「父の記憶、街の記憶」野上順

 野上修一は交差点の手前で振り返ると、マンションを見上げた。5階建てマンションの3階、左から4つ目、実家のリビングの窓には明かりがついていた。父がまだ起きているのだろう。母はもう寝ると言っていた。お盆休みを利用して帰省している弟の尚之は、久しぶりに中学時代の同級生と飲みに行くと出掛けて行った。
 実家は今から40年前の昭和52年に建設された、一千戸以上を擁する巨大マンション群の一室だった。作られたのはマンションだけではない。山を切り開いて新しい鉄道が敷かれ、なにもなかった荒れ地に「いずみ野」という新しい街が造られた。
 38年前、修一が中学2年になる春休みに、野上家はこのマンションに引っ越してきた。
 相鉄いずみ野線は、昭和51年に二俣川-いずみ野間が開業した。当時は、南万騎が原駅・緑園都市駅・弥生台駅・いずみ野駅の4駅しかなかったが、現在は小田急線の湘南台駅までつながっている。いずみ野駅周辺は、いずみ野線の敷設と並行して、何回かの工期に分けて開発された。野上家はその第一期開発地区の住人だった。もともと一家は隣の旭区に住んでいたのだが、子供たちも大きくなり、当時住んでいた2Kの県営アパートでは手狭になったので、一念発起した父親が新築マンションを購入したのだった。
 いずみ野の街全体の雰囲気はあまり変わっていなかったが、中身は様変わりをしていた。当時働き盛りだった住人たちは、マンションの築年数と同じだけ歳を取った。修一のように学生時代をいずみ野で過ごした人間の多くは、結婚をして、別の場所に移り住んでいた。街全体がまぎれもなく高齢化を迎えていた。
 この時間に乗れば今日中には帰れるかな。
 修一は腕時計と時刻表を交互に見てから、パスモに千円分のチャージをした。上り列車は行ったばかりで、次が来るまで15分ほど待たなければならなかった。休日ダイヤは22時を過ぎると上り列車の間隔は10分以上開く。母と尚之には泊っていけと引き留められたが、明日は妻の実家で送り火が待っていた。時刻表を実家で確認してから出てくるんだったなと思いながら、修一は改札を抜けた。
 ホームは夜になっても昼間に蓄えた真夏の熱気に包まれていた。修一のほかに人はいなかった。コンビニで買ったペットボトルの水をひと口飲むと、修一は大きく息を吸い込んだ。かぐわしき香りが鼻を突いてくる。
 いずみ野駅の周辺には畑がたくさん残されており、養鶏場や養豚場もある。特に夏の夜には、風向きによっては強烈な香りが駅のホームにまで届けられた。結婚前、修一がまだ実家から都内の会社に通勤していた頃、どんなに疲れて帰ってきても、いずみ野駅に降り立ちこの香りを嗅ぐとなぜかほっとしたものだった。
 香りのする方角へ顔を向け、修一がもう一度大きく息を吸い込んでいると、いきなりホームに列車が入ってきた。前の列車が行ってから5分も経っていない。構内アナウンスもなく違和感を覚えたが、立っているだけで汗ばんでいた修一は、迷うことなく列車に乗り込んだ。よく冷えた車内に乗客はおらず、修一はドアの横のシートに腰を下ろすと、さっきまでの実家での出来事を思い返していた。
 
 最近、お父さんの様子がおかしいのよ…母から最初の電話があったのは半年ほど前だった。もともと父親は糖尿病を患ってはいたが、足腰も頭もしっかりしていた…すくなくとも今年の正月に実家に皆で集まった時には。
 7か月ぶりに実家へ帰った修一は、思わず父親から目を逸らしてしまった。父の顔からは表情がなくなっていた。薄くなった白髪頭はボサボサで、ここ数日は髭も剃っていないのだろう。リビングのソファに座っていた父は、修一の顔を透かすように見つめた後、「修一か」とだけつぶやいて目を閉じた。先に来ていた弟の尚之は、半笑いの顔で兄を迎えた。
