「相鉄線でいこう」みなと

 【いってきます】
 1.11000系
 ヤバいな。
 ヤバいのは、弁当の出来と、時間の両方。妻の由紀が他界してから、子どもたちの弁当係は夫である圭介の役目になった。平日、しかも出張当日の朝となれば大戦争である。
 圭介特製の半熟ふわとろの卵焼き(常人が見れば生焼けの卵)入りの弁当箱二つを食卓に並べ、圭介は居間に向かって声をかけた。
「いってきます!」
 いってらっしゃーいっ、と声を返してくれたのは娘の沙也だけだ。この春高校三年になる息子の航太とは、最近どんな話をしたかすら記憶がない。沙也ちゃんから愛想つかされるのも時間の問題だぞ、と家族ぐるみで付き合いのある同僚から釘を刺されたのはつい一週間前のことだ。
 そんなことを考えながら走っていると、鶴ヶ峰の駅舎が見えてきた。これなら予定に間に合いそうだ。
『8:15 快速東京 10両』
 電光掲示板をちらと確認しながらホームに降りると、四月最初の月曜ということもあってか、かなり混雑している。しかし、十年前に比べれば通勤はずいぶん楽になった。当時は必ず横浜で乗り換えなければならず、狭い連絡通路に朝な夕な辟易したものだ。JRや東急とつながったおかげで、今ではリニアとの乗換駅である品川まで一本で行ける。
 ラッキー。
 圭介の朝のささやかな運だめし。ホームに滑り込んできたのは濃紺一色の電車。あれは11000系で、ヨコハマネイビーブルーっていう塗装なのよ、と由紀に百万回教えられた。結局よくわからなかったが、朝日を反射して鏡のように輝く紺色の車体は見ても乗っても快い。
 決して速くはない――というかゆったりとしたペースで相鉄線は走る。若いときはそれを疎ましく思うこともあったが、最近はそれがかえって落ち着く。特に車窓を眺めるのには好都合だ。
 よかった。今年も咲いてる。
 鶴ヶ峰駅を出て少し行くと、左手に一本の大きな桜の木が見えてくる。個人宅の庭から線路に向かって大ぶりの枝を伸ばすその桜は、圭介がこの沿線に越してきたときにはあったから、すでに相当な老木なのだろう。
 桜が今年も咲くかなんて心配するのは、年のせい……だけではないと思う。
 
 「再発、ですか……」
 市民病院で受けた定期検診で由紀が乳がんの宣告を受けたのは、四年前のことだった。乳がんが再発しやすい部類のがんであることは知っていた。でも、まさか由紀が…
「もー、圭ちゃんたら。シャキッとせんかい、シャキッと!」
 当の本人はいたって平常運転に見えた。
「あのね、これくらいで泣いてたら脱水症状で病院行きよ。相鉄線だって他の電車が止まっても最後まで動いてるでしょうが。こんなトラブルなんかで、わたしは……」
 いや、今ここ病院だし。この状況で鉄道ネタとか意味わかんねえし。
 いっぱい泣いた。
 いっぱい、いっぱい、ふたりで泣いた。
 だから、その後はふたりで目いっぱい楽しもうと決めた。
 ある日、隣駅の二俣川にあるがんセンターの病室へ見舞いに行くと、由紀は桜を見に行きたいと言った。せっかく春になったのにずっと病室じゃつまらないじゃない、とご立腹だ。
「ふたりで行こう。デート」
 もちろん電車でね。由紀はいたずらっぽく笑う。
 由紀は本当に乗り物が好きだ。父親が大の鉄道ファンでそれに影響されたのだと、彼女の母親である時江が教えてくれた。
「まあ、影響というよりは洗脳が近いかも」
 ふふふと笑った時江の顔は、今の由紀の笑顔にそっくりだ。
 しかし、治療真っ最中のがん患者にそう簡単に外出許可が出るはずがない。そんな余裕が圭介の気を大きくさせたのだろうか。
「ただの花見もアレだな。ほかに望みがあらば、何なりと申してみよ」
 何それ?いつから大根役者始めたの?
 吹き出しながら由紀は二つの条件を出した。
「よかろう。叶えて進ぜよう」
 数日後、外出許可が出たという由紀からの電話を受け、圭介はノープランで調子に乗った自分を心の底から呪った。

