「横浜貿易で栄えた新橋の豪農たち」匿名希望

~養蚕と製糸・百合根栽培で建てた中丸家と横山家二つの長屋門~
 相鉄線「弥生台駅」を下車、新橋小学校方面の階段を降り、公園脇の坂道を下ると駅から三分程で蛍の生息する自然林とせせらぎ緑道の入口に達する。この一帯の地形は、京浜変電所から踊場にかけての下末吉台地と相模原段丘の境界に位置する為、自然林の中は急勾配の斜面が多く湧水が豊富である。いずみ野周辺は平坦な台地で、弥生台や新橋に入ると急に坂道が多くなる。平成元年、光岡さんの案内で初めてこの地域を歩き、墓地の方から下って観音寺の客殿で昼食後阿久和川沿の山門に出たが、墓地からの遠景は素晴らしく庫裏や本堂の遠方に横浜方面も見渡せた。
 この亀谷の自然を残そうと平成十五年頃に墓地建設反対運動が起きた。山林の地権者は横浜貿易の百合根や製糸で財をなした複数の所有になっている。現在一部は市民の森になり、毎年六月初めには蛍の乱舞が鑑賞出来る。私が撮影した平成十六年頃の写真には、槍ケ坂の横山昭氏所有の源流「お玉が池」や緑道、棚田等「ふるさとの原風景」が手つかずに残っていて、水辺愛護会と中田市長とのカレーミーティングにも提供した。蛍は石川金正氏の一族、弥生台の中村英二郎氏が自宅で養殖した幼虫を放流され、川の掃除や自然林の管理など地域の人々の熱心な奉仕協力によってこの環境が維持されている。初代水辺愛護会の会長相原照男氏は、新橋二番地の豪農相原市五郎家の出身で、開港百五十周年展示の際には、明治二十年建築の養蚕農家相原家の間取を展示させて頂いた。せせらぎ緑道を一巡した所に、柳畑の横山家のゴルフ場と、竹林の中に横山家がある。皆が、「鎌倉に行ったようだ」と感嘆する竹林を抜けると、「ほしのや道」に面して昭和初期に建てられた百合根大尽・横山家の長屋門に出る。弘明寺と座間の星谷寺を結ぶ「ほしのや道」には、領主に試切された女巡礼を懇ろに弔ったという里伝が残っている。この坂道を少し登った戸塚自動車学校の辺が中丸家の元屋敷である。この道は今は見通しの良い自動車道だが、昔は切通しになっていて、道は谷底のような位置にあったという。巡礼坂を下った角に中丸家の梅林があり、私達は毎月「自然の学校野遊び塾」でおかりし、草団子作りや野草の天ぷら、草木染め、しめ縄作りを実施して二十年近く経つ。数年前までは毎年夏は昆虫博士の横田氏や中村氏を講師に、「夜間昆虫教室」を
実施、自然林の中で昆虫観察の後は梅林で、蝉の秘的な羽化を、参加者の親子が夢中になって蝉が殻を抜けるまでを観察した。都会に住みながらこうした自然体験の出来る機会を与えて下さった中丸家や地域の方々。開港百五十周年展示の際には、ご自宅の撮影やアルバムなど多くの
資料を提供して頂いたことに感謝している。
百合根種子預證書
一、石油箱入り 但し壱箱弐百玉内外入
 右の品物及び数量の百合種子ヲ各自明記ノ数量ヲ
 栽培致ス事確実也然ル上ハ他商店ノ物ハ絶対ニ栽培
 セズ加之ナラズ他ニハ一根タリトモ販賣セズシテ必ズ
 横浜植木株式会社ノ百合部ノ方針ニ従ヒテ栽培上
 及販賣方法ニハ絶対ニ異議ヲ申立セズシテ万一預リ
 タル箱数ニ充タザル場合ハ金円又ハソレニ相當スル
 物件ヲ以テ弁償シ必ズ連帯責任ヲ以テ毫モ貴殿ニハ
 御迷惑ヲ相掛ケ間敷為後日私共作人右ノ條文ヲ厳
 守致ス為茲ニ署名捺印スルモノトス
 

輸出用百合根栽培と横浜植木戸塚試作場
