「相鉄サイドストーリー」白柳つよし

 目のみえない少女のあとをつけていく。
 横浜駅東口から相鉄線へむかって伸びる点字ブロックの上を、祐介はうろついていた。
 夕方、駅のコンコースはだいぶ空いている。地方から横浜へ就職してきた祐介のある友人は「めまいがする。」と言ったが、ここで育った祐介には確かに『空いている』感覚なのだから、やっぱり空いていたのだろう。

 肩で息をしながらプールサイドで、祐介はずいぶん前の事を思っていた。
「おにいさん。」
と声をかけられて、祐介はゴーグルを脱いだ。横でおばあちゃんが口をぱくぱくしているのを視て、こんどは耳栓を抜いた。
「息つぎがねぇ。できないのよ。」
 祐介は笑顔になって、
「はは。むずかしいですよ、息つぎは。」
「おにいさん上手じゃないの。」

 半年前に瀬谷に大きなスポーツジムができたので、祐介は仕事帰りに泳いでさっぱりしている。そのうち、
「おにいさん。」
「おにいさん。」
「おにいさん。」
と、いつのまにか水泳教室の先生のような格好になってしまっている。
「おばあちゃん、水をしっかり掻いてる? ほら。」
と言って、祐介は思いっきり、おばあちゃんのお腹へ水のかたまりを放ってみせた。
「ほら。水が、ずーんってくるでしょ。」
「だってそれはほら、おにいさん力があるから。なにせ息つぎがむずかしくてねぇ。」
「はは。慣れですかね。」
 そんなおしゃべりを毎度のことしている。

 祐介の勤め先はずっと相鉄線沿いにあった。いまは大和の小さな工場で汗を流している。そのまえには海老名のショッピングモールで働き、そのまえには横浜で点字ブロックを追いかけていた。
 正確に言うと追いかけていたのは盲目の少女で、さらに正確に言うと「追いかけていた」のではなく「つけていた」のだから表現に困る。その仕事に就いたのが二十四歳のときで、祐介が一年間の無職を希望が丘の実家で過ごしてからのことだった。
 ある日、親と口論した弾みで横浜駅西口のハローワークへ飛んで行き、トントンと決まった仕事だった。特段の決意も動機もなかったので『妙な弾みでこんなとこまで来たんだなぁ』と、また性懲りもなくプールサイドで祐介は思っていた。
「おにいさん、学生さん?」
「いえいえ、もう三十過ぎてますから。」
「あら!」
 十年前はおおごとに感じたあの日が、いまでは戯れた弾みのデコピンほどに思える。
『昨日海老名駅のホームに立っていたと思ったら、今日大和駅のホームに立っているんだもんなぁ。』

 横浜で勤めていた仕事は、目のみえない子どもたちの通学サポートだった。
 朝、東口地上に停まるバスへ子どもたちを誘導する。するといったん解散し、夕方ふたたび集結する。祐介は小学校高学年の少女を担当していたので、バスから出てきた少女が点字ブロックへ着地するのを見ると、そのままうしろをついていった。
 少女はコン、コン、と、地面にステッキを鳴らしながら、相鉄線乗り場のほうへ吸いこまれてゆく。「吸いこまれる」という表現がふさわしいほど、少女の足どりには迷いがなかった。むしろ蛍光色のユニフォームを着て構内を行き来する自分のほうが目立っていることに、祐介は初め抵抗を覚えるほどだった。
「近づいてはいけません。」
 初めに祐介はそう教わった。
「声をかけてもいけません。」
 子どもたちは『まさか自分がうしろをつけられている』とは思わないだろう。
「なにかあっても、触れてはいけません。」
 むろん例外はあるとして、ころんだり、人とぶつかっても、あくまで『見守る』というのが祐介の使命であった。そして少女の抜かりない足どりを見るにつけ、その意味は分かったし、一方、よそ見しながら少女にぶつかる人などを見て『この子のほうがちゃんと前を見て歩いてるよ!』などと、やきもきすることもあった。
『それでも少女から認識されなかった日々…』
などといっちょまえに内心うそぶいて祐介は、
『あの子のなかで、おれは存在しなかったんだよなぁ。』
と一呼吸おくと、強めのけのびをした。

 クロールのとき、息つぎの一瞬間だけ他者の存在を覚知できる。水へ潜ると、祐介の吐き出す空気だけが祐介の意識を包みこんだ。
「パッ!」
と、二十五メートル泳いでプールサイドをつかむと、
「やっぱり、おにいさん上手いわ。」
と祐介の生徒のおばあちゃんが、にこにこして待っていた。
 自分のクロールをおばあちゃんがよく観察している。水中の祐介には知るよしもないが、近ごろは『だれかに見られているかもしれないなぁ』なんて勘が働くこともある。
『…目の視えないあの子も、おれのことをちゃんととらえていたのかもしれないなぁ。』
と、祐介はプールから上がって、
『だとしたら、あの子のなかで、おれはちゃんと存在してたということ?』
などと淡く考えた頭のキャップをポイと外すと、
『おれはおばあちゃんたちに見守られてるなぁ!』
と可笑しくなった。そして、前より上手く泳げるようになった気がして、手元のゴーグルの曇りをキュッと拭いた。

                おわり

著者

白柳つよし