「海老名まで」中田秀和

               
 仲人をして貰った江川さんは三ツ境に住んでいた。私が妻と一緒に毎年訪ねるようになったのは、だから昭和五二年の暮れからである。会社の借り上げ社宅は葛野口にあったから、江川さんの家までは戸塚までバスを使い、それから横須賀線で横浜へ出て、相鉄線に乗り継ぐことになった。
 工場は駅前の旭町商店街を抜けて一五分ばかりのところにあった。江川さんはその狭い通りの両側に低い軒を連ねた商店街を通って通勤していたから、まだ寮に住んでいた私に自分の通勤経路で道順を教えてくれたのである。戸塚から三ツ境まではバスが便利だとわかってからも、横浜で買い物をしてからにするかとなって、同じ道順で夏と冬に訪ねていた。
 仲人といえば誰もが自分の上司に頼むものだということくらい知らないわけではなかった。誰もがそうやっているように、都合と打算を当たり前のこととして納得すればいいものを、私は妙にこだわっていた。
 そろそろ仲人を頼まなければならないというときになって代わった上司は、前の職場で仲人をした部下を特に可愛がっていたという噂があった。そんなことがあっという間に広まったのである。すり寄ってくる部下も可愛がるらしかった。みんながすり寄ったら、みんな同じではないか。そういうとき仲人をした部下はとりわけ別格なのかもしれない。大事なときに、うんざりするような噂だった。
 前の上司はベサメムーチョで乱れて酔い潰れるような愛嬌のある人だった。考えてみれば、そんな気安さから生じる親しみは、すり寄ったところで頼りになるものは見込めなかったからだろうか、おかしな噂が立つことはなかった。職場の「和」という意味ではなかなかいい上司だったということになる。
 噂はそういったこれまでの平穏といってもよかった空気に対するアレルギーみたいなものだった。となると代わった上司に仲人を頼んだりしたらひとり暗い影を引きずることになるのは目に見えていた。そういうことにこだわったのは、中学生のときに読んだ源氏鶏太の小説も影響していたような気がする。
 麦飯だけでなくふかした芋まで主食にするような貧乏暮らしだったが、年がら年中ぶらぶらしていた父は山手樹一郎だとか、そのころはやりの文庫本を買いこんでいた。国道に面して建つ二階家は戦後すぐに建てたというから、物資が乏しいときに、祖父にはそれだけの財力があったことになるらしかった。祖父は私が乳飲み子のときに亡くなって、すぐに蓄えも底をついたようだ。だから私が小学校に上がる前の年に襲った台風で屋根瓦をずいぶん吹き飛ばされても直す金はなく、中学生のころにはすっかり軒は歪んでいたし、落ちてもいた。雨漏りはし放題だった。いつ砂塵を巻き上げて倒壊してもおかしくない荒ら家だったのである。そんな家が国道に面して建っていたから、麦飯生活を惜しげもなく晒しているようなものだった。家にはラジオもテレビもなかったから、私はいつしか父が読み散らしたものを読んで過ごしていた。源氏鶏太の小説に若い時から会社の中で汲々として生きる事への警句が書いてあったのを覚えていたのは、中学を出たら働く気でいたせいかもしれない。そんな私に母は社会に出たら困ることになるから高校には行っておけといった。受験した高校には定時制もあったのだが、中卒と同じ扱いになるからダメだと母はきっぱり言った。
 そして五千円貰って戸塚へ出てきたのが昭和四五年だった。一年間を訓練生として過ごした。その時の担任が江川さんだったのである。仲人を系列に出された前の上司に頼んだら角が立つだろうか、もっとさかのぼって訓練生だった時の江川さんに頼みこんだら、まだ少しはマシだろうかと、つまらないことを気にするようになった。そんな時にふと思いついたのはベサメムーチョの上司がいつまでも上司ではなかったという極々当たり前のことだった。入社してまだ五年ばかりしかたっていなかったから、上司はいつまでも上司だという思い込みがあったことにふと気づくことになったのである。
