「春と冬とひまわりと」有座千鶴子

 雪が止んだ。三月の雪だ。今朝は裸で洗濯できそうだ。駅に向かってゆっくりと坂を下りていく。道端に残る雪を避けて車の走る領域を侵しながら歩く。ときおり車が通る。仕方なく雪を踏んでスニーカーを濡らし、車が跳ねる水にジーンズを濡らされる。上り坂を急ぐ人達にも気を遣う。今日もお仕事や学校、行ってらっしゃいと心の中で声をかける。こちとら半分プータローなんで、道を空けます、お譲り致しますよ。
 女子高生が誰よりも早足で坂を上ってきた。スクールバッグを肩に掛け、前のめりで大股で歩いてくる。水しぶきが上がる。ローファーの足下は水浸しだ。すれ違いざまに「危ない、転ぶぞ」、と心の中で呟いた。その途端、ドタンと音がした。振り返ると女子高生が四つん這いになっていた。何人か立ち止まったが、やがて通り過ぎた。少し戻って、前に回り「大丈夫か」と声を掛けた。幼な子のような表情で見つめられたので、迷ったが、腕をとって起こしてあげた。車道に放り出された鞄を、手をあげて車に注意をうながしながら取り、手渡した。女子高生は濡れた制服をパンパンと手で払いながら、白い歯を見せて微笑んだ。
「おじさん、ありがとう。おじさんだけだね、助けてくれたの。」
「いや、僕はひまだから。それより、怪我は?大丈夫?」
「わかんない。でも、急いでるから行きますね。今日は絶対に遅刻できないから。ほんとにありがとう、おじさん。」
 女子高生はお辞儀をして、また、坂道を急ぎ足で歩いて行った。一度、振り返って手を振った。駅前まで気をつけて歩いた。気をつけて歩きながら、彼女の急ぐ理由を考えてみた。たぶん、坂を上がった先にあるS高校の生徒だ。急げば、五分もあれば学校に着くだろう。今は八時を過ぎたところだ。朝のホームルームは八時三十分頃からではないだろうか。もう少し遅いのだろうか。それとも、少しでも早く行ってやらなければならないことがあるのだろうか。そう言えば、近ごろの高校生はサプライズを仕掛けることが好きで、友達の誕生日に黒板いっぱいにメッセージを書いたり、友達の好きなキャラクターの扮装をして出迎えたりすると聞いたことがある。たぶん、そういうことではないかと思った。人懐こい笑顔と、おじさんありがとうと言った爽やかな声が、体中に染み渡っていく。駅前の喫茶店までの時間があっという間に過ぎた。
 カラカラン、と控えめな音を鳴らして中に入る。夫婦二人でやっている店で、店の外も中も、接客態度もあっさりしているところが気に入っている。月曜の朝は、ここのモーニングを食べると決めていた。コーヒーとトースト、ゆで卵だけのシンプルさが良い。ちょうど良く焼けてバリッとしたトーストにバターを塗り、オレンジジャムを乗っけて食べる。厚切りのトーストは、中の白い部分が温かくて柔らかい。店に入るときに取ったスポーツ新聞の一面トップは、「スマップ再結成」だった。よく見ると、小さな文字で「か?」とついている。野球の結果を丁寧に見る。オープン戦のベイスターズは悪くない。若い女と華麗な一夜を過ごす中年男の、巧妙なやり口が微細に描かれている小説も載っている。スポーツ新聞を手に取る輩とは、中高年。中高年ですが何か、と、声無く呟いて新聞を閉じた。いったん家に帰り、スポーツジムに行くことにした。筋トレのサーキット、クランチ百回、ジョギング一時間。シックスパックを触って確かめた。体脂肪率は、しばらく計っていないが十パーセント代だろう。
 午後は、母親の所へ行く。二俣川駅のベンチで湘南台行きの電車を待っていた。斜めがけのショルダーから新書を取り出してぱらぱらとめくる。隣にだれかが座ったと思ったら、高い声がした。
「こんにちは。今朝、助けてくれた人ですよね。ありがとうございました。ですよね。」
