「渓流の妖精」和美

 この渓谷に着いて、五分もしないうちに、蜩がざわめき始めた。
午後二時半、曇りがちとは言え、空は未だ明るいのである。
 処が、この渓谷は立ち木に包まれ、川縁の木は寝そべっていて、葉先を水の流れに委ねている。
上を見ると、聳え立つ木々の間に空の一部があり、然し、太陽が何処にあるのかは確認出来ない。依って、二時間程、時が進んでいるようである。
 それにしても、私が渓谷に入った途端、蜩が鳴き始めるとは。もっとも、私がここに着く前に既に鳴いていて、一旦鳴き止んだだけかも知れないが。いずれにせよ、この世のものとは思えない程の美しい声が、立ち木に包まれた空間に響き渡る。
 膝下を渓流の水に浸し、岩場にシートを敷いて座る。ビールを飲んで酔いがまわると、渓流の音、蝉時雨、そして蜩の声の三重奏が、開放的な気持ちにさせてくれた。何をしても許されるような…。
 何しろ、蝉時雨にせよ、蜩にせよ、順番に規律正しく鳴いて、会話をするのである。そして、頃合いを見て、会話を乱すのではなく、一緒に歌い始める。私は、交響曲とアルコールに酔う客である。然も、立ち木が内側に垂れて出来た、四角錐台形のコンサートホールが-時折家族連れが水遊びをして通り過ぎるとは言え-私の為にだけ用意されている。更に、この酷暑に、冷たい川に膝下を浸せるとなると、この瞬間は何でも許され、コンサートホールで夏の主役を演じてみたくなった。
「いいよね、もう、随分前のことだもの。」
「時効だよ」
自分を甘やかし乍ら、スマートフォンで、彼の名前を入力し検索していた。
不安と期待を織り交ぜ乍ら、否、愚かにも期待の比率が遙かに高かったのは拒めない…
見入ると、二〇年間、年月を経た彼の写真がそこにある。
 こうやって情報が簡単に得られることは、便利だけれども、これだけは止めておこうとずっと思っていた。なのに、あの交響曲を聞いていたら…川縁の木の寝そべっている枝の葉先が、水の流れに弄ばれているのを見ていたら…自分への制御が緩んでしまった。
「近況を知りたいだけ、連絡する訳でないもの。」
 自分に言い聞かせながら、指を押し進めていく内に、交響曲がクライマックスへと向かっていた。
 夏の風が止まった。静寂の中、蝉がソロで歌い始めた。
 
 見なければよかった。後の祭りである。
 左の木の端から、風に靡き始めた。その先端が川に浸されている枝は、流れる水の養分を存分に吸い込むかのようだ。養分を吸い込み、重くなった枝も、ゆっくり、ゆっくりと風に靡き始めた。
 全て交響曲のせいにしてしまいたかった。
 
 この二〇年間、好きな人が出来なかった訳ではない。あんなに愛することがもう出来なかっただけ、と言えば、美しいだろうか?
 そう、いつも心の片隅で思っていた。もし、あなたがやり直そうと言ってくれたなら、私は何も躊躇することなく、頷いた。
 別れる時、彼が言った,[おれは一生彼女も作らないし、結婚もしない。]
 全く女好きでない人だとしても、若さ故の一時的発言で、別れを切り出した彼の優しさだけなのに、そんな言葉を信じていたかった。
 然し、目の前の二〇年を経た彼は、結婚もし、生まれたばかりの子供もいる。
 この事実をどう受け止めればいいのか?
 受け止められない自分をどうしたらいいのか?
 私は、彼が戻って来てくれるのを待ち続けて、澱を澱ませ、年を重ねただけなのか?
好きだからか?思い出が美しいからか?自問しても答えはなく、止め処もなく、涙が流れ、顔も頭もグシャグシャになった
 私がこの場所に着いてから五分も経たない内に蜩が鳴き始めたなんて、きっと彼らは、私の行動も、悲しみも全て知っていたのだ。そして、この世のものとは思えないその美しい声で慰めてくれたのだ。
 涙は川へ滴り落ち、幾つも幾つも流れ落ち、川縁の木が寝そべって、先端を水の流れに委ねている下流へと向かった。
 私の悲しみで、川の流れが止まる事がないのは、この寝そべった木達が、悲しみの魂を叩いて,叩かれた魂達が川の妖精となるからだ。その妖精達を見つめながら、いつか涙が出し尽くされていると気付くと、私を慰めてくれる蜩達の声が弱々しくなっていた。その仄かさが宵闇に溶けてしまう迄そこにいた。
 
