「校長先生の宿題」髙橋宏明

山口百恵と三浦友和の婚約と突然の引退宣言に世間が揺れていた春。
 天王町駅に降りた私は、天王橋から帷子川の水面に映る桜を眺めながら、心を落ち着かせていました。
 横浜市の教員としてのスタートをきる、記念すべき日だったのです。天王町駅から歩いて五分ほどの、団地の外れに立つ小学校が、私の赴任先でした。
 テレビドラマ『熱中時代』に憧れ、教師を目指し、そして念願だった小学校教師としての生活が始まったのです。

 毎日が、無我夢中で過ぎていきました。今から振り返ると、無知と羞恥の日々でした。でも、そんな新米教師を、保護者のみなさんは温かく見守ってくれたのです。
 今のように、教室にエアコンなどはありません。
 パソコンなんて、夢想もしませんでした。
 教室には、ブラウン管の古い小さなテレビと石油ストーブがあるだけです。
 でも、世の中は、寛容でした。
 夜遅くまで仕事をしていると、職員玄関のチャイムが鳴り、おかあさんの作ってくれた夜食を、子どもが届けてくれることもありました。
 放課後は、子どもたちと暗くなるまで校庭で野球をしたり、追いかけっこをしたりしていました。
 決して豊かではなかったけれど、どこかおおらかで、牧歌的な空気が漂っていたのです。

 ようやく、少しは生活が落ち着いてきた六月のある日、校長室に呼ばれました。
 当時の校長先生方は、校長室の奥深くに鎮座する遠い遠い存在でした。
 恐縮して座る私に、校長先生は穏やかな語り口で、こう話されたのです。
 「明日は、土曜日だから、半日で終わりですね。私から、先生に宿題があります。明日の午後、学区の天王町商店街を歩いてみてください。そして、気づいたことを私に報告してください」
 昭和の時代、学校五日制はまだ実施されていませんでした。そして、土曜日は、昼までの授業、『半ドン』だったのです。

 翌日の午後、メモを片手に天王町商店街を歩く私がいました。ただ歩いていたのでは、『校長先生の宿題』に応えられません。刮目して見なくてはと、肩ひじを張って歩いていたのだと思います。
 しかし、残念ながら、商店街の風景は、いつもと変わりません。
 何回も何回も、商店街を端から端へ往復していると、子どもたちに出会いました。
 いつしか、私の後ろに遠足の行列のような一団ができていました。
 そして、歩き疲れた一団は、天王町公園で休憩をとることにしました。
 「みんな、商店街を歩いて、何か気づいた
ことある?」
 いけない。抽象的な発問は、この前、先輩の先生に注意されたばかりです。
 「天王町商店街って、他の商店街とどこが違っていると思う?」
 冗談半分に「放課後なのに授業をするの」という声も聞こえます。でも、子どもたちは、自分たちの生活圏である商店街について感じていることを出し合ってくれました。
 その時、ある子どもがこう言ったのです。
 「おばあちゃんが、田舎から来た時に、ここの商店街は家具屋さんが多いねって言ってたよ」
 確かに、当時の天王町商店街は、軒を連ねるように家具屋さんが並んでいました。
 「私は、いとこに、映画館が二軒もあっていいねって言われたんだ」
 ライオン座、スバル座という二軒の映画館が並ぶ街は、当時はもちろんのこと、今でも海老名駅以外の相鉄線沿線にはありません。
 いいことに気づいた、いや子どもたちに教えてもらった、これで『校長先生の宿題』ができたと、ほくそ笑む私は、うれしくなって思わず口に出していました。
 「みんな、アイスでも食べようか!」

 月曜日の朝、勇んで校長室へ行きました。
 そして、商店街見学の結果を報告したのです。
 私の報告を聞いた校長先生は、おもむろにこう話されました。
 「いいところに気づいたね・・・。ところで、なぜそうなのかを考えてみましたか。先生たちは、いつも子どもたちに、不思議だな、どうなっているのかなという気持ちをもちなさいと言っていますね。知的好奇心が大切なのは、大人も子どもも同じではないでしょうか。きみ、人の子の師ならば、そのことを忘れてはならない」
 校長先生の言葉に、『校長先生の宿題』を、表面的にしかとらえていなかった薄っぺらな自分を思い知らされたのです。
 『宿題』は、次の段階に入りました。
 しかし、その解決の糸口が見えません。
 思い余って、先輩の先生に相談すると、ある方を紹介してくれたのです。
 それは、その先生の学級の子どものおじいちゃんで、この街で生まれ、この街に育ち、この街の生き字引ともいえる方でした。

