「桜」高坂まいこ

 改札の前に立っているおばあちゃんは、背中が丸まって私よりも小さくなっていた。
 遠目から見ると、街中でよく見かける高齢者という感じがして、わたしの胸はなんだかざわざわした。
 そんな心情を悟られないように笑顔で手を振ると、おばあちゃんは満面の笑みでわたしを出迎えてくれた。そのいつもと変わらない様子にホッと胸を撫で下ろす。
「忙しいのに一緒に来てくれてありがとうね。」
そう申し訳なさそうに言ったおばあちゃんに罪悪感を覚えた。学校が忙しいからと、あまり会いに来なくなっていた自分が恥ずかしい。
 「付いて来てもらってごめんね、みぃちゃん。おばあちゃんは一人でも平気だって言ったんだけど、桜がどうしても心配だったみたいでね。」
 桜というのは私の母だ。おばあちゃんがおじいちゃんのお墓参りに行く時は、母が必ず付いていくのだが、急な仕事が入ったらしく今日はわたしが代わりに来たのだ。
 相鉄線沿いにあるというおじいちゃんのお墓を目指して横浜から快速湘南台行きの電車に乗り込む。
 小さいおばあちゃんが人込みの駅のホームをうまく歩けるのか心配したが、そんな心配は杞憂だった。おばあちゃんは慣れた足取りで電車に乗り込み、席についた。
 電車が出発した。土曜の昼の下り線だからか、車内には人が数えるほどしか乗っておらず清々しかった。ガタンゴトン、電車は心地よいリズムで進んでいく。
 「みぃちゃん、もう高校三年生よね。学校はどう?」
おばあちゃんがにこにこしながら尋ねてきた。
「相変わらずだよ。部活と勉強でいっぱいいっぱいって感じ。」
そう苦笑いしながら答えるとおばあちゃんは
「そうなの。あまり頑張りすぎちゃダメよ。嫌なことからは逃げたっていいんだからね。」
と優しい声で言ってくれた。
 おばあちゃんの柔らかい愛情は、いつも無条件でわたしの心をほぐしてくれる。そんなおばあちゃんが私は大好きだ。
 近況報告をしているうちにいつの間にか星川という途中駅に到着した。制服を着た高校生が何人か電車に乗ってくる。部活帰りだろうか。
 ボーっと高校生達を見ていると、
「おばあちゃんね、実はあの子たちと同じ制服を着ていたのよ。」
とおばあちゃんが楽しそうに耳打ちしてきた。
「え、そうなの?何年前?」
「そうね、もう六十年前のことになるかしら。懐かしいわ~。」
 六十年前というと二〇一七年だ。おばあちゃんが生きてきた年月を思うと気が遠くなる。
 「ほら、今はもう渋谷とか新宿まで相鉄線一本で行けるでしょ。でもあの頃はまだ直通運転をしていなかったから、みんな横浜に出てから乗り換えて都会に行ったのよ。」
 そうだったんだ。今は当たり前になっていることが昔は違ったということに衝撃を受けた。
 いつもは聞き役のおばあちゃんだが、昔のことを思い出したようで様々なことを話してくれた。
 お母さんの小さかった頃のことや(お母さんはすごくやんちゃな子どもだったらしい。自分ではいつも大人しくていい子だったと言っているのに!)横浜駅がどのように変わっていったのかとか(横浜駅はいつも工事をしていて神奈川のサグラダファミリアと言われていたらしい。驚きだ。)自分の身近な人から自分がまだ存在していなかった頃の話を聞くのは新鮮で面白かった。
 しかしおばあちゃんが一つだけ話そうとしないことがあった。恋の話だ。
 照れ屋なおばあちゃんだからあまり話したくないのかもしれない。少し躊躇したが、思春期真っただ中の私だ。聞かずにはいられなかった。
「おばあちゃん、高校生のときに恋したりした?」
そう聞くと、おばあちゃんは顔を赤くして
「ふふふ、していたわよ。なんだか恥ずかしいわね~。でも、そうね。特別に話してあげるわね。」
 おばあちゃんは一つ一つを丁寧に思い出すように、ゆっくりと話し始めた。

