「森の向こう」西島朝子

 森の向こう、はるかに見える山の連なり、水色の空、無言の圧力、円すい形のおやま、ごつごつとした黒い山肌を白い雪がおおい隠している。
 ここが寒いのも仕方ない。
 湘南台に向かう電車は適度な静寂がある。待ち合わせの誘いを断って、ひとりで向かうのは余計なおしゃべりをしなくてすむからだ。
 二俣川駅から数駅走って、ようやくシートが温まってきた。眠くなってきたな、次の駅で降りなくちゃ、ひとりでずっと座っていたいな。チームが出来上がれば、必ずと言っていいほどついて回るお仕着せがましい恍惚感が伴ってくる。私は、そんなものはいらない、、ましては邪魔なくらいだ。私はただひな壇の真ん中で歌えればいい。
 合唱部で一緒に部活をしていた男子が唐突に家を訪ねてきた。母から連絡先のIDを聞いた。
 土曜日の午後、ふたりの家から近い公園で会うことにした。
 昔から、公園のまん中には変わった〈おともだち〉が暮らしていた。まが玉型のコンクリートでできたつまらないイスは、その彩色だけで子どもたちを引きつけていた。
 奴は、パンダの〈おともだち〉にまたがって遠くを眺めていた。
 私の気配に気が付いたのか、奴が、手を振ってきた。仕方あるまい、私はクジラの〈おともだち〉に落ち着いた。スカートじゃなかくてよかった。
 まずは、差しさわりのない近況を話す。学校の様子、授業の難しさ、部活のこと、最近会った旧友のこと。奴は、かなり頭のいい高校に通っている。
 「俺さ、いまバンドやっているんだ」
 ベンチで話すように、口先だけでの声では聞こえない。
 「へえ」まだ、音楽やっているんだ。
 「男子ばかりの4ピースバンドなんだけど、ちょっと足りないんだよね、音が。俺は、ボーカルギターね」
 「ふうん」それってテクニックの問題じゃないのか。
 「やっぱキーボードで音厚くするかと考えたり」
 「いいんじゃない」
 「でさ、結局、コーラス入れようって話になったの」
 「ふうん」
 「でさ、やってくれない、サイドボーカル」
 「誰が」
 「おまえがさ」
 「私が、なんで」
 「俺の声と合うと思うんだよね。お前の声は2年前とそんなに変わっていないみたいだしさ」
 「俺さ、合唱部のとき、おまえの声、気に行ってたんだよ」
 何を言っているんだか。いつの間にこんなに話すようになったんだろう。
 中学の男女混成の合唱部では、ひな壇の立ち位置が隣り合っていた。奴の歌声は邪魔だと思ったことはいちどもない。耳障りだったのは後列の女子の歌声と部員と先生に対する終わりのない陰口だった。
 奴の声は。声変わり中ではあるが、今もそうだ、嫌いではない。
 「3か月後に、ライブハウス借りてステージの予定があるんだよ。そこに一緒に出てよ。なんだったら、リードボーカルで1曲やってもいいからさ」
 そういう問題なない。
 奴が立ち上がった。背が数段伸びていた。もう同じ高さのひな壇には乗れないな。
 「来週、スタジオで練習するから、見に来てよ」
 翌日、家のポストにはバンドスコアと音源が届けられていた。スコアにはコーラスパートはない。私は、音源をスマホに取り込んだ。
 練習スタジオは、かつて奴の合唱部で歌ったホールのある駅だった。
 少しだけドキドキする。うっかり、早くついてしまった。改札前で待ち構えていたら、やる気があるように思われやしないか、それは格好わるい。
 駅から出てみる。電線が楽譜のように何本も張られていた。そこに、たくさんのハトが、ギッチリと止まっている。黒いシルエットは怖さすら感じる。
 まるでひな壇だな。
 等間隔で並んでいるのは、当たらず触らず、少しでも近づこうなら容赦なく攻撃し合う。ハトは集団ではない、単なる個の集まりだ。
 街道沿いを高架下をくぐりぬけ、ゆったりとした坂道を登ってみる。
 驚いた。
 深く紅いオレンジ色の空気が輝きを放ち、まるで異世界へ飛び込んだようだった。思いがけず、再会したおやまのシルエット、黒く壮大な姿が目の前に現れた。あの朝、緊張感を上乗せしてしてくれた大きな力がここで待ち構えていたのか。
 「歌ってみるのも悪くないか」
 私は再生していた曲を変えた。

著者

西島朝子