「時空列車」日野とうき

          1
 追い風、列車の残り香、誰もいないホーム、立ち尽くす私―。
 見慣れた景色。ただ、明らかに違和感を覚えたのは、厚手のコートが邪魔だったことと、腕時計に表示された日付。
(2012…)
いや、そんなわけ―
「本日の上り列車は全て終了しました。」
駅員の声に、はっと我に返る。その制服は、懐かしい薄青色。
 “SO12”三ツ境。
時間がない―。
 車椅子でスヤスヤ眠る息子を押して、病院へ走る。父の…さっきの父の言葉が本当なら、きっとまだ間に合うと直感して。

          2
 2017年12月17日、23時30分。冷たい北風が吹きつける夜。いつもの保育所で息子を引き取り、いつもの車に乗り換える。とっくに眠りついた息子は、助手席で寝息を立てている。
 一見どこにでもいる普通の子供。ただ一つ、「歩けない」ということを除いては。

東へ向かう厚木街道。いつも一時停止に迷う、古ぼけた踏切。
「ここはもう廃線だからね、止まらないで行っちゃって。」
自動車教習所に通っていた頃の、いつかの教官の言葉を思い出す。
 だが、車のアクセルを踏もうとした、まさにその瞬間。突如頭上の警報ランプが、赤く点滅を始めたのだった。
 ―カンカンカン。
いや、まさか。この遮断機が下りるのを見るのは、およそ二十年ぶりのことだ。あの頃はまだ父が元気に貨物列車に乗って。燃料を積んで米軍基地の入り口へ着くと、「よう!」と言って顔パスで中へ通してくれるのだと、父は自慢気だった。
 半信半疑で踏切待ちをしていると、やってきたのは貨物列車ではなく、見慣れた普通列車だった。ゆっくり徐行して、踏切内で一旦停止…。
 暗い運転室の小窓が開いた瞬間。私はあっけにとられた。直感したのだ。―父だ。父に間違いない。
「そこの相模大塚駅から二駅戻ってなぁ…」
父さん―?
「かしわ台駅で一旦降りたら、上り列車に乗りな。」
二駅戻ってまた上る―?
「暗~い顔してんなぁ。なんか後悔してるんだろう。」
―?
「何年のことだ?」
―何年…?
隣の息子に目をやる。胸がつかえる。こんな体にしたのは、自分のせいなのではないか。これも個性、やるべきことは尽くした、そんなふうに割り切ってみても、やっぱり答えはいつも同じところに行き着くのだった。
―自分がいけなかったのではないか―。
「2012年?図星か?」
何もかも見透かしているかのように、父はにやりと笑う。
私は小さく頷いた。
「承知。三ツ境駅で降りること。それから…戻りは1時5分発で。あんまり時間ないから注意しろよ。」
 それだけ言い残し、父の列車は行ってしまった。これは夢なのだろうか。手の甲をつねる。
(痛っ…)
やはり現実らしい。

          3
 急いで車を停めると、半信半疑でプラットホームへ向かった。
―さっきの列車だ。
父さん、父さんは…?
 どうしても父に息子を会わせたくて、列車の先頭へ急ぐ。
「あれっ…」
運転室は、知らない顔だった。
「…?お客様、お手伝いしましょうか?」
運転士と目が合った私は急に恥ずかしくなった。ぺこりと頭を下げ、とっさにきびすを返す。私は車椅子をぐいっと押し上げ、そのまま車両へ乗り込んだ。
 列車はいつもと同じように、ゆっくり走り出す。やっぱり、そんな訳はないのだ。父は息子が生まれるもっと前に亡くなっている。だけど、この列車に導かれたのは…一体どんな意味があるのだろう。