 
 私が今のみぃちゃんと同じ、高校三年生になった春のこと。ちょっと恥ずかしいんだけどね、私その頃高校がすごく嫌になっていたの。
 ほら、女の子同士ってなにかともめるじゃない?それに巻き込まれちゃってね。あと勉強も部活もやらなきゃいけないから休む暇もないでしょ?どんどんストレスがたまっちゃったのよ。
 それである日限界がきちゃって学校をズルで早退したの。みんなにはお腹が痛いって嘘をついてね。みんなが本気で心配してくれるものだから、なんだか胸が痛かったのを覚えているわ。
 そう、それで早退して星川駅のベンチに座っていたの。そしたら一つ空けて誰かが座ってきて
「こんな所で何やってるの?」
って声をかけられてね。びっくりして横を向いたら同じクラスの新田君っていう男の子だったの。
 そんなに話したこともなかったんだけど、なんとなくいい人そうだなと思っていたから、声をかけてくれて嬉しかったわ。やっぱり少し戸惑ったけどね。
 「俺サボりだけど、そっちもサボり?」
そう聞かれたからみんなに言ったのと同じように、
「ちがうよ、お腹が痛くて早退したの。」
って嘘をついたの。そしたら新田君が急に噴き出してね、
「ほんとにお腹が痛い人はそんなカフェオレなんか飲まないよ。」
そう言って私の手を指さしたの。
 私、完全に忘れていたんだけど自動販売機でカフェオレを買って手に持っていたのよ。もう自分の詰めの甘さと嘘をついたことがすごく恥ずかしくてね。顔を真っ赤にして俯いていたわ。
 でもあまりにも新田君が笑うから私も途中から可笑しくなっちゃってね。結局二人で大笑いした。途中から何に笑っているかも分からなくなっちゃたんだけど、久しぶりにお腹の底から笑ったから次の日には筋肉痛にまでなっちゃったのよ。
 笑うと心ってほぐれるでしょ。だから一気に距離が縮まってね、私たちは電車に乗ってからいろいろな話をしたわ。
 例えばどんな話をしたかって?
 そうね、一番覚えているのは新田君が星川駅を好きだって言ったことね。
 ほら、私にとってみれば星川駅はただの学校の最寄り駅だったのよ。その頃は学校が嫌だったからむしろ私は星川駅が嫌いだったわ。
 なんで星川駅が好きなのか新田君に聞いてみたら
「午前中は太陽の光がたくさん入ってきて明るい気持ちになるし、夜はいい感じに渋くてかっこいいんだ。」
ってそう言うのよ。今思うと大したことないんだけど、その時はびっくりしちゃってね。
 私は太陽の光になんて気が付いたこともなかった。それに、夜帰る時になったら
「十二時間後には、またここにいるのか。」
そんなことを思っていたのよ。暗い高校生よね。
 だからそれを聞いて、なんて前向きな人なんだろうって思ったわ。新田君みたいな人になれたらいいなって、すごく単純だけど、そう思ったの。
 私、新田君になら学校に疲れちゃったこと聞いてもらえるかなって思った。そのことを誰にも言えてなくて一人で抱え込んでいたからちょっと苦しかったの。
 お母さん、そうね、みぃちゃんのひぃおばあちゃんになるわね。ひぃおばあちゃんにも心配かけたくなかったから相談できなくてね。
 それで思い切って新田君に話してみたのよ。そしたらすごく真剣に話を聞いてくれてね。それだけですごく嬉しかった。少し心が軽くなったわ。
 でも話している最中に私の最寄り駅に到着しちゃってね、その日はそのままお別れしたのよ。また明日ねって言ってね。
 次の日、いつもと同じように学校に行っていつもと同じように過ごしていたの。筋肉痛で体育は辛かったけどね。
 そしたら急に新田君が話しかけてくれてね、
「今日も一緒に帰ろう。見せたいものがあるんだ。」
そう言ったのよ。もうその後の一日はずっと放課後が待ち遠しかったわ。
 それで電車に乗って一緒に帰ってね。見せたいものは弥生台駅にあるっていうのよ。私の最寄り駅の一つ先の駅でね、何か特別なものがあった記憶もなかったから何があるんだろうってわくわくしていたわ。
 弥生台駅に着いたら新田君が
「今から目を細めて!周りは見たらダメ。」
って言って私の手を取って歩き出したの。言われるがままに目を細めて歩いていたんだけど、初めて男の人と手をつないだから、ふふ。すごくドキドキしたわ。
 それでエスカレーターに乗って、ある場所に立たされて、
「目を開いていいよ。」
そう言われて目を開けたら、何があったと思う?
 ライトアップされた桜が目の前に広がっていたの。私、知らなかったんだけど弥生台駅は桜で有名みたいでね、駅のホームの周りに桜がたくさん咲いていたのよ。その桜をホームの上から眺められるようになっていてね、新田君はそれを私に見せたかったみたいなの。
 もう私びっくりしちゃって。今まで見た中で一番強烈な景色だって思ったわ。
 ほら、旅行とかできれいな景色とか見たりするでしょ?もちろんきれいで美しいんだけど、私には少し他人事のような感じがしてね。心が揺さぶられるような感覚はなかったの。
 でも新田君が見せてくれたその桜は、とても強烈に私の心に残った。多分それはすごく近くにあるものだったからだと思うわ。だって一駅先なだけでこんなに素晴らしいものがあったんだもの。自分の周りにも知らないだけで美しいものがあるんだ、ってそう気が付いたわ。
 新田君は
「きれいだから見せたかっただけ。」
とかなんとか言っていたんだけど、私に元気を出させようとしてくれていたのはバレバレだった。
 その気持ちがすごく嬉しくてね。新田君を愛おしく思ったわ。それでね
「あぁ、これが恋なんだ。」
ってその時分かったの。家族以外の誰かを愛おしく思う気持ちを初めて知ったわ。遅いけど十八歳で初恋をしたのよ。

