「横浜中央鉄道ものがたり」橋本ひろ実

 大都会の横浜に、色鮮やかなシャボン玉が飛んできた。
 その中の青色シャボン玉が、突然、横浜中央鉄道横浜駅の真上に止まり壊れた。
[ピカッ!][ゴロゴロ!]の雷音とともに稲光が走った。
 一瞬の出来事だった。
 何事もなかったかのように明けの明星は、朝日が出てくるのが待ち遠しかった。
 恥ずかしそうに朝日は、駅ビル街に顔を覗かせた。
 まだ、プラットホームは暗闇に包まれていた。
 ホームの先端から、二つの小さな明かりが左右に揺れ、早走りの靴音だけが構内に響き渡っていた。
 二人の若き駅員が、懐中電灯を片手に駅コンコースに備え付けられている電気配電盤に向かって走っていた。
 新人駅員の佐藤公三と3年先輩の上野勝美の二人である。
 ただ、静かな駅構内には、二人の靴音だけが交差して異様に響き渡っていた。
 配電盤扉についている鍵を開け、数々のスイッチに手をかざし、上野が指差確認しながら、スイッチを親指で押し上げ[オン]にしていった。
 配電盤室から大きな声が流れた。
「よし!」
 上野は、人さし指でボタンの位置を差して、確認点呼をしたのだった。
 駅ホームの最先端から電気の点灯する音が、
静まり返った駅コンコースへ向かって、リズミカルに響き渡った。
[パーン、パーン、パーン!]
 先端ホームから、中ホーム、駅コンコース、
駅事務室へ。
 闇の世界から明るい都会へと変貌する一瞬であった。
 横浜中央鉄道の一日のはじまり。
 横浜中央鉄道の核駅である横浜駅の一日がはじまった。
 一日の乗降人員は、約80万を受入れ捌くマンモス駅のはじまりである。
 関係者以外立入禁止の扉から、十数人の早番駅務員が飛び出してきた。
 お客様に快適な駅施設を利用していただくために、若手駅員に関係なく全駅員で清掃作業等を分担して行うことになっていた。
 特に、鉄道経営の使命は、沿線住民の快適かつ安全安心な街づくりが、大きな課題になっていたこともあり、鉄道関連事業の発展に力を注ぐことが主流になっていた。
 そのため、大きな事業に参画するたびに、経費の見直しや経費節減などが打ち出される社内報が回ってくることも多くなっていた。
 社内報の回覧は、会社の主な事業の進捗状況などを事細かく知らせることで、社員一人ひとりのモチベーションを高める狙いもあった。
 すなわち、会社から社員一人でも落ちこぼれを作らない配慮にも?がっていた。
 モチベーションの一環として、全社員にどんな汚いと思われる作業であっても避けず嫌がらず、自ら率先して業務に取り組む姿勢を作り上げたかったのだ。
 現場を預かる総責任者の管区長(幾つもの駅を管理する区長とも呼ばれたり、駅長とも呼ばれる統括の長)の遠藤賢司は、いつも口うるさく危険が伴うような作業であっても、心の奥底から大きな声を張り上げ、左右前後に向かって指差確認しながら作業することを奨励していた。
 上野は、社内電話(社電)を使用して、運転司令室に
「おはようございます」
「ただいま、駅事務室に早番駅務員全員集合いたしました」
「早速、マニュアルに従って作業を開始いたします」
「本日も、よろしくお願いいたします」
 一方的なあいさつを兼ねた連絡ではあるが、欠かせない駅と司令室との連絡報告になっていた。
 清掃開始。
 作業については、必ずペァを組んで規則正しく決められた内容で実行するよう、遠藤から郡司一弘首席助役など幹部を通じ、徹底した指導が成されていた。
 一刻も早く始発電車が入庫する前に、清掃作業を終わらせなくてはいけないことから、一斉に全駅員が分担先に散っていった。

