「暗闇坂の橋の上」中川薫

 深夜の相鉄線鶴ヶ峰駅で終電を降りた岩田は家路を急ぐ。明かりの消えた商店街から少し行くと、岩田がひそかに暗闇坂と呼んでいる急な下り坂で、酔いの残る体にはきつい。
 ため息をついて下り始める。
 それにしても暗い。坂の上から下までの間に街灯が一本しかない。しかもそれが切れかかっていて、ぶるぶる震えながら点滅する。。両側の木々は黒い塊となって頭上に覆いかぶさる。やがてごうごうと水音が聞こえてくる。暗闇坂を下りきった所、すり鉢状の地形の底に橋がかかっていて、その下を流れる川の音だ。橋を渡り始めたが、急いで歩いてきたせいか急に胸が苦しくなった。吐き気がする。岩田は立ち止り、欄干から身を乗り出して、こみあげてくるものを吐き出した。吐いてしまうと急に寒気がして首をすくめた。闇の中で、昨日の雨のせいか水嵩が増した川の音だけがやけに大きく聞こえる。手すりに身を任せて目を閉じ、そのまましばらくじっとしていると、吉岡の顔が目に浮かんだ。
 勤め先の出版社は今、嵐の海に浮かぶ小舟のように揺れに揺れている。読者、特に若者の活字離れが言われて久しく、グーテンベルク以来の情報革命だなどと業界を取り巻く状況は深刻だ。岩田の勤め先は良心的な本作りで定評のあるこじんまりした出版社だが業界、というより、世界のこの大きな変化についていきそびれている。遅かれ早かれ大手出版社か別の業種の企業に吸収合併さるか、でなければ倒産だろう。本はスーパーの商品とは違う、売り上げがすべてではない、という古手の声は、「甘いね。そんなこと言ってるからどんどん取り残されるんだ。本だって所詮、売れてなんぼの商品じゃないか!」と資本主義の嵐にかき消されていく。
 同僚の吉岡は早期退職者募集に真っ先に手を挙げた。妻の実家の北陸の小さな造り酒屋を継ぐという。今夜は神田の蕎麦屋に同期の数名が集まって吉岡の歓送会だった。
「四十も半ばを過ぎて新しいこと始めるのはきついぞ、覚悟はできてるのか」「大丈夫かそんな田舎に引っ込んで」「本のことしか知らないお前が酒造りなんかできるのかよ」などと言われても、吉岡は「なに、本は無くなっても、酒は無くならない。これからは職人の時代だ。俺は酒造りの職人になるんだ」と気張っていたものの酔いが回るにつれ、ぐちが出た。「情報革命だ? 笑わせるな! 質より量の情報のどこに価値がある。動くものならなんにでも飛びつく繁殖期の蛙じゃあるまいし、俺はいやだ。このまま居座ってもいいことはない。だから見切りをつけた。しかしだ、自分が酒屋の親父になろうとは夢にも思わなかった」
 それを聞いて同僚たちも口々に思いをぶちまけ始めた。大量な情報と大衆が直接結びついて送受信する不気味さ、真実はどこにある、情報を装った怪しげな力による情報操作の危険性はどうなる、などなど、話は尽きなかった。「だから」吉岡は言った。「だから、俺はいち抜けたのさ。これからはアナログ路線だ。山から木を切り出して樽をつくり、その樽で酒を仕込む。昔から水と米が自慢の土地だ。自然の恵みに職人芸、人肌の温もり、森の神に山の神、ああ、ありがたや、ありがたや」言いながらポンポンと柏手を打ったので一同笑い転げた。しかし吉岡の顔には一抹の寂しさが漂よっていた。そこにいる誰も多かれ少なかれ、吉岡と同じ思いだった。
 岩田自身も早期退職に手を挙げようかと迷ったが、吉岡と違って退職してもその先がない。とにかく次の身の振り方を考えてからでも遅くない、と、踏みとどまったのだが、要するに優柔不断なだけかもしれない。なんとかしなければと不安は焦るばかりだ。
 ふと、背後に足音が聞こえたような気がした。それも、一人二人ではない、大勢だ。急いで走りすぎていく。ふりむいたが、橋の上には誰もいない。闇に目をこらし、じっと耳をすました。するとぼんやりと音が聞こえてきた。足音だけではない。蹄が地を蹴り、金属がぶつかりあい、鋭いものが空気を裂いて地面に突き刺さり、何か重いものが地上にもんどり打って地響きを立て、時折、遠くで歓声があがる。不思議な音の塊が遠くから押し寄せてくるようだ。耳鳴りか、幻聴か、酔いのせいか。
