「目隠し」雨水葵

 しまった、
 つい先週冬将軍が居座り始めたころ。緑園都市駅のホームでスチームを出す加湿器みたいな私は、いつもの制服の右ポケットに入っているものが無いことに気がついた。
 スマホ忘れた…。
 私はベッドに横たわっているスマホを頭に浮かべながら考えを巡らせた。
 お母さんに電話して持ってきてもらおうか、いやそもそも電話を忘れたのに無理だわ。走って取りに帰ったら次の電車には間に合うかもしれないけど、次のは確実に遅刻確定の電車だ。
 遠くで到着直前の電子音が軽快なリズムで私の耳に入ってきた。
 もう、諦めるしかない。
 今日一日ぐらいなかったところで何とかなるだろう。学校に行くだけだし、今日は部活もないからすぐ帰れる。あぁでも通知が溜まっているに違いない。それにゲームも体力を漏らしちゃうな、しまったな、
 私の心は次第に今日の天気みたいに曇っていった。各駅停車横浜行きの電車、一番乗り換えしやすい1号車に乗り込んでもまだどこかでスマホを求めている。諦めよう、諦めようと窓の外の景色に目を逸らしたが、トンネルにすぐ入ってしまって見えなくなった。最悪。今日の運勢、魚座はきっと最下位だ。
 六時台のこの電車。二俣川に着くと目の前で急行横浜行きが私を待っている。都会へ向かって駆け足するこの電車はいつも、沢山のスーツと制服で混雑しているが、七時台に比べればかわいいものだ。列の最後尾にいる私が余裕を持って乗ることができるのだから。私はいつものように乗り込んで、スマホで音楽を、と思って右ポケットに思わず手を入れてしまった。もちろん空だ。
 気分は下り坂を一気に駆け下りていく。
 と、そこへ、いつもは聞くことのない声が耳に入った。今さっきまで乗っていた電車の運転手の声だった。
「お疲れ、今朝は一段と寒いな。」
 私の斜め前にいる、こちらの運転手に向かってのようだ。
「お疲れ様です。えぇ、寒いですね。ヒートテックを着てるんですけどね、それでも寒いですね。」
 そう言いながら寒そうに身震いするひょろっとした運転手に対して、あちらのがっしりした運転手は笑いながら、
「俺も着てるよ、まぁ俺の場合天然もののヒートテックだがな。」
 そうして、もう、言ってやろうと決めていたに違いない。まるで決め台詞のように、
「ミートテックをな、なんつって!」
 二人が盛大に笑うのを横目に、私は吹き出して笑いそうになるのを必死にこらえて唇をかんでるけど、心の中では笑い転げているわけで。…ミートテック、ミートテックだって?可笑しいにも程がある。いやきっと私以外にも笑いをこらえている人がいるに違いない!そう意気込んで右隣の人を見ると、ただぼーっとしながら、耳をイヤホンでふさいでいた。その隣の人も、スマホをいじって、やっぱり耳もふさいでいた。後ろの人も、斜め後ろの人も、きっと私のように唇をかんでいる人はいない。
 遠くで発車音が鳴る。「それじゃ、」といってさっきまで笑いあっていた二人が別れた。ガシャンという音がして、数十秒後ドアが閉まる。金属のこすれる高い音とともに体が少し左に傾く、戻る。がったんごっとん、がったんごっっとん、次第にスピードが上がった。

 私にしか、聞こえてないんだ。見えてないんだ。

 結露で濡れる窓をぬぐってみると、寒い朝が、次第に動くのを感じた。踏切を待つサラリーマンと制服の女の子、ランドセルをしょって歩く小学生、たくさんの荷物を積んでママチャリをこぐお母さん。みんなこの沿線で、毎日息をしている。私だってこの人たちと一緒だ。この相鉄線の沿線で生活している。近所の人、友達、家族と、交わり、足音立て、声をだし、聞いて、一緒に暮らしている。
 いつの間にかこういうことに目を背けていたのかもしれない。背伸びして入った都内の高校も、スマホも、全部、知らないうちに私に目隠しさせていたのかもしれない。ここは、私の町なのに。
胸が、キーンと、鳴った。
 その音に気付いた私は、車窓を食い入るように見た。家、踏切、車、公園、歩道橋、信号、コンビニ、川、橋、団地、その中に潜む人と生活と声と、暖かさに、私を見つけたかった。
 そうして大声で言いたかった。さっきね、面白いことがあったんだ。面白いこと、というよりは、会話なんだけどね、ねぇ、みんな聞いてよ。窓の外見てよ。あなたたちも、この町に住んでるんだよ。
 それでも胸の音は鳴り響いていて、止まらない。むずがゆくて、苦しかった。
 いつの間にか、景色が次第に灰色じみてきて、向こうにひときわ大きいランドマークタワーが見えたころ、車掌さんのアナウンスが耳に入った。
「本日はご乗車いただきありがとうございました。まもなく横浜、横浜、終点です。寒い中ご苦労様です、どうかお気を付けて、行ってらっしゃいませ。」

 はっとした。

 電車は人の波の中に入っていく。金属のこすれる音とともに、体が少し右に傾く。ぴこんぴこん、音とともにドアが開く。
胸が、やわらかい音を、立てた。

著者

雨水葵