 母の話では、父は5月の連休明けくらいから小さな段差にも躓くようになり、手探りで歩くようになったという。近所の眼科に行ってはみたが、年齢からくる視力の衰えだろうと薬を出された。視力の弱くなった父は、外に出ることが少なくなり口数も減っていった。手元が覚束ないという理由で、日課のインシュリンの注射も最近では2、3日に1回になってしまったという。心配をした母が、友人に紹介してもらった別の眼科に父を連れていくと、「白内障」と診断された。82歳という高齢のうえ、糖尿病も患っていることから、手術をしても視力が元に戻る確率は低いらしい。それがきっかけということでもないのだろうが、父はすべてのことを面倒くさがるようになった。外には一切出なくなり、リビングのソファに座り、目を閉じたまま1日を過ごすことが多くなった。それでも三度の食事はしっかり摂るし、晩酌も欠かさなかった。布団の上げ下ろしも自分でやるほどに足腰はしっかりしていた。
 2週間ほど前の夜、寝ていた母は父に肩を揺すられて起こされた。薄明りの中、父は怯えた表情で「台所に誰かいるぞ」と母に言った。初めてそんなことを言われた母は、恐る恐る台所を覗いたが、誰もいなかった。「気のせいよ」父に言うと、「俺はさっき見た、まちがいない」と父は引かなかった。
 
 列車が大きく揺れて、修一は我に還った。弥生台駅に着いた。ドアが開いたが乗ってくる人はおらず、相変わらず車内には修一ひとりだった。再びゆっくりと電車が動き出すと、すぐにトンネルに入った。山を切り開いて通したいずみ野線にはトンネルが多い。踏み切りはひとつもなかった。この時間であれば星川駅で急行に抜かれることもないだろう。横浜まですこし眠ろうと、修一は目を閉じた。
 
 家族4人で水入らずの夕食は何年ぶり、いや何十年ぶりだろうか。今回は父親の病状の確認と複雑な話になるかもしれなかったので、修一も弟の尚之も家族は連れずに実家へ帰ってきていた。
 できるだけ病気の話には触れないようにしつつ、父の記憶を試すかのように仕事や家族の話をして、3人は父の表情や言動に注意を払った。視力が弱いので、食卓にも床にもおかずやご飯粒が散乱していたが、父の記憶にほつれはほとんどなかった。父は飲むほどに饒舌になっていったが、その顔に表情はなかった。
 父がリビングのソファに戻ったのを機に、母と修一、尚之の3人は今後の話をした。今すぐにどうこうなるとは思えなかったが、脳や身体の衰えは急速に進行するような気もした。まずは、8月中に修一も一緒に眼科へ行き、白内障の手術をするかしないかの決断をすることにした。新潟に住む弟は盆と正月くらいにしか帰省できないので、修一が月に一度、実家に顔を出すことになった。母は安堵の表情を浮かべたが、それでもこの広い家で父の面倒を見ていくことに不安を感じていた。状況を見ながら大きな病院でアルツハイマーの検査も受けたほうがいいかもしれない、そこまで話がおよんだ時、母が目を見開いた。
 父が立っていた。今まで見たことのない鬼の形相をした父が立っていた。
 「お前たち、俺のいないところでなんの相談をしてるんだ!」
大声を上げながら父はそばにいた修一に手を伸ばしたが、その手は虚しく宙を掴んだ。
 
 空気を切り裂くような音で修一は目を覚ました。窓の外は黒く、まだトンネルの中だった。音の出所をさがすと、向かいの座席の窓がわずかに開いていた。その隙間から、耳障りな音を立てて外気が車内に入ってくるのだった。窓を閉めようと立ち上がった修一は、バランスを崩して尻もちをついた。そこまで酒は飲んでないだろうと立ち上がったが、やはりつり革に掴まっていないと立っていられない。
