「煌めく軌跡 ~相鉄線と駆け巡ったあの記憶~」中田征志

『やぁ、ジョニー。このワックスを使えば、どんな車もピッカピカなんだぜ』
 テレビの向こうから、満面の笑みで外国人がワックスを売りつけてくる。車を持ってない僕にどうしろと言うのだろうか。時計の針は午前二時を指していたが、夏の暑さで眠れない。
「――喉が渇いた」
 ふと呟いてみるが、一人暮らしの僕には誰も手を差し伸べてくれない。いっそ、蛇口から水道管の中にもぐり込んで、横浜の水瓶を飲み干してしまいたいくらいだ。

『ビビッ……』
 壊れかけのインターホンが何とも言えない音で僕を起こす。まだ眠かったが、ベッドから起き上がって玄関のある一階に降りた。
 ドアを開けると、運送業者の制服を身にまとった男が汗だくで立っていた。宅配便だ。 ボールペンを借り、受け取り欄にサインをした。
 玄関を閉めて荷物を開けると、中にはたくさんの野菜が入っていた。長崎に住む両親が僕に送ってくれたものだった。
 
 僕は横浜で生まれ、横浜で育った。横浜といっても、相鉄線で横浜駅から内陸方向に進んで二十分ほどの緑園都市という場所に住んでいる。父が三年間の期限付きで長崎に転勤になったのを機に、横浜の大学に通っている僕だけがここに取り残された。
 母まで長崎に付いて行ったのは想定外だった。母は、僕が親にずっと頼りっぱなしなのを気にかけ、一人暮らしをさせることしたという。最初は自由な時間の始まりだと意気揚々としていたのだが、数日で大変さに気づかされた。生活のありとあらゆることを自分でしなければならないのだ。そして、賑やかで楽しかった家という空間が空虚な空間へと変わった。家具はそのまま残っているのだが、一人で住むには戸建て住宅は広過ぎた。物だけでは満たされない何かが、そこにはあった。
 大学生活も残すところあと一年半。就職先もこれから考えなければならない。自分は将来、何をしたいのだろう。
 
 大学は横浜駅からバスで少し行った場所にある。もう夏休みになっていたが、テストでギリギリの点数を取ってしまったのもあって、レポートを提出する必要があった。僕はコップの水を一杯飲み干した後、ほどけかけた靴紐を結び直して家を出た。
 蝉の鳴き声がけたたましく響き渡る。日光は皮膚を容赦なく攻め立ててくるが僕には為す術もない。家から駅までは五分ほどの距離だったが、その距離でさえ無限回廊のように思えてくる。そんな僕を横目で見る花や虫たちは、青春を謳歌するかのごとく生命を輝かせていた。
 
 具合の悪そうなおじいさんを見つけたのは駅まであと少しの場所だった。おじいさんは、葉の生い茂る木の下でしゃがみ込んでいた。僕は小走りでおじいさんの元に近づいて顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」
 僕は咄嗟にスマホを手に取り119番しようとする。
「ちょっと目眩がしてな……。家がホラッ、すぐそこなんだよ。救急車なんて大袈裟なのはやめてくれ」
 気丈におじいさんが答える。おじいさんは、三軒向こうの家を指差している。確かに近い。
「じゃあ家まで送りますね」
 僕はおじいさんの家まで肩を貸した。
 