百合根栽培の話をすると必ず出る質問が「食べる百合根のことですか」で、皆さんは茶碗蒸しや正月料理に使う百合根の事を想像される。輸出用百合根は明治二十一年から始まり、イギリス・アメリカ・ドイツなどに「クリスマス・リリー」として輸出され、昭和六・七年にピークを迎えたが満州事変で衰退した。キリスト教の復活祭には、イースター・リリーと呼ばれ百合の花は欠かせないものだったが、球根に病気が発生したのがきっかけとなり、日本から輸出されるようになった。栽培方法は、二月頃に種の球根を受取り、花の咲く頃まで畑で栽培した球根を採取して契約先に納めた。契約内容はかなり厳しかったが、現金収入としては有難い仕事で、中丸家に現存する昭和七年一月付
奉公で小学校五年位からの子供達が雇われていた。中丸家の契約書には、子供達の給金は五年・十年分を親が受取り、子供達は奉公先から学校に通いながら農作業を手伝い、雇主から盆と暮に小遣と着る物が支給される。
年季が明けると男は嫁を取り所帯を持たせてもらい、女は嫁入り道具を揃えて嫁ぎ先を見付けて貰い、奉公先の近所に住んで小作人となって労働の担い手となる。途中病気などで奉公が不能となると、親と雇主が相談した。平成二年に百合根大尽横山家の中を見せて頂いたが、作男たちや百合根栽培に熱心な当主が指導者を滞在させる部屋もあった。 栽培された百合根の梱包には、大正八年頃迄は豆黄金虫の幼虫の混入を防ぐため、土を焼いて使用していたが、土を焼く労力と費用負担も大きく、その上輸送中に焼いた土が百合根の水分を吸収し発芽力を弱める欠点があったため、大正九年から横浜植物検査所とアメリカ当局とが話合って、周囲半町以内に人家や畜舎の無い場所で採掘した土の使用が認められ、横浜植木は踊場の汲澤2320番地に敷地面積83.529㎡の戸塚試作場を作った。圃場の土壌は全体を4~5尺位の厚さの黒土が表面を覆い、黒土の下にある赤土が理想的な百合根包装用土壌であったと、初代試作場長菊池元七氏の子息である實氏から教えて頂いた。踊場の戸塚試作場は、昭和二十年三月に軍需工場として日産自動車に買収され、輸出用鹿の子百合が栽培された新橋の豪農の広大な農地は、戦後の農地改革によって住宅地や駐車場に姿を変えた。こうして百合根栽培の歴史は、戦後七十年人々の記憶から消えてしまったが…。
横浜市指定文化財中丸家長屋門の建立された時代とキリスト教阿久和教会
 泉区には横浜市指定の文化財の建物が二つある。一つは天王森公園の清水製糸の建物、もう一つは新橋の中丸家長屋門で、中丸家長屋門は明治十八年頃、瀬谷の大岡家の長屋門と同じ頃に京都の宮大工を呼んで建てられた。門入口の木組は鳥居の形をしており、ケヤキの一枚板を使った門戸や柱は、関東大震災を経た現在でも寸分の狂いもなく機能している。瀬谷の大岡製糸大剛社からは定右衛門の妻サキと、当主定昭氏の祖母タイが十六才で鶴吉に嫁いできた。定右衛門は、明治十五年から明治十六年七月迄鎌倉郡阿久和村の戸長を勤めた。横浜開港資料館の収蔵資料「中丸家文書」の中に、鎌倉郡役所の地租割税・田税・畑 税・戸数割税・煙草営業税・芝居興行税の領収書や請求書、改良合名会社関係、百合根栽培等の文書が残っている。私は平成三年に「泉区の産業」について斎藤多喜夫氏に講演をお願いした際、実在する文書を克明に分析された資料に感銘を受け、私の郷土史探究の基礎となった。斉藤氏の住居は現在日向山だが、その前は観音寺の近くに住んで居られたことが、中丸家資料発掘に繋がったのだろう。当時の戸長役場は戸長の住居と一緒にすることは許されず、恐らく現長屋門の位置に阿久和村戸長役場が置かれ、戸長と書生が執務していたのだろう。 明治二十年、横浜~国府津間に鉄道が開通し戸塚駅が出来、二十二年には憲法が発布された。この頃、阿久和では中丸定右衛門の次子で横浜に出ていた鈴木彦太郎の導きにより、父定右衛門と兄鶴吉が受洗している。中丸家裏山の墓地には、定右衛門、明治十八年三月受洗。妻咲子、明治十九年横浜海岸教会稲垣牧師より受洗と夫婦並んで本名の墓碑が建っている。