「未来へと続く電車」東風 遥

 相鉄線は子供の頃の私にとって銀河鉄道だった。

 横浜市の南部に生まれ育った私には、幼少期に相鉄線に乗る機会は全くなかった。親に連れて行ってもらう普段の買い物は駅前のスーパーマーケット。ちょっと大きな買い物の時は地下鉄に乗って伊勢佐木町、または京浜急行に乗って横浜へ。渋谷のプラネタリウムに連れて行ってもらったときは東横線だったし、高崎のお祖父ちゃんの家に行くときは国鉄(そう、当時はJRでなく国鉄といった)を乗り継いで行った。
 多分五歳ぐらいの頃、親に連れられていった横浜駅で、見たことのない電車の案内板を見つけた。「相鉄線」と書かれている。私が表示を眺めていると「そうてつせん」と読むのだと母が教えてくれた。「そうてつせんってどこに行くの」と尋ねると、「どこか遠くに行くのよ」と頼りのない返事が返ってきた。母も詳しくは知らなかったのだと思う。幼い私は想像力たくましく、相鉄線が花の咲き乱れる高原や星屑の散らばる銀河の中を走って行くところを思い浮かべた。空想好きな子供だった私は「そうてつせん」に乗って宇宙を飛んで、いろいろな国を旅して楽しんだ。

 本物の相鉄線に初めて乗ったのは中学二年の秋だった。クラスの男子が出るバスケットボールの試合に応援に以降と誘われた。友達の一人がその男子に熱を上げていて、みんなで彼を応援しようと仲良し五人組で計画を立てた。
 若い(幼い?)とは恐ろしいもので、試合会場である平沼記念体育館の場所を誰も正確に分かっていないことに気付いたのは、横浜駅に着いてからだった。
「三ツ沢にあるんだって。三ツ沢競技場の三ツ沢かなあ」
「三ツ沢競技場って、小六の時に学校で行ったよね」
「うん。だけど、どうやって行ったっけ」
 頼りないばかりである。かくいう私も、何の根拠もないままに、とんでもない発言をした。
「相鉄線に平沼橋って駅があるの。その近くじゃない?」
 気のいい友達は私の言葉をそのまま信じて、全員で相鉄線に乗り込んだ。
 黄緑色のボディの電車は、当たり前のことだが、ごく普通の電車と同じように動き出し、横浜の街をちょっと進んで、ごく普通の電車のように駅に停まった。相鉄線って普通の電車だったんだなと、心の中でちょっと悲しいような、ちょっと安心したような、魔法が解けていくような感覚を味わったのを今でも覚えている。
 平沼橋駅は小さな駅で、駅舎が跨線橋の上にあった。四方の景色はよく見えたが、肝心の体育館らしい建物はどこにもなかった。私は不安になり、駅員さんに所在を尋ねた。
「平沼記念体育館? あの『平沼』は平沼橋じゃない、平沼なにがしって人の功績を讃えてできた体育館の名称だ。三ツ沢グランドの手前にある。まずはこれで横浜に戻って、三ツ沢グランド行きのバスに乗ることだな」
 駅員さんは私達五人に「定期券購入用」と書かれた切符を手渡してくれた。
「この切符で横浜に戻れる。内緒だぞ」
 駅員さんは豪快な笑顔で私達を改札の内側へと連れ戻した。

 次に相鉄線に乗ったのは五年後だ。高校三年の一月。センター試験だった。私の試験会場は、直線距離ではそれほど遠くないが電車だと横浜経由でないと行かれない、いずみ野にある高校だった。
 前日の夜から降り出した雪で、朝起きると窓の向こうは真っ白だった。テレビでは「北陸の○○市では大雪のためセンター試験の開始を一時間繰り下げ‥‥」などと流れていたが、横浜の雪は私達にとって大雪でも全国規模ではちょっと積もった程度だ。電車は止まらないし、試験は時刻通り行われる。
「途中で滑って転んだりするなよ。気をつけろ」
と両親に言われ、予定より一時間も早く家を追い出された。
 親に言われるまでもなく、滑って転ぶと縁起が悪いからゆっくり慎重に駅に向かう。二、三回ヒヤリとすることがあったが、何とか転ばずに駅に着く。京浜急行で横浜に出て相鉄線に乗り換える。
 いずみ野駅は二俣川駅から枝分かれしたいずみ野線にある。この電車は海老名行きだから、乗り換えを間違えないようにしないといけない。これは急行だから‥‥、次がもう二俣川駅だ。
 私は間違えないように必死で、電車に貼られた路線図と通過する駅の表示板を何度も見比べた。試験勉強よりも真剣だったかもしれない。
 いずみ野駅のホームに降りると学生服の受験生で溢れかえっていた。
「学生の皆さん、センター試験頑張ってください」
 駅構内にアナウンスが流れていた。更に改札のところに駅員さんが二人立っていて、私たち一人一人に「頑張ってください」と声をかけていた。私たちは優しい声に背中を押され、試験会場へと向かった。