 玄関前に着くと、おじいさんがポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込もうとする。しかし手が震えていたので、僕が手を添えて鍵を開けた。
 一緒に家に入ると、僕の家と同じように、がらんとした空間が広がっている。何だか急に親近感が沸く。どうやら家には誰もいないようだ。家まで送るとは言ったが、決して具合が良さそうではない。ここで僕が帰った後に、また倒れでもしたら……。などと考えると、とてつもなく心配になった。僕は昔から最悪のケースを先読みする癖があった。
 おじいさんは家に入るやいなや、リビングのソファにグッタリと座り込む。僕は台所でコップに水道水を注いで、それを渡した。
「ありがとな」
 おじいさんは、あっと言う間に水を飲み干した。僕は少しホッとする。家は陽当たりも良く明るい。リビングと和室は一繋がりになっていて、和室までを見渡すことができた。和室には仏壇があり、おばあさんらしき遺影が置かれていた。
「三年前に亡くなってな……」
 僕の視線に気づいたおじいさんが寂しそうに言う。一方で顔色はさっきより幾分良くなったように見える。
「三十歳になる手前で結婚してな。それ以来、五十年ずっと一緒にいたからな。いなくなられると心にポッカリと穴が空いたような……というか、まるで自分の感覚の一つがなくなってしまった感じでな」
 こういった状況でどう慰めていいか分からなかった。僕の何倍も人生経験が豊富な人に何を言えようか。
 リビングにはテレビがあり、その横には宇宙に関するビデオカセットやDVDが綺麗に並べられている。
「宇宙、好きなんですか?」
 僕は咄嗟に話を切り換えた。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
 突然おじいさんが呟く。一瞬、僕は戸惑うが、月面着陸した宇宙飛行士の言葉であることに気づいた。おじいさんは、手に持っていたコップをテーブルの上に置く。
「アポロ十一号のアームストロング船長の言葉だよ。若い頃から宇宙に憧れていてな。昔は死ぬまでに必ず宇宙旅行に行く。なんて思っていたものだが」
 確かに旅行会社のパンフレットに宇宙旅行が載る時代は随分と先だろう。その後もおじいさんの宇宙に関する話題が続いた。宇宙の起源の話、そして三十九光年も先にある地球に似た惑星を有する星系の話。そういったことを嬉しそうに語る。外で歩けなくなっていたのが嘘のように、生き生きとしていた。
 暫く話を聞いた後、僕はおじいさんと電話番号を交換した。念のため明日、無事を確認しようと思ったからだ。
「病院でも看てもらった方がいいかも知れないです。もし一人で歩くのが辛そうでしたら僕も一緒に行くので」
 僕が必死に言うのを見て、おじいさんが少し呆れたように返事する。
「キミは相当に心配性だな。病院なんてそこら中にあるし何かあったら行くよ」
 この街、緑園都市は整然と並ぶ住宅地に寄り添うように公園が配置され、駅周辺には生活に必要なものは何でも揃っていた。病院もおじいさんの家からならすぐの距離だ。
「僕、今から駅に行くので、ついでに病院まで送りますよ。通り道ですし」
 結局、僕はおじいさんを病院まで送ることにした。一緒に連れて行かないと、一人で病院に行くことはないだろうと思ったからだ。

 病院に行く途中、おじいさんのことをもう少し知ることができた。名前は啓助。孫からは『助爺』と呼ばれているらしい。呼び名が『助べぇ』にならなくて良かったと僕は少しホッとする。
「助爺と呼んでくれ」と、おじいさんが言うのでそうすることにした。

 病院まで送った後、時計を見ると正午をまわっていた。日差しがより一層強くなっている。取り敢えず、レポートを提出するために大学に向かうことにした。
 暑さとともに空腹感も僕を襲い始めていた。緑園都市駅のパン屋でパンを三つ買い、改札を抜ける。プラットホームは改札から階段で上がった先にある。いつもなら階段で上がるのだが、とにかく疲れていたのでエスカレーターで上に昇った。やれやれ。大学に着く前から疲れているとは。
 その快速列車はすぐにやってきた。ネイビーブルーの新型の車両だ。通勤ラッシュ時間帯を過ぎていたのもあって、座席には余裕がある。夏休み中の子供から、お年寄りまで老若男女が一つの車両に集まっていた。みんな何をしにどこに行くのだろう。僕に分かるのは自分が大学に向かっているということだけだ。この車両に乗っているそれぞれの人生については何も理解できていないのだ。
 東の方向にある横浜駅を目指して電車が快走する。僕は朝の出来事を思い出しながら、車窓の景色を眺める。相鉄線は住宅街を駆け巡っている。車窓の先にある多くの街。そこでは今、どんなことが起きているのだろう。電車でスマホ画面に夢中になる人々の傍らで、僕は取り留めのないことを考え続ける。
 気づいた時には横浜駅近くにある住宅展示場やビル群が視界に入ってきていた。
 
 電車を降りて改札に向かう途中、停車している車両の中で、まだ熟睡しているサラリーマン風の男性を見つけた。このまま放置すれば、逆方向の海老名駅か湘南台駅に連れて行かれるのかもしれない。などと考えていたら、駅員さんが来て男性を揺する。
「お客さん、終点の横浜駅ですよ」
 男性は寝ぼけ眼で会釈し、電車を降りた。世の中はとてもよくできていた。
 
