「目久尻川カッパ物語」河野童子

 ぬるり、と水面から顔を出す。人間に見つからぬよう、そっとだ。別段、見つかったところで儂自身は気になどせぬが、人間を悪戯に驚かすこともあるまい。
 儂の頭には皿がある。儂の背中には甲羅がある。儂の指には水かきがある。そう、儂は河童だ。ここ、目久尻川に棲んでいる。
 儂がこの地に流れ着き、一体どれ程の時間が経っただろうか。ゆうに百年は経ったか。どうにも我々は、時間の概念が薄い。まあ、人間とは違い、時間に追われる生活をしているわけでもないので、さして困りもせぬが。
河童の悠久ともいえる生涯からすれば、わずか百年など刹那の出来事だ。百年前の事など、昨日の夕食のように簡単に思い出せる。昨日は胡瓜を食べた。一昨日は胡瓜。その前も胡瓜。百年前も胡瓜を食べていた。
 しかし、その瞬く間に過ぎ去った百年であったが、振り返れば激動の時代であった。儂自身の生活に別段の変化があった訳ではない。朝起きて、胡瓜を食べ、昼寝をし、皿と甲羅の陰干しをして、胡瓜を食べ、そして寝る。そんな生活を百年続けてきた。それでも、儂が身を置く環境は随分と様変わりした。
 儂は天を仰ぎ見る。夏の日差しは強く、儂は目を細めるが、それでも目当てのものは見えた。
 儂の頭上を、紺色の電車が駆け抜ける。人間が、「相鉄線」と呼ぶ電車だ。陽の光を反射させながら走り去った電車を眺めつつ、儂はこの百年の出来事に思いを馳せることにした。

 儂がこの地に居を構えると決めたのは、単なる気まぐれだった。大きな川より、他の河童のいない、こぢんまりとした小川を好んだのでここを選んだだけだ。
 あの頃は、本当にこの辺りは静かであった。なにせ、川と丘以外、何もなかった。人間もさほど多くはなかった。
 別段人付き合いが嫌いな訳ではないが、あの頃の儂は、静かに暮らしたかったのだ。ともすれば、河童もおらず人間も少ない目久尻川は、儂にとっては理想的な優良物件だったのだ。

 初めの数年は至って平穏な生活を送れたが、それも長くは続かなかった。
 ある日、儂が土手に腰掛けて鮒釣りをしていた時の事だ。大勢の工事夫が押しかけてきたかと思えば、あっという間に頭上に何やらこしらえていった。何の騒ぎだと丘に上がってみると、そこには鉄の轍が出来上がっていた。はてさて、一体全体人間は何をしていたのだろうと頭をひねっていると、だしぬけに黒い煙を吐く鉄の馬が、轟音とともに儂目掛けて突進してきたのだ。
 危うく跳ねられそうになったところを、儂は間一髪で川に飛び込んだが、それ以来、その鉄の馬は毎日そこを往来するようになった。しばらくは川の中から、おっかなびっくり鉄の馬を眺めていたのだが、どうやら奴は鉄の轍からは抜けられないらしい。川の中にいる分には安心だ。
 後で聞いた話だが、鉄の轍は「鉄道」といい、鉄の馬は「汽車」というものらしい。そんなものを作って何が楽しいのか、河童の儂にはとんと判らぬが、人間には必要なものらしい。人間というのは、全く理解できぬ。
こんなもの儂には関係ない、と思っていたのだが、どっこい儂の生活はがらりと変わってしまった。
この汽車というもの、とても煩いのである。
 シュポシュポと煙を吐き、時たまポーと間の抜けた声を上げる。これが日に何度も走るのだから、おちおち昼寝などしていられない。汽車が来るたびに、たたき起こされてしまう。
 こりゃあたまらんと、儂は決心して文句を言いに行くことにした。人間に化け、久方ぶりに人間の村に行くことにした。
 しかし儂は、ここで目久尻川に関する悪い噂を聞く事になる。
 川から上がり、シダの葉で頭を撫でて人間に化け、数歩歩いたところだ。川のほとりで、爺様が子供に、目久尻川の名の由来を尋ねていた。それを立ち聞きしてしまったのだが、どうやら、かつてこの地に住んでいた河童を、人間たちが捕らえ、目玉をくり抜いたというのだ。目抉り川、というのが目久尻川の由来だと言っていた。
 なんと恐ろしい。この地に住む人間は、そんなにも狂暴なのか。
 河童は人間に悪さはしない。そもそも、あまり人間に関わろうとする河童は少ない。精々、人間の子供と相撲を取るくらいだ。よく、河童は尻子玉を抜いて腑抜けにしてしまうなどというが、それは嘘である。河童は争いを好まないのだ。
 なのにこの地の人間は、無抵抗な河童を襲うと言うのか。そんな人間に、汽車が煩いから何とかしてくれと文句を言いに行き、万が一儂が河童だというのがばれた日には……。
 儂、撤収。
 川の中で泣き寝入りを決意する。
 それからしばらくは騒音に悩まされる日々を過ごしたが、慣れとは恐ろしいもので、その内に汽車の音もそこまで気にならなくなっていた。