 今朝の女子高生だった。女子高生は、まじまじと顔をのぞき込んでくる。制服のスカートからのぞく膝に傷テープが貼られている。
「あ、あ、そうです。こんにちは。その傷、朝の?」
 質問には、答えずに興奮してしゃべり始めた。
「すごーい。すごくないですか?こんなとこで会えるなんて。今朝はありがとうございました。あたし、今日まで謹慎だったんですよお。だから、絶対に八時十分には指導部屋の前にいないと謹慎延びちゃうかも知れなくて。だって、今朝、電車遅れたじゃないですか。」
 電車が来た。いつものように一番端の席に座った。内容が内容なだけに、電車の中で話しても良いことなのかと思ったが、女子高生は当然のように隣に座り、あっけらかんとしゃべり続けた。
「いつも、この電車に乗るんですか?会ったことないですよね。謹慎、今日で終わりなんです。解除は明日の朝だけど。」
「謹慎って、自宅でするんじゃないの?」
「あ?もしかして、昔、謹慎したことあります?昔は家で謹慎したもんだって校長先生が言ってた。謹慎初めてだから、よくわからないんですけど、学校でするのが普通かも。でも、学校で先生と一緒に話したり、勉強したりしてれば、遅刻欠席とか欠課とかじゃないんですよ。良くないですか?なんかその方が楽ちんですよ。眠くなったりとかしなかったし。先生はみんな、ちゃんと話聞いてくれるし。わからないとこ教えてくれるし。あ、謹慎したことありますか?」
「うーん、ない。ないと思いますね。いや、忘れただけかも知れないけれど。」
「なんで謹慎になったかっていうと、マックです。妹にマック買って来させて、食べたら、その匂いが気になっちゃって。晩ご飯です。いつもマックとかじゃないですよ。カレーとかハンバーグとか作りますよ。いずみ野野菜で。じゃがいもとか人参とか、超おいしいですよ。で、あたし、一日に3回おふろに入るんですよ。で、なんか、マックの匂いが家中にあって、分かります?朝のおふろに長く入ったんですよ。匂い消したくて。そしたら、学校に遅刻しそうになっちゃって。で、彼にラインしたんです、遅刻しちゃうって。で、バイクで迎えに来てくれるっていうから頼んだんですよ。嬉しかった。彼も、あたしが遅刻欠席しないって決めてるの、わかってるから。」
「彼って、高校生じゃないの?」
 彼氏がいるくらい当然なのだろうか。いや、当世若者の恋愛事情は寂しいものだと聞く。この女子高生は特殊なのか。この話し方、内容は特殊であることは間違いない。風呂の話をあっけらかんとするのは、精神的に幼いのだろう。
「彼、高校生ですよ。でも、今は行ってないみたい。退学はしてないけど。彼に、バイクで校門の前まで送ってもらって、降りて、ハグして学校入ったら、ババちゃんに捕まって、あ、女の先生。そのまま職員室に連れて行かれちゃいました。ときどき、校門のとこに先生がいるんですよ。いつもじゃないですよ。たまたまあの時、あの朝は居たんです。バイクで通学したら駄目なんだって知らなかったんですよ。ちゃんとヘルメットもしてたし。あたし、欠席とか遅刻とか絶対したくないんですよ。推薦で大学行きたいんです、国際学部に。留学もしたいんです。大学と留学のお金はパパが出してくれるって約束したんですよ。パパが酔っ払ったときに頼んだんです。お願いお願いって言ったら、いいよ、いいよって言ってて。」
 電車は、いずみ野駅に近づいた。
「あ、あたし、マユキって言います。真雪、雪の日にぴったりでしょ。叔父さんの名前は?教えてください。」
「いや、いいよ。」「お願いします。」「いや、」「お願いします。」
「大沢です。」
「ふーん。大沢さん。じゃあ、ばいばい。あ、大沢さんどこ行くの?」
「湘南台。」
「じゃあね、またね。大沢さん。」
