞こえてきた車内アナウンスを聞いてそんな気分は吹き飛んだ。
 次はー、1965年の上星川駅―
耳を疑い車窓を見ると、外の景色はぐにゃぐにゃとゆがみだした。今度は目を疑っていると、そうにゃんが運転席から出てきて、沙紀の横に座った。
「そうにゃん、どういうこと?1965年って言ってたし、外はこんなだし」
「今から昔のこの街を見てもらうにゃん。ここがどういう街なのか、知って、好きになってもらうために少し歴史も知ってもらいたいにゃん」
「ここまで来たらもうタイムマシンでもなんでも信じるしかないか。ところでそうにゃん運転は?」
「自動運転に切り替えてきたにゃん。なにしろ50年以上遡るわけだから少し時間がかかるし、その間お話しするにゃん。沙紀ちゃん、まだ今日来たばかりだけど、この街の印象はどうにゃん」
「うん、まだ来たばっかりだからよくはわからないけど、横浜って抱いてたイメージ程都会じゃないし、かといって、のどかなところっていう感じでもない。海も見えないし、星だって少ししか見えない。昨日までは海と星があんなによく見えたのに」
親に言えなかった愚痴が次から次へと出てきた。本当は誰かに話したくて仕方なかった。引越してきて初日なのに、もう前の街が懐かしい、遠い思い出のように感じられて、気付くと沙紀は泣き出していた。
「そっか。沙紀ちゃんは前の街が大好きだったんにゃね。僕は産まれてからずっとここにいるから、他の場所の事をあまりよくは知らないにゃん。よかったら沙紀ちゃんの住んでた街の事を聞かしてほしいにゃん」
沙紀は話した。街の景色を、四季を、学校や友達のことを、そこで育っている間に起った様々な出来事を、そして、そこを出ていくことになるなど考えたこともなかったことを。今まで溜め込んでいたものを吐き出すかのように。そうにゃんは一つ一つ丁寧に相槌を打ちながら聞いてくれた。沙紀の顔はもう涙でぐしゃぐしゃだった。
「ありがとう沙紀ちゃん。幸せに育ってきたんだにゃ。引越すことになって辛かったにゃ。でもこれからはここで生きていかないといけないにゃ」
「そ、そんなこと、わ、わかってるよ」
嗚咽交じりの声で答えた。
「僕はここのほうが前よりもいい所と言うつもりはないにゃ。そもそも比べるつもりもないにゃ。今話してくれたことは沙紀ちゃんの大事な思い出にゃ。大事な大事なふるさとの思い出にゃ。それは絶対に無くしてはいけない大切なものにゃ。僕はそんな思い出を、この街でもたくさん作ってほしいと願っているのにゃ。そのために、この街を好きになってもらいたくて会いに来たにゃん」
そうにゃんがそこまで話すと、また車内アナウンスが響いた。
 まもなくー、1965年の上星川駅―
「もう着くにゃん。ここで降りるにゃん」
沙紀が車窓を見ると、徐々にゆがんでいた景色が元に戻り始めた。いや、正確には見たことのない景色に変わっていった。ほどなく電車がホームに到着した。ドアが開くとそうにゃんと共に電車を降りた。外は昼間だった。
「さあ、外に出るにゃん」
そうにゃんの切符をくれて、後に続いて改札を出た。駅員さんが改札に立っているがどうやら私たちは見えていないらしく、そのまま素通りだった。切符は何のためだったのだろう。沙紀は切符をポケットに突っ込んだ。建物から出ると地面はアスファルトではなく土だし、昼間(現代の)見たような建物は全くなかった。右手を向くと見えるはずの沙紀たちが引越してきたマンションはなく、ただ山があるのみだった。
「ここが約50年前の上星川かぁ。なんだかすごくのどかというか田舎だね」
言ってから失言だったかなと思った。しかしそうにゃんは気にした様子はなく、
「そうにゃ。たった50年前までここはどちらかというと田舎町だったにゃ。でもほら」
そうにゃんが指をさした。その先には走ってくる子供たちがいた。
「あの子たちがこの街で育って、同時にこの街を育ててくれたんにゃ。沙紀ちゃんも前の街で育ちながら同時に街を育てていってたんだと思うにゃ。街と人は一緒に育っていくにゃん。この街も、今、ゆっくりとだけど育っていってる途中にゃん。だから、この街がまだ産まれて間もないころを一度見てもらいたかったんだにゃん」
まだ産まれて間もない街。なるほど、この街は確かにまだ赤ん坊のように見えた。
「さあ、沙紀ちゃんの時代に替えるにゃん」
もう帰るのか、もう少しこの時代を見てみたい気もしたが、ここが赤ん坊なら現代のこの街はなんだろうか。それをはやく確かめたいと思い、沙紀は素直に従い、また駅へと戻った。
 ホームに入るとそうにゃんがまたも尻尾を一振りし、先程の電車が現れた。乗り込み車窓を見る。この景色を覚えておこう。そんなことを考えているうちに電車は出発した。

