「特別な日ではなかった」鈴木 彰

 会社の始業時間に間に合わせるには弥生台駅六時二十四分発の横浜行各駅停車だったはずだと秋葉 実は思い出して家を六時に出た。
二十分も歩けば余裕で駅に着ける距離だが、早めに家を出てホームで待つのを常としていた。慌てると直ぐに頭が真っ白になり、ちぐはぐな行動をとってしまう。過去に何回も失敗していたからだ。家内、特に娘は家を出た瞬間に猛然とダッシュして電車に飛び乗るのだった。家族と一緒に出掛ける時にも秋葉は一足先に家を出ていたほどだ。 
 ホームの白線に並んでいると隣にサラリーマンがすっと立った。 ああいつもの人だ。相変わらずこの電車で通勤しているのか。今日で会うこともなくなるな。と隣の男の横顔をちらりと見た。
 向かいの下りホームには、いつもの学生がたたずんでいる。下りホームの八輌編成最前部を示す白線の当たりで、おばあちゃんと二人で電車をよく待っていたなぁ。
 認知症のおばあちゃんを連れて毎週日曜日に湘南台経由で江の島水族館のイルカショーを見に行っていた。病気のせいで外に出たがるおばあちゃんをディサービスがない日曜日にはどう対処してよいか持て余していた。バス・電車に乗って水族館に行くのは時間潰しにはもってこいだった。毎週行っている水族館に着いて、初めて来たように目をキョロキョロしている。二十分くらいのイルカショーを見終わり、次のショーが始まるまでの約一時間を待つのがまた一苦労だ。認知症は時間の経過を把握できず、じっとしていられないからだ。持ってきたお菓子を席で食べて、
「じゃ帰ろうか」
と一旦水族館の出口から外に出て、
「あれ、水族館だ。入ってみようか」
と声をかけて、年間パスポートを利用して初めて来たかのように入りまた同じ席に座る。初めて来たかのように目をキョロキョロしている。二年近く毎週通っただろうか。ホームで
「桜が咲いてきれいだね」
「桜、もう散ったね」
と話しかけ、夏はホームを動き回っている蟻を見つけては、なぜかとりつかれたように足で潰していたのを黙って見ていた。今は体が弱くなり、バスにも乗れなくなった。そんなこともあったなぁと秋葉は三年前のことを思い出していた。
 電車が近づいてくる警告音がトンネルの向こうからプップップッと聞こえてきた。
 よし、今日で通勤もお終だ。秋葉は今日が四十年間勤めた会社の退職の日だった。有給休暇を使って二か月間ほど出社しなかった。八月末の今日でサラリーマン生活に終止符を打つ特別な日なんだと家を出る時から考えていた。
 六時二十四分発の各駅停車の後ろから二両目は、ギリギリ座れるかどうかの込み具合だ。一番前に並んでいた秋葉は、さっといつも乗ってきている女子高生の隣に座った。車内を見渡すといつも乗ってきていた人がいつもの席に座っている。どれとさりげなく女子高生の手元を覗くと楽譜を見ていた。吹奏楽部らしい。カラフルなメモ書きがあっちこっちにある。頑張っているなぁ。
 秋葉も社会人の吹奏楽団に所属していた。
五十過ぎから始めたクラリネットは、吹奏楽をやっていますと人に言えたレベルではなかった。ゆっくりしたテンポの曲ならまだ演奏についていけるが、十六分音符がずらりと並び アレグロともなると全くお手上げの状況だった。練習すれば誰でも出来るようになるとは、若者を励ますセリフであり、中高年には、だめでもともと、焦らず、気長にと自分に言い聞かせるのが長く続けていく極意だと思い知らされていた。
 楽団を指導してくださる先生は、この楽団の発足当時から指導をなさって、もう二十五年以上になる。音大の教授だった方で、すでに八十歳を越えていた。誰でも練習すれば演奏出来るようになる。それには基礎練習が大切です。との信念から、繰り返し、繰り返し基礎練習を楽団員に指導していた。秋葉は基礎技術のスタッカートも満足にできなかった。先生は親切心からかよく団員の一人ずつに演奏させては細かく個人指導をしていく。秋葉の番になると先生から、こうやって、ああやってごらんとの技術指導の万策が尽きて
「えーと、秋葉さんは楽団に入って三年目かな。もう少し頑張れば出来るようになりますから」
と指導から励ましに変わった。秋葉は
「はぁ」
と返事して、もうこの楽団に入って八年目だけどなぁと思い、うつむいた。練習が終わり、駅に向かう帰り道に同じ楽団の若い女性が
「あ、秋葉さん。今年も三年目でしたね。去年も三年だったわよね」
と追い打ちをかけてきた。下手でもなんとか音楽に触れていたいと願っていたが、先生とちょっとしたトラブルで気まずくなり、趣味でやっているのに先生の顔色をうかがってなんかいられるかと楽団を辞めてしまった。もう四年前のことだ。
 上の人との折り合いか。どうして俺は世渡りがこうも下手なんだろう。会社も社長の考えがどうしても腹に据えかねて六十五歳の一年前に退職することにしたのだった。何が何でも六十五まで働くと覚悟を決めていたのに、この様だもんなぁと秋葉は自嘲気味に自分の性格を思った。隣の女子高生は俺みたいに途中でやめることなく頑張って欲しいものだと余計なことまで考えた。
 各駅で二俣川駅まで行き、急行に乗り換え横浜に急ぐ人が大部分だが、秋葉はそのまま各駅で寝て行くのを常にしていた。朝少しの仮眠は効果絶大で、朝のだるさを仮眠のおかげで横浜に着く時にはリフレッシュしていた。二ヶ月振りの通勤で特段疲れているわけではないのに、ぐっすりと寝て行った。
 横浜駅に着くと乗客がどっと我先に降りる。秋葉も感慨にふけっている場合ではなく、人込みに飲まれて地下の改札に突進した。目の前の人が改札機にピンポンと弾かれた。ワワッと秋葉の後ろ三・四人が隣の改札にずれる。秋葉は頭が真っ白になりただ立ち尽くす。機械に弾かれた人は何度もパスモを改札機にペタペタ押し付けるがらちがあかない。こりゃだめだと秋葉は隣の改札機に割り込もうとしたが、若者の体当たりに弾かれ、次の人にすみませんと声をかけ、オタオタしながらなんとか改札を通った。最後の通勤だというのにやってくれるじゃないの。今日は特別な日なんだからせめてスムーズに通らせてくれたっていいじゃないか、くそっ、とつぶやいた。
よりによって最後の日までこんな調子なんだなぁと思いながら東海道線ホームへの階段を駆け上がった。
 東海道線のホームに並び、発車ベルの音が小さく聞こえる相鉄のホームを見上げた。湘南台行きの各駅停車が滑りだして行った。
 いつもの通りに電車が来て、止まり、いつもの乗客がいつもの車両の、いつもの座席に座る。そしていつもの通り電車が動き出す。自分が今日は特別な日なんだぞと地団太を踏んでもうまく事が運ぶわけでもなんでもない。そうだな、今日は特別だ、じゃ明日は特別な二日目となるのか。いや、明日はいつも通りとなっているだろう。そう考えていくと今日が特別な日と考えるほうがおかしい。今日はいつもの日なんだ。何を気負っているのだ。秋葉は自分自身をニヤリと笑った。
 既に混んでいる東海道線がホームに入ってきた。秋葉は通勤していたころと同じ様に、前にいる乗客を肩で押しながら車内に入って行った。

著者

鈴木 彰