「水道山の桜から」匿名希望

 その若者は、上星川駅で降りた。ホームでは周囲を見回し、いかにもこの町の住人ではない雰囲気であった。彼の名前は石田航平。三十歳。「この駅に来たのは初めてのはずなのに懐かしい空気を感じるのは何故だろう」航平は不思議な気持ちで、階段を上り改札口を通りぬけた。駅前にはスーパーマーケットがあり、買い物をする人たちが日常を過ごしていた。「石田さん」遠くから彼の名前を呼ぶ声にその主を探すと、半年ぶりに見る友人の姿があった。近づくと笑顔で「よく来てくれたね。待っていました」こたえてくれた。彼の名前は関野太郎。航平より3歳年下である。太郎とは昨年、夏のライブに行った時に親しくなった。太郎から声をかけてきて、その人なつっこさに航平は引き込まれていったのだった。航平は人見知りするほうで、こんな経験は初めてのことであった。航平にとって音楽、特にライブに行くのは唯一自分を解放できる場であった。ただそれだけで十分だと思っていたのだが、屈託ない気さくな太郎との出会いから自分が今まで頑なに生きていたこと、音楽を通じて共有出来る仲間がいる事の居心地の良さを知ることが出来たのだった。その夏のライブの後、太郎から、「来年の春になったら、僕の町においでよ。」と誘われた。「知り合いになったばかりの自分に何故そんなにも気さくに誘ってくれるんだろう。」と首をかしげながら「時間があったらね」と気のない返事をして別れた。月日は仕事や日常に追われ過ぎていった。そして年が明け、例年より寒い冬も過ぎようとしていた頃、太郎から「そろそろだよ。待っているからね」とメールが届いた。ほぼ忘れていた誘いであったが、そのメールにふと心を動かされて「行ってみようかな」と決めた。四月に入った日曜日、珍しく空は澄み渡り、穏やかな日となった。航平は初めて来た町であったが、太郎に会ったことで増々親近感を覚え始めていた。太郎から、君にまず見せたいものがあるんだよ。少し歩くけどついてきてね」と言われ、駅前から川を渡った交差点から坂道を登り始めた。水道山と名付けられたその上り坂は狭いながらもバス、車が頻繁に通り、歩道もすれ違う人も多かった。上っていくうちにひらけた住宅やマンションが広がる。そして十分間あたり歩くと山の頂上あたりにある「水道山記念館」に着いた。そこは浄水場でありながら、横浜の水道の歴史を展示してある記念館も建つ閑静な広場にもなっていた。開館時間であれば誰でも散歩も出来るという。太太郎は、その建物には入らず、右手に進んでいった。すると航平の目に入ったのは。何本もの桜の大木であった。ちょうど八分咲きほどだろうか。蕾からこぼれるようなピンク色にあたりは染められていた。航平が目を奪われていると太郎がその先まで誘うので行ってみる。急に視界が広がり、空が大きくなるような錯覚になるほど、そこから見下ろす町並み、遠くには横浜の港近くまで小さく望むことが出来て思いがけず感嘆の声を出してしまった。そこで太郎が静かに話しを始めた。「僕はね、毎年ここに来てこの桜たちに会いに来てる。一年間この日のために頑張ってきたのだね。この街を見下ろしながら皆を大きく包み込んでいるような気がする。石田さんと昨年会った時、君は話していたよね。『毎日が同じ事の繰り返し、もっと楽しいことはないのかな。もっと』とね。航平は何気に話したのかもしれない。「仕事も生活もこなしてはいたがこんな毎日では物足りない」と惰性になりつつある時だった。「三年前、実は僕も同じだった。だから妙に気にかかってね。仕事を辞めようかとも考えていた時だった。僕の親友が、山で遭難して亡くなってしまった。あまりに突然で信じられずに受け入れられなかった。それは3月の終わりだった。そんな僕だったけど、やはりいつものようにこの場所にふらりと来たんだ。この年の桜は遅咲きでね。

まだ花びらが散り始めの時だった。」そこまで話して太郎は、近くにあるベンチに座り、持参していたペットボトルを航平に渡し、口につけた。航平は太郎の話を聞きながら微かに動揺を感じていた。太郎は、少し肩を落として又ゆっくりと話しを続けた。「この時に見た桜は嬉しくも美しくもなかった。その鮮やかさが逆に心にささってきたよ。「なんでここに来たのか」と悔やんでいた時だった。黄色い蝶々がひらひらと傍を飛んでいるんだ。この時期だから当たり前でもあるね。でも空っぽの僕の心にそっと寄り添ってくれているみたいで思わず涙が溢れてしまって。そして涙を拭う右手に花びらが落ちてきてね。何故かわからないけど熱いものがこみあげてきて、それは親友を強く感じたのかもしれないね。」親友は僕に「今を大切に生きて。当たり前の毎日が宝物なんだよ。」と伝えてくれたのかもしれない。「桜の木に出会ってから、そんな日がくるなんて思いもしなかったけど、この時のために出会っていたのかもしれない」と思うようにもなった^石田さんがその親友にとても雰囲気が似ていてついおせっかいだったと思ったけど、この桜を見て話しを聞いてもらいたかった。航平は、何故、ここに誘われたかという理由がやっと理解できた。
 太郎を通して僕はこの街に来た。そして太郎の親友を通して、今を生きることの重さを知った。そしてこの水道山の桜から、人からどう見られるかではなく、自分の出来ることをしっかりやることが、自分だけの花を咲かせることなのかもしれないと思った。
 太郎は、航平にこんなことも言ってくれた。「言い忘れたけど、この桜は自然の力だけでなく、この浄水場のスタッフに面倒みてもらってもいるんだよ。だから石田さんも一人で抱えないでいいんだよ。」
 航平は、この桜を訪ねてきて本当に良かったと思った。上星川に降りた時感じたあの懐かしさは、もしかしたら、「おかえり」の声だったのかもしれない。
 水道山の桜は変わらず堂々とそびえたち、今を生きている。

著者

匿名希望