「瀬谷に暮らして」櫻田 純

相鉄線との出会い
「今度、お父さんが郊外に一戸建ての家を買ったので転校します」
私は幼少のころから東京都品川区に住んでいた。父の会社の社宅がそこにあるためだ。木造二階建てのアパート然とした社宅は間取りが二Kくらいで十数世帯が住んでいた。子供がいる社員が優先に入居できたそうなので、いつも子供たちの歓声が絶えなかった。小学校二年生くらいになると社宅の住人や級友が次々と郊外へ引っ越した。昭和四十年を迎え郊外の野山を切り開いた宅地開発やそれに伴う鉄道の延伸が首都圏のいたるところで行われていた。父も日曜日のたびに郊外の分譲住宅を探しに出かけるようになった。はじめは父一人で出かけたが気に入った物件があると翌週私を連れて行った。
ある日曜日、横浜から相鉄線という私鉄で二十分くらい乗ったところにある分譲地を見に行くことになった。はじめに横浜駅の構内にある相鉄不動産に立ち寄り物件の説明を受けた後、相鉄線の乗り場へと向かった。東急東横線の高架に寄り添うようにその私鉄の乗り場はあった。改札口の上には出発案内の大きな電光掲示板があった。星川・二俣川・大和・相模大塚・海老名・本厚木の行き先と各停・急行の種別があり、必要な個所が点灯するようになっていた。電車はいつも見慣れた東急の銀色のステンレスカーと全く異なり、裾が青緑、胴は赤と白の線、窓周りは灰色、窓上から屋根にかけては裾と同じ青緑の複雑な配色で四両編成だった。たまに、山吹色の電車もあったが、これは東急池上線などと同じく旧型と称される電車であった。急行は「急」の字が書かれている丸い琺瑯看板が電車の正面に掲げられていた。目的地は瀬谷というところで急行に乗ることになった。
横浜を発車するとしばらくは東海道本線と並走するがスピードが遅いのでどんどん追い抜かれた。やがて右手に大きなガスタンクが迫って来て思わずのけ反ってしまった。こんなに間近でガスタンクを見るのは初めてだったので爆発したら大変だと思った。東海道本線と別れるあたりにはセメント工場と変電施設があり、国鉄に乗り入れるための引き込み線が分岐した。天王町の真新しい高架駅を過ぎると左側にガラス工場を見ながら電車の工場がある星川を通過した。駅の構内には木造の車両工場の建物があった。星川からは川に沿ってぐんぐん山を登ってゆくという感じだった。すぐに和田町という小さな駅を過ぎ、次の上星川は下り側に退避ホームがあったので貨物列車か何かが止まったのであろうか。後で小学校の社会科の授業で知ったが帷子川沿いに捺染工場があったらしい。東海道新幹線の高架線の下には西谷があり、この駅は下りと上りの両方に待避線があった。急行より早い列車があるかもしれないという期待感が沸き上がった。眼下には川が峡谷のように畝っていた。電車はモーターを唸らせながら鈍重に勾配を稼いだ。窓の外は横浜とは思えないほど山がちだった。勾配のピークにある駅が鶴ヶ峰だ。バラ園がある牛乳工場の前を通ると急行の最初の停車駅二俣川だ。東急田園都市線の二子玉川と何となく似た名前で親近感を覚えた。駅構内には上りと下りの間にもう一本線路があって二俣川で折り返す電車が使用していた。
二俣川から先は急行も各駅で止まる。希望が丘という洒落た名前の駅と三ツ境の公団住宅群を過ぎると突然田園が開けたがやがて勾配を登り詰めたところが瀬谷だった。下り側に貨物用のホームがあり貨車がぽつんと止まっていた。上り側は待避線があったがその向こうは広い資材置き場になっていて枕木やレールが積み上げられていた。上りと下りのホームは小さな踏切で結ばれていて電車が来るたびに竹竿の遮断機が下りていた。駅舎は木造だった。父の実家がある秋田県の阿仁合線合川駅と大して変わらなかったのに驚いた。駅前はたいして広くなかったがバスの発着所になっていたので窮屈な感じだった。バス乗り場を挟んでパン菓子店と交番と駅前食堂があった。級友たちの多くが引っ越していった鷺沼やたまプラーザなどのニュータウンとは大違いで時計の針を逆回ししたような印象だった。