 佐藤に課せられた作業は、トイレ清掃担当になっていた。
 大先輩の木村二朗は手慣れた手つきで、清掃用具室からバケツとデッキブラシを取り出した。
 上野と同期の増子敏夫が、劇薬塩酸を大事そうに持ってきた。
 佐藤も、バケツに水を入れ運んできた。
 4人はマスク代わりに、口と鼻をタオルで覆った。
 バケツの中に塩酸を2~3滴入れ、デッキブラシに浸した。
「イチ、ニィのサン!」
 の掛け声とともに、息を止め木村たちはデッキブラシを持って、大小便器の清掃をはじめた。
 化学反応によるアンモニア臭が、トイレ内に充満していった。
 作業するうえで、息継ぎのため頻繁にトイレの中を出たり入ったりする清掃だった。
 ただ、だれもが進んで引き受けるような作業でもなかったことだけは確かだった。
 当番制なので、仕方なく4人は任務に就いていた。

 一方、線路内清掃担当は、佐藤と同期の海藤学と2年先輩の菊池靖を中心とした3グループがスタンバイしていた。
 菊池は、人さし指を前に突き出し、左右に障害物がないことを確認しながら
「右、よし!」「左、よし!」
 の掛け声を高らかに指差歓呼し、線路内に立ち入った。
 新人の海藤と藤沢登も、見様見真似ながら線路内に立ち入った。
 線路内には、空き缶やペットボトル、たばこの吸い殻などを、菊池たちは器用にV字型ハサミを使い、塵取りの中に入れていった。
 菊池の身動きは早く、海藤たちは追いつくことも出来ずに、どんどん離されていった。
「おーい!遅いぞ」
「早くしろ!」
「一番線に回送電車が入って来るぞ~!」
「は~い!」
 海藤たちが清掃していた線路は、始発電車(回送電車)が入庫する一番線側だった。
 回送電車が入庫する前の、わずかな時間との戦いだったため、菊池から厳しい叱咤が飛んだ。
 二番線三番線側は、少しゆとりある線路になっていたこともあり、他の清掃担当者への影響も少なく、のんびり作業を進めていた。
 線路内のポイ捨ての中には、鉄道会社に嫌がらせするかのように、家庭ごみをまとめて捨てていく者もいた。
 マナーが密かに崩れはじめているのか?
 嘆かわしい現実もあった。
 海藤たちは、心苦しかった。

 清掃作業の中でも、最も負担が軽く危険が伴わない広いホームや駅コンコースなどをきれいにする作業だった。
 松村幹夫駅務主任の前に、箒(ほうき)や如雨露(じょうろ)を片手に新人駅員を含め9人が集まっていた。
 松村から、清掃作業の進め方についてレクチャーしはじめた。
「早く清掃を終わらせるには、全員で一斉に駅コンコースから各ホームに向かって進めます」
「塵やほこりが舞うので、内から外に向かって、箒や如雨露などで掃き出してください」
「くれぐれも線路内に、ごみなどを掃き出さないこと!」
 松村の号令の下、一斉に水が入った如雨露を左右に振りながら散水しはじめた。
 その後から、箒隊が続いた。
 松村は清掃の責任者らしく、率先して塵拾いなどに努めていた。

「まもなく、9002列車(回送電車)が、一番線ホームに入庫いたします」
「ご注意ください!」
 運転司令室から、場内放送が流された。
 入庫放送が流されたのをきっかけに、全駅員は清掃作業を打ち切り、次の持ち場へと拡散していった。
 清掃前に松村から、新人駅員のみ駅事務室、前に集合するよう命令が掛かっていた。
「おら(俺)たち、なんがやらかしちゃった(何か悪いことしてしまった)のかな?」
「はズめて(初めて)の現場実習みたいなもんな?」
「チじょう(机上)で習ったこととちげえぃ(違い)は、あだりめえ(当たり前)だべぇ」
 まだ都会に不慣れなこともあり、佐藤には標準語へはほど遠かった。
 訛りは地方の手形などと持ちはやされていたのだが、ここ横浜では通用しないことを、気づかされていた。
 佐藤たち新人駅員は、不安を抱きながら駅事務室に向かった。

