「相鉄線での暮らし」生田敦

 60歳を2年過ぎた頃、高校のクラス会の招待状が届いた。前に還暦を迎えた記念として母校の同窓会に少々の寄付金を郵便振替で送っていた。そこに書かれていた現在の住所を同窓会事務局で見て今回招待状を出したと、幹事の添え書きに書いてあった。
 長い間、その存在さえも頭になかった卒業アルバムを探し出し、一枚一枚めくっていった。クラス会に参加したら、その時の思い出話をしたいクラスメイトや、現在の消息を聞きたい先生も写っていた。当時の木造校舎や図書館を見ながら、初めてこの高校を見た時のことを思い出した。そして、それからの出来事がスライドショーのように次々と頭に浮かんでは消えていった。

 中3の夏、いとこのお兄さんが出場する高校野球の試合を見に行った。おじさんの家族と星川駅で待ち合わせをして、そこからバスに乗り換え保土ヶ谷球場に着いた。
 いとこのお兄さんは最後の方に代打で出て三振だった。だけど、一年生でも打席に立てて上手いんだなと思った。試合自体はあっけなく負け、球場の外に出て来て待っていると選手たちがぞろぞろと出て来た。みんな傍目も気にせず泣いている。そんなに惜しくもない試合なのに不思議だった。おじさんは「普段の練習の成果が発揮できずエラーをしたり空振りをしたのが悔しいんだ」と言って、いとこのお兄さんのところへ慰めに行った。私は、相手校が野球有名校でそれでもコールド負けをしないだけ良かったと心の中で思った。
 帰りに野球場前のバス停に立った時、いとこの高3のお姉さんが私に聞いた。「あっちゃんは志望校、決まったの?」「内申とかアテストがよかったから高望みをしなければどこでも入れるって担任が言ってたよ」と答えた。と同時に、生田は欲がないから中位高の進学クラスに入って揉まれた方がいいんだがなあ、と担任が言っていたのは話さなかった。
 「私が通っている高校は、あそこに見えるでしょ。のんびりしていい学校よ」と谷を挟んで向こうの丘に建っている木造校舎を指差した。いとこのお姉さんは運動神経もいいし、最近は何故か眩しく見えてきていた。「のんびりしている」その一言で私は志望校を決めた。

 1年後、私はその高校に通うようになっていた。夏休み明けの頃から数学の授業にだんだんと付いて行けず、放課後図書館で復習を始めた。近くの自習施設で一緒に勉強しようと誘ってくれたクラスメイトがいたのに、かえってそいつの勉強の邪魔をするんじゃないかと遠慮して断った。
 図書館でテキストを開いて勉強を始めたがもはや地頭では歯が立たなくなっていた。そして、すぐに飽きて大人が読む「月刊文藝春秋」や旅行誌の「旅」を始め、女生徒が読む「今日の料理」や「装苑」までも開いて見た。図書館司書の先生が勧めてくれた北杜夫の小説や現国の教科書に載っていた中原中也の詩集を読んだりもした。
 ある月曜日の朝、星川駅で降り保土ヶ谷駅行きのバスに乗った時、高校生は私一人だった。間に合う時間のバスにはいつもいっぱいの高校生を乗せているのに、完全に遅刻だ。高校前のバス停で降りると、ちょうど家々の間から木造校舎の2階の教室が見える。もう担任が教壇に立って朝礼をしていた。一時限目は数学で、何となく足が重く家を出るのも電車に乗るのもバスに乗るのも少しづつ遅れて、結局遅刻してしまうのだ。遅刻の理由に何を言い訳にするか考えながら、その時だけは後悔して反省をした。
 中学の担任の予想した通り、ぬるま湯に浸ったまま上位で入学したのに努力もせずギリギリの成績で卒業した。本当にのんびり、というより何も目標もないまま3年間を過ごしてしまった。

