「桜が咲く頃には」川雅小力

 急行海老名行きの電車から降りると、いつもの様に家路へ向かっていた。改札を出て左に曲がると階段を降り、右に進む。横断歩道を渡り今日もパン屋の誘惑に負けず、坂道を上り始めた。やはりパンを買った方が良かったと後悔をしながら白い息を切らせていた。坂道を上りきると、葉一つない桜の木々が出迎えてくれる。数分程西日を浴びながら我が家に着くと、彼女が奥から出て来た。
「ただいま。
「お帰りなさい。今日は早かったね。」
コートを脱ぎ鞄をベビーベットの傍に置くと、洗面所へ行って手洗い嗽をした。その間にキッチンで、彼女は大きなお腹を支える為に腰に手を当てながら、お味噌汁を温めはじめた。食卓に着くと、食事が用意されていた。彼女は座って待っていた。
「もう、お腹空いたよ。」
 その後の事はあまり覚えていない。最近仕事が忙しすぎて、頭の中は仕事の事で溢れかえっていた。ただ彼女が言ったもう八ヶ月だって事は耳に入った。
「この子の名前の候補、考えなきゃね。女の子なら「碧」が入る名前がいいな。」
一瞬、見惚れた。お腹を撫でながら優しく話す彼女は、今までの彼女ではなく、母親に見えたからだ。彼女はお腹の子と共に過ごしながら、僕の知らない間に母親へと成長していた。その間に僕は父親に近付いていただろうか。一瞬でも父親らしく見えた時はあっただろうか。ふとそんな事を考えていたら、食事が終わっていた。テーブルには彼女が入れてくれた番茶と苺が置いてあった。
「時々この子、くすぐるのよ。この感覚は妊婦にしか分からないわ。」
優しく柔らかい声で話す姿は、母親そのものだった。
 翌日、駅に向かう途中の桜の木の下で、この桜の花が満開になる迄には、僕も立派な父親になろうと決心した。そして急いで坂道を下りると、吸い込まれるように駅へ向かった。
 三箇日が過ぎ、正月太りで困りながら仕事をしている最中だった。携帯が鳴った。携帯に出ると、彼女からだった。
「陣痛がはじまったみたい。」
仕事を投げ出し、横浜駅に着くと改札に入り、一目散に階段を駆け上がった。急行海老名行きへ乗り込むと、発車の時刻を待った。こんな時の時間は長く感じる。一分でも早く彼女の傍に居たいのに。いつも降りる駅を通り過ぎると、彼女がいる病院の最寄り駅に電車は到着した。改札から走った。早く彼女に逢いたかった。間に合ってほしかった。
 病院へ着くと、直ぐに分娩室へ案内された。分娩室の扉が開くと、彼女はこちらに気付き少し笑顔になった。僕も少しほっとした。その後直ぐに彼女の顔は歪みはじめた。
「はい、力んで。」
先生の合図に唸り声を上げながら辛そうな彼女を心配した。隣で彼女の手をずっと握っていた。それはもう出来ることなら代わってあげたいもどかしい気分だった。見ているとつい力が入って彼女の手を強く握っていた。何度か力むと、
「これで最後よ。頑張って。」
その先生の合図でようやく赤ちゃんが誕生した。ふと気がつくと目から沢山の涙が溢れていた。キラキラとした暖かな幸せな気持ちが溢れているように感じた。
「泣きすぎ。」
笑いながら彼女は言った。彼女の目にも涙が溢れていた。
「おめでとうございます。」
看護師さんが僕の前に赤ちゃんを連れてきてくれた。抱っこした赤ちゃんは壊れそうなくらい小さく、軟らかく温かかった。そしてそのまま記念撮影。その後、待合室にいらしていた義母と彼女と三人でほんの少しお話をして、僕は帰る事にした。
 これから先もきっと今日の事は決して忘れないだろう。こんなに感動をしたのは人生で初めてだった。素晴らしい経験だったと実感した。
 おもちゃ屋に少し立ち寄った。つい幼児用のおもちゃを買ってしまった。まだ早すぎるよと絶対に言われそうだった。けれど、そんなおもちゃを買ってしまう僕が、少し父親に近づけたかと思うと、嬉しくなった。
 家に着くと久々の一人だった。彼女たちが退院したら、こんな静かな環境も、忘れてしまうだろうなと少し酔いしれた。リビングの片隅にあるベビーベッドを見て直ぐに我に返り、三人で暮らす様子を思い浮かべながら、実家の電話番号を押した。

著者

川雅小力