 滑って転ばなかったのが良かったのか、駅員さんの激励が効いたのか、私は無事に大学生になった。そして相鉄線の定期を手に入れた。
 毎朝横浜駅から相鉄線に乗り換えるのにワクワクした。相鉄線の横浜駅は洋画に出てくるターミナル駅みたいで格好いい。相鉄瓦版の存在も知った。これを読んでいると、私も相鉄線沿線に住んでいるような気がしてくる。私が日常に乗っていた京浜急行の急行は飛び飛びに駅に停車したが、相鉄線の急行は前半の駅を全部通過して後半の駅に全部停まる。これもまた、不思議で新鮮だった。
 しかし、二年も三年も同じところに通っていると、新鮮味もワクワク感も薄れてくる。相鉄線は相変わらずお気に入りだったけれど、子供の頃のような特別な電車ではなくなっていった。京浜急行や東横線のように、首都圏近郊を運行する私鉄の一つという位置づけに、私の心の中で変化していた。
 大学卒業後、私は渋谷にある会社に就職した。これで相鉄線とは完全に縁が切れた。初めの数ヶ月は相鉄瓦版を手に入れるために駅に立ち寄ったりしていたが、買い物を楽しむ場が横浜から渋谷に変わると、相鉄線の駅に近付くこともなくなった。

 私の心の中の相鉄線スイッチが再びオンになったのは数年がたってからだ。会社の先輩と付き合い始めたのがきっかけだった。伊勢原に住んでいて小田急線と井の頭線で渋谷に向かう先輩と、自宅から京浜急行と東横線で渋谷に向かう私。通勤経路には全く重なりがない。一見どこも繋がっていないように見える私たちは、実は秘密の連絡線路で繋がっていた。京浜急行の横浜駅と小田急線の海老名駅をつなぐ相鉄線である。
 初めてのデートは鶴ヶ峰駅からバスに乗ってズーラシアだったし、大山登山をした時に初めて相鉄線を始発駅から終着駅まで乗り通した。その後もお互いのテリトリーを行き来するのに、いつも相鉄線が使われた。
 学生時代に乗り慣れていたはずの相鉄線だったが、横浜市を抜けると何となく風景が変化するのに気付き新鮮さを感じていた。子供の頃、相鉄線を銀河鉄道に見立てて遊んでいたことを思い出した。
 笑われるかなと思いながら、子供の頃の話を彼にすると、
「それって素敵だね。相鉄線には希望ヶ丘もゆめが丘もあるし‥‥」
と、真面目な顔で応えてくれた。
 私はその瞬間、彼がとっても大好きだと思った。ずっと一緒にいたいと思った。相鉄線も大好きだと思った。
 そして何年か経ち二人は結婚した。新居は、どちらからともなく、相鉄線沿線ということになった。
 相鉄線は毎日私を運んでくれる。いつの間にか東横線の横浜駅は地下に潜り、京浜急行の横浜駅はホームが二つになっていたけど、相鉄線の横浜駅は私が学生の頃と変わらない姿で、変わらない安定感で、変わらない優しさで。

 そして今日‥‥
「あった! そうにゃん!」
 もうすぐ三歳になる息子が、上を見上げて嬉しそうに叫んだ。
 ここは相鉄線の電車の中大。息子の目はそうにゃんのつり革に釘付けになっている。そうにゃんは、目下の息子の一番のお気に入りだ。アンパンマンよりウルトラマンよりも大好きなヒーローで、子供部屋にはそうにゃんグッズが山になっている。
「よーし、高い高いしてやろう」
 駅に電車が停車するのを待って、夫は息子を顔の高さまで持ち上げた。息子はそうにゃんのつり革に掴まって大はしゃぎだ。少し前までは私と二人で電車に乗るときも、私が時々息子をが抱き上げつり革に掴まらせてやっていたが、お腹に二人目の子を宿してからはお預けになっていた。だから久しぶりでよほど嬉しかったのだろう。発車の合図がなって夫が席に戻ろうと言っても「いや、いや」と首を振っている。
「言うこと聞かない悪い子は、モルモットさんが遊んでくれないぞ」
 息子はあっ、という顔をして、素直につり革から手を離した。
 今日は親子三人で万騎が原ちびっこ動物園に行く。私の膝の上のバスケットには、サンドウィッチと唐揚げとポテトサラダとうさぎリンゴ。動物園に行って、お弁当を食べて、その後は公園を一周ハイキングだ。
 以前にズーラシアにも連れて行ったが、息子はライオンや虎を泣いて怖がった。今はちびっこ動物園のふれあいコーナーでヒヨコやモルモットを触って楽しむのが息子のレベルなのだろう。
 もちろん数年すればちびっこ動物園を卒業して、ズーラシアの方が気に入るだろう。そしてズーラシアも卒業してディズニーランドやUSJに行きたいと言う日が来るだろう。そんな日が来るのがちょっと楽しみであり、ちょっと寂しい気もする。
 電車が二俣川駅に着いた。息子はこの駅にちびっこ動物園があることをちゃんと理解している。夫の手を引っ張るように扉に向かい、「ママ、早く」と言うように私を振り向く。
 相鉄線は、今日は私たち親子をちびっこ動物園に運んでくれた。明日はどこへ運んでくれるのだろう。一年後には私たちを今よりも遠くへ運んでくれルに違いない。そして‥‥
 十年後、そして二十年後、相鉄線という名の銀河鉄道は、どんな未来へ私たちを連れて行ってくれるのだろうか。

著者

東風 遥