 窓外の景色が流れないのでわからなかったのだが、列車はものすごいスピードで走っていた。トンネル内は速度を上げることを知っていたが、そんなレベルではない。しかもどんどん加速している。相鉄線の車両は、こんなスピードに耐えられる仕様ではないはずだ。飲みかけのペットボトルは、跳ねるように転がって隣の車両へと消えていった。
 車体はガタガタと小刻みに震えながら悲鳴をあげていた。修一は両手でつり革を掴み、後方に持っていかれそうな身体を必死に支えた。いや、スピードだけじゃない。いくらトンネルが多いからといって、いずみ野線にこんな長いトンネルはなかったはずだ。列車はいったいどのあたりを走ってるんだ…。
 車内の蛍光灯がちらつき始めた。つり革を掴んでいた指先が痺れてくる。力が入らない、もう限界だ…。そう思った次の瞬間、窓の外が明るくなった。
 トンネルを抜けた列車は、減速をしながらゆっくりと右にカーブを切っていく。修一は胸を撫でおろしながら、窓の外の日差しに包まれた街並みに目を細めた。それも束の間、修一の心臓は再び激しく打ち始めた。
 いつ、夜が明けたんだ。俺はいずみ野駅から22時過ぎの横浜行きの列車に乗ったんじゃなかったのか? いや、それは夢か。俺は昨日引き留められるままに実家に泊まって、今朝帰っているのか…。
 列車がホームへと入っていく。修一はホームで列車を待つ人たちの間から、駅名の書いてある柱をさがした。<二俣川>。いずみ野駅から上り列車に乗って、二俣川駅に到着した。おかしなことはなにもない。やはり、俺の勘違いか。
 ドアが開くと、修一は思わずホームに降り立った。たくさんの人たちを乗せた上り列車をぼんやりと見送った。腕時計は午前9時をまわったところだった。自宅には夕方までに帰ればいい。せっかくだから久しぶりに二俣川を歩いてみるか。気持ちを切り替え、階段を上っていった修一は、改札の手前で足を止めた。改札の中に人がいた。背中を向けた駅員は切符に鋏を入れ、こちらを向いた駅員は切符を受け取っている。修一は階段を駆けおりてホームへ戻ると、駅名の表示板をさがした…<二俣川>。上りの次の駅は<鶴ヶ峰>、下りの次の駅は<希望ヶ丘>…。<南万騎が原>の表示が、ない。修一は生唾を飲み込んで、下り方向に目を遣った。線路は大和方面へ向かってまっすぐ延びている。分岐しているはずのいずみ野線の線路はなかった。
 俺はどこから来たんだ? もう一度、駅名表示を見上げる…<二俣川>、まちがいない。駅の雰囲気も修一が知っている二俣川駅だった。
 修一は深呼吸をして、足元を確かめながらゆっくりと階段を上り、もう一度改札を見た。自動改札機ではなく、駅員が立っていた。
 背中を向けた小太りの駅員がリズミカルに切符に鋏を入れている。こちらを向いた背の高い駅員が微笑みながら切符を受け取っている。修一が小学生の頃、当たり前のように見ていた光景だった。
 なんて懐かしいんだ…。
 修一は思わずつぶやいた。思いついたようにトイレへ駆け込み、鏡を覗いた。白髪交じりの頭に無精髭を生やした52歳の男が映っていた。
 もはや修一に恐怖心はなかった。騙されているのならそれでもいい。夢でもかまわない。小学生の頃に自分が育った街を、大人になった今、歩いてみたい。
 修一はパスケースを持って改札に向かった。切符は買っていない。駅員に呼び止められたら、切符を失くしたと言って運賃を払えばいい。背の高い駅員はパスケースをちらっと見たが、修一を呼び止めはしなかった。
 無事に改札を抜けた修一は、迷うことなく南口へと向かった。南口は万騎が原方面で、修一が住んでいた団地や小学校、一年間だけ通った中学、そして大池公園などがあった。反対側の北口に行くことはあまりなかったが、神奈川県の運転免許試験場があった。二俣川を知らなくても、「運転免許試験場があるところ」と言うとピンとくる人が多かった。