『戸塚区郷土誌』によれば、戸塚矢部の山埜井久左衛門が受洗し、二十三年八月に矢部十番地に久左衛門が出費した「キリスト教講義所」が建設され、この年九月に阿久和の信徒が六十余名に達したので教会の設立を連名で嘆願、九月十七日に中丸家の敷地内に阿久和教会が設立された。教会設立後は入信した者は僅かに七名で、除名や失踪、永眠する者もあって明治三十年には解散している。阿久和教会へは、稲垣牧師と宣教師バラが横浜海岸教会と兼務で通っていた。当主定昭氏は祖母から「外人の宣教師を宿泊させるのに布団を何枚も重ねてベット代わりにした」と聞いている。
~町村合併、中川村誕生と改良合名会社そして学校建設問題~
明治十七年五月、それまで各町村毎に設置された戸長役場は、阿久和・岡津・上矢部・秋葉・名瀬各村の五ケ村の連合戸長役場として岡津向導寺に統合され、明治二十二年に中川村が誕生している。合併については二十一年九月に鎌倉郡書記が連合戸長役場に出張して五ヶ村で協議の上、中川村設置を決定していたが、合併直前の一月十一日、郡長に呼ばれ出頭した各村の総代は、阿久和村が独立を主張しているので咋日同村の独立を内定したと告げられ、総代たちは、残る四ケ村だけの合併は経済的に困難なので、先の決定通り是非五ケ村で合併して欲しいと県に願い出て、予定通り二十二年四月には五ケ村が合併して中川村となった。翌二十三年十二月には中川村役場が阿久和給田町664番地、現大貫ガソリンスタンドの位置に設置されている。阿久和村が独立を主張したのは、阿久和村は明治九年に戸数203戸、人口1045人(皇国地誌)の大きな村で、養蚕が盛んで現金収入が多く、明治二十四年二月には 蒸気を導入した北井要太郎を社長とする製糸の改良合名会社が既に資本金九千円で始まっている等の理由がある。
 中丸家には明治二十八年の改良合名会社への出資額計千六百円の名簿がある。中丸姓の出資金八百二円の内、定右衛門は六百円で、鈴木姓百四円、横山姓九十四円、森・清水・小林・相澤・小島の十一名の出資記録である。瀬谷柏尾線の上阿久和3988番地一帯は改良合名会社、大岡製糸が操業、私が訪れた昭和の頃「人の出入り馬車の往来が激しく賑やかなことから江戸阿久和といわれた」との案内板が建っていた。現長屋門公園の門は大岡製糸大剛社の門(家屋は和泉町の安西實家の建物)である。中丸定昭氏の話では、阿久和の人々は製糸の景気が下火になる頃は、百合根栽培に転換したので倒産の被害はなかったと話された。この頃上飯田では持田角左衛門が、家屋宅地を売却した代金で生繭と踏繰製糸機械三台を購入し工女三名を雇って製糸を始め、二十二年には横浜の有力生糸売込商若尾幾造と提携し本格的な器械製糸業に乗り出した。が、動力は「足踏み式」で蒸気が導入されたのは二十六年といわれる。中和田に清水製糸・宮崎製糸、二十七年三月岡津に岸松館、阿久和に大岡製糸場。その後持田万治製糸、小林製糸場、小糸製糸など次々と操業され、新橋に相原・相沢製糸が出来た翌年、明治三十七年には日露戦争が勃発している。
 相原照男氏の実家、相原市五郎家は製糸業の盛んになる明治二十年に建てられ、三階建て母屋一階には十畳の和室三部屋、十二.五畳の広間、奥納戸八畳、中納戸十一畳、十畳ほどの食事室の他に、上がりがまちと板の間、玄関や土間、台所など和室部分と同面積以上の敷地面積を持っている。二階と三階は蚕室用に建てられ、床板が「すのこ状」になって通風を良くしている。中丸家も母屋の座敷に蚕棚を並べて養蚕をしている写真があり、開港百五十周年の展示で赤レンガ倉庫にも展示させて頂いた。大貫家の蚕室も撮影させて頂いたが、蚕室は別棟になっていた。凄いのは相原家も大貫家も土間の部分を応接室に改造してはいるが、他は殆ど建築時のままの古民家に生活されている。大貫夫人は昔の建物は通風も良く、木自体が呼吸しているので季節に適応して快適な住環境だ」と話してくれた。関東大震災で大打撃を受けた持田製糸は、大正十四年十月三十日に倒産、負債額は七十万円に上っている。
