「特別な今日に花束を」涼風弦音

 どうしよう、どうしよう。自分の周りだけ時間が止まった気がした。キャンパスを歩く人たちの足音が自棄に大きく頭に響く。
 時々、自分は大学生と名乗って大丈夫なのかと疑ってしまう。年齢だけ重ねてしまったのではないか、なんて。結構真面目に毎日を送っているはずなのに、時々普段からは考えられないくらいの大きなミスをする時がある。自分が抜けている方だとは思わないけれど、……もしかしたら本当に頭のネジが抜けているのかもしれない。──例えば、今日だって。

   ***

 秋風が太陽の日差しを優しく包んで、駅前の木々を撫でる。毎週火曜日は、講義が三限からだから、昨日とは違いゆったりと相鉄線に揺られた。特に今日は特等席(そうにゃん吊り革の前)に座れたからいつもより少し気分が良い。定期をぴっと改札で鳴らして、緑園都市駅を下りた。フェリス女学院大学に通って一年半。「フェリス=山手」のイメージが強かった私も、今では「フェリス=緑園」がすっかり身体に染み付いた。
 腕時計を確認すれば、針がてっぺんで重なっている。講義が始まるまであと一時間。ヒールに優しいタイル張りの坂を上っていると、携帯が震えた。画面には仲のいい友人の名前と一緒に、愉快なメッセージのポップアップがあった。
『みんな、まーだー? お腹空いた』
『陽奈のお腹がうるさいから、早くおいで』
『ヒドイ、美咲、毒舌!(笑)』
『やっと講義終わった! 部室寄ったら行く!』
『優里はよく転ぶから、ゆっくりで平気♡』
「私は正門着いたよ! すぐ向かうね! ……っと」
相変わらず忙しそうな優里と、元気な陽奈のお腹に笑いながら、いつものやり取りに返信ボタンを押した。彼女たちとはいわゆる仲良しグループではあるけれど、学部が違うこともあってあまり講義で会うことはない。だから、こうして時々お昼ご飯を一緒に食べることにしている。学食を頼んで、近況報告だったり、課題の相談だったり、恋話だったり……、女子大生らしいあの時間が私は好きだ。
『みんな早く来て!!』
陽奈のメッセージを最後に静かになった携帯を一度消して、足を急かす。向かうは大学の食(アン)堂(デレ)だ。チャペルから流れるパイプオルガンを聞きながら食堂のドアに手を掛けると、もう既に他のメンバーは集まっていた。
「……うわ」
思わず声がもれた。彼女たちの間にはいつもと違う空気が流れていた。そう、やってしまったのだ。ポカといえば可愛いけれど、私は大きな失敗をした。
「みんな、ありがとう!」
そこには、嬉しそうに頬を染めながらいっぱいの紙袋を抱える優里がいた。慌てて携帯のカレンダーを開けば、今日の日付にケーキのマークがあった。
「祝、二十歳だね」
「お酒も解禁かぁ、いいなぁ」
口々にみんながお祝いの言葉をかける。
「開けていい?」
彼女は、手にした紙袋を一つずつ丁寧に開いていく。最近流行りの洋菓子に、部活の時に使えそうなタンブラー、有名なブランドの化粧品……どれも彼女のことを考えた素敵なプレゼントだった。──私は、大切な友人の二十歳の誕生日を忘れていたのだ。
 扉に手を掛けたまま呆然と立ち尽くしていると、また携帯が震えた。
『まだ着かない? 大丈夫? 食堂の奥にいるよ!』
そんな気遣いにも申し訳なくなって、私はすぐに返信した。
『ごめん、忘れ物したから一回帰る!』
そしてその場から逃げ出した。