 南口には、かつて「グリーングリーン」という駅ビルがあった。二俣川駅前再開発のために3年前に閉鎖されたことを、修一は年賀状のやり取りだけは続いている小学校の同級生の年賀状で知った。
 修一が足早に南口を進んで行くと、そこにはグリーングリーンがあった。
 休みの日には屋上遊園地に弟と一緒によく遊びに来た。修一が小学校6年生の時、グリーングリーンにあったレコード店で生まれて初めてレコードを買った。そして…はやる気持ちを押さえながら、修一は階段を上っていった。果たして、グリーグリーンの2階にはボーリング場があった。
 修一が小学校低学年だった昭和47年頃、日本中がボーリングブームに沸いた。「さわやか律子さん」のCMで一躍有名になったプロボーラー中山律子さんは、アイドルだった。
 修一が目を細めてボーリングを楽しむ人たちを見ていると、視界の隅に見覚えのある顔を見つけた。
 顔を真っ赤にしてボーリングボールを両手で抱えているのは、かつての修一だった。大人の自分が子供の自分を見ているのだ、見まがうはずがない。
 体の小さな修一少年は、両手でボールを抱えたままよろよろと進み、レーンの手前で押し出すようにボールを放った。ゆっくり転がっていたボールはすぐに勢いを失くし、ガーターの溝に落ちてそのまま転がっていった。泣きべそ顔の修一少年が小走りで向かうその先に、両手を広げた父がいた。今の修一よりもずっと若い父は、修一少年を軽々と抱き上げた。
 思いもよらぬ光景に呆気にとられていた修一だったが、慌ててジーパンのポケットからスマホを取り出した。これが夢でないのならば…。画面は真っ暗だった。電池切れらしく、電源ボタンを長押ししても電源は入らなかった。
 顔を上げると、父が投球姿勢に入っていた。修一少年を振りかえると、父は美しいフォームでボールを放った。乾いた音とともに10本のピンが弾ける。見事ストライク。振り向いて小さなガッツポーズを決める父に、笑顔の修一少年が飛び込んでいった。
 二俣川駅からはしばらく銀杏並木の上り坂が続いた。懐かしい風景を楽しむように、修一はゆっくりと歩いた。左側にスーパー「OK」が現れ、その向こうに修一が一年間だけ通った万騎が原中学校の校舎が見えた。たくさんの人が行き交う万騎が原商店街の手前を右に曲がると、修一が10年以上住んでいた県営万騎ケ原団地が見えてくる。
 3階建て14棟のアパートが規則正しく並び、その中心には公園があった。毎年夏には旭区のソフトボール大会が催され、万騎が原団地チームはこの公園で練習をしていた。夏祭りの時には中央に櫓が組まれ、公園のまわりにはたくさんの屋台が並んだ。
 まず修一が驚いたのは、道路の狭さだった。子供の頃に走り回っていた道路は、大人になった今こうして立ってみると思った以上に狭く、車がやっとすれ違えるくらいの道幅しかなかった。公園もそうだった。よくもこんなに狭い公園でソフトボールの練習をしていたものだと、感心してしまうほどの狭さだった。
 公園では首からカードをぶら下げた、たくさんの人たちが体操をしていた。最前列で対面している大人たちは、みな一様に眠そうな顔をしている。彼らの足元のラジオからは、軽やかなメロディーが流れていた。夏休みの間はラジオ体操が毎朝行われていた。
 時間軸は明らかにおかしかったが、懐かしさと好奇心に支配されている修一には、もう何も気にならなかった。
 体操が終わり、ラジオから明日訪れる会場を知らせるアナウンスが流れはじめると、子供たちは競うように大人たちのところへと走り出した。首から提げている体操カードにハンコを押してもらい、ハンコがいっぱいになる最終日にはお菓子がもらえた。子供の頃は、そんな些細なことがとにかく楽しかった。
