「燕の巣」卓

         一
 

 七月の初旬、家の車庫の壁に燕が巣を掛けた。
 
 
 もう数年前にもなろうか、番(つがい)の燕は嬉々とした鳴き声を掛け合いながら、狭い車庫の中を激しく飛来した。私が何気無く巣造りを眺めていると、口に咥えてくる土の半分は壁に残らず下方に落下し、車のボンネットに土の塊が出来た。小さな嘴(くちばし)で必死で運ぶ土が巣作りに役立たぬ、なんともむなしい努力に思えた。私は急ぎ狭い板を巣の下に張り付けた。警戒心の強い燕は、ピタリと巣作りを中止し、姿を消して二度と戻らなかった。私は慌てて板を外したが、灰色のモルタルの壁に、燕が運んだ土の塊が点々と空しく残っただけだった。私はその壁を眺める度に心が悼(いた)んだ。余計なことをしてしまったとの、後悔が後に残った。
 春になり、今年も燕が広場の空間や、近郊の川面の上を滑降する姿が目に+着くようになった。だが、ここ数年私の家の車庫に燕が姿を見せることはなかった。+
「貴方、燕が来ていますよ」

 と、妻が微笑を浮かべ私に告げたのは七月初めの朝食の席だった。
「燕?家の外にいるのだろう。もう子育てを終える頃だよ」
「でも、ほら鳴き声が聞こえるわ、車庫の中ですよ」
 妻は茶碗の手を止め、車庫の方に耳を傾けた。
 私も食事をやめ、自然と耳を澄ましていた。
 鋭い燕の鳴き声が車庫の中に木霊していた。どうやら、一羽でない番(つがい)の鳴き声だった。
「町内の戸上(とのうえ)さん処の燕、たしか、もう巣立ちをしたはずだが」
 私は燕が毎年決まって飛来し、子育てをする近隣の家の燕の巣立ちを妻に伝えた。
「今からでも大丈夫でしょうか?」
 妻の顔がふっと陰った。
「二回子育てをする燕も、たまにいるらしいけどね」
「まあ大変。一度に五羽ほど育てるのでしょう。二度だと十羽の子燕を連れて遠い海を渡るのは大仕事ですね」
「燕は、毎年自分が作った巣に帰り雛を孵(かえ)すらしい。だから、空き巣になったら、燕が亡くなったことになるんだな」
「・・・まあ・・・子供がその巣を使うことはないのですか?」
「ないらしいね。そんな話を誰かに聞いた気がする」
「戸上さんのお家へ毎年燕が飛来するのは、代々あの巣で孵った子燕たちだと思っていました。燕の寿命ってどれ位あるのかしら?」
「さあ、渡り鳥だから思いもかけぬ災難に遭遇することも多いだろうしね。あんがい短いものかもしれない。それにしても、渡り鳥の絆は私たちの想像を絶するものがあるらしい。これは、釧路湿原にツルを見物に行ったときガイドの人に聞いた話だけどね。ツルのファミリーが何か事故に会って姿が消えると、そのファミリーは渡りを止めて、朝早くから夕暮れまで必死になって辺りを捜し回るそうだよ。見ていて胸が詰まる、とガイドが言っていた」
 妻が息を呑むように頷いた。
「一族の結束って、そんなに強いのね」
「燕もツルと同じだと思うよ。たしか、今昔物語にもこれに類した話があるんだ」
「えっ、あの古典にそんな話が載っているのですか?」
 妻が目を見張った。
「直接燕の記述じゃないけど、ある娘夫婦の夫が急死してね。娘の両親は自分たちの老い先を考えて、若い娘に再婚をすすめた。娘は頑なにそれを拒絶し、家に飛来し巣作りをした番の燕を指さし、燕は一生に一羽の伴侶しか持たない。相手を亡くしたら、生涯、独身を通すものだ、と言って譲らなかった。もし嘘だと思ったら、燕を捕獲して、雄燕を殺し雌燕の足