 両親が天王町駅から程近い下町の商店街で商売をしていた。私が中学生の頃から父親は体を悪くして入退院を繰り返していた。父親不在の時は母親が一人で店を回していたが、年とともに体がしんどくなり椅子に座って休む姿をよく目にするようになった。お嫁に行った年の離れた姉がよく手伝いに来てくれて、大学の授業が早く終わった日には私も手伝った。
 店の前は人通りがあり日銭が入って来る。食うだけは困らず、今までその商売のお陰で育ててもらい、無理言って大学の入学金まで出してもらっていた。両親は土日だからと言って休める訳でもなく、まとまった旅行もせずに働いている。それ以上の負担は申し訳なくて、授業料だけは自分が外でバイトをして支払いをした。
 高校生の時母親は私に、将来薬剤師になってここで薬局を開いてくれたらいいんだけどとか、税理士になって会計事務所を開いてくれてもいいと言っていた。商店街の知り合いの誰かに、薬局や会計事務所は堅くていいと聞いて息子の私に期待をしていたらしかった。私の脳が理数脳ではなく、親の期待に応えられなかったのも親に申し訳なく思っていた。
 しかし、親には悪いが将来この店を継いで親と同じような毎日を送るのは夢がないなと思うようになった。こんな思いは、体に無理をしてまで働いている親に口に出して言える筈もなかったが。
 そんな折「南まきが原住宅地、分譲住宅販売!」の新聞チラシを目にしたのは昭和50年前後だと思う。「今じゃなく将来、お店をやめて店を売って、ここいらに引っ越した方がいいんじゃないかと思うんだけど」とチラシを母親に見せた。その時は入院していた父親を二俣川の病院に見舞うことにちょうどなっていて、面会の帰りに「じゃ、行ってみるかね」と二俣川からタクシーに乗って現地に来た。
 その当時、南万騎が原駅はまだ開業していなくて駅予定地の周りにはあまりお店がなかった気がする。大きい道路を渡ってすぐのところから区画された土地が続き、建築中の建物も多く、一部は完成して整然とした一画を形成していた。下町の小さい家が建ち並ぶ商店街に育った私は、郊外の分譲地に「落ち着いた街並み、ゆったりとした隣家との距離、清潔なキッチンと室内、裕福なサラリーマン一家が住む町」といったイメージを持っていて、そういった生活スタイル憧れていた。それに、いずみ野線沿線はこれから開発が進み将来性があると思えた。
 「私はこういうところには住めないね。それにお父さんがいるもの、商売は続けて行くよ」と母。私が勝手に思い描いた夢は終わった。その頃には、私が家業を継ぎたくないのを両親はだんだん分かってきていて、私が将来ちゃんとした会社に就職して結婚したら、新居にどんなところを望んでいるのかと思って見に行ったと、母が大分後になって話してくれた。私も長男だから将来親の面倒を見るのだろうとただ漠然と考えていただけで、母親はやはり下町の商店の人たちと暮らす今の住まいが性分に合っていると、後になって理解できるようになった。

 大学を出て小さな会社に就職し3年目に入った時に、入退院を繰り返していた父が亡くなった。これから店をどうするかの話し合いになって、姉が「あんたはお店を継ぐ気はないんでしょ。お母さんは一人でお店を続けるのは先々難しくなるだろうし、ウチの旦那と不動産屋をここで開くことにするから。それからお母さんはこれから私たちが面倒を見ます。独り身の男のあんたじゃ無理でしょ」と言われた。一人息子として家事は一切しなくていいように育てられ、いつ結婚して嫁さんをもらうのかも分からないあんたには任せられない、そういう意味が含まれていた。全くその通りだった。
 そして姉から、私のこれからの住まいはどうするのか、この先結婚をする気はあるのかを聞かれた。「近くにアパートを借りて住む。結婚したいと思った時に結婚してできたら子供も作って、平凡な人生を送ればいい」と答えた。「平凡な人生を送るって言うけど、実際には大変なのよ」と、ここぞとばかりに言われた。「分かっているつもりだよ」と答えるしかなかった。旦那に頼んでアパートを探してあげてもいいと言われたが断った。
 姉の旦那さんは不動産会社に勤めていて成績が良いらしく、若くして部長になっている人だ。事業を起こしていく才覚がある人だと前から感じていた。結局お店の土地と建物は母と姉が相続し、私は生田家の墓を守り、当面の生活費を相続した。親の期待に応えられない親不孝な息子だったが、それが母親のためになる一番の解決法だと思えた。

