「清ら」舞岡園子

 一九八八年、それはソウルオリンピックが開催された年だった。わたしは東京の郊外にある小さな大学に進学した。
「エビナ?サービスエリアのあるところかぁ。下宿してるの?」
同級生からはしばしばこんな反応を示された。高校を卒業したばかりのわたしは今より血の気が多かった。「そっちも郊外から通ってきてるよね?」といいたくなる気持ちをぐっと抑え、悪意なく同じ質問をされるたびに「自宅通学、可能なの」と抑揚なく答えた。
そんななか、都心の自宅から海老名まで遊びに来てくれる人もいた。それがアカネとリサだった。アカネは快活で整った顔立ちをしていたが、服装はいつもデニムだった。リサは小柄で少女のようだったが内面は大人だった。
 大学一年の夏休み、ふたりははじめて海老名にやってきた。待ち合わせは相鉄線海老名駅改札の切符売り場だ。落ち合ったあとは、三人でランチと決めていた。駅前を抜け国分寺七重の塔跡近くまで行き、蕎麦に舌鼓をうった。アカネとリサは、海老名までの「小さな旅」を満喫しているらしく、おしゃべりがとまらない。わたしはふたりを目久尻川まで連れて行った。川でごくたまにカワセミを目にすることがあるからぜひ見せたかった。ふたりは、図鑑では目にしたものの実際のカワセミを見たことがないという。しかし、現れる気配がないと知っても、ふたりはさほど落胆する風でもなかった。
「旅」が楽しければ、それでよかったのだ。
 一九九二年、私たちは大学を卒業した。海老名中央公園の七重の塔もそのころお目見えした。社会人になると一年は足早に過ぎ、三人そろって顔を合わせる頻度は減った。ほどなくしてリサは夫の海外赴任についていった。リサがロンドンからくれるはがきの片隅には美しい切手が貼られていた。わたしはアカネにも便りを出したが、ある時ぷっつりとやめた。当時のアカネはわたしに関心を持っていないように見え、旧友ではあっても親友であることを強要してはいけないと思った。
 二〇〇一年。世界でミレニアム、ミレニアムと騒がれたあとの一年はあっけなく過ぎ去った。イベントが尽きなかったその後、わたしの生活に劇的な変化はなかった。朝起きて海老名駅まで歩き、相鉄線に乗って通勤した。日常生活で生じた事件といえば、平らな道で転んで骨折したことくらいだ。しかし、心の中では神経が昂ることも安らぐこともあり、小さな軋轢、葛藤、期待、歓喜、失望を繰り返していた。そんな荒波とさざなみのの合間に、アカネが再び海老名にやってきた。
 わたしたちは、駅から十分ほどの相模三川公園まで歩いた。晴天の午後、空に浮かぶ雲は文様のように整った形をしていた。アカネは、十年来愛用のアニエスベーのスーツがとうとう外出先で破れてしまった話などを面白おかしくした。広い相模川の向こう岸には丹沢大山の峰々がそびえていた。家族連れでにぎわう公園を離れ、川沿いの遊歩道を行くと、相模国最古の有鹿神社に着いた。普段は閑散としているが、この日はなぜか若い人で賑わい、まるで別の場所のようだ。
 二〇〇八年になった。リサはふたごの母親になった。ちょうどそんな折、アカネが「海老名に行きたい」と連絡してきた。きっとリサの出産祝いについて相談でもしたいのだろうと思った。約束の日、海老名駅の改札口でしばらく待つものの、時間になってもアカネは現れなかった。もしや容姿が劇的に変化して見逃しているのではないだろうか?わたしはバス乗り場まで足を伸ばしてアカネを探した。三十分ほど経過したが、姿はどこにも見当たらない。そこでやっと、連絡もなく約束を反古にされてしまったと知った。なぜか憤りは感じず、いいようのない虚しさに包まれていた。こんな気持ちのときはあたりをそぞろ歩きするに限る。わたしは駅前交差点を曲がり、市役所方面に向かった。周辺はあぜ道ともに整然と四角に区割りされている。これは奈良時代の班田収受によるものらしい。自分が立っているこの土地に農業を生業として暮らしていた天平の人々の息吹を感じた。水田にはシラサギが降り立っているが、どじょうを探しに相模川から来たのだろうか。一羽だけでなく、四羽ほどのグループだ。向こうから黄色い帽子の小学生たちが走ってきた。彼らの活気に気圧されたのか、シラサギは瞬く間に飛び立ってしまった。
 翌日の午後になって、やっとアカネから連絡があった。自宅で倒れ、そのまま入院したという。弱みを見せないアカネは他人に必要以上に心配されるのを嫌う。わたしは病状を根掘り葉掘り聞かないことにし、そのうちお見舞いに行くとだけ答えた。
 数週間たったある日、わたしがいざ見舞おうとすると先約を理由にアカネは断ってきた。毎週やってきて心づくしのプレゼントを欠かさない友人もいたようだ。彼女に比べたらわたしは親友とはいえない。それにアカネには婚約者もいた。ただの友人であるわたしが無神経に押しかけては迷惑だと考えた。重篤ではなさそうだし、再会は退院してからでも遅くないだろう。そう考えてお見舞いのカードと小さなひまわりのフラワーアレンジメントを送った。
 その年の八月のはじめのことだった。いつものように大山の上には形のよい雲が浮かんでいた日の夕方、アカネは心不全で亡くなった。三八歳だった。リサから知らせを聞いても、わたしは驚くほど冷静だった。数日して世田谷のキリスト教会で葬儀が営まれた。「いつくしみ深き」ではじまる賛美歌のフレーズがオルガンで流れた。質素なチャペルではパイプオルガンの重厚さだけが目立っていた。声を出すと同時に、涙が堰を切ったようにあふれ出た。再会を果たせなかったあと、なぜ病院に足を運ばなかったのだろう。病床のアカネは、何度もわたしからの連絡の有無を母に確かめていたという。友人になって二〇年、アカネのことをどこか冷淡だと思ったことがあったが、本当に薄情なのは自分なのだった。わたしはアカネと時々話をしたかったがアカネは同じ認識でなかったのは確かで、そのとき、アカネはわたしと親友であることをやめたように見えた。わたしは、距離を置くことと、親友でなくなることが異なるという事実を認識できなかった。隣で参列していたリサは、そっとなだめるようにわたしの左腕をつかんだ。
 二〇一六年八月。海老名中央公園の赤い七重の塔は、駅周辺に林立する新しい建物を前にどこか所在なさげだ。奈良時代の相模国分寺にあったオリジナルを再現した古参者なのに。
 ある朝、わたしは犬の啼く声で目が覚めた。空は少し赤らんではいるけどまだ暗い。早すぎる目覚めは、こころの荒波が立つ前兆だ。こんな朝は外の空気を吸うに限る。わたしはコーヒーも飲まずスニーカーをはいた。こんな朝早くいったい何を?幸い、同じマンションの住民とは顔をあわせずに済んだ。中新田の稲穂は次々と開花していた。地域の住民たちが意気揚々と田植え体験をしていたのは先日のことだったのに、季節が移ろうのは早い。あぜ道沿いには蓮の花が群生しているのに、今までまったく気がつかなかった。蓮の花の大きく開いた薄桃色の姿は無垢でありながら謎めいている。静寂のなか、わたしは亡き友を偲んだ。不意にひんやりとした北風が頬をさした。明らかに秋の到来を知らせる冷たさだ。
 そうだ、今から目久尻川にいってみよう。わたしは踵を返した。

著者

舞岡園子