 仲人は亡くなっても仲人だが、上司はどんなに長くても相手が定年までだという思いは、そのまま腹決まりになりかけるのだが、やはり気弱になることがあった。決して逆らうわけではないのだが、上司に恥をかかせることにはなるだろうと考えてしまうのである。目障りだとなったところで、どうせ高卒の、定年まで工員でしかない自分の身の上に、後悔するほどの不幸が待ちうけているようには思えなかった。それより、暗い影を引きずって、周囲の目を気にしながら過ごしていくことの方が耐え難いことのように思えたのだった。
 江川さんはどんな思いで私の頼みを聞いてくれたのだろうと思うといまでも辛くなる。もうそのとき江川さんは継続社員になっていたのだが、江川さん自身が長い会社生活の中でしがらみと向き合うことがあったのかどうか、厭な顔を見せることは一度もなかった。棘になるようなものが残ることがないようにということだったのだろう。いつの間にか江川さんは私の職場に足を運んで根回しをしてくれていたのだった。そういったことは後になって知ることになるのだが、なんだかんだと言ったところで、私は自分の好き嫌いで生きていこうとしていたのだと思い知ることになって、しばらくは江川さんが向けてくる笑顔を避けるようにしていた。
 最初に江川さんの家を訪ねた時、どういうわけか大和の駅でもたついたことを覚えているのだが、あのとき横浜からの道順だと三ツ境を通り過ぎた先になる大和の駅で迷ったのはなんだったのだろうと思いを巡らせているうちに、そうだったと思いだした。午前のうちに藤沢にある式場で衣装合わせの用を済ませた後だったので、小田急で大和へ出て、そこでホームに入ってきた横浜行きの電車に乗ろうとしたら「急行」の文字を見たのだった。これ三ツ境に停まるのかなと迷っているうちにドアがしまった。また「急行」を表示した車両が入ってきた。それも見送って、次に入ってきた「普通」に乗ったのだった。
 私の田舎にある諫早駅は長崎本線の経路にある。島原鉄道と佐世保に通じる大村線のターミナルになっていたが、小さな駅だった。その小さな駅に特急が停まった。就職試験を受けたのは万博の前の年の昭和四四年の夏休みに入ってすぐだった。寝台特急の「さくら」には、だから諫早から乗ったのだが、眠れないまま、通路の小さな椅子を引き出して坐っていると、過ぎていく車窓には諫早駅よりも大きな駅をいくつも通過していくのだった。夏休みだったから、帰りは切符が取れなくて、というより新幹線の乗り方がわからなかったし、急行の普通席という知恵もなくて、鈍行を大垣、米原で乗り継いで大阪に着いた時には二三時を過ぎていた。大阪には姉がいたから、そこでなんとかなると思っていたのだが、電話帳で調べたアパートの管理人は電話を取り次いでくれなかった。駅の待合室で床に新聞紙を敷いて夜が明けるのを待った。始発が出る前に駅員から起こされた。姉に見送られて、大阪からは急行の普通席に乗ったのだが、固いシートで眠れないままやはりいくつもの大きな駅を通過する車窓を眺めて一晩を明かすことになった。
 だから「急行」の文字を目にしたとき、ふとそんなことが脳裏をよぎって、ドアの近くに立っている人に聞けばいいものを、五年ばかりたってもまだ私は田舎じみたものが抜けきらないでいたのだった。これから式を挙げることになる妻にしても私がどうするか見ているくらいの田舎者だったのである。「急行」を見送ったことを江川さんに話すと、二俣川からこっちはみんな各駅停車になるんだよ、そのことを言っておかなかったなあと笑った。
 その日は急にひどい降りになった。江川さんの家までは三ツ境駅から歩いて一〇分ばかりの距離だったが、すっかり濡れてしまっていた。妻は生理がひどい日だったので顔色をなくしていた。妻がトイレに立ったすきに、「大丈夫? ずいぶん顔色がわるいみたいだけど」と奥さんが私を見た。
「赤チンチンなんですよ」
