「相模川」岡部晋一

 一、寿美子先生との別れ

 昭和二十三年三月の初め頃、僕等の五年一組の教室に暗い噂が流れた。
 それは、担任の鯉沼寿美子先生が、四月から横浜の小学校へ転任されるらしいという噂だ。しかも、それに追い打ちをかけるように、寿美子先生が、横浜の中学校の先生と結婚されるらしいということだ。
 僕等は、寿美子先生が、四月から、六年一組の担任として卒業まで一緒だと信じていた。
 寿美子先生は、僕等にとって、美しいお姉さんのような存在であり、時には、甘えられる若いお母さんのような存在でもあった。
 しかし、噂は現実になってしまった。終業式の前日、先生は、結婚のために転任することを涙を浮かべながら話してくれた。そして、先生は、春休み中、横浜の新しい家に遊びに来てとも約束した。僕等もクジ引きで行く人を七人決めた。三十八人一組全員が行ったら先生に迷惑をかけると思ったからだ。
 終業式の午後、僕等は、寿美子先生を海老名駅まで送って行った。みんな葬式の行列のように田んぼ道を歩いて行った。先生のお母様も一緒だった。先生のお母さんは横浜のフェリス女学校の先生で、先生と同じように上品で美しい人だった。
 海老名駅は、木造の小さな駅なので、僕等は、駅の前で先生とお別れすることになった。女子は、先生にしがみつきオイオイと泣いた。先生も、先生のお母さんも涙をうかべていた。僕等は、女子のように先生にしがみつくことはできないので、下を向いていた。すると、先生は、男子の一人一人の顔を両手で包み、「さようなら、元気で勉強してね」と、優しく声をかけてくれた。
 神中線の電車は、ゆっくりとゆるい坂を昇り、僕等の寿美子先生を、横浜へ連れ去ってしまった。

 三月二十九日、クジ引きで決めた七人が、保土ヶ谷区岩間町の寿美子先生の新居に行った。お土産には、村に店らしい店がないので、僕等は分担して、採れたての野菜や米をリュックサックに詰めて持って行くことにした。
 七人のうち、神中線で終点の横浜まで行った経験のある者はいなかった。
 神中線の旅は緊張したが楽しかった。途中、西谷の近くの川の中で、数人の人が、長い布を川の水で洗っていた。
 天王町駅に到着すると、笑顔の先生が迎えに来てくれ、僕等は、先生の新居でお菓子とお茶をいただき、先生に引率され天王町商店街の見学に行くことになった。ただ、残念だったのは、先生のご主人が、野球部を引率して岩崎中へ対抗試合に行ってしまい会えなかったことだ。帷子川の橋を渡り、最初に橘樹神社へ行った。明治天皇が立ち寄られた有名な神社で、神社の前の道路は、江戸時代の東海道だと先生に教えてもらった。その後、商店街の大きな食堂で、先生に「ラーメン」をご馳走になった。生れて初めて食べたラーメンはとても美味しくて、僕等はスープも一滴も残さず飲んだ。その後、僕等は、永楽館という映画館で時代劇を観て興奮した。
 賑やかな天王町商店街と違い、僕等の村には小さな万屋(よろずや)しかない。
 天王町駅で寿美子先生に見送られ、僕等は海老名行きに乗った。車中でも、海老名駅で降り、田んぼの中の道を歩いている時も、僕等はみんな無口だった。もう寿美子先生に会えないことが僕等の胸を締めつけた。