 現代に戻ってきた電車は、ホームに止まらず沙紀の家のベランダまで戻ってきた。そこから見下ろす街は赤ん坊ではなく、かといって成熟した大人のようでもなく、なんだかちょっと背伸びしたお兄ちゃんという気がした。帰りの車中でそうにゃんがこの街とこの鉄道は今まさに大きな成長を遂げようとしている街だと聞いた。その時を一緒に成長していきたい。そんな気持ちが沙紀の中に芽生え始めていた。
「ねえそうにゃん、なんとなくこの街で育ってこの街を育てていくっていうイメージはできたんだけど、やっぱり星の川ってイメージはわかないなぁ」
初めて駅名を見た時に思ったことを言ってみた。
「ならあそこに行くにゃん」
そういってそうにゃんがまた尻尾を一振り、今度は小さい電車がまた出てきた。
「さあ乗るにゃん」
促されるまま乗ると、現れた線路はこのマンションの上に向かっていた。着いた先は17階だった。ここは通路が広く、ほとんど広場みたいな場所もあった。電車を降りて通路の角の階段まで行くと国道16号線と高層ビル群が見えた。
「今から少しだけ時間を動かすにゃん」
えいっとそうにゃんが言うと見下ろしていた道路に一斉に車が流れ始めた。
「きれい」
「本物の星ではないけど、これだって星の川にゃん。夜景や広い道路もいつ、どんな気持ちで見るかによって見え方や感じ方が変わるんだにゃん」
車のライトは確かに星のようで、車の流れが川を作っている。
「住んでるマンションでこんなのが見れるなんて」
「さあ、僕ももう帰らないといけないにゃん。沙紀ちゃん、この街は好きになれそうかにゃん?」
「うん。まだ住むのはこれからだし、どんなことがあるかはわからないけど、この景色だけでも好きになっちゃった」
「それはよかったにゃん。それじゃあ帰るにゃん」
「うん、ありがとう。そうにゃん」
「どういたしましてにゃ」
部屋まで小さな電車で送ってもらい、そこでそうにゃんは帰っていった。そして沙紀が次に気づくとそこは布団の中だった。朝の9時。よく眠っていたらしい。夢だったのかなぁ。そう思い、ズボンのポケットに手を入れるとあの切符があった。夢じゃなかったんだ。わたし、そうにゃんに会っちゃった。ウキウキしてリビングに行くと、由実がテレビを見ていた。
「沙紀ちゃん、恵美ちゃんからお手紙来てたわよ。あの子は優しいねぇ。」
「ほんとに?すぐお返事書かなくちゃ」
まだ形態を持っていない私たちは、手紙のやり取りをする約束をしていた。手紙を取り出し、ペンを手に取った。最初の一文はもう決まっていた。

 恵美ちゃんへ
私、この街がとっても好きになれそうです

著者

高橋 良