SO17 かしわ台。
言われた通り、二駅戻って降りる。上りホームへ向かうと、ネイビーブルーの列車が停車していた。
電球色に彩られた車内へ入ると、列車はいつもと何一つ変わりなく、徐々にスピードを上げて走り出す。
(父さん、どこかで見ていますか…)
 「坊っちゃん良く寝てるねぇ。お宅はどちらまで?」
不意に老婆に声をかけられる。
「私は三ツ境です。」
「じゃあ…12年ね。私は平沼橋。2002年よ。どうしても会いたい人がいてね。」
…12年。どういう意味だろう。やっぱりこの列車には何かあるに違いない。

          4
 SO12 三ツ境。
―SO「12」…まさか。
 電灯に映し出された桜並木から、花びらが小雪のように舞う。ほのかな春の香り。
 これは、夢じゃない。
 2012年4月10日午前。予定より3カ月以上早く、息子はこの先にある病院で生まれるはずである。
 厚手のコートを手荷物に、満開の夜桜の下を駆ける。あの時の判断が違っていたら、息子を不自由な身体にすることはなかったのではないかと問い続けながら…。
 病院のナースステーションには明かりが灯っていた。
「あの…連絡はまだありませんか?」
「…?患者様名は?」
怪訝そうな顔の看護師。
「あ、いや…、もし、予定よりかなり早く『お腹が痛む気がする』って連絡が入ったら、早急に来るように伝えてほしいんです。」
なんて説明すればいいだろう。「5年後から来ました」、そんなこと、口が裂けても言えやしない。
「どういうことですか?」
看護師はますます眉間にしわを寄せる。
「あの…多分、これから連絡がくる人、まさかまだ産まれるなんて思っていないはずなので…。」
まさか、そのまま産まれてしまうとは、思ってもいなかったあの夜。自宅でしばらく様子をみてしまったこと、早急に病院へ向かわなかったこと、処方された薬を飲みそびれていたこと、そして他に誰も頼らなかったこと、後になってその全てを後悔した。
 あれから財布に忍ばせていたマタニティ用タクシーの連絡先をとっさに渡す。
「すぐ来られないようだったら、こういうサービスもあることを、伝えてあげてください。」
それだけ言い残し、逃げるように背中を向けた。
「あの、ちょっと!」
背中越しに、外線電話の入ったコール音が聞こえる。ナースステーションが慌しくなったのを感じた。5年前の、私からの連絡だろうか…。
タイムリミットまであとわずか。息を切らし、さっき通ってきた一本道を急ぐ。急に強く暖かな風が吹き抜け、真っ白な桜の花びらが一斉に舞い落ちる。月明かりが、枝の間から照らしていた。

         5
 プラットホームへ着いても、まだ鼓動は早かった。これで良かったのだろうか。このわずかな時間の中でできることは、他にあっただろうか。
定刻。静かに、電光掲示板が点滅を始める。
―あっ…
「臨時」の行き先表示を付けた下り列車は、懐かしい緑色の車体。車椅子スペースが当たり前になってしまった私には、少々居心地が悪い。
だが、私には期待があった。―2017年の息子は、もしかしたら歩いているんじゃないかと…
「どうだったかい?」
行きの列車でお会いした老婆が、嬉しそうに声をかける。
「ええ、まぁ…」
「そうかい、私もモヤモヤがスッとしたわ。それだけで満足ってもんよ。」
 途中駅からも人は乗り込む一方で、車内は混雑してきた。電車がブレーキをかけると、肩と肩が触れ合う。だけど不思議と皆、顔は明るい。車椅子の周囲にも窮屈そうに人が立ちはだかり、いよいよ息子は目を覚ました。「あれ、ぼくたちなんで電車に…?」
乗換駅でも降りる乗客はいない。行き先は皆、共通なのだから。