 人間は視覚から八割以上の情報を得ているとも言われている。僕が今日見たものは、助爺と車窓の景色と車両に乗った多くの人と……。待てよ。一つのひらめきが脳裏で起きる。
 改札を出た人々の濁流の中で、僕は大学に向かう歩みを止め、高校時代の親友に電話をかける。プルルル……と三回鳴った後、彼が電話に出た。僕は間髪を入れず話しかける。
「もしもし、優斗?」
「おぅどうしたんだ急に」
 優斗が返事をする。親友とはいえ、半年近く連絡を取っていなかった。僕は話しを続ける。
「優斗の母親って、相鉄で働いていたよな? ちょっと相談があって、会えないかな?」
「相変わらず、無茶振りしてくるねー。電話じゃなんだし、ウチに来る? 母親は夜まで帰ってこないけど、俺は大学が夏休みだから暇で暇で」
 確かに優斗と久しぶりに語り合いたい。僕はそう思った。
 僕は高校時代の友達が好きだった。高校では考えが違う人が隣の席になったり、文化祭や体育祭で協働したりする。考えが違うからこそ色んな刺激を受け、多様性を学ぶことができた。その中でも、優斗は僕にとって格別の存在だった。
 僕は一度出た改札に再びパスモをかざし、優斗のマンションがある海老名行きの特急列車に乗った。海老名駅からほど近い高校に通っていた僕たちは、学校が終わった後、決まって優斗の家に集まってはゲームをしたり語り明かしたりしていた。優斗の母親はあの頃はまだ三十代と若く、近所のお姉さんといった感じだった。僕は彼女を『智美さん』と名前で呼んでいた。
 
 相鉄は、Y字型の路線図となっている。横浜から二俣川を経由して海老名まで続く相鉄本線と、二俣川から分岐して湘南台まで続く相鉄いずみ野線がある。二俣川より先の海老名方面に行くのは、高校の卒業式以来だ。
 車窓から見える景色が懐かしい。大和駅で地下に潜り、かしわ台駅の付近で穏やかな田園風景が見えてくる。このタイミングで車両に乗っている人の何人かは、海老名駅の改札に近い車両へと移動を始める。高校時代に毎日見ていた光景だ。そういった光景を眺めているうちに電車は、海老名駅に到着した。
 車窓から見える景色は大きく変わっていた。いつの間にか大型のショッピングモールや建設中のマンションが建ち並んでいて、時の流れを感じさせた。
 
 海老名駅の改札を出てすぐの所では、相鉄グッズが売られていて、親子連れが相鉄のゆるキャラ『そうにゃん』のグッズを買い求めていた。そうにゃんは、オレンジとブルーで彩られた愛らしい猫のキャラクターである。平和だな……。僕は優斗のマンションに真っ直ぐ向かった。

 インターホンを鳴らすと、ドタドタと足音がしてすぐに玄関のドアが開いた。優斗が僕の顔をまじまじと見て言葉を放つ。
「何だか間の抜けた顔をしているなー」
 僕が話す間もなく優斗が喋り続ける。
「うちの母親と話があるんだよな? まだ暫く帰って来ないから、自転車でちょっとブラブラしようぜ」
 優斗はそう言いながら、外に出て家の鍵を閉める。Tシャツにハーフパンツ、そしてサンダルという軽装だ。僕は大学のレポートや、昼食用のパンが入った袋を片手に、マンションの駐輪場に連れて行かれた。
「どこら辺に行きたい?」
 優斗からの不意の質問に、
「川が見たいかな」と僕は返事をした。
 僕は優斗の父親の自転車を貸し与えられた。サドルの高さを調整し、駐輪場を出て自転車を走らせる。
 マンションから自転車で少し走った所に相模川が流れている。高校の頃、よくこの川沿いを自転車で疾走したものだ。まだ午後三時を少しまわったくらいで暑さも残っていたが、風が心地良く僕たちを包み込む。
 
 優斗と自転車で併走しながら、今日起きたこと、そして僕の目論見を話した。
「なるほどなぁ。良いアイデアかも。でも、お前いつからそんなに熱い奴になったんだっけ?」
 優斗は笑顔で賛同しながらも僕に問いかける。自分にも分からない質問だった。僕はどちらかと言うと事なかれ主義で、波を立てず風を吹かせず生きてきた。こんなに何かを実現したいと思ったのは初めてだったのだ。
 
