「海のない宇宙」奥泉明日香

 都会の夜空に、星は見えない。イルミネーションとか名付けられた人工の灯りが眩しいからだ。
 都会。そうここは、私が生まれ育ったやや北の土地よりも随分と「都会っぽさ」が感じられる街である。何故そう思えるのかというと、単純に、ビルも人も多いからだ。だが元からここに棲む人達は、ここを「田舎」だの「何もない」だの、果ては「僻地」だのと自虐的な呼び方をする。そうするのは何故だか、草ばかり生い茂る土地から来た私にはよくわからない。単に、日本人の美徳である謙遜なのだろうか。
 ともかく、この「都会っぽさ」が染み出す街には、電球があちらこちらの壁でぴかぴかと光り、それがすっかり、暗い筈の夜を照らして、道路も、そこを行き交う人間の姿もくっきりと見える。特に、真隣にいる男はよく見える。
 隣を歩く男の顔は、もう目を瞑っても絵に描けるくらい見慣れてしまった。微妙に上げなければいけない目線も、いつもと若干変えなければならない歩幅も、もう身体が覚えてしまった。
「今日も冷えるね」
 そう男が言った。本日五度目、下手したら十度目くらいの台詞だった。私は反射的にうんうんと相槌を打っておいた。気象予報士は毎日のように「この冬一番の冷え込みです」という口上をテレビ述べていたが、我々の会話の内容に関係はない。最寄り駅までの道中、沈黙しないことが肝心なのである。
 道すがら、色々なことを口にした気がするが、その中身は全く覚えていない。天気のこととか、最近話題になった芸能人のスキャンダルのことだったかもしれないし、或いは深刻な地球環境破壊にまで話が及んだのかもしれない。だが、駅に着いた頃にはもう頭の片隅にすら残っていなかった。

 『今日も男と会った』、『先週も会った』、『多分来週も会う』。
 小学校の長期休暇の宿題以来、日記というものをつけたことはないが、もしも私が今同じものを課せられたら、こんな文がずっと並ぶであろう。
 夏休みの多すぎる宿題に嫌気がさした子どもでも、もう少しましな表現を使いそうなものであるが、本当にそうなのだから仕方がない。恐らく、私が自主的に日記をつけようと思ったことがないのは、日常も平凡ならば、それ以上に脳内にある語句と表現が貧相すぎて、書くに書けないからだ。

 日々のとりとめもない出来事を毎日、引き出しにしまった日記帳に記し、自分の気持ちの移り変わりを記録しておく少女というのは、古き良き時代か、はたまた古き良き少女漫画だけにしか存在しないかもしれない。だが、そんな乙女がいるとしたら、私は素直に羨ましいと感じる。
 少女達の日記帳を埋めるのは、きっと思春期独特の淡い恋心だろう。憧れの人と目が合ったとか、そんな傍から見たら誰も気付かないような些細なことを毎日書き連ねていくのだ。ちょっと少女というものに夢を見過ぎか。いや、少なくとも漫画の中ではそうなっている。
 そんな少女達の恋というのは、大体家族にも言えないような、秘められた、許されないものなのだ。古き良き時代の物語なら、身分違い、例えば大富豪の跡取りとその屋敷の召使いの間柄とか、そんな許されざる恋が日記帳には展開されるのだろう。恋は障害があればある程燃えるというのが定説なので、一層少女は想いを募らせ、日記が分厚くなっていくのだ……。という、二時間ドラマをこの間観た気がする。面白いわけでなければ退屈するわけでもない内容だった。

 私の生活もそんなドラマチックな出来事で彩られていたら少しは日記を書く気が起きるかもしれないのだが、残念ながらそんなことは全くなかった。今日も会っている男というものは、別に金持ちの息子ではないし、私は使用人でもない。もちろんその逆でもない。
 私ががんばって「秘密の」日記帳をつけたとしても、誰も見たがらないだろう。「今日も会った」だけで埋め尽くされたページなど、むしろ世間に公開しても問題ないくらいだ。誰にも言えないなんてことはない。私の身には、誰に喋っても何ら話題にならないようなことしか起きていない。
 二時間ドラマのようなベタな恋愛に憧れないかと言ったら、ノーとは断言できない。現実離れした世界を一度は体験したいと思うのが、元少女漫画読者であった女の性ではないだろうか。しかし「ドラマの主人公になりたいから身分違いになってくれ」と男にリクエストしても、流石に無理だろう。そもそも、少なくとも建前上は身分制度がない現代日本では叶わない話だ。諦めるしかない。