分譲住宅へ
父は前週に訪れているので勝手知ったように線路に並行した商店街を歩いた。果物屋や時計屋、八百屋、牛乳屋、床屋など一通りの店が並んでいたが百メートルも行くと商店街の街灯が途切れ眼前に畑が広がった。畑の角には必ずと言ってよいほど桑が植えられていた。また、道が交差するところには馬頭観音も立っていた。さらに道すがら大きな肥溜めがあった。父の実家の秋田でももう肥溜めはなかっただけに生まれて初めて見る肥溜めに驚いた。雑木林はきつい下り坂になっており、お地蔵さんがある赤い祠があった。その道をどんどん下るとやがて銭湯のように大きくて立派な農家が立ち並ぶ集落に出た。さらに歩くとふたたびパッと視界が開け、真新しい家が整然と並ぶ相鉄の分譲住宅に着いた。ほとんどが広い庭のある平屋だった。小さい木製の門扉があり竹を組んだ塀に背の低い針葉樹の苗が植えられていた。だが、入居者はまだあまりいないようで土地の面積と間取りと分譲価格が書かれた白い木の札が立っていた。分譲地の中央に児童公園がありプレハブの現地案内所が立てられていた。父が戸を開けると中から紺色のスーツを住宅の営業マンが満面の笑みを湛えて迎えた。営業マンは横浜駅の店から連絡を受けていたようで手際よく我々を物件に案内した。父が目星をつけていたのは児童公園の現地案内所から駅と反対側の厚木街道方向に五分ほど歩いたところにある角地の家だった。すでにこのあたりの家は既に住んでいるか売約済みのところが多かったようだ。その証拠に値段を書いた木札がなかった。ここまで駅から徒歩二十分余り。なぜ、この分譲住宅の中であえて駅から遠いところから売れているのかというと、近くの厚木街道沿いに商店街が出来ること、隣の大和駅までバスが計画されていることだった。住宅のパンフレットには近くに清流があると書いてあったので父が営業マンと話をしている間に一人で川を見に行ったが、残念ながらひどいどぶ川であった。間取りは八畳の和室と六畳の和室が二間、台所は六畳あった。土地は約八十坪なので庭が広かった。
翌週さらに父は母と妹を伴って見に行った。母は駅から遠いことに難色を示したが、父は広い庭のある一戸建てに大いに魅力を感じたようで、二か月後には我が家もこの郊外の一戸建てに住むことになった。