 数日後、先輩の先生の後ろについて、お宅を訪問しました。
 若輩者の私を、温かく、そして敬意をもって迎えてくれました。当時は、まだ「先生」に、社会的権威があった時代です。
 商店街に家具屋が多いこと、映画館が二軒もあることの疑問をぶつけると、おじいちゃんは、おもむろに奥の部屋に入って行きました。
 そして、一冊の古いアルバムを持って、戻ってきました。アルバムの中には、大きな工場が映る写真がありました。
 「先生。これはね、戦争前の写真でね。そりゃあ大きな紡績工場が、今のショッピングセンターや自動車教習所の辺りから奥にかけてあったんですよ」
 いまは、マンション群になっている川辺町公園付近に、昭和五十年代には大きな自動車教習所があったのです。
 紡績工場の大きさは、この写真からもうかがえます。
 でも、それと家具屋の多さとが結びつきません。おじいちゃんが、古いアルバムを紐解いた意味がわかりません。
 「紡績工場ではね。女工さんが、たくさん働いていました。女工さんは、若い女性がほとんどです。去年ヒットした映画『あゝ野麦峠』の世界ですよ。その女工さんが、結婚する時に嫁入り道具として家具を持って行ったのです。だから、天王町商店街には家具屋さんがたくさんあり、その名残が今も残っているんですよ」
 調べてみると、明治三十六年、この地に『富士瓦斯紡績』の工場が建てられ、大正時代には、六千人を越える人が働き、世界最大級の生産量を誇っていたそうです。横浜大空襲で焼け、その土地は、戦後アメリカ軍に接収され、後に返還されて現在にいたっていることが分かりました。
 また、アルバムの中には、人で溢れる戦前の天王町商店街の貴重な写真もありました。
 映画は、当時の大衆娯楽の王様でした。工場で働く人たちの休日の娯楽として栄えた、その残り香がいまの姿なのです。

 「きみは、今回、ふたつのことを学びましたね。ひとつは、町には、必ず人の営みとその歴史があり、それが『町の表情』となっているということ。だから、これから教師として幾つかの学校に勤めると思いますが、『町の表情』をしっかりと見て、そこに住む人々とのつながりを大事にしてください。もうひとつは、社会科の教材開発のやり方を学んだということ。時間をかけて、足を運んで、人から学びながら教材を創り出す喜びを、これからの教員人生の財産としてくれることを願っていますよ」
 満足そうな微笑みを浮かべながら、さらに校長先生は言葉を続けられました。
「そこで、もう一つ『宿題』を出そうかな。きみは、確か相鉄線で通勤しているね。他の駅と天王町駅を比べて感じていることはありますか」
 この質問には、すぐに答えることができます。なぜなら、私は当時、東横線に乗り、横浜駅で乗り換えて通勤していたからです。
 今は、みなとみらい線の関係で、渋谷方面から来ると東神奈川付近から地下へ入りますが、昭和五十五年頃の東横線は、全線高架化されていたのです。それに慣れていた自分には、相鉄線で天王町駅だけが高架であることにすでに気づいていました。
 しかし、それは、いつも通りの通勤風景で、高架になっている理由を考えたことはありませんでした。

 再び、教えを乞いに足を向けました。
 今度、見せていただいたのは「洪水の写真」です。
 「これは、昭和三十三年、台風による大雨で氾濫した帷子川の写真です。先生は聞いたことはありますか。帷子川が、別名『暴れ川』と呼ばれているのを。去年も台風二十号の雨と満潮が重なって、天王町駅付近はたくさんの家が浸水したじゃないですか」
 インターネットのない時代、情報はテレビやラジオのニュースか、新聞でしかとることはできませんでした。
しかし、イーグルスやボズ・スギャックスに魅せられていた学生の私は、心はそちらにあり、ほとんど新聞等を目にすることがなかったのです。天王町駅付近の浸水のニュースも初耳でした。
 おじいちゃんは、今までに帷子川がたびたび氾濫したこと、それによって、相鉄線が止まってしまったこと、それを避けるために、昭和四十八年に高架になったことなど、いくつかのエピソードを交えて話をしてくれました。
 よく高架になった年を覚えていますねと尋ねると、にやりとしながら、「あの年は、横浜高校が、選抜甲子園で初優勝したからね」と答えられたのです。

 「この二枚の写真を比べて、みなさんはどんなことに気づきましたか?」
 昭和三十年代の天王町駅の写真を拝借し、それと同じアングルから撮った今の駅の写真を、黒板に掲示して、授業は始まりました。
 今も単元としてある四年生の地域学習です。
 「天王町駅が高くなっている」
 「昔は、線路が下を走っているよ」
 昔と今の違いが、すぐにわかりました。
 「なぜ、駅を高くしたんだろう?」
 「駅の下を店として使えるから・・・」
 「電車が、走りやすいように・・・」
 「でも、ホームが上だと、乗るのにかえって不便だと思います」
 子どもたちは、いろいろな考えを出します。
 西横浜駅や星川駅などの他の駅と比べたり、駅の付近の地図を調べたりしながら、真相に迫っていったのです。
 「川の氾濫か!」
 「そういえば、確か去年も駅の近くは氾濫したね」
 「ぼくの家も、大変だったんだよ」
 「うん。そうだよね・・・怖かったよね」
 自分の生活体験を語りながら、授業は進みました。そして、予期しないことに、帷子川を見に行く結末となったのです。
 当時、上星川にあった捺染工場の影響で、色付いていた帷子川の川面を。

 あの日々から、四十年余りが過ぎました。
 商店街を闊歩し、みんなでアイスを頬張った子どもたち・・。
 帷子川を見学に行った子どもたち・・。
 いま、五十代になろうとするあの子たちが何をしているのかを、知る由もありません。
 しかし、あの日の記憶とあの日の子どもたちの笑顔は、私の心の中でいつまでも消えません。

 そして、校長先生。
 気がつくと、いつしか、あの時の先生の年齢をはるかに越えていました。
 先生に少しでも近付けたでしょうか。いや、やっぱり、やっぱり先生には及びません。たどり来て未だ山麓です。
 しかし、かすかに、天国からの先生の声が聞こえる気がします。
「きみなりに、よくがんばったね」と。

著者

髙橋宏明