「気を付けて帰ってね」
 そう男の声がして、気が付くと、私がいるのは駅の改札口だった。私はとりあえず、次に来る電車の時間を電光掲示板で確認しつつ、またしてもうんうんと頷いておいた。
 自動改札をくぐり後ろを向くと、こちらに向けて手を振る男の姿を往来の中にまだ見つけることができた。その頭では、男のことではなく、ほぼ少女漫画とドラマのことを考えていた。

 自宅の最寄りまで数駅の間、一人で電車に揺られた。その間も、頭の中は大体漫画と、その他のどうでもよいことばかりだった。そういえば、昔愛読していた小学生向けの月刊誌は今もあるのだろうか。本屋で確認しようとも思ったが、目的地に着く頃には、私の忙しい脳は、そのふと浮かんだ考えも忘れていた。

 駅の長いエスカレーターに揺られ、私は地上へと向かっていた。時間が時間なので、前後に人はほとんどいない。こんな時は大股を広げて真ん中に陣取っても問題ないのだろうが、根が日本人なので、自然と左側に寄っている。
 疲れた身体を手すりに預けながら、私は何となしに、今日の総決算的な意味合いで、一日に起こった事を振り返ってみた。朝起きて、ご飯を食べて……というように。しかし今日起きたことなのに、もはや朝食に何を食べたのかすらあやふやだった。
 昼から男に会って……本当にごく普通の一日だった。
 そこでやっと、男の顔と名前が頭に浮かんで、私は先程まで会っていた男のことを考え出した。
 男とは夕食をとった。メニューは朝食よりははっきりとは思い出すことができる。「洋食の店だった」くらいのざっくりとした記憶だが。店はその近辺ではやや有名らしかった。
 その後、男に駅まで見送られた。今日のことを振り替えって、私はついでに、今のことだけでなく、これから先のことも考えてみることにした。家に帰るまでの暇つぶしである。

 これから、男と私の間には何か起こるのだろうか。ものを食べたり、並んで歩いたりすること以外に。
 このままいけば、おそらく私はあの男と「結婚」という行為をするのだろう、という気がしている。素人が行う明日の天気予報よりは確実な予測だった。
 悪くない、いやむしろ、世間的に見れば百点満点で九十点くらいはつけてもらえる行動だろう。男の評価は、私の周囲からはかなり高いと思われる。恐らく、面白くない二時間ドラマよりは。
 男と一緒になっている自分というものを、私はどうにかして思い描こうとした。しかし、体験したことがないので、どうにも上手く想像できなかった。明治や大正時代の恋愛ドラマの方が、まだテレビで観たことがあるので、図としては上手く浮かんできた。
 この時瞬間的に、「一緒になる」という、一見古風な動詞が出てきたのは何故だか自分でもわからなかった。
 要するに、男と「結婚する」とは、具体的にどのような行為であり、どのような状態であろう。辞書には当然言葉の意味が載っているだろうが、そこに「結婚する」ことに関しての感触は載っているのだろうか。多分ないだろう。

 とりあえず、私は身近で結婚している人間を想像してみることにした。私の周りにいて、かつ一番長く「結婚」という状態を維持しているのは、間違いなく両親だ。両親は具体的にどのような「結婚した」環境にいるのか。恐らく今頃、離れた北の地の、草の中にある家で眠っている。いや、流石にまだ起きているだろうか。私は両親の寝顔を想像した。はて、結婚というのは一緒の家で、一緒の部屋で眠ることを指すのであろうか。なかなか的を射た答えだと思うが、完全回答ではないような気がする。現代文の模試に例えるなら、記述式の長文問題で部分点が貰える程度か。
 私の頭の中はいつの間にやら、男の顔ではなく両親の姿でいっぱいになっていた。男のことを考えていた筈なのに。だが、あの男と両親に向ける感情には、何かしらの共通点があるんじゃないかな、とも思う。脳内では、近い情報が結びついて連想的に何かを思い出すことがあるという。しかしそれが、辞書的にどのような感情でどう表現したらいいのかは、残念ながら脳に入っていないようだった。そういえば、両親は元気だろうか。
 両親のように同じ家で寝起きを共にしている男と私の図というものをどうにかして想像しようとしたが、かろうじて思い浮かんだ光景は、私の実家の部屋に不自然な合成写真のごとく貼りつけられた男の笑顔で、スムーズに未来の情景が浮かんでこず、頭の中の男が何かを言うこともなかった。
 男との未来よりは、羽根が生えて自由に空が飛べるようになるとか、タイムマシンが発明されて時間旅行を楽しめるようになるとか、そういったことの方が、明確に想像できるような気がした。

