「海を見に行く」冨田 隼人

 或る月曜日の夕方、山田青年は両側に枯葉が集められた通りを歩いていた。彼は両手をポケットに突っ込んでいた。風が冷たかったからだ。西の空には真っ黒な雲が広がっていて、それは雨を降らせながら、彼の方へ近付いて来ていた。
 彼は俯きながら歩いていた。憂鬱な学校から帰っているのは嬉しいことだったけれど、そんな気持ちをも感じることには感じても、教室の隅に置かれたストーブのように弱弱しくしか彼には感じられなかった。それほど彼は疲れていた。おまけに傘を持っていないのに雨が降りそうで、家に着く頃にはびしょ濡れになっていることが予想されたから、彼はなるべく雲を見ないように俯いて歩いていたのだった。そして、その日から始まった一週間の長さも、彼を気詰まりにさせていた。
 すると突然、彼の目の前の路地から一人の男が寒そうに、コートの襟を立てて飛び出してきた。彼はびっくりして立ち止まり、男の行方を追った。そして再び歩き出した頃には、彼の心にはある決心が唐突にも現れていた。彼は広大な水面を思い、さっきまでの憂鬱さを忘れたように、歩みを速めた。
 つまり、彼は海を見に行きたくなったのだ。
 海に行ったことのない彼には、それは大変魅力的であった。しかし休日にならなければ行くことはできなかった。彼は虚偽の理由で学校を休みたくはなかったのだ。
 
 海に行くための道は、たった一本しかなかった。その道は小さな山の中を蛇行しながら通り、砂浜に続いていた。彼は其の道を通ったことのある人を知らなかった。其処を通れば海に行かれることだけは知っていた。
 それから休日までの間、今までは退屈だった授業の時間を、彼は海に思いを馳せ、退屈を少しも感じずに過ごすことができた。そうして、一週間があっという間に過ぎて日曜日が来た。
 彼は朝早く、鞄を背負って家を出た。海を見られるということを疑いもせずに、半ば跳ねるようして駅に向かった。町は眠っているみたいにひっそりとしていた。一台の車が通る音に驚いて一寸目を開けたかのように、誰かのくしゃみの音が聞こえた。空は青く透きとおっていた。
 薄暗い駅のホームには彼の他、誰も居なかった。冷たい風が彼には心地よく思えた。暫くして、まだ渡る人のない踏み切りの遮断機が下りて、電車がやってきた。そこには、誰も乗ってはいなかった。彼は座席に腰を下ろすと、背負っていた鞄を脇に置いた。その中には弁当と水筒、そして柔らかい布に包まれたカメラが入っていた。彼は時々水を飲んだけれど、ほんの少しずつだった。節約しようと思っていたからだ。電車に乗っている間に地図を見たかったので、彼は、前日に書店に行ってみたけれど、いくら探してもその地図は見つからなかった。そこで、店員にも聞いたが、
 「一寸わかりませんねえ」
としか返ってこなかった。そこで、彼は電車の中で、此れから見ることになろう海を想像した。電車が海に近づくにつれて、彼の想像も膨らんでいった。
 結局、終点のその駅まで、彼の他には誰も乗ってこなかった。プラットホームに降り立つ頃には、彼は波の音を聞くような気さえした。駅を出ると、道はすぐに分かった。そして、其処には真新しい標識が立っていた。
 彼は水をほんの少し飲むと歩き始めた。樹木の間から日が射していて、道は明るかった。ただ、ゆるやかに起伏していて、先は見通せなかった。土の上に枯葉がまばらに落ちていて、道に突き出た木の根の間なんかに挟まって、何だか不機嫌そうに沈黙していた。大変静かだった。彼の足音だけが、森の静寂を乱した。時折風が吹いて、木の葉を揺らした。
 丁度、彼が大きな曲がり角に達した時だった。急に近くでかさこそと葉の擦れる音がすると、一羽の青い鳥が空へと舞い上がった。それが、彼の歩みを止めた。と同時に、彼は前方の道の真ん中に一人の男を認めた。男は小さな椅子に座って、黒い帽子を手でおもちゃにしていたが、ふと顔を上げると山田青年の方を見た。山田青年は一寸びっくりして、その場に立ち尽くした。すると、その男が口を開いた。
 「こんにちは。」
山田青年が戸惑っているのを見ると、男は続けた。
 「君は今から此処を通るつもりかい?」
 「ええ、そのつもりですけれど。」
彼はためらいがちに答えた。
 「おお、それはお可哀想に。残念だがね、君は此処を通れない。」
 「何ですって。」
彼は半ば叫ぶように言った。
 「どうしてです?」
 「それには答えられない。」
 「それは何故です?」
 「俺は知らないからだ。ただ、雇われているだけなのだ。」
 「じゃあ、あなたを雇っているのは誰ですか?」
 「それは秘密だ。契約上そうなっているからね。」
 「いつになったら、通れるんですか?」
 「さあ、それは分からない。でも、今はだめだ。」
 それっきり、彼は質問するのを止めた。それからずっと男の側に座っていた。夕方になるまで、何も変わったことはなかった。
 辺りが暗くなり始めた頃、彼は帰ることにした。腰を上げると、男には見向きもせずそこを立ち去った。
 駅に着くと、丁度電車が来ていた。中には何人かの客がいて、静かに座席に座っていた。彼は隅の方に腰を下ろすと、溜息を一つついた。急に疲労と共に眠気が彼を襲い、彼はそのまま目を閉じた。

