「柿の木のあるお友だちの家」柚香

さちかが仕事を辞めて五ヶ月が過ぎた。四十過ぎて独り身で仕事を辞めるなんてどうかしてる、と長年の友人には散々言われた。職場の同僚にも何度も引き止められた。さちかさんがいないと、仕事困ります、今までずっとさちかさんの仕事ぶりにあこがれてきたんですと、後輩にも泣かれた。たしかに一生懸命仕事に取り組んできた自負はある。人に頼られたのは、自分が有能だったのではなく、面倒なことも根気よく対してきたからだと思う。できるだけ丁寧に仕事をする気持ちが大切とと、職場で学んだ。しかし一方で、根気なら、心がけ次第で誰でもできることと気づいた。
何より朝から夜遅くまで続く仕事量に最近は疲れてしまった。いつも仕事が期日までに終わらないのではないかと焦りに追われ、家には深夜に帰るだけで、休日はふだんの寝不足解消とひたすら眠り、あとは洗濯掃除の時間に消えた。何度も迷ったが、貯金もそこそこあるしと思い切って大学卒業以来長年勤めた会社を辞めることにした。
このままでは、仕事以外に何も残らない、趣味すら見つけられない、自分が楽しいと思えることを少しでもして歳を重ねたいと思った。

退職して、時間にとらわれない生活は新鮮だった。朝、太陽の光を感じながら、のんびり朝食を食べた。ごみを捨てに行くだけでも、道から見える富士山に清々しく心が晴れていく気分である。その場所からいつも見えていたはずの富士山すらこれまでは気づかなかった。今まで気づかなかったことをこれからいくつ見つけるのだろうと思った。

さちかの生活をさらに変えたのはベスである。犬を買うのは小さい頃からの夢で、退職した一週間後に買いに行った。朝、散歩に行こうとせがむ声や柴犬の短い毛並み、抱きしめると感じる温もりや見上げるつぶらな瞳に夢中になった。赤い首輪にリードをつけると、仔犬とは思えないほどの力でさちかを引っ張った。
新しい仕事に就く気持ちもないわけではなかったが、ベスが大きくなるまでは、自分の充電期間と決め、なるようになるさと思うことにした。

朝食後にベスと散歩するのが日課になった。家から緑園都市駅方面へと続く坂道を下り、遊水池の角を曲がり、小さい川のある細い道を通る。以前はこのあたりに美味しいシフォンケーキを売る店があったと思うのだが、さちかが知らないうちに閉店してしまったようで、残念な思いで過ぎる。小さい川をはさんだ向こうには家が並び、その家々の玄関に続くように橋がかかっている。
その中の一軒を通り過ぎようとしたところでベスが吠えた。
慌ててベスの先を見ると初老の小柄なご婦人が柿の実を取るのに奮闘していた。
枝切り鋏に慣れないのか、ベスの声に驚いたのか、先端が定まらずに揺れている。
さちかはベスを叱ってすみませんと謝った。
「いつもは夫が取ってるんですけど、ちょっと入院してしまって」
とご婦人が枝切り鋏をおろした。
「今年は諦めようかと思ったんですけど、熟しているの見てたら、やっぱり惜しくなって」と笑う。
「よかったら少しお手伝いしましょうか」
「いいんですか」
「特に予定はないし、私の方が少しだけ背があるかもしれない」
見上げれば、柿の実はたわわになっており、いくらでもとれる気がする。
右、右、もうちょっと左と声をかけられ、うまく取れたり、落としたり、きゃあきゃあと二人で声をあげながら、次から次へと柿をとっていく。ベスは待ちくたびれたか伏せて上目遣いをしている。

思えば、こんなたわいない会話をしたのは久しぶりで、心が弾んだ。
二十個も取ったところで、終わりにしたが、まだまだ柿の実はなっていた。

ご婦人に勧められるまま、おうちに上がらせていただき、お茶と柿をいただくことにした。
人恋しかった自覚はないが、働いていたときを少し思い出した。会社の休憩時間にお菓子の品評や上司のうわさ話などとりとめもなく話していたことが懐かしいと、初めて思った。

ご婦人は秋谷かおるさんと名乗った。玄関を入ると古いけれども、しっかりと手入れされた床張りで、広いダイニングに通された。窓の木枠からは先ほどの大きな柿の木やサルスベリ、梅の木が見えた。柿の木の根元でベスが眠りこんでいる。

大きなテーブルは小柄なかおるさんに合わせてか、低めで椅子も小さめだった。木の机や椅子は小さいころに通っていた小学校の教室を連想させた。
紅茶を入れていたかおるさんがさちかの心を見透かしたように「椅子、小さいでしょう」と言うので、はいともいいえとも言えずにいると「小さいお友だちが来るの」とかおるさんが続けた。
ことばの意味をはかりかねていると「今、若いお父さんお母さんたちは忙しいでしょう。一人でごはんを食べるお子さんが意外と多いのよね。それでね、お夕飯をね、うちで食べる近所の子どもたちがいるの。最初はお金なんていらないとも思っていたのけれども、お金をいただかないと、お母さんたちも頼みにくいし、実際、材料費もいるのよ。それで近所の子どもの食堂なの。子どもの好きなメニューなんて作れないから、自分が食べるおかずを子どもの分も作るだけなんだけど、なかなか賑やかで楽しいのよ」
必ず手作りというのもたいへんなので、駅前の焼き鳥屋でお惣菜を買って出すこともあるらしい。「一緒に食べる」のが最優先なのだそうだ。
駅前のお店はさちかもひいきにしている焼き鳥屋で、揚げ物が美味しいのを知っている。