 「いってらっしゃーい!」 
 仕事に行く父を見つけた修一少年が、体操カードを大きく振り回しながら叫んでいる。振り向いた父が笑顔で手を振り返した。このあと修一少年は、朝食も忘れて友だちと遊びはじめるはずだ。よく母に怒られたな。苦笑しながらうつむいた修一の足元には、たくさんのどんぐりの実が落ちていた。公園を囲むように植えられていたクヌギの木には、毎年たくさんのどんぐりの実が生った。釘で中身をくり抜いて作る「どんぐり笛」を教えてくれたのは、父だった。修一は大きくて形のいいどんぐりをひとつ拾い上げ、ジーパンのポケットに入れた。
 修一は万騎が原団地をあとにすると、小学校への通学路を歩き始めた。やはり道路はとても狭く感じられた。横道から子供たちが次々と合流してくると、通学路は小学生であふれかえった。
 前を歩く集団の中に修一少年を見つけた。黒いランドセルを背負い、右手には手提げ袋を持っている。修一はその手提げ袋の中身をもちろん知っている。弁当箱だ。
 当時、小学校は完全給食制だったが、修一はひとりだけ弁当を持参していた。家が貧しくて給食費が払えなかったという理由ではない。食品添加物に関心を持っていた母が、添加物を含んでいたであろう学校給食に反対し、校長に直談判をして、修一に手作り弁当を持たせていたのだった。最初は本当に恥ずかしくて、嫌だった。友だちはみんな給食なのに、どうして自分だけ弁当なんだと。でも、そのことでいじめられた記憶はなく、むしろ羨ましがられていた記憶しかなかった。
 住宅街を細く長く続く通学路の先に、万騎が原小学校の校門があった。
 修一は結婚して実家を出てからも、何度か小学校の前の道を車で走っていた。修一の子供がまだ小さかった頃、いずみ野の実家へ家族で行った際、両親も車に乗せて大池公園へ遊びに行くことがあった。修一はハンドルを握りながら横目で万騎が原小学校を眺め、大池公園とつながっていた校庭の崖が金網で封鎖されているのを見るたびに、寂しい気持ちになった。実家へ行く時はいつでも車だったので、以前住んでいた万騎が原団地に寄ってみたり、通学路を歩いてみたりすることはなかった。
 修一は登校する小学生に混ざって校門を入っていった。下駄箱で修一少年を見送ってから、修一は校庭へ向かった。
 校庭の周辺には校舎以外に視界を遮るものはなく、開放的な空間が広がっていた。校庭の一番奥には昔のままの崖があり、大池の森とつながっていた。幅30mはある崖には、運動会の綱引きで使うような太いロープが5本かかっていた。修一たちは放課後になるとそのロープを使って崖の上まで登り、すべり台のように尻で滑って遊んだ。
 テンションの上がった修一は、子供のように両手を振り回しながら崖まで走っていった。ロープを掴んだ腕に力を込め、一歩ずつ崖を登っていった。
 登りきった崖の先には、鬱蒼とした大池の森が広がっていた。修一は一度だけ、父を「秘密基地」に連れて行ったことを思い出した。
 小学生の頃、大池の森の中に「秘密基地」を作ることが流行った。森の中にぽっかりと空いた場所を見つけると、商店街でもらったダンボールをせっせと運んで屋根や床にした。家にあったおもちゃやマンガ本を持っていって、秘密基地で自分だけの時間を過ごした。雨が降るとすべてが台無しになったが、また違う場所に新しい基地を作った。
 秘密の基地なのだから誰にも内緒だったが、何度目かに作った基地はそれまでの最高傑作で、修一はどうしても誰かに見せたかった。母には絶対に怒られると思ったが、父ならば男同士、わかってもらえると思ったのだろう。夏の終わりの日曜日に、修一は父を秘密基地に招待した。父はニヤリと笑い、「招待してもらったのだから手ぶらでは申し訳ない」と、小学校の近くの駄菓子屋でお菓子とジュースをたくさん買ってくれた。