 それから数年経つ頃には、汽車以外のものも走るようになっていた。「ヂーゼルカー」とかいう乗り物だそうで、これは汽車から比べればはるかに静かだった。
 この頃からだったろうか。儂が人間と、そして鉄道に興味を持ち始めたのは。
 川から頭だけ出し、頭上の線路を眺める。するとヂーゼルカーが滑るように走っていく。ヂーゼルカーの窓に、子供の顔が見えた。子供は目を輝かせながら、流れていく景色を眺めているようだった。
 ここ数年の儂は、人間と関わらないように生きてきた。しかし、人間の子供は好きだ。儂も昔は、人間の子供と相撲をしたり、釣りをしたりして遊んでいた。そんな時、人間の子供は心の底から楽しそうに笑うのだ。
 そして、ヂーゼルカーに乗った子供も、同じような笑顔をしていた。
 儂はもう一度、子供たちと遊びたかった。しかし、人間と関わるのが恐かったのだ。人間に捕まれば、何をされるか判らない。だから儂には、こうして下から、子供たちの笑顔を見ている事しかできなかった。
 いつしか儂は、川から鉄道を見上げるのが楽しみになっていた。
 儂がこの地に来てから二十五年ほど経った頃から、汽車やヂーゼルカーに代わって、「電車」とやらが走るようになった。電車はヂーゼルカーよりも静かで、早くて、長くなった。
 儂は電車の窓に映る、たくさんの子供たちの笑顔を見送った。

 ある昼下がりの事だ。
 儂がいつものように川面から電車を眺めていると、だしぬけに背後から声が聞こえた。
「そこにいるのはだーれ?」
 びくり、としつつ、恐る恐る振り返ると、川の土手に人間の子供が腰かけ、こちらを興味深げに眺めていた。
「おじさん、どうして川の中にいるの?」
「……儂は河童じゃ。河童は水の中に棲む。おかしな事はあるまい」
 すると子供は、目を輝かせて言った。
「おじさん河童なの!?すごーい!」
「お主、儂が恐くないのか?」
「怖くないよ! 河童のおじさん、すごく優しそうだもん!」
 とても純粋な目をした子供だった。
 その子供は、名を清吉と名乗った。それから儂は、毎日のように清吉と遊んで過ごした。そして清吉は、儂のところに他の子供たちもよく連れてきた。おそらくあの頃が、儂の人生の中で一番楽しかった時期だ。それでも儂は、大人の人間には見つからないように気を付けた。子供はいいが、大人の人間は、まだ信用できなかったからだ。
 しかし、楽しい日々は長くは続かないようだった。
 清吉は、遠くに引っ越してしまうのだ。
「おいら、相鉄線の窓から手を振るから。河童さんもおいらの事、見送っておくれよ」
「ああ、清吉と別れるのは辛いが、儂も手を振るぞ。約束する」
 そして清吉は、儂に旅立つ日の電車の時間を伝えた。
 それまでは、清吉と思い切り遊ぶ事にした。