 ブレーキをかけ、道路沿いの空き地に自転車を置く。そして、川がよく見える土手まで歩いて腰を下ろした。川の流れる音は、せせらぎというよりは、魂を持った水が勢い良く流れているといった具合だ。
「優斗、就活ってどうするよ?」
 どうせ僕と同じようにまだ何も決めてないだろうと察しながらも問いかけた。
「俺は、文房具メーカーに就職したいんだ」
 意表を突いた答えが返ってくる。
「ぶんぼうぐ?」
「あぁ、文房具ってロマンがあると思わないか? これだけスマホやらパソコンやらに囲まれていても、ペンって必ずどこかで使うし、誰かが書いた文字ってのは筆跡、インクの滲み、そのそれぞれが人生で一度限りのものだろ。まさに生きた証だと思うな。その瞬間に立ち会える文房具。いいと思うだろ」
 確かに、優斗は高校の頃から新しい文房具を買ってきては試していた。思い出が甦るとともに、自分だけが進路を決め切れていないことを痛感する。
「なぁ。この相模川の上流には宮ヶ瀬ダムがあるだろ?」
 優斗は川を見ながら言った。相模川は絶え間なく水を流し続けている。僕は優斗が何を言おうとしているのか分からず、優斗の顔を見る。優斗は川の上流を見つめながら話を続ける。
「ダムは雨の水をたっぷり溜めて、必要な時に水道や、時には河川の生態系保全なんかの為にも放水されるんだ。いわゆる治水ってやつだな」
 僕は再び相模川に目を向けると、鮎が何匹も泳いでいるのが見える。気持ちよさそうだ。優斗は草や土、川の匂いを吸い込んで、それを吐き出すように話す。
「お前は今までダムのように色んな経験や想いを溜めて溜めて溜め過ぎて、それが溢れようとしているんじゃないかな。さっきのおじいさんの話、絶対やってみるべきだと思う。それがお前の心の治水にも繋がるんじゃないかな」
 後ろの道路からトラックらしきエンジン音が聞こえてくる。前からは相変わらず水と水とかぶつかり合う営みが聞こえる。人工物と自然、その狭間に僕はいる。

 僕たちが優斗のマンションに戻った頃には辺りは暗くなり始めていた。マンションは3LDKで、一つ一つの部屋が広々としている。暖色の灯りが特徴的で、どの部屋も落ち着いた雰囲気だった。優斗に連れられてリビングに入ると、優斗の父が僕を迎えてくれた。まだ智美さんは帰っていないらしい。
 優斗の父親は剣道場を経営していて、剣道一筋といった感じだ。智美さんも趣味で剣道をやっていて、二人は剣道場で知り合ったという。今日は剣道場が休みの日らしく、優斗の父は手の込んだ料理を振る舞ってくれた。
 
 僕たちが夕食を食べ終えて間もなくすると、智美さんが帰ってきた。肩まで伸びる黒髪にスーツといった出で立ちである。
「優斗から聞いたわよ。私に用事があるなんて珍しいわね。ちょっと珈琲だけ飲ませて」
 彼女はそう言いながら電動ミルで珈琲豆を挽き始める。珈琲に湯を注いだ直後、リビングはたちまち芳ばしい香りに包まれる。
 僕と優斗がリビングのソファで雑談をしていると、智美さんは僕たちにも珈琲を差し出してくれた。彼女は斜め前のソファに腰掛ける。丸一日仕事をしてきたとは思えないくらいに、溌剌とした面持ちだ。

「面白いアイデアだと思う」
 僕の話を一通り聞いた後、彼女がそう言った。その後少し考え込んで、再び言葉を発する。
「でもね、それって実際にやるとなると、お金もかかる話だし、会社としてオッケーかどうか微妙なの。社内で相談してみるけど、期待はしないで待っていてもらえるかな」
 彼女は真剣な表情で僕を見て言った。彼女になら何とかできるんじゃないか。そう信じることにした。

 緑園都市駅に帰ってきたのは午後十時頃だった。昼の暑さが嘘のように、夜は少しばかり涼しさを感じられる。空は綺麗に晴れていて、月や星の輝きがよく見える。
 こんなにも星が見えたんだっけな。さっきの助爺も、この広い宇宙に魅せられたのだろう。僕は空を時々見上げながら自宅に向かう。毎日必ずあるはずの星々を、まるで懐かしいアルバムを開くかのように眺めながら。