に印(しるし)をつけて放すとよい、と娘は言い放った。両親は番の燕を捕らえると、雄燕を殺し雌燕の足に赤いヒモを点け放した。次の年、赤い印をつけた雌燕がひとりで巣に帰って来て夏を過ごし、また、ひとりで南の島に帰って行ったと言う。その姿を見て、両親は涙をながし、両手を合わせて雌燕に詫びを入れ、二度と娘に再婚を薦めることはなかった。そんな話が載っているんだ」
「まあ・・・今昔にそんな話が・・・」
 妻が思わず絶句して頷いた。
 妻と会話をする間も、燕の鳴き声は絶えず、時折、驚くほど甲高い囀りを発した。
 私は食卓を離れて立ち上がり、台所の横にある車庫を硝子戸越しにカーテンをめくりそっと覗いた。一羽の燕がモルタルの壁に足を着け、必死に咥えてきた土を壁になすり付け巣作りを始めていた。どうやら、前の巣の痕跡を使っているようだった。その脇をもう一羽の燕が鋭い鳴き声をあげて旋回した。車のボンネットは、夥(おびただ)しい黒い土が飛散していた。
「やあ、巣作りを始めたぞ」
 と言って、私は妻を振り返った。思わず声が高揚し上ずっていた。
「うまく巣立ちをしてくれたらいいけど」
 遅い慌ただしい巣作りが、妻に一抹の不安を与えたようだった。
 巣作りは、燕の凄まじい執念で瞬く間に完成した。番の燕だけでなく、ファミリーの燕の集まりかと見紛う程激しく姿を交錯させた。
「貴方、車を車庫から外に出したらどう。猫が車の天井に上がり燕を狙うわよ」
 猫が車のボンネットに乗るのを垣間見た妻が言った。
 私の所有車が軽自動車で車高が高く、猫が登れば燕の巣は目と鼻で、燕は子育てどころではない。私は直ぐに車を車庫から外に出した。
 数日後、巣作りを済ませた燕が、巣の中に身体を沈め卵を抱く姿があった。私は黒い頭と二つに割れた尾の先が幽かに見える巣を眺めて、ほっと胸をなでおろした。後は無事に雛の誕生を待つばかりである。
 燕は、世界に九十種ほど分布していて、日本に飛来してくるのは、コシアカ燕・イワ燕など五種類が分布するという。私は小鳥の名前にはなはだ疎く、まして、その生態、習性となるとまったく論外である。が、小鳥を眺めるのはことのほか好きで、散歩の途中で小鳥を見付けると、自然と足を止めてしまう。
 ある日、私が遊水池の脇を歩いていると、コンクリートの防水堤の上に五羽の燕が、川面を見つめ停まっていた。足を止め何気無く眺めていると、水面を飛翔してきた一羽の燕がすーと並んだ燕の横に降り立った。そして、嘴に咥えた昆虫を脇に居た燕に素早く与えた。その光景は、私に少なからぬ感動を与えた。あれは、巣を離れた雛がまだ自力で餌をとれず親鳥が食事の面倒をみていたのだった。と同時に、ひな鳥達の生きていくための厳しい狩を親鳥が自ら実践し教えていたのかもしれない。並んだ雛たちも、川面から目を離さず、その場を動かなかった。渡り鳥の宿命ともいえる数々の試練が眼前に待ち受けていることを、雛たちは本能的に察知しているかのようだった。
 七月も終わりに近付いたが、燕の雛は生まれなかった。
 私は自分の危惧した事が的中した気がした。巣作りし雌燕が卵を抱く姿は、尋常に見えたが、番の雄燕が頻繁に卵を温める雌燕を訪ねてきた。最初、私は卵を抱く雌燕のため餌を運んでいるのだとばかり思っていた。しかし、よくよく見詰めていると、二羽の燕は、嬉々とした鳴き声をかわしサッと巣を離れ、空き巣にすることが多かった。
 この姿を見て、私はこの番が今年誕生した雛鳥のペアーではないか、ふっとそんな疑念が生まれた。ひょっとすると、卵は無精卵かもしれない。そんな卵とも知らず巣を温める燕を見守るのが、日々辛くなっていった。
 毎日朝起きると、私はカーテンの隙間からそっと燕の巣を覗くのが日課となった。幽かな一縷(いちる)の望みを托していた。妻も何も言わなかったが同じ思いであったろう。