 そんなある日、事件は起こった。
 子供たちが、川の土手で釣りをしていた。儂はというと、川の対岸で数人の大人が井戸端会議をしていたので、出られずにいたのだ。河原の草むらで、そっと様子を伺っていた。
「河童さん、今日は出てこないね」
「今日はあんまり天気がいいもんだから、お皿が乾いちゃって外を出歩けないんじゃないか」
 そんなことを言いつつ、釣り糸の先を眺めていた。のんびりとした午後のひと時だった。
 ぐいと、清吉の竿が強く引かれた。何か掛かったようだ。
「こりゃ大物だ! すごい引きだよ!」
 ぐいぐいと竿が引かれる。負けそうになる清吉に、他の子供たちも加勢する。しかし、三人がかりで引いたものの、清吉の竿は、すぽんと手を抜けて、川面に落ちてしまった。
「ああ、竿が流される」
 そして清吉は、あろうことか着物を着たまま、竿を追いかけて川に飛び込んでしまった。どきりとして、見守る儂。普段なら、流れた竿を追いかけるのは儂の仕事だ。しかし今は、大人が見ているので迂闊に出て行く訳にはいかない。
「清吉、そっちはだめだよ! 川底が急に深くなるから行っちゃだめだって、河童のおじさんも言ってただろ!」
 子供たちが引き留めるが、構わずに清吉は、ざぶざぶと川の奥へと進んでいった。
「大丈夫だよ、おいら、泳ぎには自信があるんだ」
 そう言いながら進んでいった清吉だったが、案の定、足元をすくわれたと見えて、ざぶん、と沈んでしまった。
「清吉!」
 叫ぶのが早いか、気が付くと儂は駆け出していた。そして、続いて川に飛び込んだ。
「見ろ、あそこで子供が溺れているぞ!」
 近くで話し込んでいた大人たちも、騒ぎに気付いてこちらを見ていたが、構うものか。すいーと水中を進む。
 そして、ばしゃばしゃと水を掻いて、あっぷあっぷともがいている清吉を抱きとめる。
「もう大丈夫だぞ、清吉」
「河童さん、ありがとう」
 清吉を抱いたまま、子供たちが待っている岸へと泳いで戻る。
「どうして川に飛び込んだんだ。危ないから入っちゃいかんと言っただろう」
「だって、河童さんが作ってくれた釣り竿が流されちゃったから」
 見ると、清吉の手には儂がこしらえてやった釣り竿がしっかりと握られていた。
「馬鹿者。釣り竿なんて、またいくらでもこしらえてやる。死んでしまったらどうするんだ」
「ごめんなさい」
 ずぶ濡れになってしゅんとした清吉を、土手に押し上げてやる。そしてそのまま儂も陸に上がろうとしたのだが、川の対岸から、大人の声が聞こえた。
「あれは河童じゃないか! 河童が子供を川に引きずり込もうとしたぞ!」
「本当だ! 河童だ、河童が出たぞ!」
 まずい。大人がいる事をすっかり忘れていた。
 儂は慌てて、きびすを返して川に飛び込んだ。
 川の外では何やら話し声が聞こえたが、もう当分、陸に上がる気にはなれなかった。