 二、怖い眼をした先生

 四月五日の始業式の朝、僕等六年一組の新しい担任、石川小太郎先生は教室にあらわれなかった。代りに来た校長先生が、石川先生は、書類の手続きで県庁に行き、午後登校するので僕等に海老名駅まで迎えに行ってほしいと言った。その後、校長先生は、石川先生について話してくれた。石川先生は、校長先生の師範学校の後輩で、国民学校の先生になってから一年後、陸軍に志願し、元陸軍中尉で中隊長だった。中隊の相撲大会では、士官学校出の少尉や中尉を投げ飛ばした強い人で、郷土出身の相模川という関取より強いと、やたらと石川先生の自慢話ばかりした。しかし、僕等にとっては陸軍中尉などは過去のことで、校長先生の話にはついていけなかった。
 午後、農作業の手伝いで来られない級友以外は、みんなで海老名駅に石川先生を迎えに行った。神中線の電車から、背の高いギョロリとした怖い眼をした一人の男が降りて来た。級長の民雄が、
 「お出迎えに参りましたでござります」
 と、訳のわからない言葉を発した。また、民雄は、緊張した顔で、
 「お荷物、持たせていただけござります」
 と、また、訳のわからないことをしゃべった。
 石川先生は、ニコリともせず首を振って断った。僕等は、葬列のように無言で田んぼ道を歩き、小学校の玄関まで先生を案内した。先生は、僕等を無視して校長室へ歩いて行った。
 僕等は校庭の隅にしゃがみ込み、暗い気持になった。
 「怖い先生だ」
 「明日から毎日、ビンタされるぞ」
 女子は泣き出し
 「寿美子先生、帰って来て!」
 と、口々に言い、大泣きを始めた。
 次の日、一時限は算数だった。石川先生は、五年生の時の復習問題から始めた。しかし、級長の民雄以外は、黒板の前で立ち往生し、全く解けない。
 先生の怒りが爆発した。
 五年の時の問題が解けなくて六年の学習など出来る訳がない。お前たちは、一体何を勉強してきたんだ。それとも、五年の時の担任がいい加減な先生だったのか。五年の時の担任は誰なんだ。
 副級長の智子が答えた。
 「鯉沼寿美子先生です」
 「いい加減な先生に教えられたのが、お前たちの不幸だったのだ」
 喜介が椅子から立ち上がり抗議した。
 「寿美子先生はいい先生です。悪いのは、熱心に勉強しなかった俺たちです」
 先生は平然と授業を再開した。
 放課後、僕等は教室に残り、民雄を先生役にし、今日出た宿題に取組んだ。
 次の週の社会科の授業で、石川先生は「全員で協力して、海老名の地名の由来を調べて来い」と言った。
 僕等は親に聞いたがわからなかった。そこで、村で一番頭がよいと言われている、東京商科大学卒業の「インテリ爺さん」に聞きに行ったら、インテリ爺さんは、
 「昔、この土地は海だったんだよ。だから、海が老いた名(土地)になったんだよ」
 と教えてくれた。次の日の社会科の時間、代表の民雄が発表したら、先生は納得したが、その証拠を、今度は自分たちの力で調べて来いと言った。
 みんなで考えたがわからない。突然、里枝が、「国分にある『大欅』は、昔、船をつなぐ杭だったと聞いたことがある」と言った。
 次の日の社会科の時間、代表として、里枝が「大欅」のことを発表すると、先生は、
 「そうだ、正解だ。よく調べた。お前らもやれば出来るんだ」
 と、ニッコリ笑った。僕等は、初めて先生の笑った顔を見てとても嬉しかった。
 そのあと、先生は、奈良時代に、海老名に国分寺と国分尼寺が建立されたが、寺の瓦が光るために魚が近寄らなくなったといって困り果てた漁師に同情した尼さんが、寺に火をつけ全焼させてしまった。その為に、尼さんは、ノコギリ斬りの刑をうけ、竹ノコギリで首を切られた。その時の涙が、日照りでも絶対涸れないという「尼の泣き水」となって残っているという伝説も教えてくれた。
 僕等はだんだん勉強が面白くなってきた。

