「汽笛のなる朝に君と」篠山さおり

 季節外れの台風が去った朝、空は青くて、驚くほど天が高い。暴風が豪快に揺らす雨戸がうるさくて昨日の夜は眠りが浅かったため、電車の窓から差し込む太陽の光が目にしみた。西横浜駅で降りた小暮未希は上りのエスカレーターに乗り込む。眠い目をこすって、改札を抜けると多少強めながらも心地のいい風が吹き抜けた。JRと相鉄線の並走を臨む大きな歩道橋の上には保母さんに連れられた保育園児がたくさんいる。働くママさんたちの朝は早いらしく、保育園に集合した子供たちは九時台には朝のお散歩を開始する。園児のお気に入りはこの歩道橋から見る電車だ。相鉄線、東海道線、横須賀線、たまに通るスペシャルな特急。ほぼ毎日、電車に向けて小さな手を振る。およそ三十位の小さな掌が一斉にひらりと舞う姿は秋晴れによく映えた。満員電車にもまれた月曜の朝、ささくれそうな心の毛並みが整う感触。それを一人かみしめて、未希は職場へと向かう自転車のペダルを踏みこんだ。
 仕事を終えた後、横浜駅を経由して帰宅の徒につく未希は、時間次第ではデパートの地下で半額セールにかけられる生鮮食品を狙う。そのジャストタイミングまでのちょっとしたウインドウショッピングは一日のご褒美ダイムだった。そんな未希の目の前に現れたデジタル広告。
   相鉄小説大賞 × 相鉄の街、人、自然   募集中
 クロスする線路と自然をとらえた空撮の写真、こじゃれたたレイアウト、シンプルなデザインに目が留まり、未希は少しだけ足を止めた。
「これに応募するんですか?」
 その瞬間、斜め上から声が落ちてくる。未希が驚いて、横に視線を移すと、見知らぬ青年の横顔がそこにあった。
「…いいえ、ただ見ていただけです。小説なんて…書いたこともないですし」突然のことに未希は内心かなりびっくりしていて、まがりなりともまともな返事ができただけで御の字だった。
「小説家だったらこんなのに応募する必要ないですよ。みんな素人が出すんじゃないですかね」スーツ姿の男は少し首を傾げた。
「そう…、なんですかね」これだけ返して立ち去ることを決めていた未希は会釈をして歩き出した。 
「第一回目はあなたが大賞を受賞すればいい」少し開いた距離をうめる声が未希の背中を追った。
「え」未希の心臓が跳ねて、その時点ですでに踏み出していた足が止まる。
「第二回目は僕が大賞をいただく、それなら僕らはライバルになりえない」
 青年は不意にスマホをかざしてフェイスブックのアカウントを表示させた。
「僕の名前は三木です」
 三木理(Osamu MIKI)という名前の表示の下には有名大学卒業と有名な会社所属が表示されていて、友人数もかなり多く、一見したところ嘘というわけではなさそうだ
「みき…さん」
「あなたの名前もそう?」
 理はバッグに刺繍された小さなMikiという文字を指さす。バッグは高校入学時に祖母から贈られたもので、控えめに刺繍が施されている。
「あなたにフルネームを名乗らすつもりはないです。ただ、同じ名前で同じ広告に目を止めたあなたと小説の構想について話したかった。あなたは、前にもこの広告の前を通ったときに見つめていましたよね?これ」理の質問に未希の瞳が揺れた。
「その時にMikiって刺繍を見て…、それで今日も偶然、あなたに会ったから、思い切って声をかけてみたんです」
「…構想って、私そんな」
「でも小説書くことに興味あるんですよね?」
「……三木さんは、あるんですか?」未希は戸惑いながらも理に問いかけた。
「書いたことはないけど、僕は相鉄沿線で育ったし、自分なりに書けるものはあるんじゃないかと思っていますが、そう簡単にはいかなそうで…もしかしたら同じ思いを抱えているかもしれないあなたの意見も聞いてみたかった」
「そうですか、でも、私は」
 うつむきがちな未希の言葉を待たないまま理が次の言葉を紡ぐ。
「来週も月曜は仕事ですか?」
「えっ、あ、ええ」
「一週間後に同じ時間にここで待ってます。俺も仕事終わりはいつもこんな時間だから」
 理がまっすぐな視線を未希に向けた。
「一章でも、一行でも書けた分だけ持ち寄りませんか?」
「ちょっと待って!そんな」勝手なこと決められても困ると未希は何故だか言えなかった。
「僕たちは多分、また、きっと会える気がします。書きたい気持ちがあるならば」
 面食らう未希を置き去りにし、理はそう言い残して、横浜の雑踏の中に姿を消した。
  一言でいうなれば、超謎。
  謎すぎる、三木理。
 一人暮らしの未希は早く帰らねばならないマストタイムがあるわけでもないので、思考を整理するべく、雑貨屋にふらりと立ち寄る。
  新手のナンパとか?自意識過剰?拡大解釈しすぎ?本当に未来の文豪を目指して、お互いに切磋琢磨したっていうの?
