「湘南台の海」竹内真理

 土曜日の朝だというのに、私にまとわりつくもの全てが重かった。じっとりと湿った二の腕、チカチカと無意味に光る看板、浮かれた女の子たちの笑い声。世界なんて大嫌いだと思うのは、一体今日で何度目だろう。うるさい街並みも、人も、この私も何もかも破壊できたらいいのに。
 ドンキホーテの前で動こうとしない大学生の群れを突っ切って、周囲の人を蹴散らすように早足で歩く。飲み会帰りの大学生たちの持つ蛍光色の袋からは、季節外れのクリスマスツリーのような金色のモールがはみ出ていた。彼らの眩しさに耐えきれず、私は黒いパンプスの先っぽに視線を落とした。通勤用の4cmのローヒールのパンプスは、靴の先が擦り切れ始めている。早く家に帰りたかった。
 やっぱり昨日の夜は、少し飲みすぎてしまったのかもしれない。二日酔いで、ぐらりと揺れる世界を無視して、私は改札を目指した。
 「あやちゃんは安定感があるよね。何でもそつなくこなすっていうか、要領がいいっていうか。どんなところにも、まるく収まるかんじがする。」
 昨日言われた言葉を思い出す。どんなところにも、まるく収まるかんじ。それは、ちっとも私のなりたい私ではなかった。一番言われたくないことを言われてしまったから、つい飲みすぎてしまったのかもしれない。私はそんな無個性な人間じゃないはずだ。
 改札にIDカードをかざす。ピッという音のする方を見ると、酔っ払ってコンビニでチャージをしたのか、家まで帰るには十分すぎる金額が表示されていた。ふと思いつく。このまま、どこか遠くまで行ってしまおう。ずっと遠いどこかまで。

 行き先に浮かんだのは湘南の海だった。朝日で光る海が濁った心を洗い流してくれそうな気がしたからだ。海といえばやはり湘南、という単純な思いつきだった。アルコールでまだ重たい指を動かして、スマートフォンの乗り換えアプリに湘南、と打ち込む。何の理由もなくどこかへ行くなんて、久しぶりのことだった。
 電車の窓ガラスに映る少し疲れた自分を見て、最近何か上手くいってないと思う。何が上手くいってないのかはよく分からない。とにかく「何か」が上手くいってない。仕事はそう忙しくはない。3年間付き合ってる彼氏もいる。休みの日には、一人でふらりと映画を観に行ったり、友達とお酒を飲んだりする。でも、ふとした時に大切なものが自分の生活に欠けているような気がする。穏やかで暖かい幸せの延長が、これから先もずっと続いていくのかと思うと、何だか少し怖かった。

「何であんたはそんなに東京にこだわるんよ。」
「こんな田舎から一番離れたところに行きたいけえ。うちは東京に行きたいの。」
「東京は、遊びにいくにはええところだで。だけど住むとこじゃないよ。ずっと暮らして行くにはね、こんくらい田舎がちょうどええんよ。あんたはまだそれを分かってないだけ。」
 まだ実家にいたころ、こんな会話を母と何度したことだろう。結局私は家族の反対を押し切って、東京にやってきた。東京の大学に入り、カフェでバイトをして、せっせとお金を貯めて長期休暇には海外旅行に行った。雑誌で紹介されているお店に行ってみたり、サークルの友達とディズニーランドに行ったりもした。東京はいいところだ。人がたくさんいすぎて、誰も私のことなんて見ていない。その無関心さが、逆に心地よかった。
 そして気がつけば、私は大学を卒業して、東京で働いてる。県外の大学に進学した地元の友人たちが、何の迷いもなく地元に戻って就職をしたように、私も東京で就職することを選択した。
 窓の外には、いつもの通勤ルートと変わり映えしない高層ビルやマンションが並んでいる。いつの間にかこんなに高い建物が、私の日常になっていた。ビルの中には働いている人がいて、マンションの一室一室には家族が住んでいる。そんなことを思えば、見慣れた電車の外の景色が急に生き生きとして見えるような気がする。