校庭の中央を参道が通る岡津小学校
中川村は昭和十四年四月横浜市に編入、下阿久和は戸塚区新橋町になり、阿久和町(現瀬谷区)と新橋町に分断された。それ以前の中川村阿久和は今の三ツ境の所迄あり、上矢部は鳥ケ谷まであった。大正九年頃、中川村では学校併合問題が起き、服部郡長から中川村の学校併合の要請を受けた角倉善三郎村長は村民の反対にあって、十一年二月の任期満了を待たずに辞職。その後に中丸鶴吉が村長、助役には石川兼次郎が就任した。学校の設置位置で、谷戸阿久和は阿久和学校、上矢部・秋葉が共進小学校を増築して一村二校を主張、岡津は一村一校を主張して譲らない。阿久和三島堂の相澤益造らを中心に、十年五月二十一日午後一時に阿久和校に二百有余名の村民が結集し反対集会を開き、阿久和出身の村議相澤要太郎、中丸鶴吉、越水又五郎、鈴木浦次郎他を招き諮問、統一反対の目的が遂行出来ない場合は一歩譲り、新設校の位置変更を諮りそれが通らぬ場合は直に村議を辞職すべしと決まった。十一年二月二十二日付横浜貿易新報には、殺気漲り、渡辺戸塚警察署長は部下を督して警戒にあたらせたと報じている。時には「阿久和の人達がしこみ杖を持って中丸村長を襲ってきた。次は石川さんの方へ行くから逃げた方がよい」との情報に、石川兼次郎家の子供達は隣の石川定平さんの家に避難したこともあった。その後両者歩み寄り、阿久和は分教場を設置し四年まで在学することを条件に、岡津三島神社の参道西側まで、秋葉・名瀬・上矢部は参道の東側迄の線で譲歩し、中川尋常高等小学校が出来た。こうした経緯により岡津小学校は校庭の真ん中に参道が通っている。(『体験でつづる明治・大正・昭和 ふるさと戸塚』資料より。)
 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が発生、給田町にあった中川村役場はペシャンコに潰れ、村長の中丸鶴吉氏は机の下に居て九死に一生を得た。震災後役場は岡津に移った。学校用地は石川兼次郎氏が提供、小学校を造成した時の土で田圃を埋立てたという。この時代、村の公共事業は村長や助役が私財を投じ、土地を提供することが多かった。大正十五年六月に戸塚の不動坂から阿久和の観音寺までの県道が開通した。着工は大正十年。県道は岡津の不動前(中川吏員派出所)、観音寺の前、店村迄と三期に分けられ、店村まで通じたのは昭和六年であった。建設を請負ったのは相澤長三郎氏、その費用は中丸鶴吉氏と石川兼次郎氏がそれぞれ百円位出し合って二百八十円で建設した。田圃の中に道を造るのだから沢山の土が必要になり、岡津西林寺の北側の山を切り取った土で埋立てた。昭和三年には、戸塚~阿久和間に相沢自動車店が乗合バスの運行を開始した。運転手を入れて五人しか乗れなかった。経営者は阿久和の相澤今朝一さん、運転手は相澤彦一さん。発着所は戸塚駅前だったけれど、乗る人が無かったから子供が病気して司命堂まで行くと云えば連れて行ってくれ、手を挙げればどこでも停めてくれた。バス代は戸塚から上矢部までが五銭、岡津まで八銭、下阿久和までが十二銭だったと記している。
中川村村長千葉胤禄の墓と阿久和気質