「みなさん!緊張していませんか?」
「大丈夫ですか?佐藤くん」
「眠くないですか?」
 佐藤は、「はい」の意味を込めて、小さくうなずいた。
「みなさんには、すべてのことが初体験ですから、緊張しないわけがないですよね?」
「しょうがないか?」
「あまり粋がらず焦らず、みんな一丸となって頑張りましょう!」
 松村の厳つい顔から、怖い大先輩の一人に加えられていたが、言葉の端々からやさしさがにじみ出ていて、逆に親しみまで感じていた。
 佐藤たちは、お互いの顔を見合わせ胸をなでおろした。
 身近な意外性に気づかされた佐藤は、都会の人は怖い者と決めつけていたが、自分の思い込みが恥ずかしかった。
「それでは、みなさん!」
「最初にやっていただきたいことがありますので、わたしについてきてください」
 佐藤たちは、研修中にもらった手帳を制服の胸ポケットから取り出し、真剣な眼差しで松村を見つめた。
 「きょう、上野くんと佐藤くんのペアで、ホームや駅コンコースライト等の点灯式を行っていただきましたが、この駅にはたくさんの配電盤が配置してあります」 
「その中でも、この駅一番の主電源盤がこれです!」
 松村は、腰に下げていた配電盤ボックスキーを取り出して、扉を開けた。
 配電盤の中には、たくさんのスイッチが配列されていた。
「みなさんには、絶対に触れてはいけないスイッチが、一つだけあります」
「この赤くシールが貼られているスイッチです」
「このスイッチを間違って触れてしまうと、緊急事態が発生したことを知らせる緊急サイレンが鳴り出します」
「サイレンを止めるには、スイッチを元に戻せば済むと思いがちですが、隣の駅・南横浜駅までの信号機の停止ランプ(赤色)が点滅し、電車が緊急停止することになっています」
「安全が確認されるまで、電車は動くことが出来ません」
「それだけでは済まされません」
「安全が確認されて電車が動いても、まだ始末書なる事務処理が残されています」
「膨大な報告書などの書類作成が終わるまで帰宅が許されません」
「特に、この報告書類作成は、当日宿直の最高責任者の首席助役が行います」
「万が一、不在の場合は、他の庶務助役か駅務主任が執り行うことになります」
「きょうで言えば、郡司助役が顔を青ざめて、右往左往するのが、目に浮かんできます?」
「最も厳しい諸手続きの中で、電車の運行を一時的に止めたので、運転司令室ならびに本社との対応に追われることになります」
「人的ミスが原因であっても、みなさんの名前・所属が社内日報に掲載され、懲罰委員会の議題に挙げられます」
「減俸とかけん責などの重い処分が科せられる可能性が強いかと思われます」
「そんなことのないように、最善の注意を怠らないよう気を引き締めて、仕事を楽しみましょう」
「決して、みなさんを脅かしているつもりは毛頭ありません」
「ただ言えることは、本人だけの責任じゃなく、当日勤務したすべての職員の連帯責任にもなってきます」
「頭の中に、良く叩き込んでください」
「机上で学ぶことも重要ですが、現場では肌で感じ、より多く体験していただきたいです」
 佐藤たちは、松村からの説明を聞き漏らすまいと、手帳に書き込んでいた。

 佐藤は、いま勤め出した職場が場違いじゃないかと、頭の中を過ぎった。
 自分が描いていた華々しい駅員とは、程遠いことに気づかされていたのである。
 田舎にない都会のネオン街と鉄道制服に憧れを抱いて就職活動していたからだ。
 不純な動機での就職活動は恥ずかしかった。

