「相鉄沿線」村上博昭

 電車が着くたびに人の波が改札から溢れてくる。
 エム氏も人の波の中にあり、改札を通り抜けた。
 相鉄線横浜駅の改札を出たエム氏は、いつも自分に「頑張れよ」と気合を入れる。
 エム氏は結婚して5年になるが妻のみつ子と3歳になる太郎の三人で海老名の新興住宅街で暮らしはじめて3年が経つ。
 結婚当初は大和駅近くの小さな賃貸アパートで暮らしていたが、仕事も会社も順調なので3年前に思い切って海老名に鉄道会社が売り出した建売住宅を買った。
 特急に乗ると海老名から横浜まで約30分なので通勤にあまり負担とはならない。始発駅から乗るので終点まで座ってゆけるので助かる。エム氏はたいていは海老名発7時51分発の特急に乗る。
 エム氏は人事部で労務管理をしている。最近残業の問題が取り上げられるので注意が必要だ。残業で体調を崩す社員が出ないように、各職場に於ける労務管理の現状把握に力を入れている。
 会社も社員を大事にする伝統があり、職場は明るい雰囲気だが油断していると思わぬアクシデントに見舞われる恐れがあるから気を引き締めて職務を遂行するよう心がけている。
 エム氏が海老名に住んで良かったと思うのは、田園の風景が随所に見られ、ゆったりした雰囲気があることだ。住宅がどんどん建ち、人口が増えるのに伴い、買い物が便利なように店が増え、様々な施設が完備してきたことだ。住みやすい環境が益々整備されてきており、ここに住まいを買ったのは正解だったと思っている。
 当初知らなかったがエム氏が住んでいる所よりも更に長後方面に向かう途中に、神崎遺跡公園というのがある。ここは1800年前に弥生人が住んでいた所で資料館が建つている。村を環濠で囲った遺跡で、弥生時代の遺跡としては環濠があるのは珍しいそうだ。環濠とは堀みたいなもので深さが4メートルくらいあり、外敵が村に侵入するのを防ぐために作られたものだそうだ。相模平野は古代から人が住みやすい環境だったのだろう。近辺には更に古い時代、縄文時代の遺跡もあるようだ。
 太郎を一度この公園に連れて来たが、広々とした芝生でゴロンゴロンと転がり大喜びだった。子どもを育てる環境も申し分がない。
 妻のみつ子とも相鉄線が取り持つ縁で結ばれた。
 独身当時、エム氏は大和駅近くの賃貸アパートに住んでおり、相鉄線で横浜の会社に通勤していた。
 7年前のある日、エム氏が改札を出て横浜駅の構内の中程まで来たとき、前を歩いていた女性が前方から急ぎ足で来た男性にぶつかられ倒れてしまった。当の男性は彼女が倒れたのに、そのまま行ってしまい見えなくなってしまった。
女性は起き上がれず隅の方に這いずっていく。
 エム氏は、周りの人に駅員を呼んでくださいと声をからして叫んだが協力してくれる人はいなかった。
 エム氏は倒れた女性にどんな具合ですかと声かけた。
「倒れたときに足を挫いたようで痛くて歩けません」と泣きそうな声で言う。この女性を何とか助けなければならないと思い、駅員のいるところまでおぶって行くことにした。
 「どうぞ背中に乗ってください」
 女性は痛くて歩けないので素直に彼の背中に乗ってきた。
女性をおぶったのは初めてだったが、意外に重かった。しかし、彼は頑張った。
 駅員のいる所と言っても、この雑踏の中では見当もつかない。駅中のカフェが目についたので女性に「そこで少し休みますか」と聞くと「ハイ」と言う。
カフェに入り、女性を座らせ気分はどうかと問うと、大分良くなったと言う。
ジュースが良いというので、彼女にジュース、エム氏はコーヒーにした。
しばらくすると女性は「痛みも軽くなり歩けるようになりました。親切にしていただき、ありがとうございます。御礼の手紙を差し上げたいので、お名前と住所をお聞かせください」と言う。
 彼女に名前と大和市の住所を伝えると、彼女も大和に住んでおり、大和駅から横浜に通っていると言う。
 これが縁となり、其の後大和市内のカフェで度々合うようになった。
彼女も横浜駅近くの会社に勤めており、横浜でデートまでするようになった。
聞けば彼女は父親を早く亡くし、母親と弟の三人で暮らしているとのこと。
そして二人は5年前に結婚した。
 相鉄沿線は住宅がどんどん建つているが車窓からは緑に覆われた丘も数多く見え、ゆったりとした気分になれ、人が住む場所として相応しい。
 会社には相鉄沿線に住む親しい仲間も数人おり、たまに途中の大和駅で下車し、飲むこともある。
 仲間のうち何人かが大和に住んでいるので、ここで飲むことが多い。
 大和駅のすぐ近くにエム氏や仲間が気に入っている焼き鳥屋があり、飲むのは殆ど此処で、ここ以外には最近はあまり行かない。
 横浜方面に向かい、大和駅の一つ先に瀬谷駅があり、ここの八福神巡りも有名だが、未だエム氏も仲間も行ったことがないので今度の正月には行ってみようと話が纏まった。
 二俣川の話も出た。ここには神奈川県の運転免許センターがあり、仲間の一人が彼の祖父の話をした。彼の祖父は当時優良ドライバーの免許だったそうだが、一般ドライバーと扱いが違うそうだ。一般の呼び出しは番号だが、優良ドライバーは窓口も異なり、「何何さん」と「さん」付で呼ばれるそうだ。
警察は優良ドライバーを増やすため、わざと扱いに差をつけているのだろう、ということになった。
 帰りの電車で終点の海老名が近づくと妻と太郎の顔が浮かび、エム氏の顔の頬の筋肉が緩んでくる。

「相鉄線よ、今日もありがとう」

著者

村上博昭