中丸家の裏山キリスト教時代の墓の一角に千葉胤禄の墓がある。墓碑に胤禄は元武州金沢の米倉藩士で、安政三年十二月九日に生まれ、明治三十八年十二月十六日に中川村村長を拝命し四十一年まで三年奉職。四十一年四月二十九日にキリスト教の洗礼を受け、翌月十一日に五十三才で病没したとある。明治四十三年三月建立された墓石には、發起人として☆高橋鉄太郎・☆中丸鶴吉・畑政五郎・萩原利七・中丸兵三郎・鈴木銀蔵の六名の名があり、篤志者として☆北井要太郎・☆石川兼次郎・☆門倉嘉三郎・☆相澤益造・相(榊)原徳綱・佐藤仁兵衛・☆岸井彦八・門倉権兵衛・相原儀助・門倉徳右エ門・北條蓮三郎・原田栄吉・北村傳蔵・渡辺市郎右エ門・相原市兵衛・石渡惣平・近藤政吉の十七名、村会議員として☆新井海蔵・近藤嘉太郎・近藤八右衛門・石塚幸太郎・齋藤久治郎・石渡一太郎・安西忠次郎・堀江助五郎・大岡幸三郎・渋谷丈助・相澤清助の十一名の計三十四名の名前が刻まれている。千葉胤禄の墓は、十数年前中丸家が墓地の改修をする際、現在の位置に移動した。私は墓地改修の際定昭氏から連絡を頂き、墓石の文字を拓本に採ったのが以上の名簿で☆は中川村村長経験者で、三十四名の氏名は拓本採取の際読み間違いがあるかも知れないがお許し願いたい。墓地の入魂法要の際列席されたご遺族の話では、千葉胤禄にはマキと昇一の二人の子供が居り、昇一は香港に留学し大正七年に病没。娘マキが千葉姓を継ぎ公家出身の貿易商木村源之助との間に榮一が誕生した。当時は武士の娘マキと公家の木村との結婚は許されず、二人は内縁関係であったという。胤禄は死の直前にキリスト教を受洗、その翌月逝去した。中川村有志三十四名は、中丸家墓地内に顕彰碑を建立して千葉胤禄の功績を讃えたのであろう。その後マキの息子榮一は、新宿区四谷に在住。娘三人のうち千葉姓は長女の松枝が嗣いでいる。家紋は真向かい月星で墓地は浅草蔵前の滝宝寺にあるという。
 中丸家当主の経歴を調べるうち、町村合併・キリスト教・製糸・百合根栽培・学校問題・道路建設とこの地域独自の一貫した阿久和気質のような地域の絆を感じる。その一つが『相澤文書』の寛保三(1743)年一月の駕籠訴にもみられる。阿久和村では領主の圧政に耐えかねて、老中伊豆守に「救いの食糧と年貢の引き下げを頂き近村並の年貢で何とか暮らせるよう御慈悲をお願いします」と駕籠訴を決行している。阿久和村の検地は慶安二年から亨保十五年まで七度も行われ、村高は天正十九年の安藤正次への知行状381石が、天明元年では924石に増えている。領主の圧政に屈することなく駕籠訴を決行した阿久和の人々。そのルーツを尋ねるきっかけは、中丸家墓地改修の際、佐久市観光協会横浜大使の伊藤氏の紹介で初代の「ぴんころ地蔵尊」が安置され、長屋門前の二躰めの入魂法要が行われた平成二十三年七月六日に同郷の伊藤氏との出会いである。
健康長寿ぴんころ地蔵尊と中丸家先祖の地佐久市伴野
 佐久市野澤の成田山薬師寺の山門前にぴんころ地蔵の本尊は安置されている。市のパンフレットには、見る人を和ませ、癒しの表情で訪れる人を魅了し、長寿地蔵尊として全国的にも有名となった。健康長寿にあやかろうと、県内外から観光バスが続々と訪れるとある。この野澤の地は、鎌倉時代伴野と称し、中丸家始祖小笠原長清の最初の赴任地である。成田山薬師寺は、長清の六男時長が継承した伴野氏館跡公園の一角にあり、公園の南側には、弘安二年に時宗の開祖一遍上人が踊り念仏を行った「金臺寺」、大伴神社が隣接している。中丸系図では長清の嫡男長経から長氏と続き、丸毛姓兼頼が相模国の中丸邑(相模原市番田付近)に住して中丸を名乗った。紋章は左リ三巴紋、弓を引く時弓手の手首に付けた武具靹を象った武家の紋である。小笠原長清の母は、鎌倉幕府侍所別当和田義盛の娘で、和田義盛は建暦三年五月、北条義時の挑発により和田合戦が勃発、和田氏は滅亡した。この時姻戚関係にあった横山時兼他横山党三十一人が討取らた。泉区の新橋町には、横山・大貫・相原と横山一族の豪農の家が多く、いずみ野の長谷川伸生母コウさんの生家横山家もまた横山党の流れを汲んでいると思われる。