 30歳を目の前にして付き合っていた彼女と結婚することになり、もっと給料のいい営業の会社に転職した。二俣川の営業所に配属が決まり、頑張って一年目からそこそこの営業数字を挙げられるようになった。結婚して養うべき家族が出来るとこんなにも頑張れると自分でも不思議だった。
 結婚式の少し前に隣駅の南万騎が原駅近くに新居を決めた。残念ながら柏町の分譲地ではなく、駅の反対側の2DKのアパートだったけれど。奇しくも母親と分譲地を見に来て10年近くが経っていた。駅の周りには今はスーパーや小さな商店街もできていて、二人が住むには充分だった。
 休みの日、妻と散歩している途中に幼稚園を見つけ柵の間から小さな園庭の向こうの園舎を覗いた。妻のお腹に子どもができていた。将来この子もここに入園するのかなって二人で話した。

 会社に家から電話がかかってきた。「ひろくんが車にぶつかって今救急車で運ばれているの」「えーっ」と大きな声を上げてしまった。2歳になった息子が三輪車で坂を下りた勢いで、多分そのまま駐車場の車に肩をぶつけて出血しているという。近所の人が教えてくれたのだという。
 すぐ上司に状況を説明し、救急搬送された病院に向かった。手術室の前に妻が今にも泣きそうにして立っていた。どれくらい時間がかかったか覚えていないが、手術を終えた担当医からレントゲン写真を前に説明を受けた。「鎖骨にヒビが入いっていて固定をしました。出血もあり、それは止血して傷口を縫いました」そして、くっつくまで固定をすること、肩を縫った跡が残るが服を着たら傷が隠れるということが分かった。
 妻はハンカチを手にして泣いている。病室に通されると、やんちゃ盛りの息子は左肩を包帯でぐるぐるに巻かれ、疲れたせいで寝ている。妻が髪の毛を撫でながら「ひろくん、ごめんね」と呟いた。
 しばらく入院するため、私が付き添いをしている間に妻は必要なものを取りに家に一旦戻った。さっき、命に別状はないと先生に言われてほっとしたのか、一瞬「お前がいながら…」と思いかけて口には出さなかった。言わなくてよかった。言ったら一生恨まれるかも知れないと思った。私も土日が出勤だし平日も仕事で毎日遅く帰って来て、子供の面倒をろくに見ていない。妻も布団を干しにベランダにいた時、と言っていた。ひろくんが内鍵を自分で開けて、ちょっと目を離したすきに道路に出たのだろうと思った。
 妻が病院に戻って来たので交代して、ぶつけた車の持ち主の家に謝罪に行った。出て来たご夫婦は60歳くらいの方たちだった。奥さんは先ず息子の怪我の程度を聞き、大変だったでしょう、ウチにも同じくらいの孫がいるから他人事ではないわ、と声をかけてくれた。そのあと旦那さんと駐車場に行った。高そうな黒のセダンでまだピカピカにしていて、後部に少し傷が付いている。駐車場に停めていたので車の持ち主には何の落ち度もない。旦那さんは息子の傷の程度をもう一度聞き気の毒がって、損害保険に入っているならそれを使って知り合いの板金屋で直すからそれ以上のことは一切何もいらない、と言ってくれた。保険代理店から自宅に電話をしてくれたらこちらで全部処理するから謝罪も手土産も何も気を使わなくてもいい、息子さんの治療に専念してくれればいいから、と言ってくれた。