 急に寒気を感じて体を震わせ、コートの襟を立て、背中をまるめて歩き始めた瞬間、背後に衝撃を感じた。首根っこをぐいと捕まれた。振り向こうともがいたがびくともしない。得体の知れない力が背後から岩田をしめつけている。必死に抵抗し、やっと振り向いて見上げると、真っ黒な影のようなものが自分に覆い被さっているではないか。あっという間に背中を欄干に押しつけられ、押し返そうとする岩田の手は虚しく空をつかむだけだ。「やめろ!」欄干の上で弓なりに体を反らせて岩田は叫んだが、黒い影に両足を軽々と持ち上げられ、あっさりと投げ出された。「アー!」と叫びながら頭を下に、ゆっくり回転しながら川に落ちていく。落ちていく岩田の耳に橋の上から地響きのような声が聞こえてくる。「返せー! 返せー! 首を返せー!」声は闇を震わせながら次第に弱々しくなっていく。「返せー、返せー、返してくれ!」最後はむせび泣くような声に変わったと思うと、ふっと聞こえなくなった。代わりに、けたたましい大勢の笑い声が聞こえてきた。見上げれば、いつのまにか、橋の上には無数の黒い影が群がり、流されていく岩田を指差して笑い転げているではないか。「謀反人だ!」「裏切り者だ!」「負け犬だ!」「見苦しいものよ。負け戦で、首を惜しがるとは」 影たちの笑い声が幾重にも重なって木霊し、次第に遠のいていく。岩田は流されながら夜空を見上げた。冷たい月が見下ろしていた。
 
 終電を降り、暗闇坂を通って帰ってきたのは事実だ。しかし、橋の上で影に襲われたり、川に落ちたりはしていない。橋の途中で吐いたような気はするがはっきりしない。その後、どうやって家まで帰ってきたのかまるで記憶がない。これだから夜中に暗闇坂を通るのも橋を渡るのもいやなのだ。二日酔いの頭を抱えて起きてみると、ちょうど妻の圭子が庭から入ってくるところだった。
「あら、起きてたの? 昨日遅かったから起こさなかったのよ。よかった、もうすぐ、植木屋さんが来るの。あなたも見てほしかったのよ。昼前には来るっていってから」
 そうか、今日だったか。すっかり忘れていた。岩田は、猫の額ほどの庭に目を向けた。カイズカイブキ、椿、無花果、くちなし、合歓木、紫式部、千両、山茶花、ツツジ、小ぶりの木ばかりだがいろいろ植えてある。庭仕事は苦手で圭子に任せっきりの岩田だが、あの木だけは気に入っていた。それが出猩々(でしょうじょう)だ。
もみじの一種で、春に出る新芽が鮮やかな赤い色で、他の木々とは逆に、秋に向かって次第に緑色になっていく。この家の新築祝いに贈られた苗がいつのまにか庭木の中で一番大きな木に成長し、庭のほぼ中央であたりを睥睨している姿はなんとも勇ましかった。しかし、例年なら今頃は周囲の若葉の中で鮮やかな赤い新芽をみせてくれる出猩々が去年から急に元気がなくなり、一向に葉をつける気配がない。心配になって植木屋を呼んでみてもらうと「これはもうだめだ。切るほかない」と、あっさり言われてしまった。惜しいと思ったがしかたなく切ることにした。今度の日曜日と言っていたが、それが今日だったのだ。
 昼前に植木屋がやってきて、出猩々はあっという間に切り倒されてしまった。木が占めていた場所が急に空っぽになると、汚れたコンクリートの塀が丸見えで、庭にぽっかりあいた空間はいかにも寒々しく、今までそこにいた誰かがふっといなくなったような寂しさを感じさせた。「だんなさん、この後、何かここに植えますか」植木屋が言うので「そうだなあ」一応、考えるふりをした。すると植木屋は「それより、この際、この辺少し模様替えしたらどうだろう。庭石の配置も変えて」と言い「そうね、それもいいわね」と圭子が言う。後は二人に任せることにした。