 
 私が上星川の陣が下渓谷を知ったのは、一昨年、横浜市の月刊誌上だった。
「駅から歩いていける渓谷があるなんて」「一人でぼうっとしたいなあ。」
それから毎年夏になると訪れている。
駅を降りると、床屋さん、果物屋さん、花屋さん…もう何代もここに住んでいる、そんな気取らない、齷齪しない店主の人柄が窺える店が並ぶ商店街で、挨拶代わりに冷たいビールを買った。
商店街を抜けると、太陽が地球の真上にあるような昼過ぎ、左側の歩道を歩けば日陰に逃げられるが、右手に迫るアスファルトの跳ね返りにクラクラし乍ら、病院、食堂、公園、工場、クリーニング店が立ち並ぶ、静かな住宅街を歩いた。
 左折する場所がわからず、通りがかりの女性に尋ねた。彼女は駅に向かう処だと思われたが、嫌な顔ひとつせず、丁寧に教えてくれた。
彼女から教えてもらった通りに歩くと、環状2号線高架下で、すっぽり日陰に覆われた公園に出た。
ミストシャワーや噴水が設えてあり、水遊びに来ている親子が避暑を楽しんでいる。
この公園沿いの川は幅が広く、然も勢いがあり、その逞しい川音に、いよいよ渓谷に辿り着く前兆を感じた。
 陣カ下渓谷と書かれた白い札が置かれた所を入ると、鬱蒼と茂る木々から僅かな光が洩れる緩やかな坂道、遙か下方に流水音、それに足元を濡らす露草が、夏の暑さを忘れさせた。
 そうして渓流入口の階段を滑らないように降りると、四角錐台形のコンサートホールが迎えてくれる。
 蝉と蜩と渓流の三重奏を聴き、膝下を水へ浸し、いつもと同じことをしているだけなのに今年は何故あんな事をしてしまったのだろう。
もう、結婚出来ないと諦めたから?
そんなに結婚願望がある訳ではないが徐徐にその可能性が低くなって、今年はもう絶対無理だと自分なりの結論を導いた。
「一生ひとりかあ…。」
寂しいけど自由でもある。一生ひとりが嫌とか、気が滅入るという訳ではないが、一人のまま生涯を終える、と決心した事に依り、胸が疼き出したのだ。
それは後悔であり、自虐の残り滓。
 
 未だ、23歳の彼が、照れ乍ら、「お前と一緒に行きたい。」と言ってくれた。
鈍感な私は、それがプロポーズだったと、何年も経ってから気付いた。そう、彼と別れてから。何で男の人は、もっとわかり易く言ってくれないものかと思ったものだ。
 そして、別れて数年後、住んでいた町の駅の近くで彼を見かけた。
声をかければ良かったのに…「元気?」って。それなのに何故か声をかけられなかった。彼は一人だったし、急いでいるようでもなかったのに…プライド?今更声をかける理由もない?好きとか嫌いとかの感情もなかったのに。でもそれならば、気軽に声をかけられた筈。
却って自分を疑ったりもした。
その後、年月が経つ程に、この二つの事が、心の襞に入り込む事になる。
二〇年前、彼も私もキラキラ輝いていて、今の私には、とても眩しく羨ましいのである。そんな眩しさに憧れ、残り滓を拭いたくて、心の襞へ流れる過去を修正したくて、彼の名前を入力してしまった。

止め処もなく涙が滴り落ちた。
見なければよかった。

でも、この渓谷に来る限り、いつの日か見てしまうのだろう。それがただ、今年見てしまっただけの事。
蜩の声に抱かれ乍ら、私は何が悲しくて泣いているのかがわかった。
彼に愛されて、私は本当に幸せだった。そんなに幸せにしてくれた彼に、生涯逢うこともない失望と、もし逢えたとしても、あの頃にはもう戻れない事が「確定」した事に依る絶望。
いつか、戻れるのではと、心の片隅で思い描いていた儚い夢は、朽ち、萎え、脆く千切れた。
 この交響曲は私を慰める為にあるけれども、事実を知らせる策謀者でもある。そして、これからの私を変えて行けるよう唆していたのだ。そう、澱を澱ませたまま、二〇年を過ごしてしまった私を。
 
 美しくキラキラ輝いた日々を生涯忘れる事もないし、忘れなくても誰にも咎められないだろう。
この川の流れが、私の涙も悲しみも、そして残り滓をも全て、受け止めてくれるのだ。
そして、川縁の寝そべったような木達の葉先が水面に垂れ、きっとこの涙を、悲しみの魂を叩いてくれる。叩かれて妖精になった魂達を見つめ乍ら、蜩の声に抱かれ乍ら、涙が枯れる迄、泣けばよい。

 とうとう、最後の蜩の声が途絶えた。夏とは言え、浸し続け冷たくなった足をタオルで拭き始める。
 来年も私は此処に来るだろう。
そして、交響曲に、浸した水の冷たさに身を委ね、何を思うのだろうか?

 宵闇迫る中、とうにミストシャワーは止められ、川の流れがひと際強く響く公園を通る。
川に月が映っている。月は水の流れに逆らえず、伸びたり縮んだりの繰り返しの、その断片ですら、私の足元を煌々と照らすに足るだけの力を持っている事を誇示しているようだ。
川の畔を、仕舞いにはぐじゃぐじゃになった月と歩き乍ら、それでも、その強い光を私の胸の中へ受け止め、いつか月が丸い縁を静かに震わせ乍ら、川に浮かぶ事を私は知っていた。
夏の栞を破る事無く、少しだけ、これからの自分の事を考え始め、夜の商店街を抜け、駅へと向かった。

著者

和美