 知らない電話番号から着信があったのは、一週間ほど経ってからだった。夏休みということもあって、僕はエアコン取付工事の短期アルバイトをしていた。電話がかかってきた時は、湘南台駅近くの戸建て住宅でエアコンを取り付けている最中だった。僕は一通りの作業を終えてから、着信があった電話番号に電話をかけた。
「あ、折り返してくれたのね。ありがとう」
 その声で、智美さんだとすぐに分かった。
「もしかしてこの前の件ですか?」
 僕は、そうだろうな。と思いながらも問いかける。
「そうそう。コストを見積もってみたら凄く高くて……」
 彼女のその言葉からすると、ダメだったのだろうと諦めかけていると、彼女が話を続ける。
「それでうちの会社、つまり相鉄のブランド戦略を立案する部署と相談してみたの。そしたら、この取り組みを一般公開する前提でオッケーが出たのよ。沿線の知名度アップにもなるだろうという考えもあっての判断だと思う。準備に時間がかかるから一ヶ月後くらいにはなるけどね。日時と場所が決まったら、また連絡するね」
 智美さんは抑揚のある口調で用件を伝え終えると電話を切った。その瞬間、急に現実感が増してくる。本当に助爺はこれで喜んでくれるだろうか。

 僕はバイトを終えて電車に乗った。電車は湘南台の隣、ゆめが丘駅に停車して疎らに人が乗降車する。円筒状の青い鉄骨が電車を包み込む駅舎が印象的だ。この駅の付近は、今は何もないのだが、何年かかけて再開発されるらしい。扉が閉まり、再び電車が動き出す。
 湘南台駅と二俣川駅を結ぶ相鉄いずみ野線の沿線には、閑静な住宅地が広がり、都会の喧噪を忘れられる空間となっている。会社でどんなに威勢良く働いている会社員も、この空間に入ると父や母に戻る。そんな街なのだ。

 暫く経って、智美さんから日時と場所の連絡があった。僕は助爺の家を訪ね、この計画に誘った。具体的な内容をまだ秘密にしているのにも関わらず、助爺は楽しそうに誘いを快諾してくれた。
 蝉はすっかり大人しくなり、夜にはコオロギの鳴き声聞こえ始めていた。

 八月末の土曜日、横浜駅発の最終急行列車。その最後尾車両。指定された日時と車両に僕と助爺が乗った。乗客の数は、ちょうど座席に全員が座れる程度だ。どうやら車両の外で駅員さんが乗客を誘導しているようだ。
「毎日、スーパーと家の往復だったから、電車に乗るのも今日が久しぶりだわい」
 助爺は車内を珍しい物でも見るかのように見渡す。電車の中は、グレーを基調とした落ち着いたデザインだ。
『急行海老名行き、間もなく出発します』
 アナウンスに続き、出発のベルが鳴る。小学生くらいの子供とその両親が同じ車両に乗車したところでドアが閉まった。その親子は、斜め前の座席にゆったりと座る。大きなスーツケースやお土産の袋を持っている。まさに夏休みの旅行から今戻ってきたといった感じだ。
 電車は徐々に加速を始める。車窓からは横浜駅周辺のビル群などが見えた。
「そろそろ教えてくれんか。わしをこの電車に乗せた理由を」
 助爺は不思議そうに僕の顔をジッと見てくる。僕は笑顔で応える。
「外の景色を見ていてもらえますか。もうすぐ理由が分かります」
 電車が横浜駅の次にある平沼橋駅を通過した直後だった。
「ママ! 電車が浮いた!」
 さっきの子供が感歎の声をあげる。助爺もハッとして車窓を凝視する。電車はまるで銀河鉄道のようにどんどんと宙に舞い上がっていく。瞬く間にさっき見ていたビル群が光の粒に変わる。電車は加速音をあげながら雲を突き抜けた。

「宇宙だ」
 助爺が声を発した時、電車は月をも通り越し、土星の輪が見える場所を走っていた。岩や氷が土星の輪を構成している。
 同じ車両に乗っていた乗客は楽しそうに車窓を眺めている。事前にこの企画の説明を受けていたのだろう。普段、スマホ画面に夢中であろう若者も車窓に釘付けだ。
 食い入るように車窓を眺めていると、まるで天の川のように星々が連なる景色が見えてきた。僕は、優斗と語り合った相模川を思い出す。助爺の眼球には燦然と輝く星々が映り込んでいる。
「なんて美しいんだ。これは一体……」
 暫くすると電車は方向を転換し、地球に向けて進路をとった。