 植木屋はさっそく出猩々の周りに並べてあった庭石を掘り起こした。掘り返された直径三十センチほどの庭石が十個ほど、湿り気のある土をかぶったまま、芝生の上に並べられた。その日の作業はそこまでだった。明日また来て続きをやると言っていた植木屋はなかなかやってこなかった。なんでも、急に大口の仕事が入ったとかいうことだ。
 二週間ほどたった日曜日、ふと庭先に立った岩田は、植木屋が掘り返して並べていった庭石を見てギョッとした。十個ほどの石の中から、ひとつの顔が岩田をにらみつけていた。湿った土をかぶっていた間はわからなかったが、土が乾いてはがれ落ち、むき出しになった石の上に何本かの深い線が刻まれていた。それはどう見ても人の顔にしか見えなかった。それも、実に恐ろしい顔だ。てっぺんに刀傷を受けてえぐられたように斜めに深い線が走り、その下には眉を吊り上げたような突起があり、その下の窪みがカッと目を剥いて、への字に食いしばった口は苦しげに歪み、何か訴えているようにも、嘆いているようにも、号泣しているようにも見えるのだ。いずれにせよ恐ろしい苦悶の顔で、衝撃のあまり岩田はその場に立ち尽くすと、「おい、ちょっと来て見てくれ」と圭子を呼び「この石、どう思う?」と聞く。「どうって?」けげんそうにするから「人の顔に見えないか?」と言うと、圭子は腕組みして「別に」とそっけない。「苦悶の顔に見えないか?」と畳みかけると、くすくすと笑い、「ただの石じゃないの、大げさね。変な人」言うなりさっさと家の中に入ってしまった。そうか、圭子にはただの石にしか見えないのか。圭子のいう通りかもしれない、忘れよう、とは思ったものの、やはり気になって植木屋に電話した。「ちょっと聞きたいことがあるんだ。この間、出猩々を切った後ほっくり返した石だけどあの石はこの家を建てたとき植木屋さんがどっかから持ってきたんだよね。どこから持ってきたか覚えてるかな」 植木屋は「だいぶ前のことだから…」と電話の向こうで考え込んでいたが「ああ、思い出した。川だよ。ほら、駅の近くの川の上の方、昔戦場だったっていう原っぱの近く。あの当時はまだ川原に石がごろごろしてたから。今じゃすっかりコンクリートで固めちゃったけど」
 川原、と聞いて背中をすーっと冷たいものが走った。いやな夢を思い出したからだ。暗闇坂の橋の上で影に襲われたあの夢だ。
「あの石がどうかした、だんなさん?」と聞かれ、「いやね、実は」と、夢のことには触れず、石が人の顔に見えることだけを言うと植木屋がうろたえた。「時々そういうことあるんだ。だから石ってのは気楽に拾うもんじゃないって死んだ親父も言ってた。悪いことしたなあ」としきりに恐縮する。「それよりどうしたらいいかな?」「そういうことならちゃんと扱わないと」「というと?」「そうねえ、神社で厄除けをしてもらうとか」
 植木屋はああ言ったが半信半疑の岩田は石をしばらく観察することにした。どう見えるかは見る人の気分次第、そのうちに気にならなくなる。それからどこかに捨てればいい。
 しかし…そうはならなかった。岩田は毎朝、石の顔を見ないと落ち着かなくなった。天気のいい日なのに石は歯を食いしばり、目を閉じて涙を流している。涙、いや、あれは圭子が庭に撒いた水がかかっただけだと思ってもなぜかそれが無念の涙に見える。
 石は毎日少しずつ表情を変える。しかし、悲痛、苦悶、逆上、号泣、すすり泣き、どれも悲壮な顔ばかりだ。いずれにせよ、何か得体の知れないものが、何か理由があって、自分の目の前に出てきたような気がしてならない。
 毎晩のように夢を見る。それはいつも深夜の駅から始まる。駅を出て街灯が点滅する暗闇坂を下り、橋の途中で欄干にもたれかかると背後から黒い影が襲いかかり……しかし妻にも子どもたちにもこの夢の話はしていない。石の顔のことだけでバカにされているのだ。こんな夢の話などすれば真顔でノイローゼだの神経科に行けなどと言われるに違いない。