 松村は、配電盤の中を一つひとつ懇切丁寧に説明していった。
「みなさん!配電盤の隣にぶら下がっている、この取り扱いマニュアルの手順に従って、スイッチを[オン][オフ]してください」
「仕事に慣れてくると、自分の思い込みと感覚でスイッチを[オン][オフ]にしがちですが、絶対にその方法ではやらないでください」
「いまでもわたしは、このマニュアル通りに従ってスイッチを入れています」
「それでは、藤沢くん!」
「その①に書かれている正面エントランス入口のシャッター開閉スイッチボタンを[オン]
にしてください」
「ただし、スイッチを[オン][オフ]にするときは、必ず誰かシャッター前にスタンバイしていただくことも忘れないでください」
「わたしたちの合言葉は、ペアになって、必ず、掛け声を交わしながら作業をすること」
 藤沢は、海藤にお願いした。
 藤沢は、海藤がシャッター前に着いたのを見届けて、大声で
「スイッチ、オン!」
 人差し指を突き出して、指差確認をした。
「よし!」
 静まり返ったエントランスホールに、けたたましい機械の摩擦音が鳴り響いた。
[ギギギ~!][ガタン!ギギギ~!][ガタン!ガガガ~!]
 異常な摩擦音である。
 藤沢は、佐藤にJR東日本鉄道・相模鉄道線の連絡口シャッター前へ行くよう言葉を交わした。
 佐藤は言われるまま、連絡口シャッターへ駆け出して行った。
 藤沢は、佐藤が連絡口シャッター前に着いたことを確認したのを受け、②の連絡口シャッターボタンを大声で
「スイッチ、オン!」
 親指で押し上げ、確認点呼も忘れていなかった。
 各シャッターが開いたのを見届けた海藤が、配電盤室に戻ってきた。
 藤沢は、松村の指導の下、③④の順にボタンに手を掛け、次々に[オン]にしていった。
 駅全体に照明や各出入り口シャッター等が開場されたのを確認した信号所が、朝のさわやかな野鳥の鳴き声が入ったBGMを流した。
[カッコウ、カッコウ!]
 中には、シャッターの摩擦音が大きすぎて、一時的にかき消されるところも出てきた。