 2.20000系
「おっはよー航ちゃん。新学期の目標をどうぞ!」
 朝からうるさいヤツだ。航太はインタビューに答える代わりに質問をする。
「今何分?」
 あー八時十六分だねー。ダイキがのんびりと答える。
「なら俺の目標は遅刻を回避することだ」
 ぐっと自転車のペダルに力をこめ、加速する。ダイキもすかさずついてくる。
「あの時計みたいに時間止まってくんねーかなー」
 そしたら目標達成じゃん。バス通りに面した花時計を横目で見ながらダイキがつぶやく。もう何年故障したままだろう。
「で、俺の目標は――」
 聞かれてもいないのにダイキは続ける。
「みどりに告白すること!」
 はい? ダイキさん今何とおっしゃいましたか?
「もしもーし。航ちゃん、このままだと遅刻だぞー」
 ダイキの笑顔は朝日よりまぶしい。
 何だか無性に腹が立って、さらに加速する。クロスバイクの実力なめんなよ。
 ママチャリに乗ったダイキが、少し遠のいた気がした。

 航太がみどりと出会ったのは幼稚園のときだった。入園式の日、園長先生の話が長すぎて航太の隣にいた女の子がおもらしをしてしまった。そのとき航太はすっくと立ち上がり、
「といれもってきてくださーい!」
 実に明瞭な声で園長先生に直訴したのだ。
 こは何事かと会場が騒然となる中、二人の両親が駆け寄ってくる。ところが、当の本人はいたってけろっとしており、
「ありがとう!」
 と航太に向かって叫んだ。何に対するお礼かはわからなかったが、その子の太陽みたいな笑顔は、おもらししそうなくらい緊張していた航太の心を優しく溶かした。
 その日のうちに、航太の父親である圭介とみどりの父親が同じ会社に勤めていることがわかり、家族ぐるみの付き合いが始まった。おっちょこちょいのみどりとそれをフォローする航太。いつも一緒だった。二人は結局高校も同じになり、春休みの補講期間である今日もこうして二人で弁当を食べている。
「うわーその卵焼きとろとろじゃん!おいしそー」
 航太の許可を取らず航太の弁当箱から航太の卵焼きを箸でつまもうとしているみどりは悪戦苦闘している。やはりこれは固形スクランブルエッグと命名したほうがいいと思う。
「おまえさ、俺の弁当食う時は『航太様、卵焼きをおひとつ頂いてもよろ
「てかさ、今日のライブめっちゃ楽しみだね!何時開場だっけ?」
「………」
 基本的にみどりは人の話を聞かない。授業も例外ではないので、テスト前には必ず航太のノートの世話になる。
「え、午後からデートかよ。いーなー」
 もう一人話を聞かないヤツが現れた。ダイキだ。
「ほら航太さん、今日はお家で進路のことについてじっくりと考えるデーだからすぐにお帰りになったほうが……」
 それどこの国の祝日だよ。だからみどり俺と一緒に行こーと言うダイキの腹に必殺の跳び蹴りをお見舞いする。
 ぐはっと大げさに床に転がるダイキを見て、みどりは八重歯をのぞかせて笑っている。ダイキも白い歯をむき出しにして笑う。
 やっぱり太陽みたいだ、ふたりとも。
 俺ってあんな顔して笑えんのかな。みどりとダイキを見て、航太はそう思う。
「隙あり!」
 ダイキが唯一卵焼きの様相を呈していた物体を手づかみでほおばる。
「お前らさー……」
 空になった弁当箱にあきれ返る航太など気にもとめず、みどりとダイキは明日の単語テストのヤマを張り合っている。
「二百単語はムリだからあ、間とって百語覚えよ!ひゃくご!」
「百五?金子くん、ゼロと二百の間は百でしたーざんねーん」
「え?え?どゆこと……??」
 こいつらマジで頭悪りい。もうみどりにノートを見せる気力も失せてくる。航太は片づけをすませて立ち上がった。
「行くぞみどり」
「え、もう行くの?」
 みどりとダイキの声が見事に重なった。
 何なんだよお前ら。
「航ちゃんと午後練行くっつっちゃったよー。またおまえの分もランニングかよー」
 ダイキがげんなりした顔をする。
 ライブ会場である横浜アリーナの最寄りまでは、鶴ヶ峰から電車で十分もかからない。開場は午後五時だったが、航太は一刻も早く学校を出たかった。
「私とみどり、どっちが大事なのーー!」
 後ろからダイキの声が降ってくる。
 ダイキは本物の、バカだ。
 