 気が付くとエスカレーターは私を地上に吐き出していた。自宅マンションは目と鼻の先だが、頭の中が男の顔と実家の部屋とついでにタイムマシンでごちゃごちゃしていたので、少し整理しようと、そのまま部屋に戻ることはせず、少し周りをぶらつくことにした。
 自分の住むこの街は、やはり「都会っぽく」、概ね快適かつ安全な環境が整えられており、夜を様々な意味で危険と感じたことはあまりなかった。この街に不満があるとすれば、「湘南」というあからさまに海や波乗りを連想させる名前を持つのに、後につく「台」の力が強すぎて、駅を出てすぐ海を臨むなどという贅沢な体験はできないことである。
 かつて、男と遭うずっと前、この街に初めて降り立った私は、線路の終わりに広がる海と、西欧の港町を安直に想像していたため、日本の「都会っぽさ」が溢れる街に驚いたものである。
 ここから海は見えないが、頭上には、大きな月が輝いていた。満月ではないが、多分今日は十三夜とか、はたまた十二夜とか十四夜とか呼ばれる日なのではないかと推測する。男と一緒にいた時には、非常にどうでもよい会話をしていたせいで気付かなかった。この駅の周りも「都会っぽい」が、これらの街の灯りは、たとえ何の用途のために存在しているのかわからない電飾であろうとも、決してうるさいとは感じない。この「都会っぽさ」が、自分は恐らく男と同じくらい、嫌いではなかった。灯りは睡眠を妨げるというが、それでも一緒に眠っても良い程度には。
 いつか遠い未来には、あの見える場所にあるけれど遠い月に、私は行けるようになるのだろうか。いつかタイムマシンも発明される頃には、月にもすぐに行けて、兎もかぐや姫も住めるようになるのだろうか。まだ宇宙旅行が叶わぬうちは、せめて近場のプラネタリウムでその気分を味わうしかあるまい。私は幼い頃から、プラネタリウム及び、本物の夜空を見上げることが好きだった。大層な理由はなく、きらきらしたものに惹かれていただけである。私のようなつまらない人間からすれば、人工物も自然も関係なく、輝くものは単純に好ましい。
 あれこれろくでもないことを考え、結局私は、マンションの周りを一周しただけで家に戻った。

 部屋に帰り着き、何の考えもなしに冷蔵庫を開けた。そこには、昨日つい買い求めてしまったコンビニのチルド菓子が堂々と鎮座している。
 所謂「コンビニスイーツ」と呼ばれるものが実際より美味しそうに見え、カロリーと値段に後悔するも、学習せずに新作が出る度に同じ過ちを繰り返してしまうのは何故だろう。永遠の謎である。解明できたらノーベル賞クラスだ。
 現在冷蔵庫に居座っている菓子もそれは購買欲をそそられる見た目であるが、別に空腹ではないし、何よりこの時間に食べると後々の体重と体脂肪率が恐ろしいので、明日にとっておくことにする。賞味期限はまだ平気だろうか。

 そういえば、恋愛にも賞味期限というものがあるということを、どこぞのインターネットの子供の落書きレベルのサイトで見たような記憶がある。菓子のように食べられるものではないのに、「賞味」と表記するのはいかがなものかと思うが、他に適切な表現がないのだろう。
 その「賞味期限」とやらは三年だと、どこぞの顔も知らない誰かは活字の上で雄弁に語っていた。科学的な根拠も提示してあったような気がしたが、忘れた。だが別の場所だと、この「賞味期限」は三年でなく三か月とか、或いはもっと短かったり、はたまたもっと長かったりした。要するに、はっきりとしない。これが完全に解明されたら、コンビニスイーツ論以上に、それこそノーベル賞を取れるだろう。インターネットの波に紛れた情報などそんなものだ。

 可愛らしい形をしたプリンアラモードを眺めていたら、何故かあの男の顔がまた思い浮かんだ。先程まで時間旅行と月面旅行へのロマンや、街と空の光に紛れて消えていた顔である。プリンには全く似ていない人間だ。
 はて、男との「賞味期限」はどれくらいであろうか。だがそもそも男と「恋愛」を始めたのはいつなのか、それ以前に「恋愛」の定義とは何なのか。「結婚する」という動詞以上に曖昧な問題であった。
 一先ず、男に出会った時を思い返して数えてみると、まだ「賞味期限」の主論である三年を経てはいなかった。男に会う前に男と恋愛していたという行動は(少なくとも私の中では)物理的にありえないので、まだ男との「賞味期限」は安全圏内ということである。「まだ食べられる」「まだ大丈夫」とよく母が食材を前に口にしていた台詞が思い浮かんで、その事実に、とりあえずはほっとする。まだ「恋愛」は、腐ってなどいない。
 だが、いずれ三年は経つ。或いはもっと経つ。時は無情に流れるのである。「賞味期限」がきたら、私と男はどうなるのだろう。駄目になった食材も「火を通せば食べられる」と母が言っていたのが、また思い浮かんだ。男との関係に火を入れることは果たして実際にできるのか。プリンはこれ以上火を通したら焼きプリンになってしまう。それはそれで美味いのかもしれないが。
 考えると本当にプリンが欲しくなるくらいに腹が減ってくるので、私は無理矢理冷蔵庫のドアを閉じて、同時に思考もシャットダウンした。これ以上続けても良い答えは出ないだろう。頭を使うのは疲れるのである。

