「春をつなぐ」藤沢 愛

 また、やってしまった。葵は今日何度目かの大きなため息をついた。会社でのやり取りを思い出す。悔しくて涙が出そうだ。
電車は大きくカーブを描きながら、もうすぐいずみ中央駅に到着するところだ。この辺りでは、冬の朝には神々しく雪を頂いた富士山が見られることが多いが、今日は夏にしては珍しく、夕焼けの中に富士山のシルエットが美しく浮かび上がっている。家にまっすぐ帰る気にはなれずに、葵は携帯を取り出すと、夫の達也にメールを入れた。「ちょっと散歩してから帰る」達也が帰るまでには、まだ時間があるはずだ。
 いずみ中央駅で降りる。外はまだ昼間の温度を幾分残していて、もわっとした空気が肌にまとわりつく。足早に家路を急ぐ人達に抜かれながら、葵は自宅とは逆方向に坂を上る。電車の中で見た時よりも、富士山は真っ赤な夕焼けの中、シルエットをますます濃くしたようだ。富士山は大きい、いつでも悠然と構えている。今日も変わらぬ富士山をそこに見ると、いつも何となく安心する。
 葵は結婚してまだ半年だ。その間に会社の中で職場も異動した。全くもって器用なタイプではない。それは十分に自覚していた。結婚して、ライフスタイルが変わり、続けて職場が変わったことを半年経った今でもうまく処理しきれないでいた。やっぱ私って何をやっても……。頭に様々なことが浮かぶが、葵は歩くことに集中しようと決めて、歩を速めた。
 坂を下り、信号を渡る。ふいに肌に触れる温度が少し涼しく感じられた。もうすぐ境川だ。川の周囲にはここが横浜市であることを忘れるような田園地帯が広がっている。青々とした稲の上を渡る風が心地好い。境川はこのあたりでは横浜市と藤沢市を分けるように流れている。川の上には、高鎌橋という橋がかかっていて、川を挟むように自転車道路が整備されている。自転車道路は、江の島まで延びていると聞いたことはあったが、葵はまだ行ったことはない。いつか行ってみようと達也と話してはいたが、余裕がなくまだ実行できずにいた。
 川は暗い川面に夕焼けの赤を写しながら、ただ静かに流れている。
 葵は自転車道路を歩いた。暗くなってきてよく確認することは出来ないが、川の土手には夏の勢い、草が茂っている。春先の昼間にこのあたりを散歩した時には、土筆やオオイヌノフグリ、ホトケノザなどが健気に生えていて、さぁ春だ、自分も頑張ろうという元気がもらえたものだった。
 もっと下流に進んでいくと、桜並木があり、春先には見物する人々でにぎわう。葵の実家はいずみ中央より二駅手前の弥生台駅にあるのだが、弥生台駅も桜の名所だ。葵は子供の頃から桜が大好きだった。弥生台駅は、今ではホーム全体を覆う屋根がついているが、葵が学生の時分にはまだ屋根がなく、電車がホームに滑り込むたびに、無数の桜の花びらがふわりふわりと舞い上がっては落ち、美しかった。何度となく、春には繰り返し見た景色だ。新しい環境になじめるだろうか、うまくやっていけるのだろうか、そんな不安な時も勇気づけられたものだ。しかし、今は、春でもなく、葵は既に学生でもなく、就職もして結婚もした。もう立派に大人なのだ。しっかりしなくっちゃ。思わずため息が漏れた。暗くなってきたし、もう戻ろう。葵は、踵を返した。
 その時だった。
 「今日は、良い夕焼けだったわね」後ろから誰かに声をかけられた。慌てて振り向く。物思いに沈んでいて、人がいることに気が付かなったようだ。そこには、自分の母親と同じ年ごろの女性が立っていた。しかし、母親とは違い、その人は杖をついていた。
 「えぇ本当に綺麗な夕焼けでしたね」葵は急いで返事をした。
 「私は足が不自由だから、自分のペースでゆっくり散歩をしているの。そしたら、今まで気づかなかった今日みたいな綺麗な夕焼けや田んぼのにおい、自分とは違う速さで歩く人、色んなものに気が付いたのよ」ニコニコとほほ笑んでいる。そして言った。「自分のペースで良いのよ」
 ため息をついたのを聞かれていたのかも知れないと葵は思った。でも、母のような年の人に声をかけてもらえて、母に激励されたようで何だか嬉しかった。「そうですよね、自分のペースでいれば、きっと気付くこと、ありますよね」力強く答えていた。
 夫人と別れて、来た道を戻る。その足取りは来た時よりもはるかに軽くなっていた。道の先から、手を振る人がいる。夫の達也だ。ニコニコしながら、「葵、相鉄ローゼンで何か買って帰えろうよ。俺、お腹減っちゃったよ」屈託なく言う。「そうだね。ねぇ今度自転車道路を通って江の島まで行ってみよう」明かりがつき始めた家々を見ながら、自分のペースで、ともう一度つぶやきながら、葵の心にも明かりが灯った気がした。
 
 
 
 「お母さん、はしゃぎ過ぎ!うるさい!」「だって、あんたが私と同じ高校行くなんて、すごくない?」「お母さんの頃とは、偏差値が違うんです~」「あぁ可愛くない子ね。全く誰に似たのかしら。でもほんと弥生台もすっかり変わって、おしゃれな駅になっちゃって。駅前も全然違うわよー。お母さんが学生の頃には、駅舎に屋根もなかったわよー」「桜が散るのが綺麗だったんでしょ、はいはいその話、百ぺん聞きました」
 みずきは弥生台駅のホームで昨日の母親とのやり取りを思い出していた。昨日はみずきの高校の入学式だった。娘が自分と同じ高校に入学するので、よりテンションが高かったらしい。父親にたしなめられていたのを思いだしてちょっと笑ってしまう。
 「ほんとに仕事とあんたの子育てを今日まで頑張ってきて良かったわ~。こんな日が来ると思えないこともあったけど、自分のペースで頑張ってきて良かったわ」母親は出産を機に、それまで住んでいたいずみ中央から、実家のある弥生台に引っ越して来たそうだ。祖父母の力を借りながら、何とかやってきて、感無量の様子だった。とは言え、今日はもう早速出張に出かけたが。
 私はこれからどんな出会いがあるのだろう。新しい環境になじめるかな?みずきは心でつぶやいた。
 電車がホームに滑り込んでくる。母が話していた桜の花びらが舞い上がった気がした。「マイペースに頑張って」勇気づけられたような気がした。

著者

藤沢 愛