 三、吉松乱入事件

 今年の四月、六年二組の担任として田村理英子先生が着任した。三月に東京の女子大を卒業したばかりの若い先生だ。背が高く優しい笑顔がすてきな先生で、羽衣の天女のような美しい先生だ。
 着任式の時、校長先生は理英子先生を、
 「田村先生は、泥田のような村に舞い降りた白鳥のような先生です」
 と、紹介したら、村長が怒り、「本村を泥沼とは何事だ」と校長室に怒鳴り込んで来たという事件もあった。
 村に、予科練帰りの奥田吉松という村の嫌われ者がいた。復員後、安い酒を飲み軍歌を歌い、村中をうろついていた。畑仕事は、戦争未亡人の母親が一人でしていた。その吉松が、理英子先生に恋してしまった。いつも、職員室の窓から覗き、理英子先生をうっとり眺めていた。しかし、石川先生が在校の時には、先生が恐くて近寄らなかったが、ある日、放課後に石川先生が病気の児童を勝瀬まで見舞いに行き、学校に不在の時、酒に酔った吉松が職員室に乱入し、理英子先生を追いかけまわし、
 「理英子先生、オレと結婚して下さい!」
 と、叫び、なおも理英子先生を追いかけまわした。校長先生は、すぐに駐在さんを呼んだ。
 駐在所から、五十六歳の佐久間巡査が駆けつけ、
 「吉松!ええ加減にせんか。本官の命令に従わない者は、公務執行妨害で現行犯逮捕する!」
 「うるせえ、本官だかポンカンだか知らねえが、邪魔するな!」
 吉松は佐久間巡査を突き飛ばし、理英子先生を職員室の奥に追い詰めて、理英子先生に抱きつき、キスの雨を降らせた。理英子先生は恐怖で震えた。
 急報を聞いて、石川先生が学校へ帰って来た。そして、職員室に駆け込み、理英子先生を押さえつけ、理英子先生の頬にキスの雨をふらせていた吉松を理英子先生から引き離すと、吉松の頬に強烈な往復ビンタを喰らわせ、玄関まで引きずって行くと、一本背負いで吉松を地面にたたきつけ、
 「吉松!今後、校舎に一歩でも近づいたら許さんぞ!」
 すると、吉松はよろよろ立ち上り、
 「うるせえ!石川のヘッポコ中尉!陸軍がしっかりしねえから日本は負けたんだ。俺だって、特攻隊の生き残りだ!命はいらねえや、かかって来い!」
 「奥田海軍少尉殿!戦争はもう終わったんだ。日本の再建のために日本は君の力が必要なんだ。戦争を忘れろ。戦争は終ったんだ。君だって、戦争を忘れようとして、毎日、もがき苦しんで生きてるんだ。特攻隊士官がみっともない生き方をするな!」
 吉松は、突然号泣した。そして、
 「石川中尉殿、奥田少尉、只今、眼が覚めました。ありがとうございました」
 石川中尉より命令、
 「奥田少尉は、お母さんの働いている畑に向い、手伝いのため突撃せよ!」
 「奥田少尉は、只今より母親の畑へ向い救援のため突撃します!」
 海軍式の敬礼をする吉松に対し、石川先生は、陸軍式の敬礼を返し、笑顔で吉松を見送った。
 職員室に帰ると、石川先生は理英子先生を抱き起すと、理英子先生は、石川先生の胸にしがみつき号泣した。

 事件後三日間、理英子先生は学校を休んだ。理英子先生は、村内の勝瀬の元豪農の家が母の実家で、その家に下宿し学校へ通っていた。
 事件の五日後、吉松の母親が小学校に謝罪に来た。母親は、事件の後始末に来ていた駐在さんと校長先生に、玄関先で土下座し、
 「あんな馬鹿息子なら、特攻隊で戦死してくれた方が良かったんじゃあ!」
 と、泣いた。校長先生は母親を優しく抱き起し、駐在さんも、
 「本官が、署長にはうまく話して、吉松が留置場に行かないですむようにするから、おっ母さん、心配しなくていいよ」
 と、言ったので、母親は安心して帰った。
 登校して来た理英子先生は、石川先生のためにお弁当を作って来た。そして、明日からもお弁当は私が作りますと言った。しかし、石川先生は、
 「その必要はありません。私の弁当は、一緒に暮らしている姉が作りますから」
 と、言って、理英子先生が作って来た弁当を突き返した。
 その日の放課後、理英子先生が、校舎の裏のゴミ捨て場の前でしゃがみ込み、背中を小刻みに震わせ泣いている姿を、僕等は目撃してしまった。ゴミ箱には美味しそうなタマゴ焼が捨ててあった。僕等は、あんな優しくて美しい理英子先生に冷たい石川先生を憎んだ。