 父は基地をほめてくれた。日が暮れるまで基地の中で父と過ごした。学校の話や好きな女の子の話をした。父もめずらしく、小学生の修一に仕事の話をしてくれた。詳しい内容までは覚えていないが、初めて父から戦争の話を聞いた。夕飯の支度を終えて、二人の帰りを待っていた母にはずいぶんと絞られた。母はどこで遊んでいたのかを何度も聞いてきたが、父は最後まで基地のことは言わなかった。それがとてもうれしかった。
 修一の妻も横浜の人間で、実家は市内にあった。田舎と呼べるような「場所」のなかった修一家族にとって、大池公園は田舎と呼べるだけの自然を存分に楽しめる場所だった。
 修一が子供の頃は、山に囲まれた大きな池に小川が流れ込むだけの、遊具もなにもない公園だった。春は芝山で花見をし、小川でザリガニに指を挟まれ、池では釣り大会が行われた。夏は山でカブトムシやクワガタを採り、秋はトンボを追いかけて草っぱらを駆けまわった。現在の大池は昔の良いところを残しつつ、ちびっこ動物園やアスレチック遊具、バーベキュー広場などが整備され、家族で一日中楽しく過ごせる公園になっている。おそらく大池の森のどこかには、最新技術を駆使した今風の「秘密基地」があることだろう。
 小学校の校庭から森へ入った修一は、山道を歩き、大池公園へと降りていった。池の周りは釣りを楽しむ人たちで賑わっていた。修一は宝探しをするように、池の周りを歩いた。
 修一少年は、大きな石の上に座って釣り糸を垂れていた。小学校5年生くらいだろうか、水面の浮きを見つめる修一少年は、日に焼けて真っ黒だ。彼の後ろには父が座っていた。父はタバコの煙が空に溶けていくのを、ぼんやりと眺めている。
 わずかに浮きが沈んだ。修一少年は慌てて釣竿を上げる。エサは食われ、釣り針だけがゆらゆらと風に揺れていた。「早いってさっきも言ったろ。もう少し魚にエサを食わせてから竿を上げるんだよ」父が言う。修一少年はしかめっ面をして口を尖らせた。その様子を見ていた修一は思わず吹き出した。大池には父と二人で何度か釣りに来たが、父だって一匹も釣れたためしがなかったのだから。
 懐かしさに満たされた修一は、大池公園を背にして、二俣川駅へと歩き出した。

 受け入れることができるだろうか。いや、できるできないという二択ではない。それはわかっている。受け入れなければならない、自分の父親なのだから。
 同年代の友人と飲みに行くと、最近では必ず自分の健康と親の介護の話になった。すでに親の介護が始まっている友人がいた、介護から解放された友人もいた。身近な話のはずなのに、どこかウワノソラの自分がいた。母から事前に話を聞いていたので心の準備はそれなりにしていたつもりだったが、無理だった。受け入れるどころか、向き合うことさえできなかった。父から目を逸らした。そして何度も疑った、父はふざけているのではないかと。
 おそらく誰よりも戸惑い、苛立っているのは父自身だろう。一年前までは、労働組合時代の友人と旅をし、マンションの自治会の副会長まで務めていたのである。今まで当たり前のようにできていたことができなくなり、行きたい所へも行けなくなった。会いたい人にも会えなくなった。そんな現実に、父は今、懸命に向き合おうとしている。
 昨夜、父が鬼の形相で怒鳴り散らしたあと、母は泣き出し、それ以上は何も話すことができなかった。
 
 万騎が原商店街が見えてきた。修一は、それぞれの店の思い出をたどるように歩いた。