 アラサーにして、独身、学生時代からの彼氏とお別れしてから、恋愛対象もなし。今や合コンに誘ってくれるような友達もいないし、職場に異性を求めることもできない。そんな未希にとって出会いは上等といったところだが、唐突すぎるし、相手の意図が全く読めない。
 とりあえずFacebookのアプリを起動して『三木理』を検索し、それと思わしきアイコンをタップしてみた。
 未希と同い年で、一応独身のステータスが表示されるが、これは全くあてにならない。既婚者になっても、あえて独身という部分を訂正しない男性は多いらしい。
  でも、彼女がいたり、奥さんがいるのに見ず知らずの女に声かけてくるなんて嫌だな。
 購入予定もないであろうニッチな見た目をした人形を未希は指先でなぞった。
  三木理。なんとなくチャラい人物には見えなかった。そう信じたいだけなのか。
 くるみわり人形風の小さな騎兵がころんと転がり、未希の心を撫でた。
  アホみたい。帰ろう。
 未希は難題に答えを見いだせないまま、帰宅の途につく。帰りのJRはひどく混んでいて、スマホをいじる隙間さえ許さない。三木に刺激されたと思うとなんとなく癪ではあるけれど、こういう何もできない暇な時間に脳内で物語をつむぐのも悪くないかもしれないと未希は思った。
 なんか最近、疲れる日が多いし、ファンタジーとか読みたいかもしれない。
 どうせ書くなら壮大なファンタジーにしよう。未希の中で設定や書き出しが浮かぶ。

    薬草魔女と漆黒の電車
    
 彼女は今、人生いちばんの不思議に出会ってしまった。
 一般的なイメージの産物なのか、ドラマかテレビで『理系だから理屈っぽい。なんでも方程式で表せないと気持ち悪い』などという台詞を聞いたことがあるのだが、これはひどく矛盾しているように思う。そもそも自然には謎がめいっぱいつまっていて、方程式というのは、その現象を文字であらわすために人間が懸命に考え、こしらえた法則に当てはめた文字列にすぎない。当然のように方程式からはみ出してくる自然の摂理。これをなんとか説明しようといつだって科学は奮闘しているし、それでも解きれない謎はたくさんある。だからといって諦めるわけでもなく、なんとなく使いこなしてやろうという精神が今日の進化した文明を支えている。
 たとえば飛行機。
 こいつはいまだになんで飛んでいるのかよくわかない。
 ものすごいジェットな力を出して走り出すと、大きな下からの力が高まりふわり浮く。それは応力という力で説明が出来るらしいし、物理方程式が存在しているわけだが、この方程式はなんでこうなるの?と、こどものような質問をしても、そーゆーもんだからという答えが返ってくる。
 そーゆーもん。
 科学はそーゆー学問なのだと、杉山優菜は理解している。
 だからどんな不思議な事に出会っても、全否定をしない。
 無益だと断定して、切り捨てるのは容易い。だが無駄の積み重ねがいつかの有益を生む。それを信条とする彼女だったが、あまりにも突飛で今までの常識を凌駕した話が目の前で行われている。
 まじか。超びっくりした。なう。と、世界の誰かにつぶやきたい気持ちだった。
「薬草魔女?」
 上司の言葉を反芻した優菜は詳細を聞き返した。
「それは一体?申し訳ないですが、部長、もう一度、詳しく説明頂けますか」
 優菜は薬学部卒業後も大学に残り、創薬研究に没頭してきた。博士号過程の途中で高名なライデン製薬社に短期契約の研究員として招かれ、存外、仕事内容が面白かったので、そのまま就職を決めた。そして正式入社三年目を迎えて、初めて聞いた単語に耳を疑う。   もともとアメリカのバイオベンチャーから発展した会社は今や世界で売り上げトップシェアを誇り、各国で引っ張りだこになる新薬を次々と発売させている。そんな業界のトップランナーと呼ばれる製薬会社で開発の仕事をしている優菜は当然、世界各国の様々な最新知識を仕入れている。はずだった。
  薬草魔女ってなに?この疑問は目の前にいる上司に問うしかない。