 一か月後、吉松がリヤカーに野菜を積んで学校へやって来た。野菜は吉松が育てたものだ。吉松は、母親を助け、立派な農業青年として再生した。

 四、対校試合

 放課後は僕等にとって天国だ。まだ塾などもないしお稽古事もない。せいぜい元商業学校の先生だった老人が開いているソロバン塾ぐらいで、農業にソロバンはいらないと、親も行かせず、通う子供も少なかった。
 放課後、運動場で、女子は縄跳びやドッジボールなどやっていたが、男子は草野球一本槍だ。みんな家も貧しく、グローブの代用品は軍手、バットは里山の倒木を削って作り、ボールは母親に布で作ってもらった。
 石川先生は、放課後、職員室から眺めていたが、ある日、運動場に出て来て、
 「先生にも打たしてくれ」
 と言ったので僕等は大歓迎した。先生は、最初空振りばかりしていたが、ヒットやホームランも打つようになった。しかし、困ったことに先生が打つと、力が強いためか、母に作ってもらった布製のボールが破れてしまった。
 先生は、給料日の次の日曜日、自転車で厚木町にある運道具屋に行き、ボール一個、バット一本、布製で真ん中だけ皮が張ってあるグローブ一個を買って来てくれた。
 だんだんと野球も本格的になってきたので、六年一組と二組のチームができ、理英子先生は二組の監督に就任し、給料日の次に日、自分の給料で二組の野球道具を買うため、石川先生と自分の自転車に乗り、厚木町の運動具屋へ行った。そのうち、校長先生も、他の先生も給料日の日に、野球道具購入の資金を少額だが援助してくれた。
 女子は、最初は、ドッチボールに熱中していたが、時々、野球のボール拾いをやってくれた。草むらにボール拾いに行った理英子先生が虫に刺され、顔がはれ上がった時、男子から、「お岩さん」とからかわれた。
 ある日、一組と二組が対抗試合を始める前、石川先生は僕等に重大な発表をした。
 夏休みに厚木町の小学校と対校試合をやるという。厚木の小学校に、先生の師範学校の時の同級生が先生をやっていて、しかも野球部の監督もやっているので、試合を申し込んだら快く受けてくれたので、夏休みに厚木へ試合に行くことになった。
 「これからは、勝利を目ざして頑張ってくれ」
 と、おごそかに言った。
 僕等は一斉に、
 「エイエイ、オー!町の奴等を見返してやるぞ!」
 と、元気に気勢を挙げた。
 対校試合の日は、夏休み中の八月十七日に決った。夏休みに入ると、僕等は、一組、二組の合同チームを作り猛練習を始めた。
 七月二十八日から、学校で一泊の合宿を始めた。昼間運動場で練習し、夕方には、里山でマラソンもやった。女子も合宿がしたいというので、高座郡のドッジボール大会を目ざし、寝泊りは教室で蚊取り線香をいくつも置いた。男子は石川先生の他に他の学年の男先生も参加した。女子は理英子先生の他にベテランの女先生も協力してくれた。
 楽しかったのは、一日目の夕食で、運動場の真ん中に、父兄の家から借りて来た大鍋を置き、父兄からの野菜が沢山煮られ、特に校長先生からいただいた高座豚の細切れ肉はとても美味しかった。
 最後には「のど自慢大会」になり、石川先生は、大好きな「憧れのハワイ航路」を歌ったが、軍歌みたいで下手だった。それにひきかえ、理英子先生は、横浜のフェリス女学院合唱部の出身だけに、「青い山脈」は素晴らしいソプラノだった。僕等は、「スキー」を歌い、女子は、「蜜柑の花咲く丘」を歌った。

 いよいよ対校試合の日がやって来た。早めの昼ご飯を食べたら、僕等は、田んぼ道を歩き、相模川を渡って、厚木の小学校に到着し試合が始まった。一緒に来た女子も一生懸命応援したが、結果は十二対一で惨敗した。
 帰る時、町の小学生から散々罵声を浴びせられた。男子には「大根野郎!」「肥桶かつぎ!」、女子には、「豚娘!」「草女!」と言われた。
 帰りは葬列のようだった。相模川の橋の真ん中に来た時、僕は悔しくて、
 「町の青びょうたん!町のバカヤロウ!」
 と、叫ぶと、みんなも、一斉に町に向って、散々罵声を飛ばした。
 相模川の大橋を渡った所で、石川先生が、
 「相模川で水遊びでもして帰ろう」
 と、言い、先ず、社会科の授業を始めた。
 「神中線は、この相模川の砂利を横浜の工業地帯に運ぶために、昭和二年に開通したんだよ」
 石川先生の話が終ると、僕等は、一斉に真っ裸になり、女子はパンツだけになって川の中で泳ぎまわった。
 突然、二組の留三が、
 「おーい、みんな見ろよ!稲代のオッパイ、うちの母ちゃんの三倍あるぞ!」
 すると、男子が一斉に、
 「すげえ、富士山みてえだ」
 怒った稲代が、留三を追いかけてつかまえ、留三の顔を川面に押し付け、しこたま水を呑ませた。
 その時、川岸で魚を見つけていた理英子先生が、
 「助けて!」
 と、叫んだ。理英子先生は、川岸の深みに落ち、胸まで川に沈んでいた。すると石川先生が駆けつけ、理英子先生を抱き上げ、川から助け出した。すると、理英子先生は、いつまでも石川先生にしがみ付き、石川先生がやっとその手を引き離した。理英子先生は、濡れたスカートをたくし上げ、水を絞った。その時、僕等男子は、理英子先生の白い太股と白い下着まで見てしまった。
 しかし、理英子先生は、ニコニコ笑顔を咲かせ上機嫌だった。だが、石川先生は、怒ったような顔をしていた。
 僕等は、川から上り、帰途についた。突然、投手だった勇が大声で泣きだした。敗戦投手になったくやしさと哀しみが噴き出したのだ。僕等も泣いた。女子も大声で泣きだした。
 すると、先頭を歩いていた石川先生が、大きな声で、しかも軍歌のように下手な声で「憧れのハワイ航路」を歌い出した。僕等は泣くのを止め、笑いをこらえるのが大変だった。そして、僕等も、大きな声で歌い出した。最後尾を歩いていた理英子先生も、美しいソプラノで歌い出した。
 僕等が元気を取り戻して歩いていると、後ろから、「チリンチリン」と鐘を鳴らしながら、自転車に乗ったアイス・キャンデー屋が通り越そうとしていた。その時、石川先生がアイス屋を呼び止め、
 「この子たちに一本ずつ渡してくれ、後ろの女子先生にもな。支払いは私がするから」
 「ありがとうござります。先生様のは、おマケにしておきます」
 アイス屋は、石川先生に何度もお辞儀して元気よく走って行った。僕等は、家では、めったに買って貰えないアイス・キャンデーを食べながら学校に向って歩いた。しかも、大好きな石川先生におごってもらった喜び、今でも忘れない美味しさだった。