 緑園都市サンステージ西の街の分譲が始まったのは、確か昭和も終わり頃だった。土地バブルの前に計画され、設定価格が発表された頃にはすでに周りの土地や中古マンションの値段が上がり始め、申し込んで当選すればそれこそ宝くじに当たったも同然だった。妻が、幼稚園のママ友の一人が2000万は値段が違うと言っていたと話してくれた。それはオーバーとしても、もちろん当選して少し住んで売ればの話。
 何棟も計画されているサンステージの敷地にはミニ公園や遊歩道が多く配置されているし、駅前にはスーパーや花屋やパン屋、ファミレスもある。新しく緑園西小学校も開校する。ウチも申し込みをしたが、倍率は250倍だった。当然の如く外れた。もし当選したら今も住んでいるのだろうか。
 長男が幼稚園の年長になった年に長女が生まれた。夜、弥生台の総合病院にお腹の大きい妻を送って行って、次の朝に産まれた。3500グラムのまるまるとした女の子だった。ガラス越しに8人並んだ新生児の中でひときわデカい。ピンクの毛布に包まれた女の子は長女一人で、水色の毛布に包まれたあと7人は全て男の子だった。
 「今の2DKでは狭くなるし、転校を気にしなくていい今のうちに少し広いアパートに引っ越さない?」と妻が提案してきた。サンステージには手が届かないけれど、どうやら緑園に住んでみたいようだった。サンステージや緑園の分譲地にはその後も若い家族を中心に続々と人々が移り住んで来ていて、フェリス大学の緑園キャンパスも開校していた。
 私自身もこれからはもっと子どもたちと接する時間を作ろうと転職を考えていたところで、ある会社が採用を決めてくれた。給料はかなり下がるが、土日は完全に休めて残業もほとんどない。2度目の転職だった。その年の10月から瀬谷の店舗に通勤するようになり、翌年2月に緑園都市駅から徒歩10分の3DKのアパートに引っ越しをした。
 4月には緑園西小学校で息子の入学式を迎えた。入学式のあと大池公園の桜山に花見に行き、入学記念を兼ねて写真をたくさん撮った。桜の季節が終わると、今度は西小の校歌にも歌われている歩道のハナミズキの木に白い花が咲き始めた。
 ここ緑園は車で色々なところに出られる。休みの度に親子4人で出かけた。大型ショッピングセンターが戸塚、東戸塚、大和とかにあって、子どもたちを遊ばせながら一日ショッピングを楽しんだ。夏には大和引地台公園のプールや中山の四季の森公園、秋には東名高速を使って厚木に梨狩りに行ったこともあった。
 大晦日には毎年必ず、さちが丘の長昌寺にお参りに行き、甘酒を飲みながら除夜の鐘を聞いた。お札を頂き、家族の健康と家内安全をお願いした。
 緑園都市で暮らした何年間は特段変わったこともなく、強いて書くこともない時間だったが、今思うと家族一人一人が平穏に過ごし、親子4人が一番濃密とした時間を過ごした時期だったと思う。
 一つだけ緑園に住んだため、予想外のことがあった。「お父さん、私立中学を受けてもいいのかなあ」と5年生になった息子が言ってきた。聞けばクラスの三分の一の生徒が私立受験をするという。教育熱心な親が集まる新興住宅地の特徴なんだそうだ。妻が、あるクラスなんか半分くらい受験するそうよとママ友からの情報を伝えてくれた。私の時代には私立に行くのはクラスで一人か二人で、それもお金持ちの子女ばかりで、全く予想をしていなかった。
 本人がやる気があればと、一年間だけ塾に通ってそれでいい私立中学に入れる実力がついたらと許可をした。結果、一年経っても塾の上位クラスには入れず、中学受験はなしにした。本人も自分の実力を知って納得したのか地元の公立中学に入いり、気の合う友だちも出来て楽しく3年間を送ったみたいだった。

