「涙の二俣川駅、そして母と私」ドライアイ子

 母は5年前の夏、75歳でこの世を去った。すい臓がんだった。
 その1年前の夏の夜、姉から「お母ちゃんが、ちょっとまずいことになった」と電話がきた。
いつもならふざけた口調の姉が、その日の電話は違った。
 胃の不調が続いた母が、近所のかかりつけの病院に行ったところ、
あやしい影が見えるから大きな病院で診てもらうようにいわれたと言うのだ。
「何だかいやな予感がするね」「うん、いやだね」そんな会話を交わした数日後、その予感は当たってしまった。

 母の病気がわかってから、ひんぱんに私は実家へ帰るようになった。私は青葉区で一人暮らしをしており、
父と母の住む実家はちょっと歩けば旭区に入る緑区で、その実家から歩いて5分ほどのところに姉一家が住んでいる。
 ずっとフリーランスで仕事をしてきた私は、職業柄なのか、性格なのか、いつも慌ただしい生活をしていた。
実家へ帰るのに片道1時間もかからない距離に住んでいるのに、年に数回しか帰らなかったことを悔やみながらも、
今からできることは何でもすると自分に誓い、姉にもそう告げた。
それからの1年は、私だけではなく、家族みんなが母を思い、母を中心に生活が回った。

 「あんたはこの1年、お母ちゃんのためによくやったと思うよ。
仕事の帰りにわざわざ寄ったり、毎日電話もかけていたんでしょ」
 葬儀を終えたあと、姉がそう言ってくれた。果たしてそうだろうか。私は母のために何ができたんだろう。
一緒に病院へ行ったり、どこかに出かけたいというリクエストに応えたりはしたけれど、それは毎日ではなかった。
何でもすると心に誓ったくせに、仕事を理由に時間のすべてを母に使うことはできなかった。
母と同じ屋根の下に住む父、近所に住む姉の方が大変だったはずだ。

 心に穴が空いた父と姉と私は時間を合わせては、母とお昼ご飯を食べた店、お花屋さん、白根の相鉄ローゼンへ出かけた。
買い物かごの中に一人分の食べ物を入れる父。この間までは二人分だったのに。
「あれとよく来たよ」と、ローゼンに来ると決まってそう言う父。
あれとは、母のこと。父の運転する軽トラックの助手席に母が乗り、日用品や甘いもの、お惣菜などを買っていた。
父にとってローゼンには母と過ごした思い出がたくさんつまっている。
それを思うだけで、わずか一ヶ月前までは二人がここを一緒に歩いていたと思うだけで、涙がこみ上げ顔がゆがんでくる。
まさかローゼンで涙が溢れてくるなんて。

 ある作家さんの「親がいなくなって1年が過ぎた。こんなに長いあいだ親と話さなかったことはない」
というようなことが書かれたエッセイを読んだ時、あまりにドンピシャな気持ちだったので、驚きながら泣き崩れた。
そう、それ、まさにそれ。すぐ姉に電話をし、その話をしたが、「ふーん」という程度の反応だったのが、
意外でがっかりしたけれど。

 あれから5年経った今、あたり前だが、母とおしゃべりをすることはない。この記録は日々更新されていく。
このあたり前に、愕然として胸が締めつけられる夜もあるが、悲しくてやりきれない感情は、今はない。
大切な人が逝くというのは、こうした現実を静かに、心の中で受け止め、慣れていくことなのだ。
 そう、心穏やかに母を思い出せるようになった。
以前なら、母を思うだけで胸が痛く目頭が熱くなり、それがスイッチになって、噴き出すように涙が溢れ、
しまいには泣きすぎて頭が痛くなったものだ。
それが今では不思議なくらい穏やかな気持ちで母の姿を思い出すことができる。
音を消した動画を観ているように、心の中に、母の姿は現れる。

 それは、母が亡くなる3ヶ月くらい前のこと。五代路子さんの大ファンだった母に付き添って、
二俣川駅直結の二俣川ライフの中にある旭区民文化センターへお芝居を見に行った。
病気がわかった時点で、すでに末期だった母は、父と相談し、抗がん剤も何も治療をしないと決め、毎日を自然に生きていた。
娘としては、何が最善なのかいろいろと調べたり、母とも話し合ったが、やはり本人が納得することが大事だと思い、
考えに従った。痛み止めの薬だけは飲んでいたものの、お芝居を見ている途中で具合が悪くなったらすぐ外に出られるように、
端の席をとっていた。開幕し、五代さんが出てくると母が嬉々として喜んでいるのが気配でわかった。
良かったと思いつつも私は少し緊張していた。母は外に出ると、具合が悪くても我慢してしまうところがあるので、
気が気ではなかったのだ。じっとしていると本当はお腹が痛いんじゃないかと思い、
暗闇の中、小さな声で「だいじょうぶ?」とささやく。すると母がうなずく。心配しすぎだ、母はお芝居に夢中だったのだ。
五代さんが歌う。すると歌声に合わせるように肩を右に左に、わずかに揺らしている。あぁ喜んでいる。
このことをすぐに父や姉に伝えたくなった。こんなに喜んでもらえるなら、もっとたくさん一緒に見に行ってあげれば良かった。そんなことを考えていると、2時間弱のお芝居はあっという間に終わってしまった。
普通の速度で歩くことはできないので、まわりの席のお客さんたちが出て行ってから、
母と私は立ち上がり、ゆっくりとセンターを後にした。

