「朱夏」木佐優士

 思い出などなにもないこの場所へ、僕は五年ぶりにやってきた。二俣川駅北口から歩いて十五分ほどのところにある運転試験場だ。
 二回目の免許証更新をする。これ以外の理由でこの駅に降りたことはない。同じ相鉄沿線の駅に住んでいるにも関わらず、この町について今でもよくわからない。
 一階のホールで申請書に必要事項を書いたあと、二階の窓口で更新手数料の収入印紙を購入し、申請書に貼った。
 次に適性検査に向かう。適性検査とはいってもただの視力検査だ。眼鏡をかけているが、両目、片目ともに〇・七以上あるおかげで問題なく通過できた。
 申請書を提出するための窓口前には大行列ができていた。平日の日中でもこれほどの人がいるのを目の当たりにすると、月金で働いている人のほうが少ないんじゃないかと錯覚してくる。
 十分ほど待ってようやく窓口にたどり着いた。
 申請を済ますと、次は写真撮影だと言われた。すぐに移動する。
 順番待ちしながら目の下にくまができていないか気になった。今回は介護施設での夜勤明けだ。土日も平日も関係ない職場だけれど、せっかくの休みの日を免許更新に使ってしまうのがもったいないように思えて、あえて勤務後の体で来ていた。
 くまがどうこう以前にそもそも写真を撮られることが得意じゃない。証明書のたぐいでも子どもの頃に撮ったプリクラでも、とにかく顔を作ることができなかった。SNSで自撮りを載せている人たちはすごいと思う。そういう人たちは、たとえ実物と違って写っていたとしても、それが「自分」だと主張するかのように載せている。僕には抵抗があってとてもできない。
 係員の指示で椅子に座ると、苦手だと思う暇もなく撮影が終わった。きっと冴えない表情をしていたのだろうなと、後戻りできないことを今さら考える。
 撮影の部屋を出ると、赤色の線に従って進んでくださいと言われた。床には五色ほどテープが貼られ、指示された色の通り進んでいくと目的の講習会場に着けるらしい。
 目の前の男性も同じ進路をたどっている。しかし、途中で分かれた。男性は白い線のほうへ進んでいく。二俣川駅から先、海老名方面と湘南台方面へと分かれていく相鉄線の路線を連想させた。

 赤い線の最終地点にたどり着いた。ここには優良運転者しかいない。僕は日常で運転をする機会がないから、とうぜん無事故無違反だ。ゴールドの肩書きは詐欺みたいなものだと思う。
 会場に雑多に置かれた椅子と机は学校を思い出させる。すでに多くの人が座っていた。
 ドア付近の空いている席に腰掛けると、まもなく会場は締め切られた。講師から簡単な挨拶が入る。
 講習が始まり、説明をぼんやり聞きながらほかの受講者を見ていると、知っている顔を見つけた。
 高校三年生のときに同級生だった矢嶋貴子だ。文学少女というのか、休み時間にはいつも読書をしているような子だった。男女の交流がほとんどないクラスだったため、話したことはない。
 けれど僕は、自分の地味な性格に近いものをその姿から感じて、一方的に彼女のことをよく見ていた。
 あの頃は眼鏡をしていたのに、今はしていない。それどころか髪を薄く茶色に染め、顔立ちも華やいで見える。当時は黒い制服姿しか知らなかったけれど、今の彼女は水色のワンピースを着ていて、そこだけ夏空が広がっているような爽やかさがある。
 僕は変化を遂げた容姿に驚きながらも、自分とは格差が出てしまったことへの落胆も感じていた。
 講習は三十分で終わった。名前を呼ばれた人から順に、前に出て新しい免許証を受け取る。
――矢嶋貴子さん。
 彼女の名前が呼ばれた。矢嶋さんは立ち上がって前へ移動する。係員から免許証をもらうと、入り口へ向かって歩き出した。
 僕のそばを通りかかろうとしたとき、矢嶋さんはこちらに気づいた。
「あ」矢嶋さんが声をもらしたと同時に僕の名前が呼ばれた。
 僕は彼女とすれ違いながら前方へ進む。振り返ることができない。あの頃と何も変わっていない自分を見透かされてしまったかのように思えていた。
 免許証を受け取り、会場を出ると、入り口付近の赤い線の上で矢嶋さんは立っていた。
「久しぶりだね」
 矢嶋さんの声は明るく透き通っている。学校ではほとんど見たことがないその笑みに、僕はどのような表情を向ければいいのか戸惑っていた。
「久しぶり」僕はなんとか声を出す。
「木本くん、ぜんぜん変わらないね」
 やっぱり矢嶋さんもそう思っていたんだ。あれから何年もたっているのに、僕は矢嶋さんみたいには成長できていない。
「なんか安心した。変わらないでいてくれて」
「安心?」予想外の言葉に、思わず僕は聞き返していた。
 矢嶋さんは歩き出している。僕もあわてて並んだ。赤い線をたどって、来た道を戻っていく。
「木本くんって」矢嶋さんは僕に視線を向けながら言う。「誰に対しても穏やかな感じがするよね。クラスの男子が好き勝手やってても、木本くんだけは騒いだりしなくて」
「それは――」僕は当時のことを思い出していた。クラスのリーダー的男子とその周りの男子たちの顔が浮かぶ。「巻き込まれたくなったから」
「参加しない勇気を持てない人が、一緒になって騒いでたんだよ」
「ああいうの苦手だから……」クラスの男子たちは、女子が体育の授業前に着替えのため教室を出ると、机を蹴ったり悪口を言ったりしていた。男女の交流がなかったのは男子側に問題があったのだ。
「女子同士にもいろいろあったよ」矢嶋さんがつぶやくように言った。「それなら一人ですごしていたほうが楽だなって思って」
 そんな気持ちで学校生活を送っていたなんて知らなかった。地味な性格だから打ち解けられないのかと思い込んでいた。
「だから私ね、木本くんがクラスにいて心強かったよ」
 僕はその横顔を見た。嘘を言っているようには思えない。少しだけ、感じていた距離が縮まった気がした。
「ありがとう」
「私たち、今回一緒だったということは前回の更新も同じ時期だったかもしれないよね」
 今から五年前だ。誕生日の前後一か月が更新時期になる。同じ時期だったという可能性がないとはいえない。
「僕はたしか誕生日当日に行った気がする」
「誕生日いつ?」
「八月七日」
「あ、近い」矢嶋さんの声が高くなる。「私は八月十日だよ」
 誕生日が同じじゃないことになぜか残念な気持ちになる。
「矢嶋さんは前回いつ更新に行ったの?」
「いつだったかなあ」
 しばらく考えても思い出せないようだった。
 でも、と矢嶋さんは言う。
「前回の更新も同じ会場だったら面白いね。同じ日に同じ時間に同じ会場で」
「そんなことなかなかないけどね」言いながら夢のないことを言ってしまったなと後悔した。
「そんな偶然、何度も起きないのかな」矢嶋さんは視線を落としながら歩いていた。
 僕たちはそれぞれ赤い線をたどった先でこの再会を果たした。けれど今、僕たちは逆にたどっている。まるで結んだ糸をほどくように。
 運命なんてないことを予感させた。
「今回会えただけでもすごいことだよね」僕は沈んだ調子にならないように努めて言う。
「一度でも事故を起こしていたら会えなかったしね」
「元気でいてくれてよかったよ」
「木本くんも」
 もっと話したいことがあるはずなのに僕はそれから言葉が出てこなかった。