 酒屋の裏から酒ぶたを取って走って逃げた。角のおもちゃ屋では夏になると花火をたくさん買った。文房具屋のお姉さんは子供ながらに色っぽいと思った。硝子屋の息子はいつも鼻を垂らしていた。八百屋と金物屋は同級生の店だった。みんな今でも元気だろうか。
 修一には行ってみたい店があった。蕎麦屋だった。
 店名の書かれた暖簾の隙間から、修一は店内を覗いた。入口のほうを向いて横並びに座る修一少年と父が、もりそばをほおばっていた。修一は店に入ると、二人の斜め後ろのテーブルに座ってもりそばを注文した。修一少年と父は、店の壁に掛かっているテレビを見上げながら、黙々ともりそばをすすっている。店のテレビでは、牧伸二の『大正テレビ寄席』がいつも流れていた。
 高卒で運送会社に勤めていた父は、仕事一筋の苦労人だった。当時は今のような週休二日制ではなく、休みは日曜日だけだったのだが、昼になると父は子供たちをよく蕎麦屋に連れて行ってくれた。注文するのはいつも一番安い「もりそば」と決まっていたが、修一にとっては最高の贅沢だった。
 「バーゲンだよぉ~♪」の声とともに牧伸二がウクレレを弾きながら現れ、番組の人気コーナーが始まった。牧さんが会場のお客さんと面白おかしいやり取りをしながら、「あゆみの箱」に募金を入れていく。
 テレビを見ながら蕎麦をすすっていた父が箸を止め、声を上げて笑った。その笑い声を聞いた修一少年が、父を見上げて遅れて笑う。修一は目の前に置かれたもりそばに箸を付けるのも忘れて、二人をずっと見つめていた。
 父を見つめていた修一少年の視線に、修一の視線が重なった。
……あぁ、そうだ、俺は父のこの無防備な笑顔が大好きだったんだ。
 ボーリングでストライクを出した父、「いってらっしゃい」に振り向いて手を振ってくれた父、秘密基地で好きな女の子の話を聞いてくれた父、つり針にエサを付けてくれた父、そしてもりそばを食べながら大笑いをしていた父。その無防備な父の笑顔が好きだったんだ。
 父はもう一度、笑ってくれるだろうか。大好きだったあの笑顔を、もう一度俺に向けてくれるだろうか。
 
 「お客さん、横浜ですよ、終点ですよ」
 駅員に肩を叩かれて、修一は目を覚ました。目の周りがやけに熱い。指でそっと触れると涙の乾いた跡があった。夢を見て泣いていたのだろう。修一は座席からずり落ちそうになっていた体を起こした。腕時計は23時をまわっていた。
 この時間なら今日中には家に帰れそうだな。
 修一は横浜駅のホームに降りると、大きく深呼吸をして背筋を伸ばした。改札に向かって歩き出す。長い長い夢を見た修一に、もう迷いはなかった。
 老いていく父を受け入れるには、まだまだ時間がかかるかもしれない。でも、父としっかり向き合おう。そして、もう一度、大好きだった父の笑顔を取り戻したい。だから…そう、だから、父を万騎が原へ連れて行こう。幼い家族の記憶が散りばめられた街を、父と二人で歩きたい。視力が弱くなって手探りでしか歩けないなら、手をつないで歩けばいい。子供の頃、父に手を引かれて歩いた街を、今度は自分が父の手を引いて歩けばいい。
 街は昔のままではないだろう。住んでいたアパートは建て替えられたと聞いた。商店街には閉店した店もあるはずだ。でも、人も街も昔を生きているわけではない、前を向いて今を生きている。変わっていくものもあれば、変わらないものもある。ただその時代を生きてきた誇りが、人にも街にもある。
 父の記憶に刻まれている街がある。
 街の記憶に刻まれている父がいる。
たとえ視力を失ったとしても、父はなにかを感じ取ってくれるにちがいない。
 ジーパンのポケットになにげなく入れた手の先に、何かが触れた。その懐かしい感触を確かめるように、修一はどんぐりを握りしめた。

著者

野上順