 すると奥さんはすぐに二階に上がって、毛布と枕を持って降りてきた。
 私は江川さんからビールをすすめられながら、なにかと気遣ってくれる奥さんに恐縮している妻をみているのが、なんだかわからないが、とてもうれしかった。江川さんに子供がいるとすれば私と同じくらいだろうか・・。よく片付いている六畳の部屋がなんとなく気になっていた。隣はダイニングキッチンで、二階に人の気配はしなかった。話題が途切れたとき、だからそんなことを口にした。
「子供さんは、きょうは・・」
 こういうばあい江川さんの子供のことをなんと呼べばいいのかわからなくて「子供さんは」と言ったのだが、江川さんと奥さんが顔を見合わせたのを目にした時、おかしな言い方をしたのかと少し酔った頭で気になった。
「いないんだよ」
 江川さんが照れたような顔をしていった。その少しビールでてかった顔を私は避けるようにしたのだが、つい奥さんをみてしまうことになった。
「大丈夫?」
 奥さんは横になっている妻に微笑みかけた。
 目の前のコップに手をのばすと、江川さんがビール瓶を手にした。私が空けるのを江川さんは待っている。空いたコップにビールを注ぎながら、江川さんが言った。
「山崎よー、おれの養子にならないか?」
 あの時江川さんは本気だったのもしれない。
 私はどう答えていいのかわからなかった。コップに手をのばした。江川さんにビールを注いでもらいながら、涙がでそうになるくらい悲しかった。そしてそれをごまかすように、なります、なりますよ、と無理に明るくいった。それがはっきり冗談に聞こえるように、私は、笑い声さえあげたのだった。
「まあ飲めよ」
 江川さんは突き出したビール瓶で、私のコップを空けろという仕草をした。そして養子の話はぴたっと風がやんだようにもう話題になることはなかった、・・ような気がするのだ。
 古い記憶というのは、前後がなくて、断片的にそこだけが切り取られて残っているものだが、私にもそのあとの記憶がなかった。その後の記憶というか、奥さんがどういう反応をしたのか、それを覚えていなかった。
 しかしあのとき頭の芯がしびれるようなめまいのなかで、もうひとつのことを考えていたことは覚えている。
 訪ねた江川さんの家はまだ建て替えて間もないときだった。白壁の二階建ての家は前から見ても、横から見ても、真上から見てもきちんと四角い形をしていた。門扉を入ると玄関までは五、六歩あった。一階の間取りは六畳の居間とダイニングキッチンになっていた。玄関を入ったところの幾分広めの階段を上がった二階がどうなっていたか知らないが、ふたりで住むには十分だったのだろう。
 和室からは余裕のある庭が見えた。そこに江川さんは趣味の盆栽を所狭しと並べていた。敷地は四〇坪ばかりあっただろうか。
 江川さんが養子にならないかと言った時に、その真新しい家のことが私の頭ではち切れるように膨れ上がっていた。養子になればこの家が貰えるのかと自分が住んでいた荒ら家を思い浮かべていた。それは儲かるとか得するとかそんなことを考える暇もなく、いきなりあの荒ら家に突き当たっていたのである。母から貰った五千円を手にして田舎を後にする時、これで雨漏りのしない家に住めるようになるという思いがあった。真面目に働いていればそれなりのおかずで白い飯が食えるのだと心待ちにするものがあった。寮がどんなところか知らなかったが、働いた金でテレビもステレオも買えるだろうと心ときめくものがあった。それなりの寮生活だったが、これから社宅住まいのそのずうっと先にあるもの、それも手が届くかどうかもわからないものが何の前触れもなく目の前に突き付けられたような思いにとらわれていた。頭の芯が痺れるほど混乱しないほうがおかしかった。
 江川さんにあんなりっぱな財産がなければよかったのだ。あれだけのものがなかったら、江川さんは口が裂けても「養子」の言葉を口にすることはなかっただろう。後を継いでくれる人がいたらもっとよかったのだ。そんなことを思いながら、自分の上司に仲人を頼まなかった私は、はっきり「養子」と言われてもやはり首をタテに振ることはなかっただろう。
