「最終電車で会えたなら」紀美乃 瞳

 今朝、一人で住んでいる相模大塚の家を出る時にリビングルームのカレンダーをめくった。カレンダーの残りの枚数は2枚になった。この2枚をめくり終えると私は25歳になる。
 私は通勤のため毎日横浜まで相鉄線を利用している。
 見慣れた朝の光景の中にガスタンクが映り電車が終点横浜駅へ近づいたことを知らせていた。その時ポケットの中でスマホの振動がメール着信を告げていた。窮屈な姿勢のまま画面に目を落とすと2年前まで付き合っていた女性から突然のメールが飛び込んできていた。
   「岩井君の携帯で間違いありま
   せんか、良かった、アドレスが
   変更されていなくて、突然のメ
   ールごめんなさい、今夜会えな
   いかしら、できれば大和で」
 電車が横浜駅のホームへ入り静かに停車した。いつものようにまずホームドアが開き、続いて電車のドアが開いた。一斉に改札口へ向かう人波をやり過ごしもう一度スマホを確認した。
 間違いなかった。2年前の今頃まで、高校2年生の秋から7年間付き合っていた彼女からのメールだった。
 彼女と私は2人だけの大切な時間を過去に共有していた。
 ただお互いに目の前の相手を大切にしていればよかった高校時代や、明日がどうなるか解らなくて朝を迎えることが不安で仕方なかった浪人時代、そして将来自分が社会にどのような貢献ができるか模索していた大学時代をいつも2人は手探りで不器用に過ごしてきた。
 彼女の家は小田急江ノ島線の桜ヶ丘、私の家は相鉄線の相模大塚だった。
 2人とも高校は希望ケ丘、予備校は横浜、大学は和田町の駅を利用していた。
 2人が付き合っている頃、例えば高校の文化祭の準備や予備校の試験対策、大学のゼミのコンパなどで帰宅が遅くなる時が少なからずあった。そんなときは必ず私が桜ヶ丘の彼女の家まで送って行った。時には「上がっていって下さい」と言われたこともあったがいつも固辞していた。
 
 2人が高校時代からよく来ていた大和駅近くの喫茶店で遅くまで話していたのは大学4年の年の暮れのことだった。あと数日で新年を迎えるという大和の町並みも雑踏を行き来する人波も、浮き足立っているのがガラス越しに伝わってきていた。
 私は翌年の4月から県内の私立高校に就職が決まっていた。引き続き横浜まで相鉄線で通えることに安堵していた。
 そして内心、彼女もそうするだろうなと思っていた。内定の出ている神奈川を代表する大手企業の名前を聞いた時に、横浜まで相鉄を利用して行くのだろうと記憶していた。
 しかしその日彼女の話は私にとって想定外のことだった。
 話の内容は、内定の出ている一般企業への就職を辞めて大学を卒業したらNPOの国際貢献に参加するということだった。
 「私いろいろ考えたの、勿論両親にも話した。初めのうちは強く反対されたわ、でも最後は、お前が決めたことを親として尊重してやりたいと言ってくれたわ」
 暫く言葉が出なかった。
 その日以降2人はお互いに学生生活最後の忙しさを装い次第に疎遠になっていった。
 そして翌春、彼女は桜ヶ丘を離れ、暫くして日本を離れていった。
 彼女の向かった先は海外の有名な都市ではなく、電気や上下水道などの生活インフラが整っていない様な地域だった。勿論高速道路も電車も通っていないし、スマホも通じないような所だと言っていた。
 
 2年が経過した。互いに何の連絡も無いままの2年間だった。
 そして今朝2年ぶりのメールが来た。
 直ぐにメールを返せば、いつ会えるかとずっと待ち焦がれていたことを見透かされそうで職場に行ってから返信した。
 昼過ぎに彼女から2度目のメールがあった。
   「朝から関係各所へ帰国報告を
   していますが、官公庁や公的機
   関は何処も混雑しています。
   でも必ず大和へ行きます。
   到着時刻がわかったらまた連絡
   します。」
 次のメールは夜になってからだった。
  「ごめんなさい、まだ新宿で帰
   国報告中です。私は明日の午後
   成田からまた出発しなければな
   りません、今夜中に必ず大和へ
   行きます、到着時刻がわかった
   ら連絡します、待っていて。」
 
 午後7時前に仕事を終えた私はまだ早いけれどまず大和へ行っていようと思った。
 彼女が遅れるのなら最近できたシリウスという大和市立図書館へ足を延ばしてみようと考えていた。
 シリウスは夜9時まで開館していた。蔵書が豊富で、ゆったりと落ち着いたスペースの中で静かに本の世界に浸れる空間だった。 
 暫く書架を巡り気に入った一冊を持ってページを繰っていった。
 いつしか高校時代の図書室で図書委員の彼女から貸し出しの本を受け取ったことや、大学の図書館でやっと見つけた本を2人でのぞき込んでいるうちに頬と頬がくっついてしまったことを思い出していた。
 本が好きな彼女だった。
 高校時代最後の冬休みだった。紅葉坂の県立図書館へ2人で行った事があった。電車賃を節約するために横浜駅から桜木町まで電車に乗らずに、平沼橋で降りて歩いた。歩きながら彼女が言った。
 「私、本が好き、本のような人が好き、本を好きな人が好き」
 「俺、そこそこ本好きだけど・・・」
そんな会話が唐突に蘇っていた。
 