 真雪と名乗る女子高生は、急いで電車を降りた。窓の外を見ると、笑いながら手を振っていた。大沢もちょっと手を挙げて合図した。電車は空いていて、乗客は全員座っていた。本やスマホを手にしたり、イヤホンをつけていたりしたが、話は聞かれていたに違いなかった。すぐに新書本を取り出して広げた。広げたまま頭は真雪の話で混乱していた。バイクで駆けつける彼氏がいて、酔って金を出す約束をするパパがいる。パパとは実の父親のことであろうか。晩ご飯は妹と二人で食べるらしい。母親はいないのだろうか。バイクの彼氏はどういう関係なのだろうか。制服でバイクに乗り、校門の前でハグするようなタイプには見えなかった。遅刻、欠席はしないと言う。真面目なのか、不良なのか。いずれにしても馬鹿な奴なことは間違いない。謹慎を喰らって、推薦で大学に入れる訳がない。湘南台に近づいた。車窓から見える雪を被った富士山はいつもの通りだった。もう馬鹿な奴のことを考えるのはやめようと思った。
 母親は車いすに座らされていたが、目を瞑っていた。「おかあちゃん、健太郎ですよ。」と手を触ってゆすると、うっすらと目を開けた。「健ちゃんは旅行に出かけてるんですの。」「だいじょぶですのよ。◯×△。」不明瞭な言葉を挟みながら、視線を遠くに向けている。
 施設の中は暖房が効いていて、大沢はうっすらと汗をかいた。入所者が集うロビーから大声が聞こえてきた。若い職員が丁寧に対応している声も聞こえる。母親はまた、目を瞑った。
「大沢さん、おやつの時間です。健太郎さんもお茶をどうぞ。」
 なじみの職員が、プリン一つとお茶を二つ持って来た。月曜日のおやつは、ときおり健太郎が食べさせていた。最初の頃は、おやつも二つ出てきたが、自分はおやつを食べない主義だと言って断ったのだった。母親は、口に運ばれてくるスプーンを確かめると口を開けた。午後の日ざしがレースのカーテンを超えて、室温を上げていく。健太郎の額からは汗が垂れた。やっとプリンを食べ終えた母親は、とろみのついたお茶はあまり飲もうとしない。あきらめて、少し冷めた自分のお茶を飲み干した。
 次の月曜、二俣川で電車を待っていた。真雪は来なかった。真雪と同じような制服を着た女子高生はチラホラと見かけたが、真雪はいなかった。部活か、帰りにどこかに寄ったのかと考え出したが、すぐにあほらしくなってやめた。
 大沢は週に三日、火木金だけ働いている。会社がない日は午前中にジムに行くことが多い。午後は、月曜は母親の施設、残りは展覧会や映画を見て過ごすか、読書をする。会社は忙しく、勤務日を増やすことを打診されることもあるが、断っている。決算やその後処理で残業になることはしばしばある。大沢は、口を出さずにもくもくと手伝うという立場に徹している。
 四月に入り、再雇用も二年目に入った。自分の殻を打ち破れと、姉からプレゼントされた派手な刺繍のスカジャンを思い切ってはおった。いつものように、いずみ野線を待っていると声を掛けられた。
「大沢さん、こんにちは。めっちゃかっこいいの着てますね。すっごい似合ってますよ。ロックンロールって感じですね。」
 真雪だった。実はなんとなく真雪に会えそうな予感がしていた。
「ああ、こんにちは。」
 もしも、真雪に出会って、スカジャンのことをいじられても下手に反応しないと決めていた。だが、胸はどうしようもなく高鳴っていた。
「こないだはダウンで、ブロックチェックのシャツ。今日はスカジャンですよね。鷲かっこいい。パパも着るんですよ。派手なやつ。虎とか龍とかの。ああ、大沢さん、シャツ、こないだと同じじゃん。」
「よく覚えてるね。」