焼き鳥屋からかおるさんのうちに来る途中、春につつじの花が一面に咲くお宅がありますよね、とさちかが話すと、かおるさんも「あそこを花の季節に通ると小さい頃に蜜を吸ったことを思い出すのよね」と話した。
さちかは、近所のことを誰かと話すのは初めてで焼き鳥屋さんでかおるさんの後ろに並んでいたかもしれない、満開のつつじの前ですれ違っていたかもしれないと思う。近所付き合いもなく、知らない人ばかりと思っていた地元だったが、いろいろなところでいろいろな人と共有していることは、実はたくさんあるのだとさちかは思った。

かおるさんは「さちかさんも、もし一人でごはんを食べているのだったら、いらっしゃい」と言った。主人は脚を骨折してしばらく入院しているし、来てくれたら嬉しいわと続けた。
今日の労働報酬だからとかおるさんは柿を五個さちかにもたせ、もう一回、お夕飯を子どもたちと一緒にね、連絡まってるとさちかに電話番号のメモを握らせた。

一週間後、さちかは再度かおるさんのうちを訪ねることにした。手みやげは近所のケーキ屋で買った袋入りのクッキーだ。子どもたちは多いときには五人と聞いたが、その子どもたちがいったいどれくらいの量のクッキーを食べるのか検討がつかなかった。

その日はいちばん人数の多いタイミングだったようで五人の子どもたちが次から次へとやって来た。子どもたちはまずベスのところに走り寄り、さっちゃん、なでてもいい? 抱いてもいい? と聞いた。かおるさんはさちかとベスと柿の実の話を子どもたちにしていたらしい。柿食べたよ、という子どももいた。さちかはまるで前からの友だちだったようにすっかりさっちゃんで通っていた。ベスはさちかと子どもたちの距離を一気に近づけたが、子どもたちがいつまでもベスを触ろうとするので、ベスはとうとう逃げ回りだした。
子どもが多い日に私まで加わって、おかずが足りなくなるのではないかとさちかは心配したが、かおるさんの作ったカレーとごはんはたっぷりあって、いくら子どもたちがお代わりをしても、まだあった。さちかもかおるさんもお代わりをした。
カレーの後にお茶が出て、さちかの持って行ったクッキーもお皿に乗った。
いちばんやんちゃに見えるタクマがさっちゃんのクッキーも意外とおいしいよ、かおるさんのクッキーには負けるけど、と真顔で言うので、さちかは吹き出しそうになった。六年生でいちばん長くここに通っているというミズキが、タクマ、と目でたしなめるが、三年生のタクマは何で注意されたかわからないようである。ミズキは最年長だけあって、実にしっかりしている。カレーもきれいにお皿によそうし、自分より年下の子どもが顔を汚せば、すっと拭いてやっている。三年生のユキトは話すのが苦手なのか、ベスが気になるのか、食事の後はずっとベスの近くにしゃがみ込んでいる。一年生の女の子ナナは絵を描きながら、のんびりクッキーを食べている。アオイは二年生でミズキの妹だが性格は正反対で甘えん坊。かおるさんに張り付いている。
ごはんを食べに来るときには原則として前日までに電話で予約するというのがルールだ。子どもたちの来る時間はまちまちで、来たら本を読んだり、絵を描いたり思い思いに過ごしている。宿題をする子もいる。時間になると皆で食器を並べ、かおるさんの作った食事をいただく。帰る時間はばらばらで、さようならといいながら、三々五々帰っていく。送っていったりしないかわり、七時には帰っていく。
さちかはは時々、かおるさんのうちに行くようになった。見ていると、かおるさんは思いのほか忙しい。転んで骨折してしまったというだんなさんの病院に行かなくてはならないし、食材も買ってこなくてはならない。子どもたちがくる前に掃除をし、大量のごはんをつくり始める。
さちかは一週間に一度、野菜を買っていくことにした。南万騎が原の直売所で大根やら白菜やらを買い込み、運んだ。直売所には、ときには今まで見たことのないような珍しい新顔の野菜が並んでいることもあって、かおるさんとともに新メニューを試すのはわくわくする。かおるさんのうちの冷蔵庫が野菜でいっぱいになると、それだけでもう満ち足りた気分になってしまうのだった。あの時のたくさんの柿の実のいくつかはシロップ漬けになって、冷蔵庫に瓶が並んでいる。かおるさんのだんなさんは柿が好物らしく、退院したら食べてもらう予定だ。
ごはんの後、食器を片付けながら子どもたちはよく歌った。
さっちゃんはね、さちかっていうんだ、ほんとはね、などとナナとアオイが歌い始めると気恥ずかしい。
だけどちっちゃいからバナナを半分しか食べられないんだよと聞くと、小さくもなく、バナナなら何本も食べられそうなさちかはやっぱりおかしくて、笑ってしまう。
さちかがかおるさんに、今の子もさっちゃんの歌を知ってるんですね、と言うと、かおるさんは小さい声で私が教えたのと白状して、また笑ってしまった。
こうして、さちかはかおるさんのうちのお友だちの一人になった。