瀬谷小学校と放課後の楽しみ
私は瀬谷駅からさらに遠い瀬谷小学校に片道二十五分歩いて通うことになった。都内の小学校はこのころすでに多くが鉄筋コンクリート建てだったが、瀬谷小学校は木造で一部が平屋、教室は白熱灯なので雨の日は薄暗い中で授業が行われた。トイレは汲み取り式でこれまた白熱灯で薄暗く幽霊が出そうで怖かった。机と椅子は角材を組んだものであちこちが痛んでいた。校庭は舗装されておらず砂が撒かれていたので晴れて風の強い日には教室の中まで砂が舞い込んだ。友達はすぐにできた。周囲に分譲住宅が出来たことで転入する生徒が多くクラスの半分近くが転校生だった。そんな転校生たちを地元の子供たちは温かく受け入れた。
学校から家に帰るとすぐに網とバケツを持ってクラスの友達と水中生物を捕獲しに出かけた。まだ周囲に田圃が残っていたため用水路にメダカやドジョウ、アメリカザリガニ、オタマジャクシ、水生昆虫などがいた。また、雑木林に分け入るとカブトムシやクワガタムシなどが採れたが、大きなジョロウグモの巣や二メートル近くあるアオダイショウなどに遭遇して悲鳴を上げることも少なくなかった。果樹園もありたまに栗や柿を失敬した。野鼠がたくさんいる果樹園で友達が捕まえそこなって噛まれてペストになるのではないかと皆で心配した。
瀬谷には在日米軍瀬谷通信隊という厚木基地などを利用する軍用機のための施設があり原則的に立ち入り禁止だった。瀬谷中学校の脇からまっすぐに南北に伸びる道路はいつしか海軍道路と呼ばれるようになったが、ながらく未舗装道路で雨が降るといくつもの大きな水たまりが出来る悪路だった。テレビで見る秘境探検隊の四駆自動車が通るような道だった。戦前は瀬谷駅との間に軍用鉄道があったらしいので、もしかしたらその跡だったかもしれない。海軍道路は南北にほぼ一直線に走っていて南門と北門と呼ばれる門柱が立っていた。そんな自動車でもやっと通れるような道を自転車で走ったことがあった。目的地は上瀬谷小学校に近いあたりにあった平池と呼ばれる大きな池だ。もともとは池ではなかったが日本軍が終戦後に武器を捨てるために掘った穴の跡だとか実しやかに大人が言っていた。平池には誰かが放したらしいヘラブナやアメリカザリガニなどがいて立ち入り禁止の立て札を無視していつも釣り人や子供たちで賑わっていた。しかし、運が悪いと米軍の見回り兵につかまって事務所に連行された。大人が「逃げろ」といったときにはすぐに逃げないとつかまってしまう。事務所は平池から歩いて十分ほどのところにあり、入り口で常にピストルを所持した米兵が見張っていた。白い木造の建物でいつも星条旗が掲げられているので子供たちはホワイトハウスと呼んで恐れていた。ホワイトハウスに連行されるとすぐに親や学校に連絡が行く。そして迎えに来るまで帰してもらえない。もっとも連行された子供に聞くと、特に米兵から怒られることはなく御菓子やジュースをもらったというから、クラスのみんなに羨ましがられることもあった。
西に三キロくらい離れた米軍厚木基地では毎日のように軍用機の離発着があった。特にジェット戦闘機の爆音がひどく、家の窓ガラスがビリビリ鳴ることがあった。父は都内に通勤し昼間は家にいなかったので気にしていなかったが、母はさすがにうるさいと嘆いていた。
小学校四年生になると周囲の田圃も次々と埋め立てられ住宅地に変わってしまった。転校生が毎日のように増えるので一学年三クラスだったのが既に六クラスになった。分校を作っても生徒を収容できないため校庭をつぶしてプレハブの校舎が次々と建てられた。このプレハブというのは当時の工事現場の飯場と同じものでベニヤ板の上にブリキの板を貼り、壁を鉄骨と鉄線でバッテンに補強した代物だ。床もベニヤ板だから教室でドタバタ走るとたまに床が抜けた。また、窓から隙間風が容赦なく入った。屋根もベニヤ板の上にブリキ板を張ったものだから雨が降るとうるさかった。排水溝がないので雨どいを伝った水がそのまま教室の前にダップリと溜まり池が出来た。

瀬谷の気候
瀬谷は都内と比べて夏は暑く冬は寒かった。夏に窓を開けていたら蛇が入って来て飼っていた小鳥を呑んでしまったことがあった。網戸にはクワガタやカブトムシが飛んでくることがあったが、たまに開けっ放しにすると大人の手のひらくらいの大きな蛾が家の中に入って来て茶の間の電灯の周りで暴れ、夕食が台無しになることもあった。庭にはウグイスやメジロをはじめさまざまな野鳥が飛んできた。近くを流れる境川は大雨のたびに氾濫した。道路が冠水することは珍しくなく、消防署のボートが家の前を行き来することもあった。水が引いた後には道路は泥やゴミが堆積し、市の清掃と消毒が終わるまでは長靴で歩いた。冬は水道管が凍って水が出ない日があるほど寒かった。うっかり日没まで洗濯物を屋外に干していると凍って紙のようにカチカチになった。年に数回は大雪があり歩くのが大変だった。私の家は角地なので雪掻きを二軒分やらなければならず、さぼるとウチの前だけ踏み固められた雪が凍り、車が通るたびにバチバチと派手な音を立てた。このように瀬谷の生活は大変なことが多かったが都内に比べて四季がはっきりしているので私は子供のころから瀬谷の生活が好きだった。
夜は空気が澄んでいてすごく静かだった。相鉄線の走行音だけでなく、一キロ以上離れたところを走る小田急ロマンスカーのミュージックホーンの音も良く聞こえた。また、風向きによっては東海道新幹線の走行音や東名高速道路の自動車が通る音が唸るように聞こえることがあった。さらに、夏の夜はのちに瀬谷区の鳥に指定されたコノハズクの鳴き声が遠くの雑木林から聞こえた。