 母の顔を思い浮かべてもいた。米が一粒も入っていない正真正銘の麦飯を食っていながら、社会に出たら困ることになるから高校には行っておけと言ったその母が、私が養子になったらどんな思いをすることになるか、それくらいのことはわかっていた。
 それに江川さんは、誰とでも仲良くなれるような気がするが、それは私のような偏屈なところがあっても笑顔を絶やさないで一緒にいることができるような気がするが、私がそういった窮屈に耐えられるのであれば、私は江川さんを頼るようなことはしなかったかもしれない。私はどこまでも身勝手なのだと自分でもわかっていた。頼むだけ頼んで、自分はなにも引き受けようとしないのだった。いよいよ私は江川さんの顔をまともにみることができなかったのである。
 奥さんがこれから妻になる「赤チンチン」をいたわってくれることがとても嬉しかった。江川さんが人懐っこい笑顔で、さあ飲めよといってくれることもまたとても嬉しかった。しかしそれ以上のことになってくると息苦しくなるような気がしていた。「養子にならないか?」と冗談めかしていった江川さんの心中を思うと、自分にできることはなんでもしてあげたいという気持ちがありながら、息苦しい思いが先に立ってくるのだった。
 一方で江川さんに身勝手というか、そんな邪念めいた思いなどかけらもないことがわかっているから、こんなことを考えている自分が情けなくなってくるのだった。江川さんがこれから困ることがあったら、そのとき支えになってやるだけの優しさは持ち合わせているつもりだった。奥さんが妻をいたわってくれて、江川さんが屈託のない顔でさあ飲めよとビールをすすめてくれるだけで、もうそれだけで、私はどうしていいかわからなくなってくるのだった。きっと仲人という面倒なことを厭な顔ひとつしないで引き受けてくれる江川さんの気持ちに触れていたからだろう。その例えようもないほどうれしいことが、どういうわけか重荷になってくるのである。
 決して逃げているわけではなかった。これはきっと源氏鶏太の小説を読んだせいだった。重荷を背負って生きることの息苦しさに耐えるのではなくて、その時々に応じて自分にできることがあったら、そのとき自分の気持ちをしっかり示せばいいのだという思いがあった。それでもなんだか逃げ腰の卑怯者のような気がしてくるのだが、ふたりきりの江川さんがぎりぎりのときになったら、そのぎりぎりのところをなんとかしてあげようとして、私は自分にできる精一杯のことをすることになるだろう。私はそのときそう思っていた。
 江川さんが厭な顔ひとつしないで仲人を引き受けてくれて、そうしてこうやってきょう妻になる「赤チンチン」を伴って訪ねてきて、奥さんの温かい気持ちに触れることができて、素直な気持ちで感謝の気持ちを伝えたかった。しかしそういうことは口にしないほうがいいに決まっている。私がこれからずうっと盆暮れの挨拶を欠かすことが無かったら、私のきょうのこの思いはこのままずうっと続いているのだと、きっと江川さんはわかってくれるはずだと、そんなことを考えていたのである。
 その日の帰りに、相鉄の株主だった江川さんは、優待切符を二枚くれた。それからも江川さんを訪ねた時はいつも帰りに優待切符を二枚貰うことになった。それは江川さんが亡くなった後もかわらなかった。奥さんは帰りがけに、いつも持たせてくれるものと一緒に優待切符を二枚手渡してくれた。そしていつも見通しのいいところまで出てきて、そうやって姿が見えなくなるまで、ずうっと私たちを見送ってくれた。江川さんに仲人をしてもらって、ほんとうによかった、そう思いながら、見えなくなるところで振り返って、そうして私は軽く頭を下げるのだった。
 きっと江川さんは私たちの負担になることをしたくなかったのだろう。こんど来るときにといってあと二枚渡してしまうと、それは催促することになると気にしていたのだろうという気がするのだった。