 考えた末、植木屋の言葉を思い出して、すがるような気持ちで近所の神社に石を持っていった。それは古い歴史のある神社で、龍神の祠や小さな滝や、戦国時代の武将が髪の毛を洗ったという伝説の小川もある。神主は石を見た途端絶句した。「顔に見えますか」という岩田の問いに黙ってうなずいた。岩田はほっとした。妻や子供たちは岩田の話をせせら笑ったが、岩田の気のせいだけではなかったのだ。「この石はどこからきたんです?」神主が石から目を離さずに聞く。「二十年以上前になりますが、あの、昔戦場だったという川原で植木屋が拾ってきてずっと庭石として埋まってたんですが、庭木を切ったついでに石を掘り返したら、この顔が出てきて」
神主はうなずき、石の表面をそっと手の平でなでると目を閉じ、両手を会わせ、なにやら呪文を唱え始めた。訳がわからずに岩田も同じように手を合わせた。やがて神主は目を開くと「無念の最後をとげた人物の怨念がとりついている。一応お祓いはしましたがね」
と言うではないか。これはやっかいなことになったと思った。
「お宅の神社でひきとってくれないでしょうか。うちのやつらはみんな、そんな石、捨ててしまえって言うんですけど」
「それはできません。今までずっと埋もれていた怨念がやっと行き先が見つかって出て来た。つまり、この霊は、あなたを頼って闇の中から出てきたんです。供養してあげなさい。でないと、逆に何かよくないことがおこるかもしれない」
 迷信深い方ではない岩田だが、そんな風にいわれると、ただその辺に放り出すわけにはいかない気がした。家族にバカにされながら重い石をかついでこの丘の上の神社まで運んできたこと自体、何か普通でない力が自分を動かしている気がする。
「実は、この石が出てきた頃から、おかしな夢を見るんです」
岩田は神主に例の夢の話をした。「そんなことだろうと思いました。供養してあげることです。これから一年の間、この石をお宅の庭のどこか日当たりのいい場所に置いて、毎日、水と線香を供えなさい。一年たつうちにきっと変わってきます。そうしたらうちでお預かりしましょう」
 岩田は、しかたなく石を持ち帰り、庭の隅の芍薬の根本に置いた。気のせいか、石の顔がほっと安心したように見える。
 その晩、また同じ夢を見た。深夜の駅、暗闇坂、ぶるぶる震えながら点滅する街灯、橋の途中で欄干にもたれかかる…いつもと同じだ。この後どうなるかもわかっている。何も見えないのに音や声が聞こえ、後ろから首根っこを捕まれ、川に投げ込まれる。急流に流されながら自分は空の冷たい月を見上げるだろう。 
 しかし、そうではなかった。欄干によりかかったとたん、背後に重々しい足音が立ち止まった。岩田は体を反転させた。すると、目の前に首のない鎧武者が立っていた。岩田は恐怖のあまり、ずるずると背中からずり落ち、尻餅をついた。首のない鎧武者が岩田の上半身を引っ張り上げて欄干にもたせかけると、地面を震わせるような声で言った。「怖がらずに聞いてくれ、この世に未練があるわけではない。ただ一つ、首のことが無念なのだ」そして右手を後ろの方に向かって大きく振り回した。とたんに鎧武者の姿は消え、目の前に、さんさんと日の光を浴びた緑の草原が広がった。しかしそれはただの草原ではない。戦場だ。人馬入り乱れ、槍、刀がぶつかり、矢が飛びかうすさまじい死闘の場だ。鎧武者の声が聞こえる。
「『鎌倉に異変あり。急ぎ駆けつけよ』との将軍家からの司令を受け取った私は、とりあえず長男を先発隊として、わずかの家来と共に出発させた。翌日、私自身も供の者たちと総勢百三十五騎でとるものもとりあえず館を出て、鎌倉街道、中の道を南へ向かってひた走った。青葉、若葉の森や林を抜け、木漏れ日の中、馬を駆りながら、私の思いは複雑だった。鎌倉の異変とは何事か。謀反だというなら何者がそれを企てたか真っ先に伝えてくるのが筋。それもいわずにいきなり異変とは。家来の中には、お屋形さま、これは謀略かもしれません、少し様子を見た方が、という者もいた。しかし、将軍家の一大事と知らされて、我が身かわいさに遅れをとったなどと言われては末代まで武士の恥。鎌倉で何があったのか合点がいかぬが疑えばきりがない。いずれ、すべては明らかになる。私は疑念を払いのけ、馬を走らせた。正午頃、我ら一行は二つの川が合流する草原で小休止することにした。我ら一行が馬を止めた時、草原の向こうの森がざわざわと動いた。よく見ればそれは森ではなく、本来なら味方のはずの鎌倉方から差し向けられた何万という軍勢だった。我々を待ち伏せしていたのだ。