「君の気持ちは手に取るようにわかるよ。私もこの話を聞いた時、ばかげた話だと思った。しかし、ヨーロッパの本部でエンプティユール研究チームに入って薬草魔女や魔法使いに会い、創薬経験をした私は、薬草魔女を疑う気持ちを捨てた。彼らの技術は本当にすばらしいんだよ。彼らに教えを乞う事で我々の会社は発展してきたと言っても過言ではないし、これからの医療を革命する技術であることは間違いない」
 熱く語る部長の目は真剣そのものだった。
 エンプティユール。
 ライデン製薬を一躍有名にした抗悪性腫瘍薬の成分名である。今までの植物性アルカロイド、抗腫瘍抗生剤といった今までの薬剤とは一線を画した植物由来の抗がん剤で、骨髄抑制という副作用がおきにくい。しかも、がんによる痛み、癌性疼痛の抑制作用を持つため、世界的に幅広い領域で使用が認可された。
 まあ端的に言えばエンプティユールと言う名のすごく良い抗がん剤が我が社の主力商品なのだ。
 この開発劇の裏に薬草魔女なる存在がいて、その研究が進んだというのだから驚きだ。
「杉山も知っての通り、エンプティユールはエンプティリンデンバウムから抽出する」
 エンプティリンデンバウム。これは直訳で『からっぽの菩提樹』という意味の名をもつ植物だ。樹木の芯が空洞という変わった菩提樹で、今まで医療目的には使用されていなかったが、我が社のみが精製に成功した。
「それ以前の経緯もわかるな」
「はい。一般的にヨーロッパでは古来より菩提樹から『ティユール』というハーブティーが作られて、免疫活性化作用をもつ民間療法が存在しました。しかし、それらは薬と呼べるような作用は持っていなかった。ライデン製薬社が世界ではじめて有効成分抽出に成功、その成分がエンプティユールとなった。と、これが表向きの発表ですよね」
「そう、だがその裏には秘密がある」
 製薬として製品化するためには構造式の発表、原材料からの生成過程、つまりレシピのようなものを発表しなければいけないルールがある。このレシピは一定期間、特許とされるが、それが切れれば、他社の製造が許される。許されるはずなのだが、未だにその精製がうまくいった話を聞かない。
 原材料のエンプティリンデンバウムの育成法に秘密があるとしたら、納得がいく。
 この後、部長から聞かされた話を要約すると、苗木を力のある薬草魔女に育ててもらい、ある程度、生育した苗を会社の畑で育てる。最終的には中心の空洞部分に魔力を孕むエンプティリンデンバウムができあがる。ということだった。
まじ?という印象でしかない。これが夢でないならば、この世の中に魔女が実在しているということなのだろう。
「日本でもその力を持つ人物がいる、その人と共に次なる製薬開発にあたってほしい」
「日本人の方ですか?」魔女というなら欧米感がありそうなものだ。
「大昔だがカナダの血が入ってると言っていたかな。とにかく、薬草魔力を持つ当人に会ってもらうのが一番はやい。杉山くんの仕事ぶりや素行を見て、君なら我が社のトップシークレットを守れる存在だと思い、この仕事を託そうと思った次第だ」
 優菜は入社以来、一通りの社内機密を扱い、それを口外しないのは勿論、コンプライアンスも守ってきたつもりだ。でも管理職でもないし、最高機密を握る身分ではないはずだ。
「私にその大役が務まるのでしょうか」
「それに値すると思っている。頼んだぞ、杉山」
 日本の開発本部長がドイツの本社やフランスの技術部で体験した超マル秘技術をなんでヒラ社員研究員の自分が任されることになるのか、さっぱり検討がつかない。しかし任されたからには挑んでみたい。
未知をおそれてはいけない、知らないことを知ることこそが、真の恐怖に打ち勝つ方法だ。
「精一杯、やらせていただきます」
 優菜は新しい任務に就くことを承諾し、くだんの薬草魔女という人物に目通りする算段となった。待ち合わせ場所は横浜駅西口の爽やか鉄道、通称・爽鉄、二階改札前となっていた。相手の写真はなるべく公開したくないというのが会社の意向らしいので(電子および紙媒体に残すと流出するリスクが高い)こちらの写真を先方に送付してあるらしい。そもそもどんなツールで先方と部長は連絡を取っているのか…その辺も謎である。映画に出てくるようなフクロウ便でも使っているのかな。と想像すると笑がこみ上げてきた。それじゃ余計に目立つってーの。自主ツッコミを入れて、優菜はキュロットの裾を払った。いつも会社の用事での外出はスーツだったが、本日のドレスコードは私服。目立つ格好は不可とのことなので、灰色のパーカーに黒のキュロットと至極地味を心がけてきた。