自転車を使った放課後の散策
宅地開発で田圃がなくなると楽しみがなくなってしまったが、自転車により行動範囲が広がった。瀬谷と三ツ境の間にある東野(あずまの)と呼ばれるあたりにはサツマイモ畑の中に「乳の出の泉」があった。古くからあった信仰の場所で、乳の出ない母親がここの湧き水を飲むと乳がよく出るようになるという言い伝えがあった。また、このあたりは縄文式土器が出た。だが、ここもほどなく分譲住宅を作るために埋め立てられてしまった。更地になった後には土器のかけらが散乱していた。東野には谷戸がいくつかあった。雑木林の中に小川が流れていてちょっとした渓谷のような地形を作っていた。学校からはマムシが出るから行くなと言われていたが、小川にはバクと子供たちが呼んでいた太く短いホトケドジョウなどがいるしカブトムシやクワガタムシを見つけることが出来たのでたまに出かけた。
境川を相鉄線の鉄橋から美しいカーブを描く土手の上を川上に向かってゆくと深瀬橋があった。映画に出てきそうな古い木造の橋だったが、ある年に台風の時に流されてしまった。そこからさらに大和市側を上流に向かうと河岸段丘の斜面に大きな防空壕が残っていて少年たちの格好の遊び場になっていた。防空壕の中は明かりがないので家から懐中電灯を持ってきて探検した。内部はかなり長く、途中で分かれていたので本当に怖かった。
ところで、相鉄沿線には釣り堀が多かったのでたまに友達を誘ったり、嫌がる父を無理やり連れて行った。瀬谷には本郷地区に田園つり堀があった。瀬谷銀行跡のある雑木林を過ぎるとパッと視界が広がって現れた。希望が丘と三ツ境の間に水郭園という大きな釣り堀があった。大塚本町駅から急な坂を下ったところに今福釣り堀があった。さらに厚木の相模川の近くにも釣り堀があったがここはニジマスの池があり釣った分だけ買い取ることになっていた。釣り堀はあまりに楽しかったので学校の作文で将来の夢は釣り堀のおやじになることだと書いて両親を落胆させた。

瀬谷駅前商店街
まとまった小遣いがない時には瀬谷駅前の商店街で遊んだ。唯一の大手スーパーとして西友ストアがあった。二階建てでそう大きくないが入り口の広場にはペット店や軽飲食店があり時間を過ごすにはもってこいだった。ペット店で輸入された大ヤドカリが売られていた。鶏の卵くらいの大きさがあり狂暴そうだったが、すぐに輸入禁止になったらしい。
駅の正面には横浜南農協のビルとディスカウントストアが入る川口ビルがあり、その並びにも商店があった。瀬谷駅南口には四つの商店街があった。バス通りは瀬谷銀座商店街といい、洋菓子屋、タクシー会社、プラモデル屋、おもちゃ屋、レコード屋、電気屋、自転車屋などがあり賑わっていた。ただでさえ狭い対面通行の道路で路線バスも通るのでいつもどこかでクルマ同士が詰まっている感じだった。のちに北口が出来ると路線バスもそちらに移り一方通行路になった。銀座通商店街が厚木街道と交わる手前には洋品店があり、ここも級友の家が経営していた。その隣にある肉屋はコロッケやハムカツがお小遣いで買える値段だったのでいつも店の前に子供たちの自転車がたくさん止まっていた。瀬谷名店街は線路と垂直に伸び銀座商店街につながるアーケードで喫茶店、草履屋、八百屋、中華料理屋、蕎麦屋、おもちゃ屋、和菓子屋、手芸店などがあった。商店街のほぼ中央にはヤマナという食品スーパーがあり級友のお母さんがレジでパートをしていた。中華料理屋とおもちゃ屋の息子も同級生であった。瀬谷名店街と交差する狭い路地が横丁通りでパチンコ屋や魚屋、製麺屋、惣菜屋、居酒屋などが並んでいた。駅から相鉄線大和方向に沿ってサンロードがあった。アーケードはないが立派な門があり酒屋、菓子屋、靴屋、牛乳屋、不動産屋、時計屋、果物屋、クリーニング屋、電気屋などがあり間口が広い大きめの店が多かった。少し遅れていちょう通り商店街も出来た。これらの商店街の周囲にも個別の商店があったから、昭和四十年代の瀬谷駅前は繁華街やスーパーが多い大和と比べるべきではないが、相鉄線屈指の商店が集積した地域だった。だから、放課後に遊びまわるには事欠かなかった。
瀬谷駅も間もなく新しい南口駅舎と北口駅舎と跨線橋が出来た。跨線橋は新設されたものの木造で仮設的な作りだったので、近い将来地下駅になるのではないかと噂されていた。というのも、瀬谷駅はちょうど山の頂にあり三ツ境寄りも大和寄りも大きく下っていたので、いっそ地下駅にすれば勾配がなくなるはずだった。南口駅舎には相州そばという立ち食いそば屋が開店した。かけそばが一杯五十円なのでサラリーマンだけでなく子供たちもおやつとして利用した。改札内と改札外が店の中央で仕切られているので切符を買わなくても利用できた。貨物駅は更地になりのちに相鉄系列の食品スーパーが出来た。