「うーん、なんか、ファッション好きだからかな。けっこう覚えてますよ。誰がいつ何着てたかって。パンツ、モンベル?きゃー、パパと同じ。パパもいっつもそればっかですよ。妹と誕生日のプレゼント何がいい?って聞いたらモンベルのキャップとか言って、一緒に買いに行ったんですよ。渋谷に。そう言えば、相鉄って渋谷につながるんだよね。早くしてほしい。で、おっきい熊があるとこ。パパ、あたし達にもなんか買ってくれるって言って、スノボ用のウエアー買って貰いました。パパと行くんですよ。スノボとか、バーベキューとか。パパは警察に勤めてるんですよ。なんか、レクとかあるじゃないですか。パパの同僚の人達とかって、すごく楽しいんですよ。あたし、変かな?」
 真雪は、探るように見つめてきた。軽く首をふった。
「あはは。あたしだけしゃべっていてごめんなさい。大沢さん、どこに行くんですか。」
「うん、母のとこに。」
「何しにいくんですか。」
「まあ、お見舞いっていうか。」
 いずみ野に着いた。真雪は腰を浮かせたが、また座り直した。
「あたしも行っても良いですか?」
 だめだと言おうとしたが、寂しげな表情に言葉を飲み込んだ。真雪はすぐに明るい笑顔に戻った。しっかりと座り直し、足をきちんと閉じた。膝においた手には白やピンクのマニキュアが施されていた。
「えへ、ネイルかわいいでしょ。ほら、薬指は猫さんなの。」
 左手の薬指に紺色の猫の形に見える模様があった。かわいいとかそういう問題ではない。大沢には醜いものに見えてしまう。腹が立つ。
「正直、似合わないと思う。それ、校則違反じゃないの?また、謹慎喰らうんじゃないのか。僕にはいいとは思えない。制服にそれはおかしい。合ってない。」
「えええ?みんなやってるよ。あたしのは、大人しい方だよ。」
「まあ、俺には関係ないから。ご勝手にどうぞ。」
 湘南台についた。広々とした地下道から、一番近い階段を上がると冷たい風が吹いてきた。下着にしみた汗はいつも、体を必要以上に冷やすのだ。真雪は黙って大沢の後をぴったりと着いてきた。大沢は少し急ぎ足になった。真雪も懸命についてきた。あっという間に着いた。玄関に入り、スリッパに履き替え、カードを通し、エレベーターに乗り、居室に入った。母親は車いすに座って、ゼリーを食べさせられていたが、目をしっかりと開けて、健太郎の後ろに隠れるように立っている真雪を見た。健太郎は、職員に真雪を親戚の娘だと紹介した。真雪はにっこり笑って会釈した。
「おかあちゃん、健太郎です。」
 母親は、なおも真雪だけを見つめ続けた。
「こんにちは、おじゃまします。真雪です。すみません、勝手についてきちゃいました。」
「ありがとうございます。大変うれしゅうございます。お陰様で、なんとかなっておりますの。」
 母親は大きな声で話し、真雪に向かって左手を伸ばした。右手はあまり自由がきかない。真雪はその手をしっかりと握った。職員は素敵なお嬢さんですねと言い、とりあえずの仕事を終え、真雪の為に予備の椅子を持って来て、出て行った。真雪は、母親の目の前に立った。
「あの、私、健太郎さんに助けて貰ったんです。この前、大雪が降った日に。私、転んでしまったんですよ。坂道で。急いでいたので、雪道を走ってしまったんですよ。それで、スッテンコロリしてしまいました。一瞬、何が起こったかわからなくて、倒れてたら、健太郎さんが助けてくれたんですよ。私を助け起こして下さって、道路の方まで飛んでいった鞄も拾ってきて下さったんです。とても良い息子さんですよね。」
「まあ、まあ、思いもかけない事でございまして、本当にもう、お会いしたいと思っていました。その節は、私が不甲斐ないばかりに、本当に、うっうっ。ご無事でなによりで、◯△□。」
 母親は涙をこぼした。真雪は右手を伸ばして、ベッドサイドテーブルに置いてあった箱からティッシュを二枚取り出して、涙を拭いてあげた。鼻水も拭いた。左手は母親に握りしめられたままだった。
