「湯気の向こうに」日美杏梨

「ごめん。 あたし、彼できちゃった?」
「えっ えーーーっ?」
 あたしは思わず風呂の中で溺れそうになった。
 今日は友達のユミと会社帰りに待ち合わせをして、スーパー銭湯に来ているところだった。
 冷たい木枯らしの吹く12月だけど、あたしはこの季節がわりと好き。 真冬になりきらない中途半端なところがいいのかな。
それに、昼間は都会のど真ん中にいて雑然として見える街並みだって、汚れているだろう空気だって、夜になるとヒンヤリとした風がすべてキレイにしてくれる。 街並みもネオンで輝いて見えるし、数少ない星だって願いが叶うように見えてくる。 そんな夜も好き。 明日も頑張るかって元気が出てくるんだよなぁ・・・
 露天風呂につかり、仕事のストレスや社会のしがらみもろもろ、全部湯に流してる真っ最中。 まさに至福の時の重大発表だった。
 不覚にも溺れそうになりながら、湯が口に入りむせかえる私。 見れば大笑いのユミ。
「ちょっとナオ大丈夫? そんなに驚かないでよ。」
「だって、何にも聞いてないじゃん。」
 ユミは高校時代のクラスメートだったけど、あの頃はあんまり話したことがなかった。 卒業してから久しぶりにあったクラス会で、会社の最寄り駅が近いことや、互いに一人暮らし中と話が合い、それに加えて一番の共通点は、彼と呼べる人がいないことだった。 すっかり意気投合して、今ではいろんなことが話せる親友と呼べる間柄になっていた。
「ごめん、ごめん。 話すタイミングがなくて。」
「まったく、風呂で溺れるなんて笑えないよ。」
 ユミの話によると、彼というのは職場の先輩で、会社で行われたボーリング大会のくじ引きでペアになったのがきっかけらしい。
 なんだ意外とフツーに出会ったんだ…
 そんなことを考えながら、話しているユミの顔を見ていると、湯気のせいで赤くなった頬、アップにしている髪の毛から垂れた後れ毛。 あれ? こんなにユミってキレイだったっけ…
「ナオったら、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。 よかったね。」
「うん。 アリガトね。」
「じゃあ、この週末はデートするの?」
「そう。 あたし、彼が出来たら海にドライブ行きたかったんだよね。」
「冬に海? 寒いよ。 二人で鼻水出してるんじゃないの。」
「やーね。 ねえ、ナオは何してるの? 週末。」
「私? わたしは家に帰ろうかな…」
 家に帰るなんて、考えてなかった。
 ただ、なんとなく、露天風呂から空を見上げてたらまんまるの月が目の前にあって、だんだん月が笑っている母の顔になっていた。 目を落とすと、かけ流しで風呂のふちから流れ出していくお湯。それを見ていたら、熱燗を徳利からお猪口についだ時にこぼれるのを見て笑顔になっている父の顔を思い出していた。
 ずいぶん帰っていないな家。
 翌日、私は家に帰るために相鉄線に乗った。
 心地よい車内の揺れにウトウトと眠りかけていた時、突然お尻の下がザっと滑ることに驚き慌てて飛び起きた。 隣を見たら、おじさんがドサッと勢いよく座ったために、一枚布の座席の座面が動いたのだった。
 まだこの電車走っていたんだ。
 前はあんなに普通だったことなのに、すっかり忘れていたことに気づいた。 車内を見回すと、普段なら見慣れている電光掲示板もテレビも無い。おまけにアナウンスだって車掌さんの声。録音されたテープを流すんじゃないんだ。
 駅に着いて家まで歩いていたら、昔からある商店街。 パン屋さん、久しぶりに寄って行こうかな。
「あら、ナオちゃん。ご無沙汰ね。 美人さんになって。」
「どうも。 こんにちは。」
 パン屋のおばちゃんは小さい頃から知っている。 商店街の人たちも名前は知らなくても、「おはよう」「こんにちは」「お帰り」と、声をかけてくれる。
 そんな当たり前だったはずの日常がここにある。 身体中が懐かしさで満たされてくるのがわかる。
「ただいま。」
「あら、ナオ。 どうしたの? お帰り。」
「うん。 たまには、ね。」
 連絡もしないで帰ってきたから、少し慌てている母さん。 布団干さなきゃ、と言いながらスリッパの音をバタバタいわせている。
「おっ。」
と父さん。 相変わらず将棋盤とにらめっこしてる。
 家族で囲む久しぶりの食卓。
 お鍋の蓋を開けると、立ち昇る湯気の向こうに見える母の笑顔は、昨日の月と同じにまんまる。 お猪口についだお酒をこぼさないように飲む父の笑顔も全然変わらない。
 夕飯を食べて、ふっくらと干された布団に入る。 天井を見つめていると、一人じゃないことに気づく。
 布団から顔だけ出していると、なんだか自分がカンガルーの子供になったみたい。
 カンガルーの子供って、お母さんの袋から顔を出して辺りをキョロキョロと見廻し、慣れない世界を見るたびに不安になり、またお母さんの袋の中に潜り込む。しばらくしたら、また顔を出す。そんな繰り返しをしながら、いつしか大きくなって外の世界に飛び出すんだろうな。 まるで今の私もそんな気分。 私も外の世界から戻りたくなったら、また袋の中に帰ってきたくなったら、相鉄線に乗って、商店街を通って、「ただいま。」って帰ってくるからね。
帰りの電車を待っているときに、ユミから連絡がきた。
「海、寒かった。 やっぱり鼻水でた。」
 思わず笑っちゃったけど、
「ほらね。 でも二人でいたらあったかいでしょ。」
と返している自分がいた。

著者

日美杏梨