 3.9000系
 えーと、えーと。あれはね……
「9000系」
 あーもう。ばあば言わないでよー。あとちょっとでおもいだせたのにー。
 ばあばは、えっへんといってうれしそう。ほんとに子どもっぽいんだから。まったく…
 今日は、沙也とばあばでおでかけ。そういうときはかならずここで電車を見るの。ばあばはあんまり乗り物すきじゃないって言ってたけど、わたしよりいっぱい知ってるからすごいなって思う。
「沙也、そろそろ行こうか」
 ばあばがそう言うならしょうがない。今日はたまたまわたしの調子がわるかっただけ。
 駅できっぷを買うのはわたし。でもいつものやつじゃないから、あれ?どうしたらいいのかしら……
「どうしたの?おじょうちゃん」
 となりのまどがぱこっと開いて、駅員さんが顔だけ出てきた。
「えーと、いちにち……きっぷください!」
「あー、一日乗車券ね。はいはい、ちょっと待っててー」
 今度はドアが開いて駅員さんの体がぜんぶ出てきた。
「一人でおでかけかー、えらいねー」
「ちがうの。ばあばといくの」
「じゃあふたり分、はい」
 駅員さんにお金をわたして帰ろうとすると、「ちょっと待っててー」
 駅員さんがドアから引っこんで、すぐに出てきた。
「はいこれ。おじょうちゃん、いつもそこのデッキから電車見てるでしょ。これ相鉄線の電車がいっぱいうつってるから、あげる」
 駅員さんがくれたのは、はがきくらいの大きさで、わたしが知らない電車のものもいっぱいある。ありがとう!
「いってらっしゃーい」
 今日もいい日になりそうだな。
 
 沙也と電車を見ていると、タイムスリップしたような感覚に陥る。まだ幼かった由紀は駅を利用する度に母である時江の腕を引っ張り、線路脇の駐輪場へ向かった。そこは金網一つ隔てただけですぐに線路という、由紀にとって絶好のロケーションだったのだ。
 左に行く電車はみんな横浜行き。
 右に行く電車は、遅かったらいずみ中央行き、速かったら海老名行き。
 電車の側面には行き先が書かれていないのに、由紀はそんなことまで教えてくれた。考えてみれば、由紀が小学校に上がる頃に相鉄は大手私鉄の仲間入りをしたはずだ。夫の武が会社から帰宅するなりそのニュースを上機嫌で話してくれたのは、この年になればつい昨日のことのようだ。
 あんな電車が大手?と笑った時江を見た武はそそくさと自室に引っ込んでしまった。夕食に呼んでも降りてこない。鉄道好きの地雷を踏んだかと時江は内心焦ったが、三十分後、膨大な量の資料を携えた武がリビングに現れ、食卓にところせましとそれらを並べた。そこから肉じゃがを肴に懇々と相鉄の将来性を説いたのだ。何を言っているのかはさっぱりだったが、武のそういうむきになるところが、時江はちょっと好きだった。
 去年、武は由紀を追うようにして逝ってしまったが、今でも空の上から二人で仲よく相鉄線を見下ろしているのだろうか。
「ばあばー、これもらったの!」
 沙也はずいぶんとご機嫌だ。「ばあば」が「ババア」になるのはいつかしらとブラックユーモアが脳裏をよぎるが、この分なら当分大丈夫そうだ。
 沙也がもらったポストカードの裏には往年の相鉄線の車両がプリントされており、時江と武が横浜に越してきた頃のものもあってなんだか懐かしい。
 沙也の手を引いて乗り込んだ車両にはボックスシートが設置されていた。本革のシートを無料で味わえるのは相鉄沿線民の特権だと武が自慢していたが、これは時江も同意見だ。
電車に乗る前にはしゃぎ過ぎたせいか、沙也はシートの上で早々にこてんと寝てしまった。
 タカナシ乳業のバラ園を横目に、電車は再び加速する。桜が終われば次はバラ。季節は飛ぶように移ろっていく。
「ほら、乗り換えるから起きてちょうだい」
 沙也の体を起こそうとして、ずっしりと腕に重みがかかる。
 大きくなったわね、沙也。
 【ただいま】
 1.7000系
「あっぱれじゃ、圭介」
 満面の笑みを浮かべた由紀の顔を見て、圭介は胸をなでおろした。どうやら切腹は免れたようだ。
 夜桜であること。電車が見えること。
 これが由紀の出した条件だった。あの電話を受けてから、圭介は血眼になって条件に合うものを探したが、どれも沿線外のため、体力の落ちた由紀には厳しいものだった。
『弥生台駅の桜をライトアップ』
 そのポスターに目が吸い寄せられたのは、タイムリミットまで一日と迫った昨日のことである。それは普段圭介が利用しない区間の駅だったが、二俣川からたった三駅のうえ、ホームの両側に桜並木が続いているので、まさに願ったり叶ったりであった。
「弥生台なんて、素敵な名前の駅だよね」
「そうだな」
「きっと、桜が咲く時期に合わせて、名前をつけたんだね」
「ああ」
 四十四本の桜がそれぞれ割れんばかりに咲き誇り、まばゆい光で夜空に浮かび上がる。
「こんなにきれいなものを見られて、わたしって本当に幸せだなあ」
 おいおい。
「圭ちゃん、今まで……」
 やめろ。もうそれ以上言うな。