 江川さんは七四歳のときに胃がんがみつかるのだが、術前診断では三分の一を残すことになっていたのに、手術が終わってみたら全摘だった。職場から会社の病院までは一〇分ばかりだった。妻と一緒に見舞いに行くことにしていたのだが、とりあえず手術の日の残業時間に抜け出して行ってみた。三分の一と全摘のことはそのとき知ることになった。
「なんかあったんだよ」
 と江川さんが口だけ動かしていった。
「・・」
 奥さんをみた。笑みを作って目を伏せた。静かな病室で、私はどうしていいかわからなかった。がんといえば不治の病という思いから逃れられないからすぐに予後のことを考えることになる。その予後には「余命」の重い言葉がのしかかってくるのである。予定にない手術になったのだから、ベッドに横たわっている江川さんの不安がどんなものかそのまま伝わってくるし、もう私は奥さんがひとり残されるようなことを考えたりして、奥さんの作ったような笑みから目をそらしたのだった。江川さんに子供がいたらと、そのときふっと思った。どんなにか心の支えになってくれるだろう。そんな支えがひとりでもいい、ふたりだったらもっといいのにと思うのだが、どうしようもない運命に言葉もなかった。
 江川さんには私と違ってりっぱな家があった。私にはそれが羨ましくて仕方がなかったが、しかし七四歳というときに差し迫った状況に追い詰められたら、そんなものはなんの励みにもならないような気がした。もしあるとすれば、残されることになる奥さんが生きていくのに困らない安堵だろうか・・。
 そのころ私は四畳半二間に台所のついた借り上げ社宅にいた。その狭いところに息子がふたりいたのだった。子どもたちが学校に行くようになったらどうしようかと思案に暮れるような日々だったが、子どもたちを社会人になるまで育てあげれば、託すものが有るかないかは別にして、後の始末だけは託すことができるのである。江川さんにはそれがないのだった。
 もし奥さんひとりになったとしても、これからも欠かさず挨拶の時期がきたら訪ねて行くことにするよ、困ったことがあったらできるだけのことはするから、と心の中で思いながら、言葉を継ぐことができなかった。こういうとき家族だったら、なにも言わなくてもしっかり伝わるものがあるのだろうが、そんなことをいま口にするのは早すぎるだろうし、口にしたところでどこか浮いたような言葉になるような気がして、私は奥歯をかみしめたまま、精気のない顔で疲れたように横になっている江川さんと腰かけて足元に視線を落としている奥さんにチラチラ目をやりながら、暗くなってきた窓の外へ目をやる時間のほうが長くなっていた。
 七時の面会時間が終わりになるまでいて、奥さんと一緒に病院を出た。並んで歩いた時のことはいまもはっきり覚えている。職場に戻るには病院の坂を下ったところで別れて南門から入ったほうが便利だったが、西門まで一緒に歩いたのだった。江川さんに子供がいたらきっと私と同じくらいだろう。なんだか私は江川さんの子供にでもなったような気分で並んで歩いたのだった。
「冷えてきましたね」
「そうね。あなたたちも身体に気をつけてね、いつどうなるかわからないから」
 西門が近くなってから、そんな言葉を交わしただけだった。あのときは寒いかなとロッカーから作業着を取り出してでかけたのだがあれは何月だったのだろう。
 コツコツと小気味のいい靴の音を立てながら、細身で少し背丈のある奥さんは背筋を伸ばして歩いた。あのときいくつだったのだろう。とても若々しく見えたものだった。
 でもどうして私は江川さんの手術の日を知っていたのだろう。電話がかかってきたんだったっけか。どうしても思い出せなかった。