瀬谷中学校と瀬谷高校
中学は小学校より多少家に近い瀬谷駅裏にある瀬谷中学校へ行った。周辺の小学校から来ていることで生徒数は格段に増え一学年一六クラスになった。教室は相変わらずプレハブだった。校庭越しに瀬谷駅のホームが見えて昼間に回送電車がよく側線に止まっていた。だから、授業中に新車を目にすることが多く勉強に身が入らなかった。冷房車が来た時には屋根上の機械の音ですぐにわかった。厚木基地の騒音が酷いので新校舎は二重窓で水冷式の冷房が備えられていたが、圧倒的多数の教室は騒音と暑さ寒さに悩まされた。教員の労働運動が盛んな時代でもあり、地元の新聞にデモで赤旗を掲げた瀬谷中学校の教員の写真が載り教員が生徒に自慢することもあった。生徒としては理由はともあれ教員が組合活動に出かけると自習になるのが嬉しかった。
瀬谷通信隊を貫く道路は舗装されてサクラの木が植えられ正式に海軍道路と呼ばれるようになった。冬になると全校マラソン大会が海軍道路で行われた。平池は風の便りに埋め立てられたそうだ。
高校は地元の県立瀬谷高校に進学した。瀬谷小学校、瀬谷中学校、瀬谷高校と一貫校のように聞こえるがあまり自慢できたものではなかった。瀬谷高校は広大な雑木林を整備して作られた横浜市民の森の一角にあった。最寄り駅は瀬谷ではなく三ツ境だった。はじめは自宅から20分かけて自転車で通っていたが、同級生のほとんどが相鉄線三ツ境駅から歩いて通っていたので、たまに電車でも通学した。三ツ境駅は上りと下りのそれぞれのホームの横浜寄りに改札口があった。土曜日は学校が半日なので放課後は友達と相鉄線で横浜駅に繰り出した。
高校ではワンダーフォーゲル部に入った。なぜかというと、小学生の時から毎日通学時に眺める丹沢山地や富士山にいつか登ってみたくなったからだ。開校二年目なので部員は一年生三人と二年生二人しかいなかった。山に登るのは年数回の日曜日だけなので、普段はランニングや学校の石垣を素手でよじ登る訓練をした。学校は山の斜面にあり脇を通る道路が傾斜していたので高い石垣が出来ていた。よじ登るのはいいが降りるのは相当怖かったので、一気に最後まで登りきるしかなかった。だが、なかなか登山に行く機会がまわってこなかったので、私はしびれを切らして中学校の同級生を誘って塔ノ岳や蛭ヶ岳などの丹沢の山々を訪れた。そのうち、ワンダーフォーゲル部にいる意味もなくなったので一年で辞めてしまった。二年生になると鉄道の好きな者が集まって鉄道研究会を結成した。一応学校公認団体になったので年間五千円の活動費が出た。文化祭では部員が撮影した鉄道の写真や鉄道模型の運転を行った。だが、下級生が全く入って来なかったので、三年生で受験勉強が忙しくなると自然消滅した。