 五、楽しい秋

 二学期は、楽しい行事が次々と僕等の生活を通過していった。
 九月の運動会。組立体操は、男の先生たちが、ピラミッドの一番下を担当し、ピラミッドは秋空に立った。フォークダンスも楽しかった。石川先生が、理英子先生の指導を受けながら、僕等の輪の中で踊った。石川先生の仏頂面と理英子先生の輝く笑顔が対照的だった。
 十月の日曜日、厚木の小学校が、野球の対校試合にやって来た。僕等は四対三で負けたが健闘した。試合終了後、僕等は、厚木の野球部を坂の下まで送って行き、彼等と握手して別れた。彼等と仲良しになれたのが嬉しかった。
 十一月、鎌倉へ修学旅行に行った。相模線海老名駅から、蒸気機関車の列車に乗り、茅ヶ崎駅で東海道線に乗り換え藤沢まで行き、江ノ電に乗り継ぎ江ノ島へ行った。七里ガ浜の海でも遊んだ。海が初めてという友もいた。
 江ノ電の車中で僕は酔い、理英子先生の膝の上に頭を乗せられて薬を飲まされた。恥ずかしかったが、嬉しかった。
 帰りは、横須賀線で横浜に行き、横浜駅から神中線に乗ったが、横浜駅西口は草が生え、荒れた原っぱになっていた。ここだけは、まだ、戦争の傷跡が残っていたので、僕等は、横浜に失望した。

 六、雪の日の話

 二月の下旬、雪が降り、運動場で体育授業ができないので、一、二組が一つの教室に集まり、石川先生が戦争の話をするというので、僕等はすし詰めの一組の教室に集まった。
 最初、僕等は、石川陸軍中尉の戦争での手柄話が聞けると思ってワクワクしていた。しかし、結果は全く逆だった。
 石川先生は、次のようなことを話してくれた。