「杉山さんですか?」不意に男性から声が掛かる。
「ええ、あなたは?」優菜は目の前に現れた男に尋ねた。
「はじめまして、僕は藤白と申します。一応ライデン製薬の同期です。同期会とか行ってないから面識なくて当たり前なんですけどね」深い紺色のトレンチを着た長身の男は藤白と名乗った。
「…はじめまして、杉山です。そ、その、男性の方なのですね。薬草魔女って言うから、私てっきり女性なんだとばかり思っていました」優菜は出来る限り声をひそめて話した。
「薬草魔法使いのほうがしっくりきますか?Medical witch or wizardを総称して日本語だと薬草魔女と呼んでいるのです。短いし、楽でしょ?でも、あなたのお好きな呼び方でどうぞ」藤白はとびきりのスマイルで握手を求めた。「さて、では立ち話もなんですし、早速、研究所に行きますか」
「一体どこにあるのですか、あと交通手段は…」
「これです、これ」藤白は目の前に停車していた爽鉄線の車両を指さした。ふたりともICカードを持っているので、難なく改札を通過する。各駅を選んだ理由は人が少ないので話がしやすいからだという。なるほど、昼間の時間帯はボックスの座席がほとんど空いていて、二人掛けに人ひとりいるかいないかの状態だった。ある程度、スピードが出ている時であれば話も漏れにくい。
「本格的な話はあとにするとして、あなたの疑問に答えましょう。少し長旅ですし」ざっと自己紹介と雑談を終えた後に藤白が提案する。
「あなたの携っている研究所は横浜駅から電車で行ける範囲にあるのですか」薬草園というものは広大な敷地を必要とするので割と辺鄙な場所にあることが多い。
「この漆黒の車両、なかなかいいと思いません?内装はベージュベースで高級感ありますし」藤白が車両に視線を移した。
「ええ、たしかにそうですね」藤白の話が突然、切り替わったので優菜は少し驚く。「電車がお好きなのですか」
「昨今、車体の色は銀ベースでラインの入ったものが多い。塗装する費用が勿体ないですし、よく言えば合理的、悪く言えば世知辛いものです。例えば、隣を通る東海道線、昔は全体がオレンジ、ラインが緑の塗装でしたが、今やオレンジと緑のラインが入っているだけ。横須賀線も銀地に青色のライン」藤白はちょうど並走していたJR路線を指さす。「都内のドル箱路線、たとえば山手線もグリーンのラインが入っているだけだし、今乗っている爽やか鉄道だって、この前の量産車両は銀のベースに朱色のラインのみでした。それがJR、私鉄の中でも珍しく、新型車両で全面塗装にしたのですよ。つやつやの漆黒塗装」
「爽鉄さんは、景気がいいんですかね」
「そうかもしれないし、魔女が好む色をあえて使ってくれたのかもしれない」藤白は意味ありげに笑った。「これが魔女の棲む里に密かに繋がっている列車だとわかるように」
「まさか」優菜は目を見張った。
「まず魔女は人間に力を貸さない。力を見せたところで奇異の目で見られ、最悪火あぶり、中世に痛いほど学びましたからね。ライデン製薬だけではないのですよ、国家単位で我々の力を求めて、はじめて相互協力が得られるってことです」藤白は車窓に目を向けた。「今でも憎んでいるわけでもないのです、ただ怖い、だから受け入れ体制がしっかりしなければ僕達は動かない」
「それぐらいしても欲しい力が、あなた方の内にあるということですね」優菜のこの一言のあと、藤白が何故か黙ってしまった。それから三十分弱で電車は終点のアナウンスを告げた。それをよそに藤白は立ち上がるそぶりを見せない。
「周りから、我々は見えない仕掛けがしてあります」
 少しこわくなってきた優菜だったが、藤白の言葉に従って着席を保った。
 車両が車庫に入ると、常識をあっさり飛び越えていく事象が目の前でおきたのだ。
 風景が突然変化し、ガラス越しの眼下に広がるのは一面の桜並木となっていた。今さっきまで車窓の季節は確かに秋だった。それが今は…春?