社会人となり相鉄線で通勤する
高校を卒業すると都内の大学に入学し徒歩二十五分の大和駅から小田急江ノ島線で通学したので相鉄線とは縁遠くなった。しかし、自宅から大和駅までの道中は相鉄線に沿ってあったので、電車は毎日眺めていた。見慣れていた鋼鉄製の電車に代わって銀色のアルミニウム製の電車が主力になっていた。また、昭和五十一年には二俣川からいずみ野までいずみ野線が開業したので横浜発二俣川止まりの電車の多くはいずみ野行になった。
大学を卒業し社会人になると相鉄線の通勤が始まった。いつの間にか三ツ境駅は橋上駅になり相鉄ローゼンが出来ていた。朝夕の混雑はひどかったが急行は十両編成で冷房率はほぼ一〇〇%だったので、スピードが遅いことを除けば案外快適だった。それでも瀬谷駅朝七時台の横浜行きはつり革に辿りつけないほど混雑がひどかったので六時台前半の電車に乗る習慣が出来てしまった。勤務先は浅草にあったのでドア・ツー・ドアで一時間五十分かかった。会社に着くと疲れてしばらくぼぉーとすることがあった。帰宅はいつも夜十時以降で夕食を摂るとすぐに入浴し寝ることしか出来なかった。何でこんなに遠い会社に就職してしまったのだろうかと今さらながら後悔した。しかし、そのうち仕事に慣れてくると何でこんなに不便なところに住んでいるのかと思うこともあった。都内から見れば瀬谷は横浜市の西の果てで本当に遠かった。

瀬谷の家を改築する
結婚後、千葉県市川市に数年住んだのちに父が買った瀬谷の家を二世帯住宅に改築し同居することになった。土地は父名義のものを無償貸借し、建物は私と家内の共有名義とした。きっかけは当時、住宅メーカーが二世帯住宅のテレビ宣伝を盛んに行っていたことも背中を押した。西横浜にある住宅展示場に休日や会社の帰りに立ち寄って営業マンと打ち合わせをした。少ない予算でより大きくより安く建てることが課題だったが、来るべき大地震に備えてある程度しっかりした家にする必要があった。折しもバブル絶頂期だったので住宅ローン金利が毎月上昇していたし、住宅の値段も上がっていたので気がせいていた。何とか大手住宅メーカーに注文し横浜市からも融資を受けることが出来たが、メーカーの工事が人手不足で追い付かず予想以上に工期がかかった。かくして再び瀬谷での生活が始まった。三十歳のことだった。
新しい家は一階が両親の居住スペースと共有となる風呂場、二階が我々夫婦の居住スペースと和室の客間だ。親戚が宿泊しても大丈夫なようにしたかった。一階と二階にそれぞれ十二畳のリビングがあり食事をしてゆったりくつろげるようにした。さらに、天井収納庫を拡大した鉄道模型のジオラマルームを作った。広さは縦長の四畳程度あったが、屋根の梁があるのと二階のリビングから梯子で上り下りするわずらわしさがあった。しかし、ぜいたくを言ってはいけない。念願の鉄道模型のジオラマづくりが始まった。新築した一年くらいは多くの来客があった。だが、これらのイベントが一巡すると通勤の苦しさが身に染みてきた。特にこの時期、家内は転職した会社で管理職になったばかりで大変忙しく、毎日終電間際の帰宅だった。おかげで駅前のタクシーの運転手全員と顔なじみになっていたくらいだった。そのうちに、体調を崩しがちになり、ついに音を上げた。「東京に住みたい」
二人の収入を合わせて横浜市からの融資を短期間で返済することが出来た。そこで、新たにローンを組み、平日用のマンションを都内に購入することにした。瀬谷の家は金曜日の夜から日曜日の夕方まで過ごすようになった。だが、実際に都内で暮らしてみると通勤は楽だし、外食や買い物をしたいときには二十分あれば銀座にだって新宿にだって出ることが出来たので快適だった。二世帯住宅は早計だったかなと後悔した。都内のマンションと瀬谷の家との移動は犬を飼っていたこともありほとんどが自動車だった。そういうわけで、相鉄線とは少し疎遠になってしまった。