 その晩、夢を見た。
 私は正に「星の数ほど」と表現するのが正しい数の星々がイルミネーションより豪勢に輝く、宇宙空間を飛んでいた。
 嗚呼、遂に空を飛べるようになって、しかも宇宙旅行もできるようになったのか、素晴らしい世の中だ。ここは未来の世界なのかもしれない。もしかしたらここはプラネタリウムで、といってもただ星を見上げるだけでなく、宇宙遊泳も体験させてくれるようになったのかもしれない。どちらにせよ、正に「夢見た」世界だ。

 星々の中に、それよりも大きな月が堂々と輝いて自己主張をしていた。だが完璧な円形ではなく、今日の夜見た、所謂十三夜か十四夜くらいの月齢だった。
 実際のところ、星と月がこんな大きさでひしめき合っていて、しかも月が自ら発光していないことくらい知識として知っているが、これでいいのである。夢なのだから。
 きっと無数に輝く星の中には、月だけではなくて、プリン形の惑星とか、日記や漫画の形をした星座もあるのだろう。実際そんな世界など、女児の頭の中にすら存在しないと思うが、夢だからいいのである。
 だがきっと海はないのだろうな、あっても見えないのだろうな、ということだけは、ひどく冷静に考えられた。宇宙に水があってはおかしい。だがプリンの星があるからそれでいいのである。我ながらとんでもない理論だ。
 夢というのは、その日起きた出来事を脳内で整理する過程だと聞いたことがある。私の今日一日を統合すると、ここまで不思議な宇宙になってしまうのか。
 ここにあるのは魚が泳ぐ青い海ではなく、いわゆる「星の海」だ。

 そんな“海”の中には、男の姿があった。
 男も私と同じように、星の中を飛び回っていた。
 星と男と女といえば、七夕伝説が有名だが、ここには月とプリン星はあれど、天の川はないようだ。
 一年に一度だけ会える男女というのは、大層有名でかつロマンチックとされているが、私がもしも織姫になったら、一年会えない男の顔は忘れてしまう気がする。
 天の川がない宇宙を、私と男は自由に飛ぶことができた。男がいてもいなくても、妄想に満ちたその宇宙は私にとって美しくて居心地の良いものだったが、男がいても、大して問題にはならなかった。

 男は宇宙遊泳の間、昨日観たドラマのこととか、はたまた小難しい世界情勢のことだとか、色々なことを私に語りかけた。その合間に、
「今日も冷えるね」
と十回くらい私に呟いた。私はまたしても、その全てにうんうんと頷くだけだった。ただその宇宙は、本当に少し寒かった。

 ぱちり、とでも音がするように、目の前の光景が一瞬にして消えた。そこにあったのはファンシーな宇宙ではなく、ただの白い天井だった。夢は覚めるから夢と呼ぶ、とはどこで聞いた台詞だったか。
 月はもうどこにもない。輝いているのは、窓の外に出ている本当に大きくて眩しい太陽だ。
 男も、ここにはいなかった。枕元にある携帯電話を見ると、男からあたりさわりのないメッセージが届いていた。あたりさわりが無さすぎて、書く必要のないような文面だったが、きちんと送られていた。
 冬の朝は、プリン星が浮かぶ星の海と同じくらい肌寒かった。嗚呼、そういえば冷蔵庫の中のプリンを「賞味期限」がくる前に片付けなければ。

 次の週、また私は男に会った。
 男の口から「結婚」という単語が出た時、私はもはや条件反射的に、うんうんと頷いていた。
 いつもの十割くらい増しの笑顔で、私が想像もできなかったこれからのことを、具体かつ説得力を持って話す男を、私はとりあえずまた、うんうんと言いつつ眺めていた。
 男と色々な意味で本当に一緒になる頃には、本当に宇宙を飛べるようになっているのだろうか。せめてプラネタリウムが進化して、疑似体験ぐらいはさせてくれないものか。プリン星がなくても、本物の海がなくても別に構わないから。その日、私の思考を一番支配したのはその問いだった。
 「新婚旅行は宇宙に行きたい」と言ってみたら、男はどんな顔をするだろうか。私はもはや、見慣れを通り越して飽きつつある男の顔と、その背後に広がる海の無い宇宙空間を見つめながら、ぼんやりと考えた。

著者

奥泉明日香