かおるさんが用事を済ませている間、さちかが留守番をすることもあった。
その日もかおるさんはだんなさんの病院に行って留守だった。
夕飯の支度はもうかおるさんが終えていて、ごはんの前にベスに餌をやろうとさちかが庭にいると、なかからタクマが声を荒げているのが聞こえ、慌てて中に戻った。
どうやら腹を立てている相手はユキトらしい。一緒に遊びたかったらしいがユキトはそっぽを向いている。
「そもそもお前が…」と言ったところでミズキが「タクマ」とたしなめるように声をかけたがタクマは「お前がそんなふうだから、みんな気にすんだよ」とユキトにきつく言い放った。
ユキトはことばにするのが苦手なようで言い返すこともなく、背を向けてしまったが、それでもタクマは腕を取ろうとする。いやがって振り払うユキトともみ合う形になった。
さちかはとっさに二人を離そうと間に入ったが、なんと声をかけたらいいのかわからず戸惑った。かおるさんだったら、かおるさんだったらどう話しかけるのだろう。子どもの世界は思いのほか難解で、自分もかつてその世界にいたはずなのにと思うと、もどかしく心の中でため息がでた。静かに本を読んでいたアオイもじっと様子を見つめている。絵を描いていたナナも手を止めて泣きそうな表情になっていて、さちかはいっそう不安になった。
まずは二人がこれ以上暴力的に対してはいけないと思い、タクマの腕を離そうとしたときだった。タクマの腕が離れた反動でユキトの指先が勢いあまってさちかの顔を引っ掻く形になった。小さな痛みを?に感じ、あっと思った瞬間、皆の視線が自分の顔に集まっているのに、さちかは気がついた。どうやら当たり方が悪く、少し血が滲んでいるようだ。
「さっちゃん」
ユキトのかすれた声が震えていた。ユキトの目がみるみる潤んでいく。
わざと引っ掻いたわけではないことは明らかなので、大丈夫、大丈夫とさちかは笑顔を作って子どもたちに声をかけた。少しの引っ掻き傷だから、たいしたことがないのはわかっているが、結果的に子どもたちに心配をかけていることがどうにも悔やまれた。この雰囲気をどうやり過ごしたらよいのか、かおるさんはまだ帰ってこないだろうかと思ったその時だった。玄関の外から口ぶえが聞こえてきた。なんとも場違いな明るい口ぶえだったが、それが聞こえた瞬間、子どもたちが玄関に吸い寄せられた。先ほどまでの空気は一瞬にして消え去り、子どもたちをいっぺんに集める魔法のようで、あまりの不思議さに、さちかはハーメルンの笛吹き男を連想した。
次の瞬間、子どもたちが見つめていた玄関の扉が開いて、白髪交じりの髭もじゃの男性とかおるさんが現れた。
「たろじい!」
まずアオイが男性の足にしがみついた。ミズキが「退院したの、もうずっとうちにいるの」と聞く。
男性は「おぉ」と答えて、顔じゅうしわくちゃにして笑った。
かおるさんの雰囲気からだんなさんもおとなしそうな静かな人かとさちかは想像していたが、まったく違う豪快な人に見えた。
アオイの髪をくしゃくしゃにしながら、タクマには「メシ食うぞ?」と声をかけ、「病院でナナの絵見たぞ」と、もう一方の手でナナの髪を撫でた。ユキトには一ヶ月後に相撲とるぞ、と言う。ユキトがもうなんの涙かわからない顔で相撲とっていいのと小さい声で聞くと、もちろんだ、入院中ずっとユキトにリベンジする作戦を考えながら、リハビリしてたんだと答えた。かおるさんに後できくと、たろじいこと、太郎さんはユキトと相撲を取っていて、変な転び方をして骨折したらしい。今日が退院予定だったが、万が一退院できなかったら子どもたちが心配するからと、かおるさんは黙っていたようだ。

たろじいが、さっちゃん柿ありがとうと手を出したので、さちかはそのがっしりした手を強く握った。たろじいのことも、前からよく知っていたような気分になった。たろじいは庭に回って尻尾を振っているベスの前脚をさっととり、やぁと握手した。

たろじいが口ぶえを吹きながらリビングに戻ってどっかりと座ると、その光景は前から見ていたようにさちかの目になじんだ。

夕食後のデザートのホットケーキには柿のシロップ漬けが添えられていた。それはとてもつややかで、たいそう美味しそうに光っている。

著者

柚香