 江川さんを訪ねるたびに食事が十分に摂れない衰弱をみることになった。夏と冬とそれだけの間をおいて江川さんをみることになるから、はっきりそれがわかるのだった。この歳になって胃を全摘することは半殺しにするようなものだと、私には言葉を選べないほどそれは直截的な衝撃だった。江川さんが亡くなったあとに、手術をしないほうがよかったのでは、と奥さんに言ったことがあった。
「しなかったらね、半年だって言われたの」「半年・・?」「なんて言ったかしら・・、す、す・・、す、なんとかって」「スキルスですか?」「そうそう、なんかそんなことを言ってた」
 悪性だというくらいの知識しかなかったが、江川さんは食事が摂れなくて、寝たきりになって、最後は衰弱死みたいになって亡くなったから、私には腑に落ちないことだった。
 夏の挨拶がその術後の最初の訪問だった。
 そのときはまだあの人懐っこい笑顔があったが、江川さんはもう好きな煙草もビールも口にすることはなかった。その年の暮れに訪ねた時に、これしかないのよ、と出してくれたビールはとてもまずかった。さりげなく賞味期限をみるととっくに切れていた。腹を壊すこともないだろうと飲んだのだが、江川さんの消えた笑顔と向き合ってのんだそのビールの不味さはいまだに忘れられない。
 江川さんは三年目から車椅子になった。うつむき加減にじっと坐っているだけの顔には病の疲れしかなかった。そういう江川さんをみると、どうしても半殺しだと思ってしまうのである。余命が半年だったとしても、こんなことになるんだったら、いっそのこと手術をしなければよかったのに、とやはりそう思わずにはいられなかった。
 四年目から寝たきりになった江川さんが亡くなったのは七八歳のときだった。
 江川さんは釣りもやっていて、相模川の年間パス券を持っていると言っていた。釣りにいくときは海老名の駅を利用していたようだ。駅前で墓のセールスをしていたので、買ったと聞いたのはがんがみつかる三年ばかり前だったかもしれない。電話で呼び出された奥さんは、思いとどまらせようとして、ハンコがないからきょうは・・と断りかけたら、そのハンコを持っていたのよと言って笑った。
 その墓からは富士山がよく見えるのだと言い、あんないいところはないと江川さんはとても気に入った口ぶりだった。そのとき国分寺というのを聞いていたのを覚えていた。
 江川さんの命日は私の誕生日の前日だった。なんだか忘れないでいてくれよと言われているような気がして、ずうっと気になっていた。お寺は海老名の駅から遠くないところにあることも聞いていたから、行けばなんとかなるだろうとひとりで出かけたのは江川さんが亡くなった翌年の五月の連休のときだった。
 駅員に国分寺まではどういったらいいかと尋ねると、とたんに説明が面倒なような顔をした。近いと言っていたが聞き間違いだったようだ。だったらタクシーにしようかと思ったら、駅員は奥へ引っ込んだ。時刻表のようなものを手に現れた駅員は、JRでも小田急でも行けるんですがどっちが早いかな・・、と目を細めている。
「あの、この近くにあるらしいお寺に行きたいんですが」
 ああ・・、と駅員はすぐに笑顔になって、丁寧に地図を書いて教えてくれた。
 丸井で買い物をして迷うこともなくお寺に着いた。突き当りのちょっとした石段を上がって左に折れると、まっすぐ伸びた敷石の先に厚みのある戸を閉ざした本堂があった。人影のない境内の中ほどに御柱が立っていて「南無大師遍照金剛」とあった。本堂の右に右側を崖にして細い通り道があった。たぶんこっちだろうと歩いていくと、すぐに見上げるばかりの急な石段があった。雛壇になって石段の左右に墓石が整然と並んでいる。ずいぶん見晴らしがいいようなことを言っていたから、一番上だろうと迷うことなく私は最上段まであがった。どっちだろうと迷って左へいった。すぐに江川の文字が目にはいった。
 枯れた花を脇に置いた。花立の中を抜いて中段にある流しまで下りた。洗った花立をおいて、石段を下りたところの物置から閼伽桶をひとつ借りてきつい石段をあがった。
 江川さん、これじゃ奥さんが大変だよ、と閼伽桶の中に勢いよく蛇口をひねった。