 30分ほど電車に揺られているうちに、横浜に到着した。横浜から目的地までは、さらにそこから電車で30分だ。私は相鉄線の改札へと向かう。相鉄線に乗るのは初めてだった。改札がずらりと並んでいるにも関わらず、早朝のためか出入りをする人はほとんどいない。
 階段を登り、ホームへと向かう。大きく息を吸うと、ひんやりとした朝の空気が肺まで届いて、靄のかかっていいた心が真っ直ぐに整うような気がする。
「すいません、こちらの電車は湘南台まで行きますか。」
 声のするほうを振り返ると、淡いピンクのベレー帽をかぶったおばあさんがいた。
「はい、行きますよ。私もちょうどこの電車に乗って、湘南台まで行くところなんです。」
「あらよかった。ごめんさいね。目が悪くて、電車の行き先がよく見えないのよ。」
 おばあさんは、よいしょと呟いて私の横に座った。まだ電車に乗っている人も少なく、オレンジ色の座席が目立つ。
「あなた、姿勢がすっと伸びていて、いいわねえ。思わず声をかけちゃった。」
「いえいえ、恐縮です。お役に立てて嬉しいです。」
 ビジネス会話の問答集に乗っているような言葉でお礼を言っているうちに、電車が動きだす。

 あれはたしか、去年のお正月だった。母がイオンの初売りで買い物をしている間、私はトイレの近くのベンチでスマートフォンの画面を見つめて、暇をつぶしていた。
「あやちゃんだでなあ、久しぶり!」
 顔を上げると、そこにいたのは中学校の同級生だった。名前は思い出せない。たしか文化祭の演劇で、一緒に衣装係をやったんだっけ。
「あやちゃんじゃなかったらどうしようと思って、話しかけるのにすごい勇気がいったわあ。思わずじーって見ちゃった。顔は全然変わらんけど、なんか綺麗なお姉さんで、東京の人ってかんじになったなあ。」
 私はそんなに変わっただろうか。彼女とは中学校を卒業してから会っていないので、私が東京で働いていることは、きっと誰かに聞いたのだろう。誰々がどこの大学に行ったとか、どこに勤めているとか、そういう噂話はこんな小さい街ではあっという間に広まる。
「私はやっぱり地元が落ち着くけど、東京で働いとるなんて、すごいねえ。憧れるなあ。また同窓会でこっちに戻ることがあったら、その時はゆっくり話そうね。」
 その子が笑う。彼女は、両手に提げたビニール袋を持ち直し、軽く手を振って、フードコートの方向へと消えて行った。
 世の中には二種類の人間がいると思う。今を生きることに満足できる人間と、いつも何かに憧れている人間。私は自分がどちら側の人間か、痛いほど分かっている。自分の中の満たされない部分を「東京」で塗りつぶそうとしているだけだということも。 東京に来たからといって私の何かが劇的に変わるわけではなかった。そんなことはもうとっくに気づいている。気づいているのだけれど。

 電車が進むにつれ、緑が増え、家もマンションから一軒家が増えていく。時々畑が出現するのには驚いた。
「随分早い時間だけれど、お嬢さんは湘南台にお住まいなの?」
 ピンクのベレー帽のおばあさんが、好奇心に満ちた目でじっと私を見つめている。
「いえ、初めて行く場所です。住まいは東京なんですけど、一度行ってみたかったんです。」
「へえ、湘南台にねえ。こんな朝早くから、不思議なかたねえ。」
「神奈川にも、こんなにのどかな場所があるんですね。びっくりしました。」
「横浜と違って、こっちの方は自然も豊かですからね。それでも、ここ20年くらいで随分駅の周りの開発が進んで、お店やマンションも増えたのよ。」
 おばさんはずっと昔から湘南台に住んでいるそうだ。湘南台は昔は各駅停車の小さな駅だったけれど、ここ20年ほどで様々な路線の鉄道が通るようになり、大学やマンションも増えたということだった。しかし、バスや車で5分も移動すれば、畑や公園も多いらしい。
「駅に着いたら、ちょっと期待外れかもしれないわね。遠くから来てくださったのに、こんなことを言うのは申し訳ないけれど、そんなに大層な場所でもないのよ。」
 おばさんは、口に手を当てて、ほほほと笑う。大層な場所ではないと言いながらも、その顔は少し嬉しそうだった。