三度瀬谷に戻る
都内と瀬谷との二重生活はあっという間に十年たった。転機となったのは父の入院だった。七十代半ばから急激に老化が始まった。特に足腰が弱り一度転倒すると自力で起きられなくなっていた。父が倒れた時、長患いになる予感がしたので私だけ住民票を瀬谷に戻し瀬谷にいる時間を増やした。改めて戻ってみると老いた両親の生活の乱れに直面した。部屋を埋め尽くす通販で購入した未開封の便利グッズ、山のような健康食品、野良猫にやるための大量のえさ、それらを年金で賄えないため繰り返される銀行ローン。両親の生活の立て直しは喫緊の課題だった。週末だけ戻っているときには気が付かなかったし両親も心配をかけまいとして平静を装っていたらしい。全て私が老いた両親の生活を顧みず瀬谷を離れて都内で楽な生活をした報いであると自戒した。
ある日、退院した父を自宅の風呂で入浴させた。一か月ぶりの自宅入浴で大変気持ちよさそうであったが、これが、私が父にした最初で最後の介護らしい介護だった。父の容体が急変し再入院の後にあっという間に他界した。残ったものは父が買った瀬谷の土地だけだった。私はこの家だけは生きている限り残すことを改めて決心した。
数年して都内のマンションを処分し家内も瀬谷に戻ってきたので、以前のように瀬谷を拠点とした生活が戻った。家内は個人で事業をしていたが、瀬谷の家を本店登記して法人化した。

変わったものと変わらないもの
瀬谷駅から自宅までの風景は大きく変わった。瀬谷駅前は北口にスーパーマーケットやマンションが出来てすっかり開けたが、子供のころから慣れ親しんだ南口は区画整理の対象となっていることもあり街全体が放置されてしまったようですっかりさびれた。特に瀬谷名店街はシャッター通り商店街を通り越し解体の危機にある。かつてはサンロードからはぱっと開けた畑は環状四号線が視界を遮り大きな駐車場になっていた。交差点の脇に立つ石の馬頭観音だけが昔の面影を残している。肥溜めのあった畑も駐車場になっていた。
坂の上にあったお地蔵さんを祀る赤い祠は跡形もなく消え、その場所には地下駐車場付きの一戸建てが建っていた。江戸時代から信仰を集めていたお地蔵さんを地面ごと撤去するのは暴挙であるが、今住んでいる人たちに罪はない。周囲の雑木林は観光果樹園になった。
自宅の周囲も変わった。相鉄の分譲地の元々の住人はほぼ両親と同じ世代だったので、子供の独立とともに庭付き一戸建てを持て余して転居する家があった。子供は駅から遠いこの土地よりも便利な都心のマンションの方が暮らしやすい。それに、老後はやはり商店や医療機関が近い都心の方が暮らしやすいかもしれない。中には夫婦で介護付きマンションへ引っ越す人もいる。それらの人たちが転居した後にはたいてい新しい二軒の家が建った。新しい住人は三、四十代で小学生くらいの子供がいるところが多い。やはり子供の歓声が聞こえる街がいいと思う。
相鉄線の朝夕の混雑はここ十年で随分緩和された。本数が増え所要時間が短くなった効果もあるが、かつて相鉄沿線の人口増加に貢献した団塊の世代が定年退職を迎えたことも大きいと思う。
かくいう自分も齢を取った。毎晩恒例の横浜駅における「椅子取りゲーム」は勝率が落ちた。また、遠近両用メガネにしてからは駅の階段で足を踏み外しそうになることが多くなった。さらに、駆け込み乗車をしようとしてホームの点字ブロックにつまずいて転倒し怪我をしたこともあり、最近では無理をしないようになった。

今年で瀬谷に住んで足掛け五十年を迎えた。横浜の僻地と人は言うが、駅に着き相鉄線のドアが開いたときの空気のにおい、四季を彩る花鳥草木、はるかに望む丹沢の山々の雄大さは何物にも代えがたい。そして今日も相鉄線が境川の鉄橋を渡る音で眼覚め一日が始まる。

著者

櫻田 純