「思いがけないですよね。転ぶのも思いがけないし、助けて貰うのも思いがけないし、私、めっちゃ恥ずかしかったんです。だって、学校の誰かにもし見られていたら、アップされてたかもだし。あとで痣もできてたし、怪我もめっちゃしてました。」
「それはそれは、大怪我でしたもの。どうして知らんふりができますでしょうか。井戸の水が汲めなくて、情けないったらありゃしません。ただ、ただ、もう、◯△□。お会いできて、こんなに嬉しいことはございません。うっ、◯△□。」
「そんな、大怪我してないです。いい傷テープ貼ったから、痛くないです。大丈夫です。でも、私もなんだか涙出てきました。」
 母親と真雪の話は、かみ合っていなかったのだろうが、当事者の二人はそれぞれに心の内を吐露し、満足したように静かになった。母親は目を閉じた。真雪の手も離した。そのまま眠ってしまったようだった。廊下に出て、職員に合図を送り、ベッドに移して貰った。真雪は、目を真っ赤にしてティッシュを何枚も使った。
「なんか、泣いちゃった。メイクが取れちゃいました。涙、とまらない。」
「なんだ、化粧してるのか。高校生のくせに。」
「当たり前じゃん。ナチュラルにしてるから大丈夫。」
 すぐに帰ろうかと思ったが、真雪はなかなか立ち上がらずに、寝顔をじっと見ていた。真雪の目から、涙がすーっと流れるのをしばらく凝視して、視線を外した。真雪は頭をゆらゆら揺らしながら、小さな声で何か歌を歌っていた。今日は家に帰っても誰もおらず、独りでカップ麺を食べるという真雪に、早めの夕食をおごることになった。中華が食べたいというので、駅前の中華料理店に入った。制服の女子高生を連れて入るのは気が進まなかったが、親子に見えると、大沢は自分をそう納得させた。真雪はよく食べた。何でも食べるというので、海鮮おこげ、エビチリ、牛肉の鉄板焼を頼んだ。おいしいと言いながら食べる真雪にあおられて、大沢も食べた。小籠包と五目焼きそばも追加した。食べながら、よくしゃべった。
「あたし、推薦で大学行くつもりだったけど、駄目かなあ。」
「謹慎受けたやつは駄目じゃないの?」
「ひどーい。校長先生は、大丈夫って言ってましたよ。一回目だし、調査書には書かないから大丈夫だって。担任の先生は危ないって言ってたけど、たぶん脅しだから。」
「ふーん。まあ、校長先生の言うことの方が正しいんだろうね。でも、甘いんじゃないのか。で、どこ受けるの?」
「第一希望はF大で、駄目だったらK大かT大。国際学部があるところ。パパは、あたしと妹をFに行かせたいんですよ。でも、妹はたぶん違うとこに行く。家から出たいっていつも言ってる。妹は優秀なんで、特待生で私立の高校行ってるんですよ。すごいですよね。理系で、どっか地方の国立大学に行くって。」
「地方の国立大学?生活費もかかるな。仕送り大変じゃないか。」
「バイトすれば平気じゃない?お母さんがそう言ってた。うちのお母さん、若いとき悪かったんですよ。この前の謹慎の時も、なんで捕まるのって言われました。中学校の時、お母さん、学校に文句言いに来たんですよ。あたし、恥ずかしくて隠れてました。」
 中学生の時に、外階段の踊り場から廂を伝って窓から教室に入る遊びが流行した。真雪はそれを保健室の先生に話し自慢した。それが問題になり、担任の先生からこっぴどく怒られた。家に帰って、みんなやってるのに自分だけ怒られたと話をしたところ、母親は怒って、真雪だけを叱るとはなにごとかと、学校に文句を言いに行ったのだった。
「みかけはすごい優しい感じにみえるみたいで、ああ、すみませーんとか、そんな感じだから。でも違うんですよ。うちでは、言葉遣いも超悪いですよ。大沢さんとこのおばあちゃんみたいに上品じゃない。」