 謀られたか……
 私はこの時、『鎌倉に異変あり。急ぎ駆けつけよ』という司令が、実は私をこの地におびき寄せるための謀略だったことを知った。さらに、先発隊として送った息子と家来たちがすでに鎌倉で謀反人として虐殺されたことを知らされた。
 謀略の張本人たちの顔が一人一人、思い浮かんだ。彼らが薄暗い広間でひそひそと企みごとをしている姿、主君亡き後の権力の独占を企む一族の男や女、そして、疑心暗鬼の彼らの不安に巧みにつけいる策略家達のあさましい顔、顔、顔。権力の亡者となった彼らは、亡き主君に忠実な私が邪魔になり排除しようとした。謀反人とは私のことだったのだ。なんという卑劣な、なんという浅はかな、なんという愚かな……不覚にも目の前に広がる緑が己の涙で一瞬かすんで見えた。
 草原をはさんで対峙する敵方は二万、味方はわずか一三五。勝敗は一瞬のうちに決まるだろう。こんなところで犬死にするより、ここはさっさと引き上げ、本拠地へ戻って体勢を立て直し、それから戻ってきて思う存分戦いましょう、という家来たちの言い分はもっともだ。しかし、それでは、やはりあの者は謀反を企てたのだと讒言者の言い分を正当化することになる。私には毫も謀反の気などなかった。しかし、ここから引き返せば無理矢理謀反人にされてしまう。謀略と知りつつ戦い、討たれる他はない。私は覚悟を決めた。讒言がまかり通り、忠臣が謀略によって抹殺される。いざとなれば血を分けた親兄弟も、敵味方に分かれて戦う。忠義が仇ならばいかに無念であろうとも運命と諦める他ない。己の誠を信じ、力の限り戦い、運が尽きればそれまでのことだ。
私は家来たちに「お前たち、無理をするな。帰りたい者は帰ってよい」言ったが、誰一人、抜ける者はいなかった。
「よーし。では行くぞ」「おう!」
 私は草原に向かって先陣を切った。雲霞のように敵が向かってくる。緑の草原に幟が林立し人馬が入り乱れる。かたや二万、かたや一三五である。一瞬で勝負がつくはずが、正午に始まった戦闘が四時間あまり続き、やがて日が傾いてきた。
 草原を染めた血を吸い取ったかのような真っ赤な夕日を目にした一瞬、私は敵の矢を腹に受け、どうと馬から落ちた。既に無数の傷を負っていた私だがこれは致命傷だった。ずっと私のそばについていた家来が寄ってきて介抱しようとしたが、もはや、なすすべはなかった。私は家来に向かってうなずいた。「後をたのむぞ!」
「お屋形様、無念でございます。いずれ私もお供を」家来は泣きながら私の首をかき切った。その瞬間私の魂は体から抜け出した。
 私の首を抱きかかえて馬に乗ってかけだした家来は、橋の上で追っ手につかまりそうになり、首を抱えたまま川に飛び込んだ。橋の上から敵が矢を放った。家来はまるでハリネズミのように体中に矢を受けて流されていくがそれでも私の首を放さない。追っ手たちが橋の上ではやしたてる。「謀反人だ!」「裏切り者だ!」「負け犬だ!」「見苦しい。負け戦で、首を惜しがるとは!」笑い声が幾重にも重なって木霊しながら遠のいていく。ああ、何が無念だといって、この時ほど、悔しい思いをしたことはない。いつの間にか、私の首は家来の手を離れて、ただ川を流れていった。空から冷たい月が見下ろしていた。あれからどれだけの月日がたったのか。
 謀略で、謀反人という根拠のない汚名を着せられたのみならず、首頭を惜しんで川に逃れたという不名誉も重なり、私は歴史に武将として恥ずかしい記録を残してしまった。死んでも死にきれず、いまだにこうしてさまよっているのだ」