 やがて閉館時刻になり、再び大和駅へ足を向けたが、彼女を待つはずだった喫茶店ももう閉じていた。
まだ、相鉄線大和駅が地上にあった時の話
を父からよく聞かされたことを思い出しながら暫く大和の町並みを歩いていた。
いつの間にか小雨が降っていた。
 仕方なく一人でファミレスへ行き彼女の連絡を待つことにした。軽食を取り、2杯目のコーヒーを注文し、明日の仕事の段取りを確認した。腕時計を何度も見てすでに日付が変わっていることにも気づいていた。そしてスマホに目を落とした時メールが来た。
「スマホのバッテリーがもうあ
りません。小田急に乗っていま
す、大和へは最終電車になりま
す、ごめんなさい、こんなに遅
くなって」 
 スマホで小田急の時刻表を確認しほどなく最終電車が来ることが判ると、ファミレスを出て大和駅へ向かった。そして2階の小田急線下りホームへと続くエスカレーターの下で待った。
 暫くして電車がホームに入りドアの開く音が聞こえたと思うと、エスカレーターを走り降りる人が見えた。ホームのアナウンスが0時24分発片瀬江ノ島行き最終電車であること、乗り間違えのないよう注意することを何度も告げていた。小田急線ホームから降りてくる人がいなくなり、最終電車のドアが閉まり発車する音が聞こえた。
 駅を静寂が包んでいた。
 彼女は降りてこなかった。小田急江ノ島線の下り最終電車はもう出発したというのに。
 念のため2階ホームを確認したが誰もいなかった。
彼女のスマホに電話をした、何度掛けても
「お客様がおかけになった電話番号は現在
・ ・・・・」
というメッセージの繰り返しだった。
 どうしたのだろう、何があったのだろうと思いつつ小田急の駅係員に確認したが、藤沢方面の電車は、今夜はもうありませんという予想通りの返事だった。
どうしようか、もう少し待ってみようか、
待っていれば、とびきり嬉しい事があった時の彼女のあの半分泣きそうな笑顔に会えるのかなと逡巡しつつ相鉄線の地下ホームへゆっくりと降りた。
 海老名行きの0時36分発の電車が駅を発車した直後だった。
 ホームの電光掲示板は次の電車が0時49分発の海老名行きであることを示していた。
 高校時代から通い続けていた相模大塚の駅も、父の定年退職後に父母が郷里の東北の町に帰ってからは私一人が毎日利用するようになっていた。一人で持て余し気味の家へ帰り、照明や冷暖房のスイッチを入れる事には馴れてきたが、「ただいま」も「お帰りなさい」も言わずに済む生活にはいつも違和感を感じていた。
 結局彼女と会えずに、今夜もまた一人で同じ事の繰り返しをするのかなとぼんやり思いつつ海老名行きの電車を待っていた。
 ホームのアナウンスが上り横浜方面行きの電車はもう終了していることと、下り海老名行きの0時49分発の電車がまもなく到着することを告げていた。
 瀬谷駅の方に見えていた小さな光が直ぐに大きくなり、ホームに海老名行きが入線してきた。高校時代から彼女と相鉄線に乗る時は行きも帰りも必ず横浜方面前から3輌目の先頭ドアと決めていた。
 電車がホームに入り停止しドアが開くと、自然とその頃のいつものドア位置に立った。発車まで暫く間があった。
 「彼女はとうとう来なかったけれど、この時間まで待っていたことに意味が無かったはずは無い・・・・かな」
 と思っていた。
 車掌の車内アナウンスが間もなく発車することを伝えていた。
 ホームのアナウンスも海老名行きが間もなく発車することを繰り返していた。
 その時だった。
 「カンカンカン」という音が1階のコンコースから響いてきた。階段を走り下りる女性のヒールの足音が、深夜の相鉄線大和駅のホームに響き渡った。
 「嘘だろ」
と思った先に必死に階段を走り降りる彼女の姿があった。
 泣きそうな顔だった。そして迷わずに私の立つドアに飛び乗った。
 同時にドアが閉まりゆっくりと電車が動き出した。 
 「間に合ってよかった、会えてよかった。ありがとう、絶対待っていてくれるって思っていた」
と彼女は言った。
 「間に合ってよかったって言うけど、一体どうやって大和まで来たの、小田急の下り最終電車は終わっているのに」
と尋ねると彼女は言った。
 「最後のメールで伝えたように下り最終電車で来たのよ、0時42分大和着の」
 「ちょっと待ってよ、俺、小田急の24分発の最終電車が発車するのを確認して、君が降りてこないから一人で帰ろうとしていたんだぜ、その後の電車なんか無いはずだぜ」
 「よかった、少しも前と変わっていない岩井君で、あわてん坊のところも。」   「私が乗ってきた小田急の最終電車は大和止まりなの、大和が終着駅だから大和駅の発車時刻表には書いていないのよ、大和を最後に発車する電車ではなくて、最後に到着する電車なの」
一気に話し終えると同時に彼女の瞳から大粒の涙が溢れ私の腕に顔を埋めた。
 2人を乗せた海老名行きが大和を発車し、暫く走った後、左手に厚木飛行場が見えるあたりで地上に出た。もうすぐ相模大塚だ。
 
 いつの間にか雨は上がっていた。
 

著者

紀美乃 瞳