「上品?古い時代の話し方だからね。」
 大沢の母は、誰に対しても丁寧な言葉を使っていた。それが、母なりの処世術だったのだろうと思っていた。ふと、先ほど真雪が歌を歌っていたのを思い出した。
「あなたはさっき、歌を歌ってましたね。なんの歌?声が小さくて分からなかった。」
 真雪は、ウーロン茶を一口飲み、歌い出した。
「♪春の日の花と輝く、うるわしき姿の~ってやつ。なんだか、急に思い出しちゃたんですよ。あたし、この歌の歌詞、二番まで全部覚えてます。なんか、急に浮かんできて、そのまま体中が歌に静かに満たされていって、体中からふわって漂うみたいに歌ってた。」
「はっはっは、ずいぶん文学的な表現するね。お見それしました。卒業ソングだね。アイルランド民謡だったっけ?ハーバードの卒業式でも歌われているんじゃなかったかな。」
「♪いつしかにあせてうつろう、世の冬は来るとも~」
 真雪は続きを歌い出した。大沢は、あわてて静止した。
「しー。ここは個室でもカラオケでもないから。」
 真雪は、なおも小さな声で続けた。大沢も歌詞を頭の中でなぞった。
  わが心は変わる日なく
 おん身をば慕いて
 愛はなお緑いろ濃く
 わが胸に生くべし
  若き日の頬は清らに
 わずらいの影なく
 おん身今あでにうるわし
 されどおもあせても
 わが心は変わる日なく
 おん身をば慕いて
 ひまわりの陽をば恋うごと
 とこしえに思わん
 八時になろうとしていた。八時はパパと約束した門限の時間だがめったに守らないと笑う顔に、小言の一つも言いたくなるのを我慢した。外は寒かった。マフラーをぐるぐる巻きにした真雪は、ミニスカートから白い足を出していた。九十度にお辞儀をして「ご馳走様でした」と言った。大沢は正直に「今日はありがとう」と言った。タクシーで家まで送っていくと言ったが、いずみ野駅の駅前にあるマンションに住んでいるからと断られ、また一緒に相鉄線に乗った。大沢の頭の中は真雪の歌声で満たされ、心は落ち着いていた。隣で頭をゆらゆらとさせている真雪も、同じであった。
 次の月曜は雨だった。本屋に寄ってからいつもの電車に乗ることにした。二俣川のペデストリアンデッキをゆっくりと歩いた。母親に手をひかれた幼児が、大沢に笑いかけてきた。にっこり笑って返した。若い母親は頭を下げた。大沢も少しだけ頭を動かした。その母親の矜持を感じさせる微笑に、遠い昔に付き合った女を思い出した。姉の家族に誘われて、一緒にバーベキューをした。大沢は、幼い甥や姪を従えて自然公園を走り回った。大沢が軽々と進んでいくアスレチックの吊り橋を、まだ幼稚園児だった甥が、自分で自分を励ましながら一歩ずつ進んでいくのを、皆ではらはらしながら見守った。その必死な様子を、当時の彼女が写真に撮った。そしてその写真は、あるコンテストに出品されて入賞した。入賞は、新聞発表を見た姉からの連絡で知った。「びっくりした。嬉しいが、一言欲しかった。」と。それをそのまま彼女に伝えたが、わだかまりとなって残ってしまったのだった。
 駅ビルに入ろうとすると、真雪が友人と立ち話をしているのを見かけた。何か真剣な様子で話す真雪から距離をとりながら、本屋へ向かった。いつもの人懐こい笑顔は消えていた。目を赤くしているようにも見えた。新刊本を手にとりながらも、真雪の真剣な表情が気にかかった。本を置いて引き返した。駅ビルの入り口には、もう姿はなかった。ホームの中にもいなかった。湘南台行きの電車にも乗ってこなかった。大方、彼氏にでもふられたんだろうと思った。
 真雪の落ち込んだ理由を知ったのは、七月の始めだった。発車寸前の電車に飛び込んできて隣に座った。夏服の白いブラウスに帯のように腰の所で折り返されたスカートのヒダが丁寧に折れていた。