 連絡口シャッターが少しづつ上がる隙間から、顔を覗かせる老人がいた。
 老人は、シャッターが開くのを待ち遠しかったのか身を乗り出し、いまか今かと待ち望んでいた。
 目の前に【各駅停車・陣ケ下渓谷行】の電車が止まっているのを老人は確認した。
 一番電車に乗り遅れることを恐れた老人は、妻らしき夫人に声を掛けた。
 床の上に置いていた大きな風呂敷包みを肩に担いで、老夫婦が改札口を通過しょうとしていた。
 老夫婦の挙動不審な仕草に気づいた佐藤は、配電盤室へは戻らなかった。
「お客さん!まだフォーム(ホーム)のそうズ(掃除)が終わんまで、いま、スばらく、お待ちくださイ」
 やさしく老夫婦に呼びかけた。
 佐藤は、特にお客様との会話を標準語に近づけようと努力したものの、どうしてもアクセントに偏ってしまい訛りが出てしまうのであった。
 いまでも、興奮すると訛りが出やすくなっていた。
 老人は、切符を見せながら
「わら、めご、なす、がわづまさ、ゆがんたい(わたしたちは、孫に会いに川島町まで行きたいのですが)?」
 老人が持っていた乗車券〈乗車区間は、JR花巻駅からJR横浜市内まで〉を拝見した佐藤は
「このチップ(きっぷ)では乗れませんよ」
「あそこの連絡精算窓口で、ここの鉄道のチップを、改めてお買い求めてくださイ」
 老人は、ためらいながらも、大きな風呂敷包みを改札口前に下し、連絡精算窓口に向かった。
 花巻駅から夜行列車で乗り継いで来たらしく、疲れている仕草など一切見せず、老人から笑みが零れていた。
 老人は、なぜか佐藤との会話の端々から、田舎のにおいを感じたのか、うれしかった。
 佐藤もまた、老人との会話から、田舎に残してきた両親を思い出していたのか、懐かしく感じさせる老夫婦に重ねていた。
 親近感もわき、うれしかった。
 懐かしかった。
 老人は、改めて大きな風呂敷包みを肩に担いで、奥さんを呼び寄せた。
 奥さんも、野菜が見え隠れする風呂敷包みを担いだ。
 ふたりの荷物は、見た目から合わせて、おおよそ60キロぐらいはあるだろうか?
 腰が少し曲がりかけている老人夫婦から、あのエネルギーはどこから来るのか、佐藤には不思議でならなかった。
 愛おしい孫に会いたい一心での、老人夫婦の行動に脱帽しきり。
「まもなく、二番線に折り返し【特急・陣ケ下渓谷行】の電車がまいります」
「お気を付けください」
 駅事務室から遅番駅員も加わり、一斉に飛び出してきた。
 駅員は、それぞれに与えられたラッチ(改札ボックス)に入り、改鋏(お客様との入場契約の印として、駅によって異なる形の穴を乗車券にあける鋏。別名・パンチ)を器用に使い、カチカチ鳴らして、乗客を待ち構えていた。
 二番線に、各停の電車が入ってきた。
「よこはま、ヨコハマ、横浜!」
「終点、横浜です!」
「本日は、横浜中央鉄道をご利用いただきまして、誠にありがとうございます」
「どなた様も、お忘れ物なさいませんよう、ご注意ください」
「横浜、よこはま、終点、横浜です!」
 降車ホーム側のドアが、一斉に開いた。
 電車の中から、乗客がドッと一同に降車ホームへ、一斉に飛び出してきた。
 のどかな田舎暮らしを満喫してきた佐藤には、見たこともない大量の乗客に圧倒されていた。
 入場口改札担当の木村は、パンチを空中に放り投げながら切符への契約を開始していた。
 パフォーマンス好きの木村は、ひょうきん駅員の一人だった。
 しかも、その姿は新人駅員のあこがれの的になっていたのである。
 出場口改札担当は、主に切符の受け取りと定期券の不正防止などを見極めることと、大量の乗客が安全かつ安心して通行できるよう、細心の注意を払う重要な職種になっていた。
 ラッチも、10数台並んでいた・
 真新しい制服制帽姿の佐藤たち新人駅員をからかう、わかりやすい行動をとる乗客まで現れていた。
 佐藤たちも、乗客から小馬鹿にされちゃいけないとの思いから、目を皿のように見開き、真剣に定期券の行き先や有効期限などを見つめていた。
 小さい文字との戦いがはじまった。
 突然、海藤が顔を青ざめ、ラッチの中に崩れ落ちた。
 隣で倒れ込んだ海藤を見つけた木村は、ラッチを一気に飛び越え救助に向かった。
 ラッチの両扉を閉じ、海藤を担ぎ駅事務室の休憩所へ運ぶのだった。
 ラッチの閉鎖は、乗客の流れを変えていた。
 乗客にとっては、いい迷惑であった。
 しかも、病人の仲間を放っての仕事は、だれも見て見みない振りなど出来なかった。
 木村は、ベテラン駅員のせいか、手慣れた手つきで対応して来たらしく、入場口改札ラッチに何事もなかったように戻ってきた。
「海東くんは、大丈夫でスか?」
 木村は、薄笑いを浮かべて
「だいじょうぶ、大丈夫!」
「たいしたことないよ」
「もう少しすると戻って来ると思うよ?」
「どうしてでスか?」
 大量の乗客を捌きながら木村は、やさしく佐藤に小声で
「船酔いだよ」
「船酔い!」
「船酔いって何でスか?」
 佐藤は、疑問を抱き聞き返した。
「これだけの大勢の乗客が一同に、改札に向かって来ると、新人の君たちは定期券などを集中的に見ようとしているから、船酔いの現象が起きちゃったのよ」
「はっきり言って、乗客が大海原の波に重なり、小舟に乗って動いているような錯覚に陥っているのよ」
「だから船酔いを防止するには、目先を見ることじゃなくて、遠くの乗客の中に挙動不審な動きをする人を見つけることかな?」
「おれは不純な考えもあって、きょう一番なる美人を見つけては点数をつけて楽しんでいるんだよ」
「仕事は苦しむことじゃなくて、いかに楽しむかを見つけることだと思うよ」
「もし該当者が見当たらないときは、最初から乗客を信頼して、両手を広げて切符を受け取りながら、朝のあいさつを交わすことだね」
「おはようございます!」
「行ってらっしゃい!」
 佐藤に語り掛けながらも、木村は率先して、見ず知らずの乗客に向かって、あいさつを交わしていた。
 木村は、少しでも佐藤の緊張を解してあげようと、例えを交えて指導していた。
「ありがとうございまス!」
 佐藤は、木村からの助言を参考に、乗客の流れる最後尾を見つめていたとき、先ほど案内してあげた老夫婦が目の中に飛び込んできた。
 乗客の流れを遮っているかのようで、危なっかしく見えていた。
 乗客の流れも一段落したのを見届けた佐藤は、駆け足で老夫婦の元へ向かった。
「おキャくさマ(お客様)!そこは降車ホームで、反対側の乗車ホームからでスよ」
 佐藤は、一番線に停車している【各駅停車陣ケ下渓谷行】の電車に、老人夫婦を誘導していった
 足元がおぼつかない老人の、故郷の思いがいっぱい詰まっている風呂敷包みを持ってあげた。
 重たかった。
 老夫婦は、深々と頭を下げた。
 佐藤は【各駅停車・陣ケ下渓谷行】の3両目の海側座席の上に風呂敷包みを置いた。
「7ス目の駅が〈川島町駅〉ですから、車内放送を注意して聞いてください!」
「目の前に、エベレータがありますから、それを利用してください」
「それでは、気を付けていってらしゃイ!」
 老夫婦は、風呂敷包みの中から、早春リンゴを取り出し、ビニール袋に入れて
「こりい、てべてくんれ(これを食べてください)」
 佐藤に手渡した。
「ええから、ええから!」
 佐藤は遠慮したものの、老人は頑なに応じることはなかった。
 佐藤は、老人に頭を下げて
「遠慮なク、いただきまス」
「ありがとうございまス!」