 電車は本来の停車駅でもある二俣川駅で停車した。車窓から見えるのはいつもの二俣川駅のプラットホームだ。緑園都市駅に帰るには、ここで相鉄いずみの線に乗り換える必要があった。
「まだ頭が整理できない。今のは……」
 そう言いながら助爺は電車を降りる。僕は助爺の後ろからゆっくり電車を降りた。

「喜んでもらえた?」
 目の前から聞こえてきたのは智美さんの声だった。僕たちを待ってくれていたのだろう。
「紹介しますね。僕の親友の母親で、相鉄の社員さんでもある智美さんです」
 僕は智美さんを紹介した。彼女はにこやかに微笑む。
「おじいさんを宇宙に連れて行きたいという彼の発案で、相模鉄道が総力を挙げて企画しみました」
 智美さんは自信満々に話す。助爺は、僕と智美さんを交互に見る。
「こんな事どうやって……。まるで夢のようで」
 助爺の眼には涙が浮かんでいる。
「実はさっきの車両の窓、最新型のディスプレイなんです。電車の動きに合わせて、車窓の映像が流れる仕組みになっていたんです」
 智美さんが話をしていると、出発のベルが鳴り、乗ってきた急行列車が次の駅に向けて発車する。智美さんは説明を続ける。
「本来の窓と同じ景色をディスプレイに映すために、車両には外の景色を撮るカメラも取り付けられていたんです。そのカメラの映像と、コンピュータグラフィックとをうまく切り換えて映し出すことで、宇宙を旅しているように見せたんです」
 彼女の説明だけでは分からないだろうと思い、僕は補足する。
「横浜駅や二俣川駅はカメラで撮った実際の映像で、宇宙は仮想の映像ってことです」
 僕の説明に智美さんは頷き、言葉を足す。
「もちろん、実際は線路をずっと走っていましたよ。ミックスド・リアリティという最新の技術です」
 助爺は全部を理解しきれていない様子ではあったが、嬉しそうに笑顔を見せる。
「もともとは赤の他人のわしの為に、ここまでのことをしてくれるなんて……。本当にありがとうございます」
 助爺はそう言いながら僕と智美さんの手を、左右の手でそれぞれ強く握る。助爺の手は皺が多く肉厚はあまりない。だが、確かな熱量がそこには感じられた。人と手を固く握り合ったのはどれくらいぶりだろう。

 宇宙を電車で旅するこの企画は、話題を集め、一ヶ月間にわたり実施された。沿線外からも多くの人が集まり、賑わったという。
 助爺とはたまにメールをする仲になった。驚いたことに、助爺は数千万円をはたいて、米国のベンチャー企業が企画する宇宙旅行に申し込んだという。宇宙旅行といっても、大気圏を越え、五分程度の宇宙遊泳を楽しんだ後、地球に戻ってくるという内容のものだ。どうしても宇宙から見える地球を眼に焼き付けたいそうだ。

「アイデアを形にして、人に感動を与えられる仕事がしたい」
 僕は就職活動を控えたある日、電話で優斗にそう言った。
 僕は大学を卒業した後、車窓からどの街を見ながら、どこに向かうのだろうか。それは将来何をやるかで変わってくる。車窓の景色は、人生の轍なのだ。

 相模鉄道。通称、相鉄。二十五の駅がそこにはある。血管が細胞に栄養を運ぶように、鉄道は街に住民を運び続ける。そして、街は住民の活力で輝きを放ち、住民は街と一緒に育ってゆく。将来的には都心へも直結する相鉄線。多くの人がこの鉄道に乗り、生活を営み、歩み続けていく。

『やぁ、ジョニー。このワックスを使えば、どんな車もピッカピカなんだぜ』
 深夜零時過ぎ。夏に見たのと同じCMがテレビから流れる。僕はテレビを消し、窓を開ける。遠くから微かにあの音が聞こえてくる。

 ガタンゴトン……

 あの電車には誰が乗って、どこに向かっているのだろう。
 夜風がヒュッと僕の顔をかすめて部屋に入る。窓から顔を出すと、空気がいつもより澄んで多くの星が見える。それは僕たちが電車で駆け巡った星々の航路を描くように、燦然と散りばめられていた。煌めく軌跡だ。

著者

中田征志