 おばあちゃんの話は一つの短編を読んでいるかのようだった。そして、一つ気になったことがある。
「おばあちゃん、もしかしてその新田君っておじいちゃんのこと?」
「ふふ、そうよ。あなたのおじいちゃんが新田君よ。」
 苗字がおばあちゃんと同じだから、もしかしてとは思っていたのだが、やっぱりそうだったのか。
 おじいちゃんはわたしが生まれてすぐに癌で亡くなったと聞いていた。わたしはおばあちゃんの話を聞いて、実際に初めておじいちゃんに会えたかのような気持ちになって嬉しかった。
 「おじいちゃん、いや、新田君ってすごく素敵な人だったんだね。」
「ふふ。そうよ。すごく素敵な人だったわ。今でもおばあちゃんはおじいちゃんのことが大好きなのよ。」
おばあちゃんはそう言って微笑んだ。目には涙がにじんでいた。
 おじいちゃんのお墓は弥生台駅にある。おじいちゃんの遺言の手紙には、お墓は弥生台駅の桜が見える丘に立ててほしい、というのが書いてあったそうだ。
 弥生台駅に着いた。ありがたいことに今は春だ。実際におばあちゃんと新田君が見たという場所から桜を見た。その景色はわたしが見た景色の中でも一番になった。
 おじいちゃんのお墓がある丘まで二人で歩く。急な上り坂だが、おばあちゃんの足取りは力強かった。
 「あなた、今日はみぃちゃんが一緒に来てくれたわよ。」
おじいちゃんのお墓の前にしゃがみ、おばあちゃんがそう話しかけた。わたしも続いて
「おじいちゃん、ご無沙汰してごめんなさい。いつも見守ってくれてありがとう。」
そう伝えた。
 するとその時、強い風がわたしとおばあちゃんの間を通り抜けた。
 おじいちゃんだ、そう思った次の瞬間には、風は丘のふもとにある桜の花びらを美しく踊らせていた。おばあちゃんは涙を浮かべながら踊る桜に優しく微笑みかけていたのだった。

著者

高坂まいこ