「ようこそ、魔法使いの棲み処へ」藤白が優雅に立ち上がって、手招きをした。
 
 
「って!ここで終わっているんですか?」
 未希は結局、一週間で書き終えた分のみをプリントアウトして、約束の場所に赴いた。三木は早めに待ち合わせ場所に来ていて、とりあえずふたりでスターバックスに入った。  未希が書いてきた分を受け取った三木は破顔していたが、読み終えた瞬間に未希に詰め寄った。
「まぁファンタジーですし、今回の相鉄の街、人、自然 という募集対象に当たるか微妙だったのと、とても規定の一万字で終わる気もしなかったので、書きやめました。この前、三木さん、書けたところまでで良いとおっしゃっていましたよね?っていうか、言い出しっぺのあなたが小説を一切書いてきてないって、はっきり言ってどうかと思いますよ」未希は自らの小説を持参しなかった三木に対して悪態をついた。
「ごめん、一応は書いたんだけど、まとまらなかったから、紙媒体にしてなくてね、口頭披露でもいいかな?」
 スターバックスの紙カップを二つ掴んで立ち上がる。
「さすがにここでは迷惑というか、恥ずかしいし、みなとみらいまで歩きながらとかは、どうかな?桜木町でおすすめのパイおごるからさ、夕飯がてら移動してくれない?」
「…いいですけど。場所まで移動して、口頭ってことでしたら、劇団ばりのノリでやってくださいね」未希はため息をつく。
「了解」三木は笑って了承した。横浜駅東口からみなとみらいへは、割と人が少ない道を選択することがきるので、しっかりと通る声で彼のストーリーが始まった。
   ある冬のできごと

「あの、この手袋あなたのものですか?」
 学生服を着て、もこもこの耳当てをした女の子が息を切らして追ってきた。
「え、あ、そうです!ありがとうございます」
 彼女は僕、真木良太の落とした手袋を差し出した。 
「どこに落ちていました?」
「窓口前です」希望が丘の改札前からホームまでわざわざ追ってきてくれたらしい。
「私もゆめきぼ切符を買ったんです。あなたの後ろに並んでいて、偶然拾ったんですけど、もっとはやく気づけばよかった」彼女は会話に失礼のないようにと耳あてを肩に降ろした。
「もしかして、あなたも受験生なんですか?」
 少女は僕の手袋を握りしめていた手と逆の掌に希望が丘とゆめが丘で販売されている合格絵馬付きの記念切符を持っていた。
「怪我でもしたら大変なのに!僕のために、走ってくれて、ごめん。ホントにありがとう」僕は手袋を受け取りながら、丁寧にお辞儀した。
「だって、これたいせつなものですよね、そんな気がして」皮の手袋にMAKIの刺繍がされている。たしかにこれは亡き祖父がくれた大切な思い出が詰まった手袋だった。かなり年季が入っているからそう思ったのだろう。
「それに私もマキっていうんです、偶然ですね。だから他人ごとに思えなかったの。それでは、私はこれで」微かに笑ってマキと名乗った彼女は僕に背を向け歩き出した。
 充分なお礼も出来ないまま別れてしまった。まだ高校生で男子校に通っていた当時の僕は女子への免疫も薄く、彼女のあとを追って再び声をかけることができなかったのだ。
 それから約十年後、横浜駅の広告ポスターの前で佇む人影を見つけた。どこかで見たとこのあるような面影にはっとして、彼女の横顔を盗み見た。
 心臓が飛び出すほど、驚いた。
 ずっと会いたいと心のどこかで引っ掛かったままだった彼女がそこにいる。
 声をかけていいのか、かけなくていいのか。でも何て声をかける。いきなり声をかけたら、どう見たって不審。急に十年前の話を持ち出すのも気が引けた。それを気持ち悪がられたらどうしようという焦りがあって、言葉が出ない。