 娘が小学校の高学年になり留守番ができるようになったので、妻も勤めに出るようになった。横浜駅西口の天理ビルから相鉄本社に向かう道の両側に現代アートのオブジェが点々と立っている。そのオブジェの一つが立つビルの中にある、小さな会社に正社員として採用された。
 勤め始めると仕事が忙しくなる月末の一週間、帰りが夜8時、9時となるのが分かった。私と息子は平気だったが、娘が寂しがった。これから思春期の多感な時期を迎えるに当たり、母親にいろいろ聞いて欲しいこともあっただろう。妻もそれはもちろん感じ取っていたと思う。しかし、正社員としての待遇と給料も簡単には捨てられない。何よりも妻はその仕事にやりがいを感じ始めているみたいだった。
 その日あったことを早く母親に話したい娘とそれを分かっていながら応えられない妻とそれを見ていて何もできない私とのフラストレーションが高まり、ある日ついに娘の前で妻と口喧嘩をしてしまった。そういうことがあって、一つの解決策として妻の会社の近くに引っ越して通勤時間を短縮することに決めた。
 横浜駅周辺の家賃は、いずみ野線沿線よりは高い。それならいっそこの機会に中古のマンションを買おうと、横浜駅にギリギリ歩ける距離の、管理がしっかりしている3LDKのマンションを買った。妻の会社にも歩いて7分の距離だ。
 娘は小学校をあと一年残していたが、転校してみると前に緑園西小にいた先生が娘のことを覚えていてくれて、転校当初の緊張を和らげてくれた。その間に友だちも出来て、気持ちを落ち着かせて残りの一年間を送ったみたいだった。
 そしてもう一つ偶然があった。長男は高3になっていて、鶴ヶ峰からバス便の高校に通っていた。その7月、私も鶴ヶ峰の店舗に転勤になって朝、家を出る時間が同じになった。
 「ひろくんと一緒の電車に乗って通ってももいいかな?」と顔色を伺うと嫌な顔は見せず「いいよ、別に」と答えてくれた。反抗期があまりなくて逆に心配をいていたのに、やはり親としては嬉しかった。
 朝の横浜駅に満員の上り電車が到着すると通勤通学の人たちが一斉に改札口に急いで向かって行く。その折り返しの下りの電車は空いていて、4人掛けのBOX席に互い違いに座った。本を読んだり窓の外を眺めたりしながら、私が時たま思い出したように友だちのこと、部活のこと、卒業後の進路のこととかを聞くと素直に答えてくれた。自分の父親とは病気のこともあって進学進路について話した思い出がなく、自分自身も初めて経験することに戸惑いながらも、父親と息子なんていざ面と向かうと話すこともそうある訳でもなく、必要なことを確認するだけになってしまう。他の家庭もやはりこんなものだろうかと思った。
 
 中学3年になった娘と妻と三人で西口の五番街を歩いている時、「はるかちゃん!」と女の子が娘に声をかけてきた。二言三言話をして、じぁ、と言って私たちにも会釈をして駅の方に歩いて行った。目鼻立ちがはっきりして元気のよい子だった。妻が「誰?友だち?可愛いね!」とすかさず聞いた。「同級生。小学校のときからダンス習っている子で、今日もこれから渋谷に行くんだって」
 目先のことに流されやすい父親とおっとりしている兄貴を反面教師にし、家事と仕事を堅実にこなす妻のもと、娘は、自分の道を着実に進んで行くタイプに育った。顔がまん丸で産まれて、夫婦二人で将来どんな女の子になるのか心配していたが、成長するにつれ全体的にほっそりとして容貌も人並みになった。
 「お父さんは、はるかの方がかわいいと思うよ」と言ったら、即座に「それは親の欲目って言うもんでしょ、完全に」とバカにされてしまった。
 何年かあとに、その子がテレビの歌番組でグループの一員として踊って歌っている姿を目にして、妻と二人で「あの子!あの子!」と騒いでしまった。娘は中学卒業後もその子が芸能界デビューを目指し頑張っているのを中学時代の友だちから聞いていたらしく、やっぱりデビューしたんだと冷静に見ていて、「地元の子!地元の子!」と相変わらず興奮している私たちを「もう、しょうがないなあ」という目で見ていた。