[ジリ、ジリ、ジリ~!]
 けたたましい一番線ホームの発車ベルが鳴り出した。
「一番線の【各駅停車・陣ケ下渓谷行】が、
まもなく発車いたします」
「無理な駆け込み乗車は、大変危険です」
「次の電車をご利用ください!」
「閉まる扉に、ご注意ください」
 車掌は、出発合図の呼子を吹いた。
[ピッピッ、ピ~!]
 左手で、扉の開閉ボタンに手を掛け、ボタンを押し下げた。
 電車の上部に備え付けられている赤ランプが、一つひとつ消えていったのを確認すると同時に、列車監視駅員のフラッグも一斉に挙げられていたのも確認した。
 車掌は、人差し指を突き出し大きな声を張り上げて
「よし!」
「出発進行!」
「場内出発信号!」
 車掌は、運転士に出発合図ボタンを押し、電車に乗り込んだ。
 電車は、ゆっくり走り出した。
 佐藤は、老夫婦に向かって最敬礼で見送った。
 老夫婦も立ち上がって、佐藤に向かい深々と頭を下げていた。

 佐藤は、すれ違う乗務員に対し最敬礼して見送ることが多くなっていた。
 いつの日か自分も電車の車掌を経て、立派な運転士なる乗務員の夢を持っていたので、駅で自分の顔を覚えてもらう絶好のチャンスと思い、積極的にあいさつを交わしていたのだった。
 ただ、佐藤には乗務員になりたい思いは、単純な動機が絡んでいた。
 田舎でも見たこともない電車運転免許証を、友だちに見せる自慢話の一つにしたかったのである。
 しかし、電車の運転士になるためには、並大抵の努力と勉学が必要であることは、日頃の行動が大切になっていたのである。
 特に、乗務員は、たくさんのお客様を無事故で、安全かつ安心に目的地まで運ぶ移動手段の乗物であるがゆえ、厳しい国家資格(動力車操縦者運転資格)が待ち構えていた。
 駅員なら誰しも、あこがれの職種なのだが、
なかなか希望に就ける職種ではなかった。
 専門知識の安全運転心得なる必須科目と実技訓練など長期間にわたり、精神力と体力等が欠かせないことも先輩から教えられていた。
 ただ風の噂では、国家資格を習得した乗務員がライバル会社などに引き抜きされたり、自ら売り込むこともある泥くさい職種になっていたことも耳にしていた。
 しかし、会社側からすると長期計画の一つである要員計画が崩れ、再度、不定期(臨時)の乗務員補欠募集を、各管区長を通して人材を探すことに繋がっていた。
 乗務員を希望する者は、チャンス到来と捉え、駅長や助役に懇願する者まで現れた。
 いつものことだが、人事異動は人が人を判断して推薦する。
 特に、人事異動の対象者は、職場の輪(和)を乱す人物か、もしくは、優秀かつ将来性を見込まれ惜しまれる人物の二通りに絞られることが多かった。