          
             二

 近所に住む幼稚園に通うカオルちゃんが、燕を見に来たのはそんな頃だった。
 妻の呼ぶ声で階段を下りていくと、玄関先に、若い女と四・五歳位の童女が妻と立ち話をしていた。眉毛が濃い少女で、丸い顔立ちは母親譲りだった。
「このお嬢ちゃんが燕を見たいそうです」
 妻が笑顔で私に話を取り次いだ。
 若い母親が軽く会釈をして、
「突然ですみません。私、下の路地裏にある「寿(ことぶき)荘(そう)」と言うアパートに住む光岡(みつおか)と申します。この娘は私の長女でカオルです。いま、平和幼稚園の年長組に通っています。誰に聞いたのかお宅に燕が来ている、どうしても見たいと昨日の夕食の席で突然言い出しまして。ご迷惑でなければ、この娘に燕を見せていただけたらとおもいまして」
 母親の申し出に、カオルちゃんは息を詰めた顔で私をみあげていた。
「そうか、カオルちゃんは燕が好きなんだ。そりやいい。いつでも見においで」
 私の返事に、カオルちゃんの顔がパッと輝いた。
「ただ、雛(ひな)が生まれるのをカオルちゃんにみせられたらいいのですが、残念ながら無理のようです」
 と、苦笑まじりに母親に告げたら、
「えっ、雛はうまれないんですか?」
 母親が目を剥(む)いて驚きの顔になった。
「どうやら、この番(つがい)は今年生まれた若鳥のペアで、卵は無精卵のようです」
「まあ、それは可哀想ですね」
「でも、燕はペアで卵を守っていますから、いつでも見ることは出来ます」
 と、若い婦人に答え、腰を折り
「カオルちゃん、いつでも燕を見においで。まもなく、南の島に帰っていなくなるよ」
 同じ返事で念をおすと、
「えっ、燕はいなくなるの?何処に行くの?」
「遠い南の島にあるお家に帰っていくんだよ。そして、来年またここにやってくるんだ。
燕は渡り鳥だからね」
「またくるの?」
「くるとも、必ず帰って来るよ。生きているかぎり」
 カオルちゃんは私の話に、小さく頷いていた。
 この日から、カオルちゃんの燕見物が始まった。訪ねてくる時間は、いつも不規則だった。幼稚園に行く前の制服姿での慌ただしい訪問や、遅い夕暮れ時の見物で、妻をはらはらさせることも多々あったらしい。
 ある日の夕刻、カオルちゃんを呼ぶ母親の声が書斎に居た私の耳にはいってきた。ああ、燕を見にきているな、と思わず苦笑がわいた。暫くして母親の声がまた聞こえて来た。台所に妻がいないらしい。私は階段を下り玄関を出て車庫を覗いた。カオルちゃんが薄暗い車庫にポツンと立って燕の巣を見詰めていた。私が近づくと、直ぐに気が付き、
「おじちゃん、燕がいないよ」
 と、心細げに私に告げた。
「いない、それはおかしいね。よし、肩車をやろう。さあ、カオルちゃん肩に乗って」
 と言って私が腰を落とし、カオルちゃんを肩に乗せ立ち上がると、二羽の燕が巣の中からニユーと顔をだした。
「いた!」
 カオルちゃんが歓喜の声を上げたら、同時に二羽の燕も鋭い啼き声をあげ、夕暮れの空に飛び去っていった。燕を見送るカオルちゃんの眸が、キラキラと輝いていた。