 釣りのついでに、こんな苦労があることも考えないで見晴らしのいい墓地を買ったわけだ。もう少ししたら奥さんはきっと音を上げるようになるよ、と私は水をいっぱいにした閼伽桶を下げて最上段まで上がった。
 そういえばがんが見つかる少し前だった。私が家を買うことにしたと言った時、江川さんはずいぶん心配してくれたものだった。ローンを返すだけでも大変なことは、同じ会社にいたのだから江川さん自身がとてもよくわかっていることだった。妻を専業主婦にしていることも江川さんは気になっていたと思う。
「ローンだけじゃなくってさ、固定資産税ってものがあるんだよ」「はい」と私は受け流した。「こんな家だけどさ、ずいぶん払うんだよ。幾らだったかな、ここ」「・・」「それから家の手入れだってしなきゃならないんだから」「はい」と私はまた受け流した。「いつだったか壁を塗り替えて、屋根もちょっとやって、幾らだったっけか」と奥さんの顔をみてから、「百万ばかりかかったんだから」「そんなにかかるんですか」とつい口にしていた。ボロボロの今にも倒壊しそうな家を思いだした。手入れだけはきちんとしておかなければならないのだ。
 江川さんは、なんとか思いとどまらせようとしていたのだと思う。江川さんは奥さんの説得をハンコでうまくかわしたのだが、私は会社の審査が通って、融資の手続きも終えていた。もう引き返すことはできなかった。
 あれがまだ家を探しているときだったら、こんどは冗談めかした口調ではなくて、ここの二階に住まないかと、そんなことを言ったのではないかという気がするのである。
 私は買ってきたエビスを供えて、自分の分を飲んだ。煙草に火をつけて、濡れていないところにそれをおいた。ついでに、もう長いこと吸ったことのない煙草を吸ってみた。
 江川さん、ありがとうね、と口に出して言った。おれ、いまもヒラだけどさ、なんとかローンは払っているよ。まだ随分残っているけど、多分大丈夫だよ。江川さんに仲人をしてもらって、ほんとうによかったよ。どう、ビールの味は。奮発してエビスにしたけど。煙草も奮発してラッキーストライクにしたけど、どうかな。それにしても見晴らしがいいね。いいけどさ、その分、奥さんが大変だよ。奥さんは、いつまでここまで上ってこられるかなあ。生憎きょうは富士山はみえないけど、富士山なんか見えなくてもよかったのに。
 すぐ近くに家があったが、墓前に胡坐をかいて、私はそうやってつぶやいていた。
 あのとき江川さんのエビスも、おさがり、貰うね、と失敬して、線香がほぼ燃え尽きるころまでいた。その私はいまローンを払い終えて定年になっていた。これまで通り挨拶を欠かさなかったのだが、それは昨年の暮れのことだった。雨戸が閉ざされていて応答がなかった。あの背筋をすっと伸ばしていた奥さんの背はもうすっかり丸まっていた。ふと悪い予感がした。庭の草取りをしたごみを積んでおくと黙って持っていってくれるという隣の人がおりよく車を洗っていた。
 一週間ばかり前だったという。住所は聞いているといって、奥さんが残していったメモをみせてくれた。老人ホームの住所は熊谷だった。姪御さんが車で見えて、挨拶もそこそこに連れていったというのだった。
 妻が何か書き物を・・と言いかけたので、メモを携帯で撮らせてもらった。
 帰ってからすぐに妻が電話を掛けた。
 急なことだったので、家の中は片づけもなにもしていないんだって、と妻がいった。
 それを聞いて明日にでも海老名まで行ってみることにしようと思った。
 江川さん、おれの出る幕はなかったみたいだね、おれさ、これからもずうっと訪ねるつもりでいたんだよ。ちょっと寒いかもしれないけど、墓前に胡坐をかいて、エビスを飲みながらそう言うつもりだった。
 ほんとうにありがとうね。そういったら少し気が休まるような気がしていた。
                 <了>
                

著者

中田秀和