 佐藤が、二十四時間勤務を終えて、独身寮〈まつたけ寮〉へ帰宅すると、隣の上野の部屋から、異様な音が聞こえてきた。  
 壁に耳をつけて聞き取ると、カセットテープから
「ハイ、止め!次」
 数秒後に
「ハイ、止め!次」
 の繰り返し。
 音楽などの曲が流れる気配はなかった。
 佐藤は、隣の部屋を静かに開けると、折り畳みテーブル上のノートに向かって、真剣に取り組んでいた。
 上野は、乗務員になりたい一心での猛勉強に励んでいたのである。
 のちに、上野に聞いた話ではあるが、乗務員になるための適性検査クレペリンなどを、
自分で作成して、いかに早くクリアするかを特訓していたことも分かった。
 この意気込みこそ、夢実現への第一歩であり、努力と忍耐力は絶対に欠かせないことを、先輩の姿から教えられていた。

 物思いに耽っていた佐藤に
「三番線に折り返し【急行・いずみが丘行】
電車がまいります」
「お気を付けください」
 場内放送が流れた。
 われに返った佐藤は、ビニール袋を提げて、改札口へ急いだ。
 先ほど、船酔いで途中離脱していた海藤が、顔色が悪いものの持ち場のラッチ内で、いつもの行動に移せる態勢をとっていた。
 また、佐藤もビニール袋をラッチ内に置いて、両手を広げ乗客が通過するのを待った。
 乗客は時間が経つに連れ、泉が湧くように増えている錯覚に陥っていた。
 電車の入出庫が3分間隔に近く、一番線・二番線・三番線ホームのフル稼働に繋がっていた。
 発車のベルと車掌の呼子が交互に鳴り響き、
場内放送も加わり慌ただしいラッシュアワーのはじまり。

 横浜駅が変貌。

 改札担当者は、ラッチ内を交代しながら、乗客に不快感を与えないよう円滑かつ支障なく、スムーズに通過できるように心掛けていた。
 二十四時間勤務の交替要員が近づく午前8時30分になると、駅事務室では、遠藤管区長による朝礼あいさつと郡司助役から前日の業務引継ぎを兼ねた点呼が行われていた。
 最後に、遠藤を中心に駅務全員で、社是を斉唱するのだった。
 社員一人ひとりが、会社へのモチベーションを高めるための大事なセレモニーの一つになっていた。
『誠実にして和し 精励社業を愛し 常に向上を怠らずわ われら栄えるもとなり』
 駅事務室から、斉唱の声が漏れていた。
 佐藤は、この声を聴くと、なぜかホッとする瞬間でもあった。
 駅事務室から、交替要員がパンチを鳴らしながら、一斉に出てきた。
「お疲れ様でした」
「交替します!」
「よろしくお願いいたします!」
 佐藤は、更衣室で素早く着替え、駅事務室を出ようとしていたところ
「佐藤くん!川島町駅から社電が入っているよ」
「はい!佐藤でス」
「佐藤くん?姉崎さんと言う老人が、佐藤さんには大変お世話になりましたとのお礼の言葉とリンゴを置いていったけど、どうしたら良いかな?」
「ありがとうございまス」
「わたスもいただきましたので、そスらで食べていただけないでしょうか?」
「よろスくお願いいたしまス」
 佐藤は、見えない電話の相手に対して、何度も頭を下げながら社電を切った。
 横浜駅で困っていた老人の名前が、姉崎さんであることを知ったことが、うれしかった。
 なぜか、きょうという日が、幸福な一日のはじまりのように思えてきた。
 佐藤は、一日の疲れを癒すために、早く独身寮の大浴場で足を延ばして浸かるのが、至福のひとときにしていた。

 お疲れさまでした。
                 完

著者

橋本ひろ実