 とうとう定年を迎えた。若い時には60歳なんて永遠に来ないと思っていたが、やはり確実に一つ一つ歳を重ねてやって来てしまった。幸いなことに再雇用されてしばらく働くことができる。妻は定年にはしばらく年数があり、その後も続けて働いてくれと社長から言われているとのことだった。
 息子は高校卒業後、小さな町工場に毎日真面目に通っていて、休みの日には中学や高校の男友だちと遊んでいるみたいだった。
 大学生の娘は高校大学を私とはまったく正反対のコースを辿った。高校を前期選抜の推薦で中位校に入り、2年3年で学年上位の内申点を取り、指定校推薦で私より偏差値的に高い大学に入学した。大学入試の受験料もかからず父親とは大違いの親孝行の子どもだった。そして一部上場の企業に就職が決まり、来年から東京に通うことになった。

 それからまた2年の月日が流れ、招待状の出席を丸で囲み返信して2ヶ月目の土曜日、私自身初めての高校のクラス会に出席した。昼前にジョイナス地下2階のお店に14人が集まった。地方にいる人もいるから横浜駅の、それも駅から近くがいいだろうとここに決まった。60歳を過ぎて男連中も仕事をリタイアしたり時間に余裕が出来たりして、今回は男子の参加者が多いという。
 先ず幹事の坂本が挨拶をし、次に担任の中山先生のお話を頂いた。80歳をとっくに過ぎているのに背筋をピンと張ってお元気で、若い時の鍛え方が違うのだと思った。先生はもう私の成績を覚えていらっしゃらないと思うが、私にとっては今も内心苦手な数学の先生だった。
 中山先生にビールをお注ぎしながら、国語の若林先生と図書館司書の北野先生の消息をお尋ねした。お二人ともお亡くなりになったとのこと。若林先生は当時もう定年近くだったから予想はしていたが、北野先生はまだ30代で、特に図書館ではお世話になって気になっていたので残念だった。
 あと高校の時、勉強を誘ってくれた畑中が来てなくて、お礼を言いたかったので坂本に今どうしているかを聞くと、「若いうちに亡くなったそうだよ」と答えた。「50人のクラスの内5人が亡くなっているんだよ」と言われ、もっと早いうちにクラス会に参加していればよかったと今さら言っても仕方がないことを思った。
 宴が進みビールを持って席の移動が始まった。右隣に座った大田は高校の校長を定年で辞めてしばらくある公的施設に再就職していたと、さっきそれぞれがした近況報告で話してくれた。
 「実はお前に言っておきたいことがあるんだ。お前のお陰で先生になって、校長にもなれたんだ」といきなり切り出して、今言っておかないと気が済まないような勢いで話を続けた。「高校の国語の授業の時、お前は漢字の小テストや定期テストの点がいつもよくて、若林先生が皆知らないだろうと質問しても、普通高校生は知らないような漢字や言葉の意味やそれから俺が聞いたこともない作家の本の名前までお前は答えられて、先生はいつも褒めていたな。それを見て俺は、こいつは凄いな、敵わないなと思ったんだ。それで内心お前をライバルにして、こいつだけには負けたくないと勉強を頑張ったんだよ。その後尊敬する英語の先生に出会い、憧れて学校の先生になったんだよ」
 約45年も経って聞くその話は私に衝撃を与えた。高校時代から自分の目標を持って人生を切り開いて行く人もいるのだ。私には逆にそれが凄いと思った。