「こんにちは。今日もおばあちゃんの所に行くんですか?」
 ジェリービーンズを横にしたような目と白い歯を見せて笑った。大沢が聞くまでもなく、『死ぬほど落ち込んでいること』を話し出した。真雪は、F大の指定校推薦を狙っていたが、真雪よりも内申点の良い生徒がF大を第一希望にしていることが分かった。更に、第二希望や第三希望でさえも伏兵が現れて、真雪は不利な立場に立たされているという。
「正式な決定はまだ先だから、その子たちが進路変更すれば選ばれる可能性もあるんだけど、まずそれはないんじゃないかって。担任の先生はあきらめて次を考えろって。ちゃんと勉強して一般入試で行けって。そんな、無理に決まってんじゃん。塾も行ってないし。一応、公募推薦も受けるんだけど、なんか自信なくなっちゃったんです。願書とか、自己推薦文とか、書けない。もし面接でやりたいことは何ですかとか聞かれても答えられない、わからない。もう、大学行くのやめて、結婚しようかな。どう思います?」
「どう思うって、いきなり結婚は早い気がするね。親御さんは?なんて言ってるの?」
 大沢は言葉を選びながら答えた。
「パパには話してません。お母さんは、自分でよく考えなって。決めたらふらふらするなって。」
 真雪の両親は、真雪が小学生の頃に離婚していた。父親とは、年に数回会うが、次に会う予定は決まっていなかった。大沢には子どもがいなかった。そのせいか、若い子に何かアドバイスをすることに躊躇してしまうことが多かった。電車はトンネルに入った。トンネルの出口はいずみ野だ。バイバイと手を振って、真雪は降りて行った。大沢は思いきって電車を降り、真雪を追いかけた。改札を出たところで声をかけた。真雪は驚いたがにっこりと笑った。改札前のベンチに二人で座った。
「あの、ちょっといいかな。ごめんねびっくりさせて。さっきの話だけど、普通に考えたら大学あきらめるの早くないかな。学部も決まってて、留学することも決めているんでしょ?願書くらい書けるよ。幼い頃から憧れていたんだし。なんで憧れてたのか、入ってから何がしたいか、将来のこと、いくらでもあるでしょう。留学して、国際的な感覚を肌で感じて身につけて、広い視野を持って勉強して、偏見や伝統に縛られない生き方をしたいとか、自分を活かせる仕事を探したいとかなんとか。遅刻も欠席もしないし、真面目にしてたんだよね。まあ、僕には公募とやらよりも、一般入試を受けるのが当たり前に思えるけど。担任の先生が一般入試で受けろってことは、可能性があるから言ってるんじゃないの?一生に一度くらい、本気で勉強すればいいんじゃないのか。」
 真雪はうんうんと頷いて、黙って話を聞いた。大沢は言い終わるとすぐに立ち上がり、改札を通って中に入った。目で挨拶を交わし、別れた。次の電車に乗った。言い過ぎたと思った。真雪にとって、自分は何ものでも無い、何も口を出す資格はないのだ。雨上がりの車窓の景色は遠くまで広がっている。大きなため息を一つ、ついた。
 湘南台の母は寝ていた。近ごろ、寝ている時間が増えた。帰り際、職員に呼び止められた。先日、車椅子に乗せて外を散歩させたところ、母が歌を歌っていたという。「春とか、冬とか、ひまわりとか」の歌だという。真雪が歌っていた歌だ。母と真雪は通じている。真雪は何者なのだろう。
 高校は夏休みに入り、真雪は塾の夏期講習に通い出した。朝の通勤電車で、真雪が参考書を広げているのを見かけた。大沢に気づいた真雪は、ピースサインを送ってきた。嬉しかった。大きくうなずいてみせた。父親にでもなったつもりかと、自分自身につっこみを入れた。
 夢を見た。大学生になった真雪が、母の車椅子を押して、ひまわり畑の中を歩きながら、母と一緒に歌を歌っていた。

著者

有座千鶴子