「栞」由香

私はその人を栞さんと呼んでいる。
でも女性ではない。
知っているのは読書家で、緑園都市に住んでいるということくらいだ。

その人と出会ったのは、一一月だったと思う。横浜から乗った各駅停車は少し混んでいて、座れなかった。からりと晴れていた空はすっかり暗く、仕事帰りの男女や高校生たち、買い物帰りの親子連れやらで、静かでもなく、騒がしくもなく、いつものように人びとを運んでいた。
紅葉狩りから帰ってきた年輩の女性たちは、昔の同級生なのか、カラフルなリュックに運動靴でどこかの山頂で食べたきのこ汁の話に花が咲いている。
私は車両の扉から少し中に入って、座って文庫本を読んでいるサラリーマンの前に立っていた。何気なく前を見ると、どんな本かわからないが、黒い切り絵のような小さな栞が挟まれている。繊細なもので品が良く、なかなか趣味がよいと勝手に思う。

二俣川に着いて、少々停車。鮮やかなリュックの女性たちは、晴れやかに再会を約束して降りていき、その中のひとりが車内に残った。心なしか少し疲れた表情になっている。青色のリュック、紫と水色のウインドブレーカーが新しい。慣れない登山で少し疲れたのか。それとも友だちが下車して、高揚した気持ちがおさまったのか。楽しい魔法が解けて、きっと急に疲れを感じているのだろうと同情する。しかしそっと見回すと、あいにく席は空いていないと思ったところで、前の栞の男性が下車し、青リュックの女性が席に座った。

私はあと2駅。そっとドアの近くに移ったところで、あの栞が落ちているのに気がついた。思わず拾って、追いかけようと思った瞬間にドアが閉まり、栞を握った手は中途半端に行き場を失ってしまった。手に持ってみると紙の栞は意外と軽い。落とし物として届けるには、少々軽微すぎやしないか。駅員さんの困惑顔が目に浮かぶような気がする。そもそも彼はこれを落とし物として探したりするだろうか。しかし一度手にした栞は、手離すわけにもいかず、とりあえずそっとカバンにおさめることにする。

まもなく、緑園都市に着き、いつものように電車を降りた。仕事帰りの会社員や学生たちがホームからエスカレーター、階段にきれいに流れていく。階段を降りていて、思わずはっとした。先ほどの男性が少し前を歩いていたのだ。グレーのジャケットに、細めの紺色ネクタイ。間違いなく、栞さんだ。二俣川で下車したはずの栞さんだ。

なぜ、二俣川で下車した栞さんが同じ電車から降りて、ここにいるのか。私は頭の中で慌てて推理する。
二俣川の停車時間は急行電車の待ち合わせで少し長い。
栞さんはそれとわからないように青リュックさんに席を譲って自分は他の車両に移ったのだ。

そこまで考えてから、私は少し動揺した。
栞を返すチャンスである。
彼はいつ、栞がないことに気づいたのだろう。車両を移ってすぐに気づいたのであれば、私が二俣川で栞を拾ったことは明らかである。さて、この状況を全て説明するのは、彼のスマートさ、さりげなさに反する。
あなた二俣川で席を譲りましたよね、見ていましたよ、なんて話すのはまったく野暮に違いない。

そんな私の逡巡を栞さんは知る由もなく、軽やかに改札を抜け、線路沿いの坂道をどんどん歩いていってしまった。栞を落としたことに気づいているやらいないやら、あっという間に見えなくなった。カバンの栞は結局、そのままになった。

その後何回か、電車の中で栞さんを見かけた。いつも座って文庫本を読んでいる。ただ、栞は書店でもらうありふれたものだ。断じて栞さんを探しまわったり、待ち伏せしたわけではない。帰る時間がきっと近いのだ。全然知らない者同士、もしかしたら、週に何度も同じ車両に乗り合わせて、会話も何も交わさないけれど、いっときの運命共同体のように過ごしている同士が実は何人も何組も、この世の中にはあふれているのかもしれない。
栞さんと私はそういう関係なのだ。お互いのことなど、何も気づいていなくても。

返すべき人がわかっているのだから、返すことは出来そうだが、いきなり声をかけるのはさすがにためらわれた。栞さんが青リュックさんに声をかけずに席を譲ったように、電車の中で見知らぬ人に声をかけるのは、少しだけ勇気がいる。ましてや、栞を落としたあなたのことをずっと覚えていましたなんて、誤解のもとになること間違いなしに思われる。私は栞さんを見かけるたびに、どうしたものかと思いあぐねている。それでも、できれば栞はいつか返したいのだった。日にちが経つにつれ、そのハードルはさらに上がって、うまく説明できる自信はまったくなく、軽かったはずの栞はカバンの中で少しずつ重みを増していく。

しかし、ある日、またとない好機が訪れた。

栞さんは今、ボックス席の向かいで三つ前の駅から眠りこんでいる。ひざには読みかけの文庫本を開いたままだ。
私は息を殺すようにカバンから栞を取り出し、そっと文庫本に挟む。
栞さんを起こしてはいけない。完全犯罪だ。
長い間、借りていました、ごめんなさい、と心でつぶやく。
さりげなく、そっと返したいと心に決めていた。
いつかの栞さんのように。

やがて電車が二俣川に着き、私はそっと車両を移る。
栞さんは膝の上を見てどんな顔をするだろう。見たい気もするが、それこそ野暮だろう。何より私自身、なんらかの思いが顔に出てしまいそうで、自信がない。
想像だけして、緑園都市で降りて坂道を帰る。

著者

由香