 気づくと僕たちは試験場の出入口がある一階のホールに戻ってきていた。
「ここまでどうやって来たの?」矢嶋さんが僕に訊いた。
「駅から歩いてきたよ」
「私は車で来たんだ」
「車持ってるんだね」
 別に珍しいことじゃない。駅の近くで一人暮らしをしている僕には不要というだけだ。
「通勤のときに使うからね。それと子どもの送り迎えに」
「子どもの……」その言葉は僕の胸のずっと奥深くに落ちていく。
 そうか、お母さんだったんだ。年齢的に考えてもまったくおかしくない。人生にはさまざまな変化がある。結婚して幸せな家庭を築くことくらい当たり前だ。
 期待していたわけじゃないはずなのに、心の中が陰っていく。なんでこんな気持ちになるのだろう。
「このあいだ三歳になったの」
 五年前の免許更新時、まだその子はいなかったことになる。
 もし、前回出会えていたら――。
 そんなことを考えたって仕方がないのに。
「駅まで乗っていく?」矢嶋さんはやさしい声色で訊いてくれる。
 けれど僕は、首を横に振った。
「ううん、近いから歩いて帰るよ。ありがとう」
 こんなつよがりになんの意味があるのだろう。僕はいつだって誰かを――自分の本音を遠くから見ているだけだ。僕はなにも変わっていない。それがいいことだなんて、きっとない。
 ありがとうなんてこんなときに使いたくなどなかった。だけどこの口は言っていた。矛盾する心を止めるすべを僕は知らない。
 少しの間が空いたあと、そっか、と矢嶋さんは言った。
「気をつけて帰ってね」
「矢嶋さんも。いや、もう違う名字か」
「矢嶋で合ってるよ」
「え?」幸せな結婚生活を送っていると思っていた。予想していなかった言葉に時が止まる。
「シングルマザーなの」
 言葉を返せない僕に矢嶋さんは笑顔で言った。
「私たち、次の更新でまた会えるといいね」
 その言葉が僕の胸を締めつける。もう二度と会えないように思えた。
 目の前の笑顔は自然に生まれたものなのか作ったものなのか僕にはわからない。だけど、これからも僕の心に残り続けるような気がした。
 五年後の未来では、きれいな記憶となって僕に笑いかけてくれるだろうか。
 ――違う。僕が望む未来はそんなものじゃない。二度目の偶然なんてどうでもいい。今言わなくちゃ。今伝えておかなくちゃ。
「五年後なんかじゃなくて」僕はその目をまっすぐ見ながら思いの丈を伝える。「これからもまた会えるかな?」
 矢嶋さんは目を細めながらうなずいた。
「やんちゃな子どもがいるかもしれないけど」
 赤い線はもう見当たらない。だけど、きっと色づいた未来が今から始まる。
 思い出などなにもなかったこの町もこの場所も、何度でも僕たちを迎え入れてくれる。そんな気がした。

(了)

著者

木佐優士