 ありがとね。

 言わなきゃちゃんとさよならできないから。
 言われたらもうおしまいな気がしたから。
「大根役者は卒業だね」
 由紀はにっこりと笑った。当たり前だ。こんなに気持ちの入った涙は、そうそう出るもんじゃない。
 卒業記念に種明かししなくちゃ。そう言うと、由紀は居住まいをただした。
「殿、申し訳ございません。このライトアップを殿が見つけられるか試しておりました」
 はあ?じゃあ最初から知ってたってこと?
「しかし!さすが我が殿。見事にお役目を全うされましてございます」
 だから、今度は姫からのプレゼントです。
 由紀の唇が、圭介の頬に触れる。
 キスなんて、何年ぶりだろう。記憶の中の感触よりだいぶガサガサになった唇だけど、心地よいのはなぜだろう。
「さすが我が姫。全部お見通しだな」
 ふふふとふたりで笑い合う。
 ホームにやってきた電車のライトが、桜色に染まった二人の頬を照らし出した。

 あ、これはわかるぞ。
 ビンゴ――7000系だ。濃紺一色の相鉄線の中で、唯一赤いラインの電車。由紀が一番好きだった電車。心配すんな、まだ走ってるぞ。
 ぼよんぼよんシート(圭介が車内の座席を勝手に命名した)に腰掛けると、一気に疲れが出てきた。リニアができたとはいえ、日帰りで名古屋出張は辛い。しかも帰りに横浜で呑んでやや出来上がっている身としては、空席はありがたかった。
 都心との直通運転が始まってからは、横浜駅ユーザーは目に見えて減った。しかし西口の再開発が進みオフィスや観光需要が復活してきている近年は、乗客の足も戻りつつある。
 とはいえ、小洒落たエリアではなく昔からある五番街にそそくさと逃げてしまうのは、オジサンの哀しい性なのだろうか。同僚と二人で酒を酌み交わすには、赤ちょうちんがちょうどいい。
「由紀ちゃんの死から三度目の春、かあ」
 こいつは平気で人妻をちゃん付けするくせに、妙に風流ぶったことを言う。
「ま、今年も桜の花持って墓参り行くわ」
 そして殊勝なことをつぶやく。人の好みも忘れない。
「しっかし、参ったよ。娘がさあ……」
 最後は必ず娘の愚痴。お決まりのコースだ。
 結局、由紀の三回忌の相談という名目であった呑み会は愚痴の言い合いに終始し、帰りの電車は着々と鶴ヶ峰に近づく。
 と、突然電車が大きく揺れた。外を見ると、雨が降り出している。圭介と同い年くらいであろうこの車両は、雨が降るとすぐにスリップしてしまう。しかし、酔いつぶれた同僚を起こすいい目覚ましになったようだ。
 なんとか同僚をタクシーに乗せ、圭介は歩いて自宅へ向かう。やけに冷えてきたと思ったら、雨は牡丹雪に変わっていた。
 滑らないように歩みを緩めると、唐揚げ屋の灯りが目に入った。店先に傘をさした人影があるからまだやっていそうだ。晩ご飯を作れなかった代わりに、沙也の大好物を買って帰ろう。航太もたぶん好き……だよな。
 えー、わたしの分は?
 となりで由紀の声が聞こえた気がした。