   ***

 さっき上った坂を駆け下りる。講義が始まるまであと四十五分。今から横浜に出てプレゼントを探すわけにもいかなくて、お店のある駅前まで戻ってきた。
 来週、また会ってプレゼントを渡せばいい。優里は絶対怒らない。……そんな風にも思ったけれど、やっぱり違う。だって二十歳の誕生日は特別で、一生に一度しかない。みんな、私の誕生日は忘れないで祝ってくれた。一人暮らしの私にとって、それは本当に嬉しくて……。それなのに、今日が何の日かを忘れていた自分のぽんこつさに涙が零れそうになる。
 凹んだらダメだと頭を振った。足を止めて、乱れていた呼吸を整える。その時、鼻腔を甘く柔らかい香りが撫でた。香元を探してきょろきょろすると、そこにはT字に選定された不思議な形の木があった。電車のガタンガタンという音がして、上部の緑から覗く橙の花が小さく揺れる。目線より高いところにあったから、今まで気にも留めていなかった。
「これ、……金木犀?」
いつも大学とアパートの往復でしか使ってなかった駅。でも、その優美な香りは私を立ち止まらせた。その時、ふと彼女へのプレゼントが思い浮かび、私はお店に駆けこんだ。時間がないからあり合わせで……というわけじゃなくて、特別な誕生日にはこれがいいと心から思った。

   ***

 講義が始まる十五分前、私は再び食堂に戻った。もうすぐ講義が始まるからか、さっきより随分と学生が少ない。だけど、彼女たちはさっきと同じ場所でコーヒーを飲みながらお喋りしていた。
「ごめんね、遅くなって」
今度こそ、隠れる事もなく話しかければ見慣れた顔が一斉に振り向いた。
「忘れ物大丈夫?」
「ご飯は? 食べてきた?」
「授業間に合ってよかったね。よかったら食べる?」
優里はプレゼントに貰った洋菓子を広げると、私にも一袋差し出した。だけど、私は後ろに回した手を彼女の方に出さない。
「……いらない? 陽奈がくれたんだけど、凄く美味しいよ?」
受け取ろうとしない私を不思議に思ったのか優里は首を傾げた。「いらないなら、陽奈が食べるよ!」なんて自分で渡したプレゼントを食べたがる食いしん坊を美咲は慣れたように制する。そんな二人を微笑ましく思いながら、私は背に隠していたものを彼女の前に出した。
「優里、二十歳おめでとう!」
ふわりと二人を花の香りが包む。そこには、ピンクの可愛らしい花束があった。駅前で金木犀の香りを感じた時、私は「フローラ」という花屋に入った。花の香りは私の焦っていた気持ちがふっと落ち着かせてくれた。部活に講義と毎日頑張っていて忙しそうな彼女にも、肩の力を少しだけ抜いて欲しいと思ったのだ。
 優里は大きな瞳を開いて固まっていた。周りで見ている友人も、ぽかんとしている。
「……えっと、お花はダメだったかな」
周りの反応に怖くなって、ブーケの包装が苦しそうな音を立てた。だけど優里は首を横に振って、花にも負けないくらい笑顔で言った。
「ううん、嬉しい……ありがとう!」
私の手から花束を受け取ると、彼女はブーケにそっと顔を埋めた。ダリアが彼女の頬を優しく撫でる。
「何か少し照れちゃう。凄く良い香り」
「これ、駅前のお花屋さん?」
「そう言われればこの街って自然多いね。花壇とか並木とか」
緑園都市には、花屋だけでなく自然が多い。春になれば駅前にチューリップが咲くし、秋は大学前に紅葉が並び、住宅街に入れば綺麗なガーデニングがある。住居表示のプレートも緑葉が描かれていて、名前通り緑が多い街だ。
「待って、ちゃんとお花屋さんで買ったブーケだから!」
照れ隠しするように言えば、美咲は揃ったプレゼントをパシャパシャと写真を撮りだした。
「美咲、みんなで撮ってよ!」
優里は恥ずかしそうに、私たちの後ろに隠れた。
「仕方ないなぁ。セルフタイマー、五秒だからね! いい?」
携帯を机にセットして、美咲がこちらに戻ってくる。時間を刻むタイマーがぴかぴかと光って、みんなが優里を囲うようにポーズをとった。いっぱいのプレゼントと花束を持つ彼女はほんのり目を潤ませていた。
「みんな、ありがとう」
パシャリと鳴った軽快な電子音に紛れて彼女の潤んだ声が聞こえた。画面には大人になった満開の笑顔たちが一瞬になって切り取られている。まるで祝福するように、チャペルから鐘の音が響いた。

著者

涼風弦音