 次の日曜日も、彼は朝早く家を出た。そして、此の間と同じように誰も居ない電車に乗って、終点の駅で降りた、歩き始めると、古ぼけた標識が目に付いた。彼は其処で立ち止まった。彼は海を見られることに期待をしていなかった。また変な男に通せん坊されるのだと思っていた。
 彼が森の中に入って行くと、前よりもっと手前の所で、男の姿を見つけた。男の格好は全く変わっていなかった。山田青年が近づいて行くと、男は顔を上げた。
 「また来たのか。」
 「ええ、今日も通してくれないんですか?」
 「それは分からない。でも今はだめだ。」
 彼は男の側に腰を下ろした。そうして、其の道の先にあるだろう海を想像した。青い波間には鴎が飛んでいるんだろうか。舟は浮かんでいるか知ら、などと考えているうちに、彼は波の音が聞こえてくるような気さえした。然し、其の日も暮れて、彼は帰ることにした。もう海を見られないんじゃないかという考えを振り捨てるかのように、彼は頭を振ってから立ち上がると、駅に向かった。
 プラットホームにはたくさんの人がいて、皆一様に地面をぼんやり見ていた。電車が来ると、一同はぞろぞろと乗り込んだ。まるで機械のように無表情であった。彼は吊り革につかまった。電車はゆっくりと動き出した。車内は静かだった。彼はぼんやりと窓の外を見た。外には真っ暗な草原が広がっていた。

 次の日曜日も、彼は朝早く家を出た。それから、誰も居ない電車に乗って、彼の駅に着いた。彼には、もはや希望などなかった。駅を出ると、其処にあったはずの標識が無くなっていた。代わりに、森の入口には、例の男が椅子に座って彼の方を見ていた。彼は男を認めると、道を外れて行った。そして、草をかき分けて森に入って行こうとした。迂回しようと思ったのだ。すると、後ろで男の笑い声がした。振り返ると、男が言った。
 「そうやって迂回したって、此の先には俺みたいのがたくさんいて、お前を通せん坊するんだぞ。」           
 そして、また笑い始めた。山田青年は其れを聞いて、通れるようになるまで待つことに決めた。しかし夕方になってもそうなる気配はなく、永遠に通れないのではないかと彼は思った。そうして、三週間前の月曜日を思い出した。急に、あの時路地から飛び出してきた男が、今目の前に座っている男に似ていると思った。
 彼は、それから駅に戻った、電車に乗ると
満員で、身動きがとれないほどだった。
 「無駄なことだったのかなあ。」
彼は小さく呟いた。

 次の日曜日の朝、彼はもう出掛けようとはしなかった。彼は布団から起き上がると、その部屋のたった一つの窓を開けた。朝の冷たい空気が、彼には心地良かった。そして、彼の耳には、電車の走る音が聞こえていた。

著者

冨田 隼人