 2.8000系
「えー、わたしの分は?」
「んなもんあるわけねーだろ」
 食いたかったら自分で金出せバーカ。そこまで言って、少し言い過ぎたかと自分で焦る。
「いいもん。ダイキに買ってもらうもん」
 うわ俺どんなアシストしてんだよてかダイキじゃねえだろ金子くんだろ。
 雪まで降り出すような寒さなのに、半額になった骨付きチキンはすっかり冷めているのに、航太の身体はかっかと熱を帯びてくる。
 アリーナでのコンサートが終わったのが八時半。人の波にもみくちゃにされながら新横浜の駅にたどり着くと、そこはさらに多くの人間でごった返していた。どうやら事故で電車が不通になっているらしい。
 一時間近く待たされてようやく来た電車に乗り込むと、みどりは航太の肩を枕に爆睡してしまった。ボックスシートって、なんかいいよな。
 女子高生が自分の肩ですやすやと安らかに眠るという状況で完璧な理性を保てるのは、おそらく仙人くらいだろう。こういう無防備な姿を航太にさらすというのは、一体どういう意味なのだろうか。
 
 半年ほど前、ダイキにそれとなく相談したことがある。
「フツーさ、映画とか動物園とか二人で行ったらさ、それってデートだよな?」
 精一杯自然なトーンでダイキにお伺いを立てる。
「あー、まあ何回も続けばもうそれはカレカノだよねー」
 ダイキは得意のリフティングを続けながら答える。
「えじゃあさ……」
 っしゃー百回達成!トンとボールを手に取ると、ダイキは航太の二の句を遮るようにニヤリと笑った。
「でもなー、航ちゃんってただの良い人なんだよなー」

 ゾクッと体が震える。クロスバイクを押す手の甲の熱を、牡丹雪が一瞬で奪っていく。
 ただの良い人。
 あの時よくわからなかった言葉の意味が、今ならなんとなく、すごくなんとなくわかる気がする。
「そこ水たまりだよ」
 寝ぼけまなこのみどりが、ありがとう、と言ってそこを迂回する。
 はたと航太は気が付いた。
 俺はみどりに「ありがとう」って言ってほしかったのだ。
 期末テストのときにノートを見せて、消しゴムがなくなったときに貸して、今日のチケットも予約して……
 そこまで考えて、航太は愕然とした。
 俺はみどりに「ありがとう」を言われる自分に優越感を感じていたのだ。そしてそれを恋だと錯覚していたのだ。そんな航太にみどりはいつまでも甘え続け、何かにつけて航太を誘ってきたのだ。
 だから、俺の肩で眠る理由は、眠いから。ただそれだけだ。
 骨付きチキンの軟骨が、口の中でガリッと音を立てて砕けた。
「あのさ、航ちゃん」
 不意に、みどりが口を開いた。
「金子くんてさ、航ちゃんと仲良いよね?」
 だから?
「映画とかってさ、いつもどんなの観るのかなーと思って……」
 んん?
 航太が振り返ると、花時計のライトに照らされてみどりが俯いていた。あーー、もういいや! みどりは一人でつぶやくと、航太をまっすぐ見据えた。
「航ちゃんにはちゃんと言うね。私、金子くんのことが好きなんだよね」
 ふー、わーめっちゃ恥ずかしいんだけど。航ちゃんじゃなかったら絶対言えないーー。
「航ちゃんてさ、いつも私の趣味とか考えて映画も選んでくれてたじゃん?だからそのテクをお聞きしたくて……」
 ふふふ。なぜだか航太は笑ってしまった。
「ちょっと何笑ってるのよ」
 そんなに頼りにされたら「良い人」が黙っていられるはずがない。
「お教えしますよ何なりと」
 いたずらっぽく笑う航太に、みどりは太陽のような笑顔になった。やっぱり可愛い。
 ダイキはバカっぽいけど、すげえ勉強熱心で、意外とシリアス系の映画とか好きなんだよな。だからあの作品とか…… 横浜とか海老名とか新横浜とか渋谷とか、沿線に映画館もたくさんあるしなあ……
 さっきまでのモヤモヤした気持ちがすーっと晴れていく。
 壊れていたはずの花時計は、いつの間にか時を刻み始めていた。
 