 鎧武者の言葉が途切れた。気がつけば、目の前に広がっていた戦場はすでに闇に包まれ、沈黙があるだけだった。
「しかし」岩田が言った。「言い伝えによれば、あなたの首頭はあなたを倒した敵が切り取り、近くの井戸で洗い清め、首実検のために鎌倉まで運ばれた。そして後に丁重に戦場近くの寺に葬られた。その証拠に、首洗い井戸、首塚があり、慰霊塔まで残っているではありませんか」
 鎧武者の寂しい笑い声が聞こえた。
「この草原で討ち取られた首を鎌倉まで運ぶのはいい。しかし、それをもう一度この川原まで持ち帰って埋めると思うか? 首洗い井戸だの首塚などというのは、どうせ後から誰かがでっちあげたことだ。謀略によっておびき出した上、謀反人の名を着せて、多勢に無勢で裸同然の我ら一行をなぶり殺しにした自分たちのやましさから、讒言者たちが墓だの慰霊碑だのをでっち上げ、あちこちに建ててまわったのであろう。歴史とは常に勝者が作り上げ、後の世に伝えていくものだ。私の首は流れていってしまった。無念の思いだけがこうしてさまよっている」
 鎧武者の言葉が途切れ、さらさらと川の流れる音に変わった。
 
 もう理屈抜きに神主や鎧武者の言葉を信じる他なかった。岩田は庭の隅においた石に毎日水と線香を供えることを忘れなかった。日がたつにつれ、気のせいか、石の顔は徐々に穏やかになっていった。吊り上がった眉も目も落ち着き、食いしばっていた口元もゆるみ、心地よげな柔らかい表情に変わり、時としてまるでまどろんでいるようにもみえた。といえ、これは全部、岩田の心境の変化だと誰かに言われれば反論はできない。しかし、石の顔の変化と同時に、岩田の心の中でも何かが変わっていた。
 今から数百年前、この辺りは戦場だった。群雄割拠し権力者が次々と現れては消えていった。首のない鎧武者も、そういう時代に生きていた。時代の大きなうねりに翻弄される一人の人間として。武将でも英雄でもないが自分だって同じことだ。どうしようもない時の流れの中で、できることをやる、それだけだ。
 予想通り、岩田の会社は大手出版社に吸収合併されることが本決まりになった。その先のことはまだわからない。
 石が掘り出されてからちょうどまる一年たった。明日になったら神主との約束通り、石を神社に持って行って納めてもらおうと思いながら岩田は床についた。
 その夜、久しぶりに夢を見た。また深夜の駅だ。電車を降り、急ぎ足で暗闇坂に向かう。街灯が頼りなげに点滅する坂を下り、橋の途中で欄干にもたれて川を見下ろした時、馬の蹄の音が近づいてきて、後ろでピタリと止まった。振り向くと、首のある武将が馬上から岩田を見下ろしていた。その顔は苦悶の跡など微塵もない、晴れやかで凛々しい表情だった。
「世話になった。これで私も心おきなく家来達の待つ所へ行くことができる。礼を言うぞ」
 にっこり笑うと馬上の武将は草原にかけだしていく。家来たちがその後を追っていく。向こうから雲霞の如く敵が襲ってくる。ワーッという音が聞こえた途端、すべてが消えた。
 岩田は暗い橋の上に一人、立っていた。
 翌朝、神社に持って行く前に最後の水と線香を供えるつもりで石の前に立った岩田は腰が抜けるほど驚いた。あの石がなくなっていたからだ。石は一夜のうちに粉々に砕け、後には小さな砂の山が残っているだけだった。あわてて神主に報告に行くと、「そうですか、それはよかった。ご供養のおかげですよ」とこともなげに言い、夢で首のある武将が出てきたことを話しても一向に驚かず
「よかった、よかった」と、ただうなずくばかりだった。
 あれから数年、出猩々を切った後に何を植えようかと思いながらそのままになっている。時間がたつうちに周囲の木々が空間を奪い合うように枝を広げて隙間が目立たなくなったせいもある。
 しかしそれだけではない。
 

著者

中川薫