 先生はね、師範学校を卒業して、国民学校の先生になった。そして、教え子たちに、祖国日本のために兵隊になれと教えた。そして、先生も責任を感じ陸軍に志願した。
 初めて戦場に出て、敵軍と戦闘になった時、先生は、怖くて恐ろしくて、手がガタガタ震え、小銃の引き金が引けなかった。戦闘が終わった時、先生は恐怖でオシッコをもらしていた。戦争はコワイ。それは、戦争が終るまでコワサは消えなかった。先生は、小隊長になり、上官が戦死したため、臨時の中隊長になり、多くの部下や戦友たちが先生の眼の前で戦死していった。ある部下は、内臓がはみ出し、ある戦友は、苦しみながら死に、ある初年兵は、恐怖で精神に異常をきたしてしまった。
 戦争も末期になると、戦死者も増え、先生は、臨時の中隊長をやっていた。ある日、白兵戦となった戦場で、一人の若い敵兵が指揮をとっていた先生を目掛けて銃剣を構え、突進して来た。先生は、必死に軍刀で相手を斬った。斬られた敵兵は、血を噴き上げ、先生に体当たりして死んだ。先生がおおいかぶさった敵兵の顔を見ると、歯をむき出し、怒りの眼をして死んでいた。
 先生は、今でも夜中にその敵兵の夢を見る。天井から凄まじい顔をした敵兵が襲いかかって来る。先生には、まだ戦争は終ってない。
 今年の夏休み、先生は、戦死した部下のお墓参りで、東北の農村へ行った。
 先生が小隊長時代から一緒に活動した、芝原軍曹の家だ。芝原軍曹の家の玄関で挨拶すると、突然、未亡人が先生を罵倒した。
 「とうちゃんを返せ!隊長だけ帰って来て、部下が戦死したのに、帰れ!」
 と、叫び、いきなり、台所から持って来た味噌汁の鍋を投げつけた。先生は、土下座して、未亡人に謝り、駅への帰り道、川でシャツを洗っていた。すると、土堤の上から、二人の子供が駆け下りて来た。
 「隊長さん、母ちゃんが、隊長さんにこのシャツ渡してくれって、父ちゃんが着てたシャツなんだ。隊長さん、お土産の横浜の『ハーバー』ありがとう。一個食べたらうまかった」
 二人は、芝原軍曹の遺児で、六年生の姉と、四年生の弟だった。先生は、二人の子を両腕で抱きしめ、
 「君たちの父さんは立派な人だった。人に優しく、戦死した時も、部下を助けるために戦死した立派な人だったんだ」
 二人の子は、先生を駅まで見送ってくれた。

 先生はね、大事な人を大勢戦争で失った。そして、先生だけが生きて帰ってこれた。
 先生は、僕等に静かに語りかけ、話し終ると先生の顔に涙が光っていた。
 先生は、幸せになってはいけないのだ。戦友や部下が、みんな不幸な死に方をした。先生だけ愛する人と結婚し、子供たちに囲まれ、楽しい家庭をつくることができない。幸せになったら、戦死した仲間たちから孤立してしまう。いつまでも、仲間たちと一緒にいたい。
 教室の後ろにいた理英子先生が廊下に出て、廊下の壁に顔をあて、号泣した。そして、泣き崩れた。
 「石川先生ご免なさい。勝手なことばかり言っていた私を許してください!先生のお気持ちを理解してなかった馬鹿な私を、先生の苦しみを少しも理解してなかった私を許してください」

 雪はますます降り、僕等の教室を包み込んでいった。

 七、過ぎゆく日々

 卒業式に僕等は泣いた。「仰げば尊し」も「蛍の光」も、涙で声も震えた。さすが、石川先生は泣かなかった。しかし、壇上で、校長先生の証書授与の助手をやっていた袴姿の理英子先生は、大泣きに泣いた。

 それから、僕は海老名を離れた。
 十三年後、石川先生が亡くなった。お酒が、先生の生命を奪った。先生の枕元に、あの卒業式の後、理英子先生と二人だけで写した写真があったという。
 理英子先生は、石川先生の死後、他校に転任し、小学校長になって定年を迎えた。そして、勝瀬の母の実家の離れに独身生活を続け、地元の婦人団体の相談役として活躍し、石川先生の月命日にはお参りを欠かさなかった。

 終章

 七十九歳になった今年、海老名在住の菊枝達から、六年一組、二組合同のクラス会の知らせが来た。
 数十年ぶりの海老名駅は変っていた。あの山小屋みたいな木造の駅は、都市のターミナル駅のようだ。横浜駅から乗った相鉄線は快適な電車に変身していた。
 過去の海老名村も、今は、近代都市に変身した。僕等は、レストランでクラス会を開いた後、石川先生のお墓参りに行った。
 先生の墓は、勝瀬の里山の頂上にあった。
 先生の先祖は、武田勝瀬の家臣だったという。その片隅に、先生のお墓はあった。
 驚いたことに、石川先生の墓の隣りに、「石川理恵子之墓」があった。地元在住の菊枝の話だと、理英子先生の遺言で、「石川理恵子」の名で小太郎先生の隣りに埋葬してほしいと書き残し、石川家も同意してくれたのだという。
 理英子先生は、石川先生の生涯をかけての愛を貫いた。
 僕等は、最後に全員肩を組み、大山に向って、石川先生の大好きだった「憧れのハワイ航路」を合唱した。みんな泣きながら天国の二人の先生へ届けと歌った。涙で顔を濡らしながら。
 大山の背中から、石川先生と理英子先生が僕等を笑顔で見守っている。
 はるかに白蛇のような相模川は、たおやかに大地に愛を放射し、静かに流れてゆく。
           (おわり)

著者

岡部晋一