 3.10000系
「もう姐さんったらー」
「だから姐さんはやめてちょうだい」
 どういうわけか、時江は沙也のママ友受けがよい。由紀が亡くなってから、小学校の行事に保護者として時江が参加するうちになんとなく仲良くなった……という感じだった気がする。時江としても自分の娘のような年の人間と話せるのは楽しいので、ときどきこうして子どもたちを交えてランチをしたりする。
 しかし、今日はランチというよりピクニックが正解のようだ。古希の老婆に正座は酷だろうと思われたのか折りたたみイスまで用意されており、なんだかむずむずする。
「じゃあ沙也ちゃんパパはすごいイクメンじゃないですか!いいなあ、ウチは全然……」
 母親の一人がそうぼやくと、周囲も一様にうなずく。
 「すごいイクメン」がどのようなイクメンかは定かでないが、たしかに圭介はよくやっていると思う。近所に住む時江なら夕食くらい作りに行ってもよいのだが、圭介はいつもやんわり断るのだ。ただ結局昼間の沙也のお守りは時江が引き受けているわけで、イーブンな関係ともいえる。時江が義理の母であることも、圭介をどこか遠慮させているのかもしれない。
「でもまあ、天気がもってよかったわね」
 老人の愚痴はみっともないと考える時江は、さりげなく話題を変える。海軍道路に沿ってまっすぐ続く桜並木は、春特有の霞と相まって少し輪郭がぼやけて見える。それ以外の景色は、昔とは大きく変わったように思う。
 もともと米軍基地だったこの場所は、日本に返還されてから国際的な園芸博覧会の会場として整備され、去年オープンしたらしい。
「博覧会は終わったんですけど、大花壇とかアスレチックとかいろいろあって、姐さんお花詳しいし、みんなで楽しめると思うんですよね!」と矢継ぎ早にまくしたてる母親に押し切られたような形だったが、なるほど空が広く緑も豊かで落ち着ける空間だ。
 横浜というと、海があっておしゃれなお店が立ち並ぶみなとみらいを想像しがちだが、電車で十分も行けば広い公園や畑がたくさんある。青の横浜と緑の横浜を結ぶ相鉄線は、沿線住民とすれば不満がなくもないが、この地を選んだ武の審美眼はおおむね間違っていなかったということになるのだろう。
「こら!さやちゃんにあやまって!」
 鋭い声に時江が振り向くと、男の子の足に沙也がつまずいて転んでしまっていた。
「いいのよ気にしないで。この子しょっちゅう階段から落ちて泣いてるんだから」
 時江がふふふと笑って沙也のもとへ行こうとすると、沙也がキッと時江を睨んだ。
「沙也泣いてないもん!」
 いつもはすぐばあばーと言って駆け寄ってくるのだが、今日は様子が違う。同級生の手前だからなのだろうか。だとすれば、それはそれで大したものだ。
「まあまあ、こんなに汚しちゃって。他の子も疲れてるみたいだし、そろそろお開きにしましょうかねえ」
 一番疲れているのは自分なのだが、最後くらい姐さんぽいことを言ってみる。時江の言葉に子どもたちが一斉に反発するが、そんなのお構いなしだ。
 瀬谷駅までの道をてくてく歩き、階段をみんなでぞろぞろ降りると、ちょうど横浜行きの各停が来るところだった。沙也は嬉々としてホームの端まで走っていく。他の家族を巻き込むわけにもいかず、皆に礼を告げると時江は沙也を追いかけた。
 
 オレンジ色のおひさまできらきら光って、青色のそうてつせんがやって来る。あ、女のしゃしょうさんだ!
「じゅーりょー、よし!」
 電車と同じ青色のせいふく。金色の名ふだに金色のライン。沙也も着たいなあ。
「かくてーよこはまいきー、しんごーはんのー!」
 沙也は毛糸の手ぶくろしか持ってないのに、あんなにきれいな白い手ぶくろってどこでもらえるのかしら……
 がたんごとん がたんごとん
 鶴ヶ峰だからおりなきゃ。ばあばのにもつも持ってあげる。あれ?ばあばねちゃってる。おきてー。もう、しょうがないんだから……
 あ、でかけるときにカードをくれた駅員さんだ。手ぶくろをもらえるか聞いてみよっと。
「ただいまー」
「おかえりー」

著者

みなと