          6
SO17 かしわ台。
「ごめんごめん、起こしちゃったね。」
息子にこの状況は、とても説明などできそうにない。
見慣れた濃紺の制服を身にまとった駅員が、スロープを準備してくれていた。2017年、12月18日。深夜。私たちは戻ってきた。
「ちょっといい?一歩立ち上がってみて。」
早まる気持ちを抑えきれず、スロープを降りた私は、息子につい、促す。一歩。ひょっとして、一歩が出るんじゃ…
 ―
 ―
―危ない。
結果は…いつもと同じだった。
期待、しすぎたかなぁ。
バランスを崩した息子を抱え、私はその場にへたばり込んでしまった。

         7
誰もいなくなったプラットホーム。通り抜けていく風が、頭と体を冷やす。
不意に電光掲示板が点滅を始める。
―回送―
「あっ、見て見て。新しい電車!」
息子の顔に、ぱっと明かりが灯る。
真っ暗な客車のネイビーブルー。特急列車のようなフォーマルな車体が、心地良い音を響かせて、こちらへ近づいてくる。
―あっ…
運転士は、見覚えのある、あの顔だった。
―父さん―。
回送列車は、ホームで停車した。亡きはずの父は、私の前に降り立つとこう言った。
「誰のせいでもなかったってことだよ。」
私は頷くことしかできなかった。
「今まで、ずっと自分を責めてたろう。できることはやった。でも結果は変わらなかった。つまり…」
つまり―
「最初から間違ってなかったんだよ。自分のせいでも、誰かのせいでこうなったわけでもない。」
5年間、ずっと抱えてきたモヤモヤが、すっと引いていくのを感じた。
(気付かせてくれて、ありがとう。)
私は、ようやく息子の障碍を受け入れることができたのかもしれない。
 「お友達なの?」
息子が不思議そうに尋ねる。
「電車を運転してるんだよ。今日だけ、ね。」
父は眩しそうな眼差しで孫と言葉を交わし、正体を明かすことはなかった。
「カッコいい電車だねぇ!」
息子は目を輝かせていた。

          8
 「今夜は、この列車の特別乗車に招待するよ。」
運転士の父がそういうと、客車が一斉に明るくなった。
 ヘッドマークに「未来」の文字。
走り出した列車はスピードを上げ、見慣れた街並みを駆ける。車両に漂う新しい匂い。
駅を通過。あれっ、ホームドアが付いている。次の駅も、また次も。
 クレーンが活躍していたはずの二俣川駅。圧巻のタワービルと、洗練された駅前。
漆黒に浮かび上がる丘陵地の緑と、港横浜、ビルの赤い点滅。
高架化した新しい線路からは、ほら。
「見てごらん、窓の外。」
今は狭くて車道に降りる歩道も、ほら、車椅子で通れるように広がっている。
「いつの間に工事したんだろう。すごいねぇ。」
気がつくと私たちを乗せた列車は、長い長いトンネルへ入っていた。
 地下には新駅のプラットホーム。信じられないけど、確かにここは、未来のようだ。
「この先は新宿にも繋がってるんだよ。」
「本当?」
そう。今はまだ、乗換と混雑で、一大決心をしなければ車椅子で出かけられない街。
列車はさらに勾配のある地下を進み、新横浜方面へ向かう。
「次の駅は、新幹線に乗り換えられるよ。」
「じゃあ今度の旅行は、電車で行きたい!」
息子はひらめいたように笑って言う。
 そう遠くはない未来。たとえ車椅子だろうと、躊躇せずに電車に乗れる時代。バリアフリー化の拡充した街と、ますますの利便性により、広がってゆく世界。
この未来がやってくる頃、息子はどんな少年になっているのだろう。今日の出来事を、覚えているだろうか。

 未来への旅をプレゼントしてくれた父は、あの相模大塚駅から延びる廃線に消えていった。懐かしい貨物列車を運転して。

以来私は、東に向かう厚木街道を運転する度、あの日の出来事を思い出す。
踏切。
一時停止…


―プップー―
後続車のクラクション。
苦笑いしながらアクセルを踏み直す。
わくわくするような未来が、今、幕を開けようとしている。

著者

日野とうき