 湘南台駅のホームには、パステルピンクの柱がそびえ立っていた。暗い地下鉄のトンネルと可愛らしいピンクの柱が妙にちぐはぐだ。柱の先には長い階段があり、その階段を登ると改札の外に出ることができるようだった。
 時計を見ると、まだ7時前。平日ならようやく起き始める時間だ。改札の外には、がらんとした駅地下が広がっていた。ベンチでは、酔いつぶれた大学生が寝転がってる。少し寂れた駅の様子からは、湘南の海の爽やかさは感じられなかった。少しでも早く地上に上がって、海が見たい。朝日を浴びて、きらきら光る水面。日の光を身体いっぱい浴びて、波の音に耳を澄まして、何もかもリセットしよう。私は早足でエスカレーターを駆け上る。
 私の目の前に広がっているのは、どこまでも続く一面の海、のはずだった。ところが、私の目に映ったのは、けばけばしい赤と黄色の看板だった。それはどこにでもあるチェーンのカラオケ店で、期待していた景色とはまるで違う。私を苛立たせる無意味にチカチカと光る看板。これでは今朝の始まりと一緒だ。湘南台に来る前と何も変わらない。
 カラオケ店の横には小さな薬局があり、オレンジ色の象のオブジェが、私をあざ笑うかのような顔で鎮座していた。やっぱり、私はこの場所に期待しすぎてしまったのかもしれない。近くの海岸まで歩こうと、ポケットからスマートフォンを取り出すと、後ろから聞き覚えのある声がした。
「ねえ、そんなに期待するほどの場所でもなかったでしょう。」
 電車で隣に座っていた、ピンクのベレー帽のおばあさんだった。オレンジ色の象の前で立ち尽くしている私を奇妙に思って、声をかけてくれたのだろうか。心を見透かされたようで、おばあさんの優しさにさえ、いらいらとしてしまう自分がいた。
「思ったよりも普通の街でした。もちろん、いい意味で。」
 そう、思ったより「普通の街」だった。嘘なんて言っていない。
「あなたの楽しみにしていたものはあった?」
 ぎくりとする。
「そうですね。湘南の海を見に来たんですけど、まだ見当たらなくて。ちょうど、地図で調べようと思っていたところだったんです。」
 ほら、という風に右手に持っていたスマートフォンをおばあさんに見せる。画面のロックを解除し、検索ボタンをクリックした。
「あら、あなた。」
 スマートフォンのマップの上で矢印がぐるぐると回り、湘南台駅が表示された。駅の周りの住宅街。小さな公園が二つ。それを囲うように、左右対称に延びる川が二本。あれ、川?
「湘南台には海はないのよ。湘南の海が見たいなら、江ノ島まで行かなきゃ。」
 どうやら私は、大きな勘違いをしていたらしい。

 駅名に湘南と付いているのだから、湘南の海に一番近い駅だと思っていた。電車の乗り換えアプリで湘南と打ち込んだら、湘南台駅が一番上に出てきたのだ。私は少し酔っ払っていたし、名前に湘南がついてるなら、海が見えると思い込んでいた。
 意外なことに、こみ上げて来たのは笑いだった。わざわざ湘南を名前に入れておきながら、ちっとも海が見えないなんて、紛らわしいにも程がある。そもそも、なんでここに来れば海が見えると思い込んでいたんだろう。
「お嬢さん、大丈夫?海を見に来たのなら、がっかりさせてしまったわね。ちゃんと電車でお話しを聞いておけばよかったわ。」
「いえ、大丈夫です。せっかくここに来たんですから、少しこの辺りを歩いてみます。こんなことがなければ、きっと湘南台に来ることもなかったでしょうし。」
 私はおばあさんに軽く会釈をして、歩きだす。ファストフード店に、小さなたい焼き屋さん、レンタルビデオ屋。犬を散歩させているおばさんに、手押し車を押すおばあさん、ランニングをするおじさん。初めて来る場所なのに、どこか懐かしい景色で、不思議とほっとしている自分がいた。きっと私はこれまで、自分でも気づかないうちに、随分いろんなことを思い込んでいたんだろう。 思い込むたびに、期待だけが増えていったのかもしれない。
 何か変えたくて、この場所に来た。でも、変わらなくていいことだってたくさんあるはずだ。立ち止まって、目を瞑る。やっぱり波の音なんて聞こえてこなかった。そりゃそうだ、ここは湘南台なのだから。私は笑って、また歩き始めた。

著者

竹内真理