 八月の声を聴くと、近くで飛翔していた燕の姿が、ぱたりと目に留まらなくなった。燕の南の島への渡りが始まっているのかもしれない。私は車庫の小さな巣から離れぬ番の燕が、なんとも哀れに思えた。渡りの群れに逸(はぐ)れたら、一体この番はどうなるのだろうと心が悼んだ。
 八月初旬の夕刻、私が畑仕事をして帰宅すると、車庫の上に張られた電話線の上に一羽の燕がポツンととまっていた。巣を掛けた雄の燕だと直ぐに分かった。落陽を浴びて南の空を見つめる姿が、心なしかしょんぼりとしてか細く見えた。こんな身体で群に入り、遠い南の島に渡って行く力が残っているだろうかと不安になった。
 車庫の巣に雌の燕がいた。もう、卵を抱いていなかった。巣の淵に立ち、熱気を避けるように嘴をいっぱい開け、ハアハアと荒々しい吐息をしていた。精根尽き果てた姿に見えて痛々しかった。私が近づいても警戒もせず、虚ろな眸を私に返すだけだった。渡って来たほとんどの燕のペアーは、雛を孵し賑やかなファミリーとなり、嬉々として南の島に飛んでゆくことだろう。私はこの番が傷心のまま群に入り、渡って行く姿を想像することはとても辛かった。「ご苦労さん、もう充分だよ」と、私は心で燕に囁きかけながら、ふっと目頭が熱くなり、逃げるように車庫を離れた。
 燕はその日を最後に姿を消した。
 翌朝、私は車庫の巣を見にいった。燕が去ってがらんとした空き巣を見て、私はやり場のない虚(むな)しさと妙な安堵感を覚えていた。昨夕に巣を離れたのか、或は、夜明けを待たずに
旅立ったのだろか。今頃、何処を飛んでいるだろう、ふっと、そんな想いが脳裏を過っていた。
 いつの間にか私の背後に妻がいて、
「去(い)ってしまったのね」
 と、言って微笑した。どこか、いたわりの声音がこもっていた。
「燕がいなくなって、カオルちゃん、きっと寂しがるわね」
 私は黙って頷きながら、薄暗い車庫に立っていたカオルちゃんを想い出していた。
「孵(かえ)らなかった燕の卵、鄭重に葬ってあげなくちゃ」
「そうだね、庭から梯子(はしご)を取って来る」
 と、私は妻に告げて梯子を取りに裏庭にいった。
 燕の巣は、燕の産毛が敷き詰められ、其処に五個の卵が産毛に包(くる)まるように並んでいた。薄いベージュ色の小さな卵は、手に触れると直ぐに殻が破れそうだった。私は野球帽を
脱ぐと、ひとつひとつ丁寧に帽子に入れ、見上げる妻に手渡した。
 妻は両手で帽子を受け取り、そっと中を覗き、
「まあ、綺麗」
 感嘆の声をあげ、目を丸めた。
「孵化(ふか)の様子がまるでない、やはり無精卵だったかもしれないな」
 妻は、一瞬顔を歪めて無言で頷くと、愛おしむように胸に帽子を抱き部屋へ入っていった。
 私が手を洗い、応接間に顔をだすと、妻はアクセサリーの箱に白い布を敷き、一個づつ丁寧に帽子から箱に移し始めた。
「孵化しない卵を…・・・ひと月近くも必死に抱いて・・・可哀そう・・」
 突然、卵を抓(つま)んだ妻の指先が震え始め、ぽたぽたと涙が箱に滴り落ち卵を濡らした。
 二人は黙って小箱を覗いていた。
 私の脳裏に、昨夕刻の燕の姿が甦っていた。
  渡り鳥は、集団を作り群で渡るという。燕もその例に洩れぬであろう。電話線に停まっていた雄燕は、刻一刻と渡りに心せつかれながらも、卵から離れられぬパートナーをじっと辛抱強く待っていたにちがいない。雌燕は断腸の思いで巣から離れ、待っていた雄燕と連れ立ち、群が去った遠い南の空へと旅立っていったのだろう。

                               完

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