 彼女のカバンに刻印されたMakiの文字が目に入り、確実にあの冬に出会った彼女なのだと確信したが、もはやこの時点で彼女の足は雑踏へと踏み出して、姿が見えなくなっていた。
 僕は盛大に肩を落とした。
 大学、社会人と女性との距離の取り方を覚えたはずだった。
 十年前に声がかけられなかったのは男子校出身のせいにしていたが、未だにこんなにも臆病な自分がいた。
 次にもし会える時がきたら、絶対に声をかける。
僕は三度目の正直を自らに誓い。運命というあやうい偶然の産物に賭けることにした。その時が来たら、もう逃げない、そう奮い立ったのだ。
 
 
「…と、まぁこんな感じなんですけど、かなり忠実に実際のできごとを元にしているというか、もはやドキュメント状態というか…、書き進めるにあたっては、あなたの許可が必要かなと思っていまして」
 三木の紡ぐストーリーを口頭で聞きながら未希は真っ赤になっていた。たしかに十年程前に受験の合格祈願切符セットを購入した際、手袋を拾って届けた記憶がある。が、その記憶はおぼろげで、相手の男子生徒の顔までは覚えていなかった。
「許可って…言われても、困ります」
 この話は実在のMIKIをMAKIという名に変えただけの史実ストーリーだ。
「僕は前に第二回に応募するって言いましたよね」
「ええ」未希は頷いた。
「俺は、あなたとの今後の一年間の物語を書きたいんです。全てを書くわけじゃないけど、素敵な時間を過ごせると思うから…俺とまた時間を作って、会ってくれますか?」
 三木がそれを言い終え、未希が答えを絞り出そうとした瞬間、桜木町に向かう京浜東北線の車両が派手に警笛を鳴らした。
 フォーン
「ふふっ、漫画みたいなことが起きますね」未希の声は汽笛にかき消される形となった。
「……なんつータイミングの良さでしょうね。警笛ってどんな場合に鳴らすんだろ」
「危険を知らせるためとか、列車同士の出会いがしらとかに鳴らすみたいですね」
「へぇ、よくご存知ですね。もしかして流行りの鉄子ってやつ?」
「いいえ、畏れ多い。たまたまググったから知ってるんです。私、西横浜駅を毎朝通るんですけどね、朝のお散歩で歩道橋から保育園児が懸命に電車に向かって手を振っているのをよく見かけるんです。で、たまに列車同士がすれ違うタイミングに当たると気味良くフォーン、フォーンって汽笛を鳴らしてくれるんです」未希は嬉しそうに思い出す。「絶対、園児に応えるため鳴らしてくれていると思うんですよ、あれ。でも普段は園児のお手振りに返事するわけにもいかないから、すれ違いの時だけ奮発するの」
「いいですね、毎朝とはいかないけど、休日の朝に俺達も電車に手を振りにいきませんか」三木がいたずらっ子の目つきで未希を誘う。
「ちょっとはずかしくないですか」未希は苦笑した。「しかもアラサー二人組に応えてくれますかね」
「うーん。四つの掌では足りませんかね?…じゃあいつか、子供を連れて行って、…六つ、八つ、十の掌で手を振れば、僕達にも汽笛鳴らしてくれるかな」三木は未希の肩を掴む。「その、そんな夢を一緒に叶えませんか」 
 未希の朱色に染まった頬を三木が引き寄せたから、未希は盛大に跳ね除けた。
「今はまだ決められません。あなたの小説がちゃんとできあがったら、考えます」
「絶対にハッピーエンドにしてみせます」三木は嬉しそうに笑って、改めて未希を抱きしめた。
 こうして私たち二人の物語は始まった。この一年は彼の小説の題材になるというから厄介だ。第二回 相鉄小説大賞に三木理が投稿し、大賞を取れば日の目を見るが、受賞しない時はどこかに埋もれて、人の目に触れられることもないストーリーとなるだろう。
ありふれた二人を切り取った世界が、二人だけのものになるのも悪くない。
きっといつかハッピーエンドを描くから。

著者

篠山さおり