 商家に生まれるのは誰にもあることだし、その当時親は家業を継げとは強制もしていなかったし、ただ自分が宙ぶらりんのまま、何事も深く考えず何も決めないまま、高校大学、結婚するまでの間と、確固たる目的や将来設計もなしに過ごしてしまった。その青春の日々をなぞり、今更ながら軽いめまいを感じた。しかし、それとともにそんな自分がクラスメイト一人の人生に影響を与えていたこと、それが今になって自分の人生の一つの救いとなった。
 二次会のお茶会の最後に私を含めた新しい幹事三人が決まった。中山先生を新しい幹事たちが中央連絡通路のJR改札口まで送った。そのあと三人のうち藤井さんは京急の改札に別れて行き、もう一人の女性幹事の井川さんとジョイナスに向かう階段を上り高島屋の前まで来た。
 「さっきから高校の時のクラスのことを思い出していたんだ。もちろん顔は覚えているけど、私、井川さんと高校の時あまり話した記憶がないんだ。なんか今日いつの間にか親しく話をしちゃって。クラス会って、同じ時間を共有していて、なんか懐かしくて、そこがいいのかも知れないね」
「そうねえ。でも私は生田君のこと、強烈に覚えているわよ」
「それは、ありがとう」と神妙にお礼を述べた。「私はここから歩きだけど、井川さんは相鉄線だったよね」
「そう、相鉄線の二俣川。今日は夜、孫が3人も来るから大変よ」と笑った。
「じゃ、早く帰って用意しなくちゃね」と私も笑い、お互いに、今日はお疲れ様と言って別れた。相鉄交番の方へ歩いて行く井川さんの後ろ姿を見送りながら、気持ちはもう娘さんとお孫さんたちのことでいっぱいなんだろうなと思った。
 そうだ、私も「帰りにお米5キロのを買って来てね」と妻に頼まれていたことを思い出した。
 私が定年になってから、妻も会社でストレスが溜まって疲れる時もあるだろうと、たまには帰りに買い物を付き合おうとした時期があった。でも、あまり有難そうにはしていなかった。初めそれは妻が会社と家との間にスーパーに寄って、一人で買い物をしながらストレスを発散し、家に帰って家族には明るく接しようとしているからかも知れないと考えた。だけどそれは男の考え方で、実際は単純に、家族に今日は何を食べさせようか、何を作ったら美味しいと言ってくれるかを、あれこれ考えるのが好きなのだと考え直した。だからそれからは、重たいものだけは私が買って来るよと言ってあるのだ。
 振り返って空を見上げると建築中の駅ビルが見えた。2020年の完成予定で29階の計画のうち鉄骨が10階くらいまで組み立てられている。その上にタワークレーンが3基、アームを夕暮れの空に高く突き出していた。
 完成まであと3年か。それまでに子どもたちは結婚しているだろうか。未だに彼女彼氏の話もない。特別なことは何もしてやれないうちにそれぞれ自分の道を歩き始めてしまった。何かあったら助けよう。そう、私は周りの状況に気付くのが遅かったり、ピントが外れていたり、いつも周りに何かが起こってから促されて動いてきた。何かがあったら動く、それが生まれつきの性格で自分に合っていたのかも知れない。
 その時一つの言葉が頭に浮かんだ。「平凡な人生を送ればいい」という若い時に思った、目標や目的にするにも人には恥ずかしくて言えない言葉だった。いろいろなことがあったことも含めて、結局今まで自分はこの言葉通りの人生を送って来たのだ。その発見にちょっと苦笑いをしてしまった。
 あたりは暗くなり始めていた。土曜日の夕方、ジョイナスから中央通路に続く道はただでさえ人が多いのに工事中のため通路が狭く、行き交う人々は他の人にぶつからないようにそれぞれの行き先に向かって歩いている。そして私もその人々の流れに入り、スーパーのある地下街に向けて歩き始めた。

著者

生田敦