小笠原長清の租新羅三郎義光は、八幡太郎義家の弟で、永保三年に後三年の役に苦戦する兄の為に職を擲って奥州に下向する途中、鎌倉に疫病が流行しているのを知り、鎌倉大町に京都祇園社を勧請して鎌倉鎮護の八雲神社を建立した。かつて地震・山崩れ・火山噴火・台風・洪水・旱魃・冷害・大火事・疫病などの災害は、政治的に失脚した人々の怨霊の仕業とされ、京都祇園祭はこの御霊を鎮める為に、全国の國数に応じて二丈程の矛六十六本を立てて祭をしたのが始まりとされる。鎌倉大町の祇園天王社(八雲神社)は鎌倉の鬼門封じとして祀られたようで、滑川から祇園天王社を結ぶ鬼門方向上に、比企一族の妙本寺・鎌倉滅亡の際北条一族が切腹した東勝寺櫓、後醍醐天皇の皇子・護良親王を祀った鎌倉宮、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者を祀った永福寺跡が続き、これらの御霊が守護神となって鎌倉を鎮護している。
 八雲神社は鎌倉から室町にかけて祇園天王社として義光の子孫である佐竹氏が支え、毎年祭礼には御輿が鎌倉公方の屋敷に渡御し、公方は妻戸の陰から拝礼したとされる。永享十(1438)年十月、鎌倉公方持氏と関東管領上杉憲実とが争い、足利将軍義教は小笠原政康と憲実に鎌倉征伐を命じ、持氏は敗北自殺した。下総の結城氏朝が持氏の遺児安王(十三歳)の名で教書を発し結城合戦となったが敗北、安王・春王は美濃垂井の金蓮寺で殺害された。持氏の末子栄寿王は当時五才、永寿王の母は大井氏の出で、大井持光を頼って佐久の安養寺に匿まわれ、のちに赦されて足利成氏となり鎌倉に赴いた、すでに関東の支配権は管領の上杉氏が握って居たので、成氏は上杉憲忠を殺害、幕府とも対立して下総の古河城に移り古河公方となった。長清の七男朝光は大井庄地頭職として岩村田に居館を置き、その子光長は大井太郎と称した。新羅三郎義光 の三代の後加々美(小笠原)遠光は、武田氏の祖信義の弟。小笠原家は貞宗の時代に武家の礼法小笠原流を確立、鎌倉八幡宮の流鏑馬は現在も武田流・小笠原流の両家が奉納している。
盆踊りのルーツ一遍聖人の踊り念仏発祥の地佐久市
「成田山薬師寺」に隣接した「金台寺」や野澤の西方寺について佐久市は、一遍上人が唱えた踊り念仏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、伴野氏が一遍上人に帰依擁護し時宗をこの地に流布した。当時武家や貴族の特権階級のものだった仏教を庶民のものとし人々が不安を乗り越える支えとなったと解説している。文永十一(1274)年十月、元・高麗軍の来襲の年に時宗を開いた一遍は、紀州熊野證誠殿や大隅の正八幡にも詣で、信濃の善光寺に詣でた後伴野に赴いた。一遍上人の祖父は河野通信で、源頼朝は挙兵の前年に密書を送って河野一族の支援を乞い、通信は源平合戦で屋島の戦いに軍船を率いて彦島に向かい、壇ノ浦での義経総攻撃に加わっている。河野水軍として栄えた河野一族も承久の乱で敗れ、一遍の父通広は出家していて罪を免れたが、通信は奥州平泉に流され、次男の通政は信濃国葉広にて斬首された。一遍は弘安三年秋、下野国小野寺から白河の関を越えて祖父通信の墓に詣で鎮魂の念仏を行っている。一遍研究で博士号を取られた岡津西林寺の大橋俊雄博士は、祖先の霊はお盆と正月に子孫の家を訪れる。盆踊りは訪れた先祖供養のために踊ると話しておられた。この西林寺の開基と三世称念が中丸家の出身である。中丸家長屋門前の、延命長寿のぴんころ地蔵尊には不思議なご縁を感じさせられる。新橋には権力にも屈せず、地域が結束して新しい時代を乗り越え、住民の平安を維持してきた歴史・風土が根付いて居たことを改めて感じている。

著者

匿名希望