 数日後、清吉の旅立ちの日がやってきた。
 あれからずっと、儂は川の中に潜んでいた。
 やっぱり、人間なんかと関わらなければ良かった。人間と関わっても、ろくな事がない。そう思いながら、悶々と過ごしていた。
 目久尻川も潮時か。今度はもっと、人間の少ない川を探そう。
 そんな事を考えている内に、どんどん清吉の電車の時間が迫っていた。
 丁度いい。このまま儂も、この地を離れよう。川の底で、線路に背を向ける。このまま泳いで、人知れずどこか遠くへ行ってしまおう。
 そう思ったが、どういう訳か、儂は一歩が踏み出せなかった。
 そして。
 汽笛の音と共に、電車の振動が近づいてくる。
 儂は、清吉と過ごした日々を思い出していた。
 清吉と出会って、儂は数十年ぶりに、楽しいと思えた。
 やはり儂は、人間の子供が好きなのだ。
「清吉!」
 叫びながら、儂は川から飛び出した。丘の間から、山吹色の電車が顔を出した。電車は短く汽笛を鳴らしながら、ごとごとと鉄橋に近づいてくる。
「清吉!」
 儂はもう一度、叫んだ。電車の窓から、小さな顔が覗いていた。
「河童さん!」
 窓から身を乗り出さん勢いで、清吉が叫ぶ。
「河童さん! 今までありがとう! おいら、とっても楽しかったよ!」
「儂も楽しかったぞ! 清吉、お主に会えて本当に良かった! お主のおかげで、儂も本当に楽しかった!」
 清吉が大きく手を振っている。儂も負けじと、全身で手を振り返す。
「おいら、必ず帰ってくるから! 河童さんに会いに来るから! それまで元気でね!」
「ああ、待ってる! 何年でも、何十年でも、儂はここで待ってるぞ!」
 窓から手を振っていた清吉が、川に向かって何かを投げ込んだ。放物線を描いたそれは、儂のすぐそばに落ちた。
「河童さん、ありがとう! さようなら!」
「清吉! 達者でな!」
 鉄橋を渡り切った電車は、速度を上げて丘の間に消えていく。電車が見えなくなっても、儂はしばらく、電車の消えた方向を眺めたまま、呆けていた。
 それからようやく、儂は清吉が投げ込んだものを拾い上げた。巾着袋だった。袋を開けると、胡瓜が三本ばかり入っていた。
「清吉のやつ。勿体なくて、食えないじゃないか」
 巾着袋を握りしめながら、儂の目には涙が浮かんでいた。

 それから数十年。儂はずっと、こうして目久尻川の中から相鉄線を眺めている。
 あの頃から比べて、この辺りは随分と変わってしまった。川と丘しか無かった里山に、家がたくさん建った。人間も増えた。走る電車の数も増えた。
 電車の色も何度も変わった。清吉が旅立った山吹色の電車は、丸っこくて派手な色になり、儂そっくりな黄緑色になり、光り輝く銀色に赤い帯を巻いたものになり、今では白に青と朱色の帯を巻いている。最近では、綺麗な紺色の電車も増えてきた。これからもっと増えるのだろう。
 変わったものと言えば、相鉄線の線路と並んだ橋に、河童の石像が建った。儂を模ったものだろう。よくできているが、なに、本物の儂の方が色男だな。どうやら人間は、もう河童を虐める気は無いらしい。
 しかし、どれだけ時間が流れようと、景色が移り変わろうと、それでも、電車の窓に映る子供の笑顔だけは、今も昔も変わらない。楽しげに車窓を楽しむ子供の姿に、儂はあの時の清吉の姿を重ねている。
 今までも、これからも。
 きっと儂は、何十年後も、何百年後も、変わらずここに棲み続けるだろう。
 河童の人生は長い。
 今まで百年間、この地で相鉄線を眺めてきた。もう百年くらい、こうして相鉄線を眺めていよう。
 おっと、人間の話し声が近づいてきた。今日のところは、川に潜るとしようか。

「おじいちゃん、河童がいるよ!」
「ああ、いつの間に作ったんだろうね」
 小さな子供を連れた老人が、橋のたもとに建てられた河童の像を眺めていた。
「おじいちゃんが子供の頃はね、目久尻川には本物の河童がいたんだよ」
「本当?」
「本当だとも。おじいちゃんは河童と友達だったんだ。川で溺れたおじいちゃんを、河童が助けてくれた事もあったんだよ」
「そうなんだ!」
 そして老人は、懐かしそうに目久尻川を眺めた。
「河童さん、おいら、帰ってきたよ」

著者

河野童子