 「父さんが待っているから、夕ご飯のお惣菜を買って帰ろう」と母の提案で、駅ビルのスーパーに行った。
この日、父は用事があり、一緒にお芝居を見ることができなかったが、夕方には帰宅していた。
あの時、母は何を選んだかな。たぶん、父の好きな和風のお惣菜をいくつか選んだと思う。
母は私に、「お前も夕ご飯のおかず、好きなものを選びな。果物もあるといいよ、りんごでも買う?」そう言ってくれた。
母は一人暮らしの私がちょっとでも楽になればと、いつも気にかけてくれた。
40半ばにもなる大人なのだから、私が買ってあげた方がいいんじゃないかと思うこともあったけれど、
「あの子は一人だし、買ってあげたいんだよね」、と母が私のことを心配していると姉から聞かされていた。
 レジに、父の好きなお惣菜の入ったパックを母がゆっくりと置く。骨と血管がくっきりと浮き出た手の甲。
動揺しながら、私もそこにお惣菜のパックとりんごの入った袋を置く。

 スーパーを出ると、「ねぇ、ちょっと疲れちゃったね」小さな声で母が言う。
途端に私の心臓が跳ね上がる。お腹が痛いんだ、苦しいんだ、横になりたいんだ、ずっと我慢していたんだ。
一刻も早く、家の布団で横にしてあげなくては。情けないことに、焦った私は自分を見失ってしまった。
ここまでタクシーで来たように、帰りもタクシーに乗って帰るつもりでいたけれど、タクシー乗り場はどこ!?
ふだん二俣川駅を利用しないから、どこに何があるのかさっぱりわからない。むろん母もわからない。
無駄に母を歩かせてはいけない、スーパーを出たところで「ここに居て、動かないでここで待ってて!」
叫ぶように言って私は駅ビルの中を走った。

 案内図を見ても、気持ちばかりが焦って、タクシー乗り場がまったくわからない。何度も方向を間違えた。
夕方の時間に近づいてきたからだろう、すれ違う人とぶつかる。相鉄線の改札をたくさんの人が行き交う。
なにをこんなに慌てているんだ、落ち着け。深呼吸をして、もう一度、じっくりと案内図を見る。
タクシー乗り場と書かれた矢印の方向を頭に入れ、人混みをぬって進んでいくと、視線の先に数台のタクシーが見えた。
私はくるっと振り返り、母が待つ場所へ向かって走った。その間も不安で胸が押しつぶされそうだ。
私みたいに走っている人にじゃま扱いされていないか? お腹が痛くて苦しんでいないか?
いま思うと、距離はほんのわずかだったけれど、夢の中を走っているようにもどかしかった。
焦る私の視界に母の姿が入った。誰にもじゃま扱いなどされず、娘が戻ってくるのを穏やかな表情で待っている。
私の姿を見つけた母のほっこりした笑顔。不安と安心がごちゃ混ぜの私はきっと泣き出しそうな顔になっていただろう。
子供の頃、迷子になって泣きながら途方に暮れていたら、母の姿を見つけた時と同じ気持ちだ。

 恥ずかしくて母の顔を見ることはできなかった。涙がこみ上げてきそうなのをぎゅうっとこらえ、
行き交う人を見るふりをして、「タクシー乗り場ね、あっちだったよ」そう言うのが精一杯だった。
そんな私に気づいていたのかわからないが、「二俣川の駅は大きいから、わかんないよね」母は言った。
涙が頬を伝ってきそうだった私は、よそを見続けて、
「二俣川駅が? 大きい? そうかな?」なんて、怒ったような返事をしてしまった。
ちらっと母をぬすみ見ると、
「いっぱい人がいるねぇ。おまえ、仕事が忙しいのに、今日は私に付き合ってくれてありがとうね」そう言ってくれた。
「ぜーんぜん、忙しくないよ」照れくさくて、つっけんどんな返事をしてしまったかもしれない。

 母が逝ってから、時々この日のことを思い出す。
久しぶりの外出にちょっとおめかしした母の姿、舞台に立つ五代路子さんの姿、喜んでいた母、スーパーのざわめき、
買ってもらったりんご、涙でゆがんで見えた二俣川駅。もう母はいないけれど。
 この前、「もう、お母ちゃんを思い出して泣くこともなくなったね」姉が言った。
なんだ、私と同じだったんだ。前述の、ある作家さんのエッセイに感激した私の問いかけに、クールすぎるくらい冷静だった
姉の反応、あれは照れだったんだ。
きっと姉も、母を思い出すのは悲しい時間ではなく、穏やかな時間に移り変わったのかもしれない。

著者

ドライアイ子